中村昇
犬の静脈
この連載がどこに向かっているのか、よくわからなくなってきた。土方が目指していたものをいろいろな角度からたどっているうちに、舞踏の技術的な側面よりも、その思想とでも言うべきものに照準があってきた感じだ。それはそれで、書いている本人はとても面白いのだが、連載の流れとしてどうなのかは、ちょっとわからない。
土方について書かれた文章や本も視野におさめて、最後は、土方が書いた『病める舞姫』という畏るべき傑作について分析するつもりだったから、もともと考えていた方向に焦点があってきたということだろうか。とにかく今は、土方自身の対談や書いたものの面白さに埋没してしまっている。土方の書いたものは、既成のなにものとも似ていないからだ。どこかで見たことがあるとか、何だその程度のことか、という感想は一切いだきようがない。当り前のことだが、なかなかそんな人はいない。
さて、今回もまた、土方の文章にどっぷり埋没しながら、「現場」から報告してみたいと思う。今回は、『美貌の青空』におさめられている「犬の静脈に嫉妬することから」。タイトルからして異常だ。なぜ犬の静脈に嫉妬するのか。しかも、なぜそこから出発するのか。土方は、つぎのようにいう。
びっこの犬が人眼を避けて逃げるのを、子供が石や棒で追跡して、壁板のあたりに追いつめて、やたらに叩きのめしているのを見ますと、私はある種の嫉妬を犬に感じます。(『土方巽全集Ⅰ』171頁)
あるいは、こうもいう。
わたくしはあばらの骨が大好きですが、それも犬の方が、わたくしのそれよりも勝っているように思われます。これも古い心象なのでしょうか。雨の降る日など、犬のあばらを見て敗北感を味わってしまうことがあります。それにわたくしの舞踏には、もともと邪魔な脂肪と曲線の過剰は必要ではないのです。骨と皮、それにぎりぎりの必要量の筋肉が理想です。もし犬に青い静脈が浮いているのなら、おなごの体など金輪際要らなくなると思います。(同書、172頁)
これで、「犬の静脈」と「嫉妬」が結びつく。犬は、人(子供、土方)を惹きつける何かをもっている。しかも、その魅力は、「あばらの骨」だ。余計な脂肪や無意味な曲線をもたない「骨と皮」こそが、舞踏に必要なものだからだ。舞踏家に必須の資質を犬は兼ね備えている。犬は、舞踏家として子供たちを魅了しているのだ。そしてその犬に「青い静脈」が浮いているなら、舞踏の完全体になるというわけである。
だからこそ、「犬の静脈に嫉妬することから」真の舞踏は始まる。これは、犬でなければならない。他の生物では物足りないし、難しい。土方は、つぎのような注釈も入れる。
魚や鳥の場合と、それは明らかに違います。魚には、第一、脚がありませんし、魚が毎日見ているあの薄明の世界に入り込む前に、わたくしにはいろいろと準備が必要です。鳥の場合だったら、鳥と一戦交える前に巣箱ごと握りつぶしたりしなければ、エキサイトはしません。重しを苦労して取除いたりして、その下にびっしりと孵化している状態のものが見つかれば、私は初めてぞくそくするのです。(同書、171―172頁)
魚には脚がないので、舞踏とのつながりが見つけにくい。ただ、魚が日々暮らしている「薄明の世界」にいけないわけではない。「いろいろと準備が必要」なだけだ。また鳥の場合も、準備が必要だということだろう。鳥の世界に入り込むためには、こちらがエキサイトしぞくぞくする「孵化している状態のもの」が見つからなければならないのだから。鳥類とかかわる手がかり(最初の一歩)がどうしても必要なのだろう。ようするに、犬に比べると、かなり取りつく島のない存在たちなのだ。しかし、彼らに対しても、準備さえすれば、その世界に入ることはできるというわけだ。
しかし犬は、まるでちがう。そのままでいくらでもかかわることができる存在だ。だから「犬の静脈に嫉妬することから」真の舞踏が始まるのである。犬は、いつもすでに舞踏家としてこちらを導いている。土方は、「舞踏の必須課目」だともいう。
犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができます。これはやはり、舞踏の必須課目で、舞踏家は一体何の先祖なのかということに、それはつながってゆきます。(同書、172頁)
犬は、天性の舞踏家だ。「青い静脈」さえあれば、舞踏の完全体にさえなれる存在なのだ。そのような恐るべき至高の舞踏家に「打ち負かされ」ている人間、しかも裸体の人間こそが、舞踏の必須課目なのである。
舞踏家が本当に舞踏家ならば、服を着て電車に乗ったり、座席でスマホを見たり、つるつる滑るスタジオで当たり障りのないことを話しつづけたりといったことは無論しない。そういう存在から最も遠いところにいるのが舞踏家だ。舞踏家が舞踏家であるなら、裸のままで、真の舞踏家である「青い静脈が浮いている」犬に打ち負かされていなければならない。これは、必須のことなのだ。
こうして、舞踏家が、ほかのさまざまな人間とは、出自を異にする存在だということがわかるだろう。舞踏家と舞踏家以外という分類を、人類に施してもいいくらいだ。舞踏家と舞踏家以外とでは、もともと「先祖」が異なっている。舞踏家は、少なくとも(誰もが前提しているような)「人間」ではない。少なくとも、服を着て街角を歩く人たちではない。むしろ、犬や牛や、準備さえ整えばその世界を開示してくれる魚や鳥の方こそが、舞踏家の先祖なのである。
このあたりの秘密をつぎのように土方は、明かしている。
ところで、何処から手を付けるかということの意味、わたくしが生きている中でなかなか確認できないこの意味に、わたくしは何度も憧れてきましたが、わたくしの才能の中でそれは生々とはしてきません。わたくしが、老人の枯木のような肉体や濡れた動物を大切にするのは、もしかしたら、そのような憧れに近付けると思うからなのです。わたくしの体には、バラバラにされて何処か寒い所に身を隠したいという願望があります。そこがやはりわたくしの帰る所であると思うのですが、そこでカチカチに凍って、いまにも転倒しそうにまでなって、この目で見て来たものは、やはり、死ということを死に続けるものたちへの親近感に尽きることだ、と納得しているわけです。(同書、172頁)
舞踏家の先祖の問題を正面から論じているといえる箇所だ。われわれは「何処から手を付け」ればいいのか。われわれはこの世界に投げだされて、意味もわからず生きていかなければならない。そのとき、われわれは、どこかに手がかりを見つけて、自分の居場所なり、自分の隠れ家なりをせっせとつくりだす。それが、ここで土方のいう「帰る所」だろう。そして、舞踏家たちも、やはり、同じように「身を隠す場所」を探している。そこが、舞踏の先祖たちの居る場所であり、いわば舞踏の故郷のようなものだといえるだろう。
そして、それは、土方によれば、「死ということを死に続けるものたち」のいる場所ということになる。「死に続ける」のだから、完全に死ぬわけではない。死に無限に近づき続けるのだ。死の領域と接触してはいるが、その領域にすべてが入り込むのではない。入り込む寸前にまで行くことを永遠に続ける場所にいるのである。そのような状態が、「死ということを死に続ける」ということだろう。
前にも書いたが、土方は、「私はもう食べることには興味はないんですよ」といって、ワインばかりを飲んでいた。永遠に死を死に続けることを、もうその頃は、実生活でも実践しているようだった。
「犬の静脈に嫉妬することから」のなかでも、つぎのようにいっている。
空気をかじったり、板切れを歯に挟んだりするだけで、何とか食べ物から逃れていたいという想いが、徐々に切実になりつつ、現在はあります。食べたら最後、迷ってしまうものが、いよいよ体の中に居座ってきたのだと思うわたくしは、ついに胃袋に食べ物を落とさなくなるであろうと思います。(同書、173頁)
たしかに私がアスベスト館にいたころは、土方は、すでに「胃袋に食べ物を落とさなく」なっていた。日常の生活でも、「死というものを死に続ける」ことを始めていたのかもしれない。命がけで突っ立った死体になろうとしていたのかもしれない。
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