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奥歯からオペラが聞こえる 第15回


中村昇


飯詰(いづめ)の宇宙


 家は半農のそば屋でしたからね。農繁期は朝から田んぼに働きに行くわけです。こどもは飯詰といってご飯を入れる藁の丸い桶の中に入れて、田んぼの畔に置くんです。朝の七時ごろから連れて行かれて、月の出るまで放って置かれるんだ。もちろん、ご飯の時は、おふくろが来て飲みものを飲ませて行きますが、ね。

 飯詰に入れられて、まわりにいろんなものが詰められて、出られないように結わえられて、子供ですからたれ流しでしょ、下半身の世界が、むずがゆくなるわけです。それで泣くんです。私だけじゃない、あっちこっちの田んぼにポンポンと置かれている。それが、ピャーッと泣くけれども、働いている人に届かないんですよ。田んぼだから、空があまりにも広くて、それから風でしょう。だから、空見て「大馬鹿野郎だ」と思いましたよ。(『土方巽全集Ⅰ』169頁)


 土方は、この話をいろんなところで繰り返ししている。よほどこの舞踏家のなかに深く刻まれた記憶であったにちがいない。土方自身がほかのところで言っている、縮むことへの執着や押入へ入り込むことへの欲求などとつながる重要な経験だったのだろう。

 広がりのない窮屈な閉所にいつづけること、閉じこめられ長い時間自由を失う状態が、おそらく暗黒舞踏においては、重要な意味をもっているにちがいない。この「飯詰の宇宙」とでも言いたくなる経験は、どのような意味をもっているのか。

 べつのところでは、つぎのようなことも言う。


 そこで自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える、闇をむしって食うことを覚える。そして夕暮れになるとその飯詰から抜かれるわけだ。すると足が折り畳まれてるものだから、立てない、もう足が伸びないんですね。すると大人たちはそれを囲んで見てるわけですよ、薄ら笑いを浮かべて。しかし子供の顔は厳粛ですよ。もう親の顔なんて見ようとしない。その時私は折り畳まれた足の行方はどこへ行ったんだ?喋っても喋っても喋り切れない。(『全集Ⅱ』121頁)


 自分の身体が身体として機能できなくなる。折り畳まれた足は、どこかへ行ってしまう。「飯詰の宇宙」においては、人の身体は、長時間にわたり極度に収縮しつづけ、末端部は行方知らずになってしまう。このような「厳粛」な四肢の状態こそ、舞踏の出発点だと土方は言いたいのだと思う。

そして


 そういうふうな問題が折り畳まれた赤児の足の中にあって、それがどもりながら、口ごもりながらガニ股に変形してゆく。(『全集Ⅱ』121頁)


 こうして、暗黒舞踏家に必須の条件である「ガニ股」が完成されるというわけだ。一人の舞踏家が、「飯詰の宇宙」で誕生するというのである。

 土方のなかには、われわれの生物としての進化史を逆にたどろうという強い意志が感じられる。言ってみれば、われわれ霊長類がたどってきた進化の歴史に根柢から疑念を抱き、そこにうまく乗れないという思い(自分は、進化史のなかにわかりやすく位置づけられる人間ではない、という意識)を強くもっていたように思われる。

 土方は、そもそも人間としての自己同一性や、<私>としてのたしかさをもってはいない。つぎのように言う。


 ありますね、そういうことの原理(「メタモルフォーゼ」の原理ー中村註)といいますか、私が私でなくなる瞬間をはいせつしておりますね。

 私はどうも生まれおちてから、私が私であったためしがないわけですよ、実感としていつだったか恐ろしい物をごそっと家の中に置いてしまったりしてね。(『全集Ⅱ』31頁)


 「私」という一人称で表現できるようなたしかなものはないと土方は言うのだ。一歩を踏みだすための確固とした「私」という土台を、土方は、そもそももっていない。つねに「私が私でなくなる瞬間をはいせつ」しているわけだから。日々、土方の「私」は崩れつづけ排泄されつづけているのである。<コギト>なんて、滅相もないのだ。

 さらに、そのあり方をより客観的に「人間」という語をつかって、つぎのようにも言う。


 俺達は、まだ人間じゃないんだ。丸ごとの人間じゃありませんよ。そう思えばね。その問題は、解決するんじゃありませんか。人間としてだなんて、踊りなんて踊れないと思うんですよ。まして、舞踏家としてなんてね。僕は、それを手放さない。「土方さん、あんた人間でしょう。人間として」なんて言っても、俺はトンチンカンだ。(『全集Ⅱ』125頁)


 土方は、「人間」にも、「舞踏家」にも、まだなっていない。そういった言葉で表される通常の概念として、「私」はまだ成立していない。そもそも「私」という土台自体が成りたっていないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。

 われわれが日常生活をしていて、何の疑問ももたず前提している「私」(一人称)や「人間」(類・種)や「舞踏家」(職業・生業)といった概念は、土方のなかでは、まだ成立さえしていない。それらを前提するなどということは、問題外なのだ。

 そして、このことを「真空」という不思議な言い方で表現している。


 私たちは実はわりに真空的な生誕をしているんですよ。だから親から子供が生まれたとか、何千万年の血統を受け継いでいるとか他者と自分とか、そういうことではないような気がします。(『全集Ⅱ』100頁)


 何もかも、はっきりしていない。人間であるとか、ホモ・サピエンスであるとか、親とか、血統とか、歴史とか、進化とか、そういったものを土方はまったく認めていない。われわれは「真空的な生誕」をしたと断言している。

 さらにつぎのようにも言う。


 真空というものが本当は人間の生理の八十パーセントを占めている。あとの二十パーセントは経験とか体験とか、そういうふうなものに過ぎないとかりに仮定して、…(『全集Ⅱ』100頁)


 この「仮定」は、土方にとっては、本気の「仮定」だろう。つまり、土方は、人間の生理の80%は「真空」だと、本気で思っている。経験や体験したものが、なるほどわれわれには蓄積されてはいるが、そんなものは20%にすぎない。われわれの生理的身体としてのあり方は、80%が「真空」なのである。われわれにとって、われわれの生理的身体は、どこまでいっても謎めいているということだろう。「からだ」の80%は、「からっぽ」なのだから。

 これが、土方がしばしばいう「はぐれている」ということなのかもしれない。われわれは、まともな存在で、多くの常識的な人々に囲まれて、意志疎通し、共同体を営んでいると思っている。だが、実のところ、誰も彼もが、「はぐれていて」、「私」などどこにもなく、ほとんどが「真空」であり、そもそも「人間」などどこを探しても見当たらない。これが、土方巽の人間観であり、この世界そのものの見方なのだ。

 さてそのような“人間未満”であるわれわれの生態とは、どのようなものなのか。土方という札付きの“人間未満”は、われわれは、実は、さらに人間以前の<もの>へと遡ろうとしているという。子供と金属との抜き差しならない関係に目を向ける。


 よく子供がお金をなめると、なめるものではないと親が叱るでしょう。ところがどうしてもなめたいとかしゃぶりたいとかいう金属への関係が人間にはあるわけです。金属に溶けたいとかね。この金属へのメタモルフォーゼがあって、あきることのない行為の中に関係しているものがあって、その欲望のままに従っていけば当然そういう舞踏の展開が行われるはずだとおもうわけです。それは、偶発的にやるということよりも、まったく日常的な次元で、舞台という日常、日常という舞台でみさかいなく犯しあうのです。(『全集Ⅱ』24頁)


 ここでいわれている「金属に溶けたい」という子供の欲望は、われわれ誰もがもつものであり、「日常的な次元」のものだ。これは、たまたまでてくるものではなく、恒常的に潜在している欲望なのだ。われわれは、いつも金属になりたいと思い、金属の世界に向かっているのである。だから、日常のこうしたひそかな欲望をそのまま舞台に載せれば、それは舞踏になると土方は言う。

 さらに、つぎのようなことも声高に語る。


 私たちが生体と死体の間で区切りをつけているような一切の宗教とか言語、そういうものの中で納得するような人生を老いていって、ボケていって、お墓に入っていくことに対しては私はやはり、ちょっと困るわけです。

 私が言う死体というのは、たとえば金属という身体、ダイガストという身体、凍結炭素という身体と私の身体は全然矛盾しないということを、あえて言葉にしなくても、私は子供のときに赤んぼうの目玉と星の光を比べて、一つ一つ拾って歩いたこともあるわけなので……たとえば死体という言葉がある。死体という言葉を考えると、損体になっちゃうんですね。毀損されちゃう。バラバラになっちゃう。(『全集Ⅱ』96-97頁)


 進化史に都合よく位置づけられる生体としての人間と、それが死体になり物質へと還元されることを、くっきり区別することを土方は拒絶する。死体は、生体の成れの果てではない。生体と死体は地続きであり、赤ん坊の目玉と星の光が融合して一つになっているような世界こそが、本当の世界だと言っているのだ。生体と死体とを別物だという区別を基盤にすえたような宗教や言語とは、土方は一切かかわりたくないと言っているのである。そんな宗教や言語体系のなかで、老人になり死んでいくのは耐えられないとまで言っている。

 死体(物質)が進化して、生体(生物、ホモ・サピエンスなど)になったのではなく、死体も生体も未だ曖昧な領域をかたちづくっている世界。真空が80%であるような存在が、うようよいる世界こそが、真の世界だというのである。何という世界観だろうか。

 しかし、土方は、われわれが前提としているこの世界の見方を茶化しているのでも、馬鹿にしているのでもない。この世界は、そういう世界ではないと強く思っているのだ。自分が考えているようなあり方こそ、本当の世界だと真剣に考えているのである。

 前にも引用したように、土方は、クラシックバレーのような娯楽をやろうとしたわけではない。舞踏は、われわれの生活とはかかわらない別枠の娯楽などではない。暗黒舞踏は、日常の世界に対する見方をすべて転覆し、真の世界のあり方を提示しようとしているのだ。正面からの真摯な世界観の提唱なのである。ようするに土方巽は、「革命」を目指していたのだ。

 歩行の稽古のときに、こちらを凝視しながら土方が言った「こういう歩き方をみんながするようになれば、革命が起きますよ」というのは、嘘でもはったりでもなく、本気だったのである。

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