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奥歯からオペラが聞こえる 第12回


中村昇


「真面目」で「真剣」な暗黒舞踏


 土方の対談をさらに見ていこう。

 まずは、詩人の白石かずことの対談だ。土方が、既成の枠組から逸脱し、枠組み自体を徹底して破砕しようとしていることは、前回までの話で分かったと思う。枠組みや既成の型や世界の関節構造から離脱し、それらを粉々にすること、これが、舞踏の第一歩だと言えるだろう。

 この破砕のやり方を、土方は、つぎのように述べている。


 絵だけじゃないんです。自然でも何でもいいんですね。それを教わってそっくり身体の引き出しの中にしまっておきますね。そしてちょっと身体を振るとそれがカードになってでてくる。鳥でもね、シャガールだけでなく何十羽も飼っているわけですよ。その鳥は画家が一人一人工夫した鳥なんです。それを自分の身体に置きかえますと、画家のイメージが、鳥までさかのぼった線とかが、ちゃんとたどれるんですね。(『土方巽全集Ⅱ』84頁)


 画家たちが、それぞれ独自の視線で自然から切りとった絵を、自分の身体の引きだしに入れるというわけだ。画家は、通り一遍のものの見方から遠く離れた存在だ。だから画家は、対象である鳥を微細に切り刻み唯一無二の鳥を創りだす。舞踏家は、そのやり方をそっくりこちら側に取りこむというのである。画家の眼球に住みつくのだ。そして、それぞれの画家が「一人一人工夫した鳥」を、自分の身体に置きかえていく。

 さらに、画家の高密度の眼球を通した絵だけではなく、自然そのものもじっくり観察して、自分の身体に血肉化する。鳥や花や昆虫や動物たちの動きを、みずから採集していくわけである。

 土方は、つづけてつぎのようにも言う。


 例えば鳥の首が何センチ斜めにのびていて、鼻の下でどのくらいの香水をかぐと、首をのばすのでなくて、嗅ぐというのび方がそこにできるかという……。そこで的確なメモができてくるんですよ。そして自分で色々組み合わせてみて一晩考えて一番模写のうまい子に教えてやらせてみる。そして「どうしてあなた方はできないの」と質問する。たんに首をのばせば優雅だろうと思ってる。それは全然まちがいじゃないか。「匂いを嗅ぐと首は自然にそれにそっていくものでしょう」ということになる。そこに優雅さのランクが一人一人違ってくるという実験をする。それをノートにとって復元するのです。(同書、84~85頁)


 鳥の首の動きが、おのずとのびていくだけではなく、鼻の下に香水があった場合、鳥はどのような首ののばし方(香水の嗅ぎ方)をするのかということを一晩考える。さまざまな鳥の首の動き(のばし方)を思考実験する。そして、土方はメモをつくると言っている。

 だから、アスベスト館の二階の土方の書斎で見つけた、ノートに丹念に書かれていた鳥の鳴き声の一覧表も、このように微細な鳥の動きを観察し、さまざまに思いを巡らすための材料だったにちがいない。恐ろしい人である。

 シャガールの鳥や若冲の鶏、あるいは、熊谷守一の鳥(若冲や熊谷について、土方が語ったというわけではないが)などをじっと見て、その動きを身体の引き出しに入れる。それだけではなく、そこらへんを飛んだり佇んだりしている鳥たちの動きもつぶさに観察する。だからこそ、アスベスト館に入りたての頃、私が金槌をつかっているのをじっと土方は見ていたのだろう。あれも、さまざまな動きの採集作業だったというわけだ。

 これが、舞踏を創るための日々の準備なのである。土方は、つぎのようにも言う。


 さっき鳥の話がでたけど、森羅万象にわたって全神経を集中していないとホントは鳥も踊れないですね。蝶をやるためには蜜、鳥をやるためには花、とそういう関連がもう当然の事で、感覚的に、それを自然科学の本などをよんで調べてゆくというのではなく、舞踏という全感触の中でそれを記号として登録してゆく作業なので、とても教えるなどという一方的なことはできない。相互に交換するという場がないとね。(同書、87頁)


 鳥や蝶の動きを採集するためには、蜜や花、樹木や風などにも感覚を研ぎ澄まさなければならない。そうすると結局、自然界の「森羅万象にわたって全神経を集中」しなければならなくなるだろう。森羅万象に目を向け、音を聞き、感触をたしかめなければならない。これが、舞踏なのである。

 土方は、われわれにも「私は教えることは何もありません」とたびたび言っていたが、それは、こうした舞踏の方法論からすれば、当然のことだろう。舞踏手みずからが、森羅万象に神経を向け、風の音を聞き、木漏れ日に注視し、昆虫や鳥や小動物の細かな動きを見つめつづけなければならないからだ。暗黒舞踏には、決まった型などない。様式は、つねに生成途上なのだ。これが、どれだけ途轍もない作業であるかは、ちょっと考えれば誰でもわかるだろう。

 この対談では、つぎのようなことも語っている。


 女の人たちに百面相やらしたりするとね、よく泣き出したりする。ザクロ歯だとか犬の歯だして天井見てごらんとね、そうすれば白痴ですね。ぼくはきれいだなと思うんだけどね。それがホウズキがパッと破れるようできれいなんだけどね……。そう言っても美意識で固まっているから納得しないのね。(同書、87頁)


 われわれが、もっている「美意識」なるものを土方が無理やり壊そうとしているのがわかるだろう。われわれの既成の身体(「既製服」としての「器官ある身体」)やその所作によって、共同体で培われてきた「美意識」を誰もがもっている。そのような得体のしれないもの(先入見)を、舞踏の動きや形で壊すのだ。「般若」という形をよくやらされたが、「般若」は、白目をむいて、口を斜め上に思い切り開き、顎と首を突きだす。芦川羊子さんの見事な「般若」を見た方も多いと思う。暗黒舞踏のシンボルとも言える<あれ>である。

 ある意味で、われわれがもっている(いわれのよくわからない)美意識から、最も遠いこの顔を何度もやっていると、われわれの美意識という偏見が、だんだんと薄れていくのを感じた。森羅万象のすべての動きや微細なあり方に、日ごろから気持ちを傾けていると、「美意識」などという狭い枠組など雲散霧消していくというわけだ。誰でも知っていることだと思いたいが、「美」は「偏見」なのである。

 おそらく「美」(西洋的な)を追究しているバレーについても、土方は、つぎのように言っている。


 クラシックバレーというのがあるでしょ。あの体系の見事さというのがありますね。だって六百年もかけてるんだから。いくら彼ら(前衛ダンサーやハプニングの人たち―中村註)が日常性だの、偶発性だのって言ったってこれは負け犬ですよ。ですからモダンダンスが一度だってバレーを超えた事はありませんよ。優雅さといい、精巧さといい、第一前衛さでいっても……。それを一つ一つとがめて言う必要はないのね。それは娯楽だからね。でもね、もう少し真面目なもんなんですよ舞踊ってのは。真剣なものなの。そういう見地から面白さもそこなわれずにやってゆくとすれば、舞踊っていうのは世界一ボキャブラリーが豊富なんですよ。

 日常の身ぶりがそのまま舞踊に移行できるんですからね。(同書、89~90頁)


 クラシックバレーと対比することによって、自分自身の舞踏(ここでは「舞踊」と言っている)を定義しているとも言える箇所だ。クラシックバレーの見事さを、まずは称賛する。六百年かけて構築された芸術体系。このバレーには、モダンダンスやハプニング(ここでは、カニングハムとグロトフスキーが話題になっている)がどれほど趣向を凝らしても負けると土方は断言する。「優雅さ」「精巧さ」ではとてもかなわないし、「前衛さ」でも無理だと言う。しかし、つぎの一言で、クラシックバレーをばっさり切り捨てる。「それは娯楽だからね」と言うのだ。

 六百年もかけてつくりあげた「美」の体系は、見事なものだ。しかし、それは結局「娯楽」であり、いわば特殊な「偏見」の体系にすぎない。特定の人たちだけが依拠する「美」という先入見の体系だというわけだ。それに対して土方は、舞踊(舞踏)を、「真面目」であり「真剣」だという。クラシックバレーは、限られた人たち(西洋を中心とした人たち)による「娯楽」であり、舞踏は、すべての人間(そして森羅万象)にかかわる「真剣」なものだと言っているのである。何という底のしれないラディカルな宣言だろう。

 先に述べた舞踏の方法論からすれば、これは、当然の帰結と言えるだろう。全自然や人間のすべての所作(森羅万象)を仔細に観察して、それを素材に踊るのだから。「ボキャブラリー」は無数にあるし、日々の生成過程に着目していれば、それは無限に増殖しつづけるだろう。クラシックバレーのように、わかりやすい先入見で枠組を設定し、そこで「娯楽」をしているのではない。暗黒舞踏は、「真剣」に「真面目」に、この生成消滅する世界に時々刻々つきあっているのである。舞踏は、「遊び」ではないのだ。

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