top of page

奥歯からオペラが聞こえる 第11回


中村昇


「はぐれている」ということ


 前回の最後の引用から、改めて出発しよう。

 

 舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持していなければならない。(『土方巽全集』Ⅰ「美貌の青空」「遊びのレトリック」238~239頁)

 

 われわれの身体は、ありとあらゆる部分が、他者的なものでできあがっていて、おまけに土方の身体には、姉が住みついている。もともと一見<私>のように思われるこの身体は、なにものとも名づけられない器であり、そもそも空っぽなのだというのが、土方の出発点だろう。ところが、われわれは、幼少期からあたかも<私の身体>であるかのように、所有格の「私の」がアプリオリに<身体>にくっついているかのように思いこみ(あるいは、思いこまされ)生きていく。そのように思いこんだ人々によって、社会が形成され、法律が定められ、秩序もできあがっていく。そうした茶番を、土方は凝と見つめていると言えるだろう。

 そのような社会や家族や秩序といったものによって、否応なくかたちづくられた身体(それと同時に洗脳された精神)をもった多くの人間たちが交流していくのが、この世界だと言える。そのようなあり方をした身体に貼りついた常識や動き方(身体図式)を一つ一つ剥がしていくのが土方の暗黒舞踏だと言えるだろう。<歩行>も<牛になる>のも、このような身体に貼りついた余計な夾雑物を取り除くための基礎訓練なのだ。身体の本来のあり方である「空虚な器」になって、既成の秩序や社会によって決められた恣意的な動きとは異なる、ありとあらゆるものになること、これが暗黒舞踏の一つの志向だと思う。

 今回は、さらに、この「空虚な器」というあり方を、宇野亜喜良と佐藤健との対談から、確認していきたいと思う。

 まずは、「空虚な器」という概念と非常に密接にかかわる「はぐれている」という動詞について見てみよう。この「はぐれている」というのは、よく土方が使う動詞であり、われわれの身体、そして身体だけではなく、われわれの存在そのものとも深くかかわる事態である。

 宇野が「土方さん以外の人に伝達しにくいようなイメージがあって」(『土方巽全集』Ⅱ、27頁)、それをどうやって他人に伝えるのか、という質問に対する答のなかで、「はぐれている」がでてくる。つぎのように言う。

 

 私のコミュニケートの方法は、人間関係を外側に求めないで、一個の体の中でいつもはぐれている自分と出くわす、自主的にその人に出くわさせるようにするのです。たとえば、飼い慣らされた動作ばかりで生きてきてお前はずいぶんひどい目にあったのじゃないか、その原因はお前の肉体概念がいつもはぐれているんだといって彼の肉体を熟視させる方法をとるわけですね。これが他の舞踊のばあいクラシックバレーでもスパニッシュでもある均一な方法論を外側から運動として与える、それに飼い慣らすわけです。そうじゃなくて私のはいつもはぐれている自分を熟視させる、その逆なのです。(同書、28頁)

 

 やはり「はぐれている」という語は、土方巽の舞踏論の中心にある概念であることがわかるだろう。まず「外側」という言葉から見ていこう。外側の人間関係というのは、図式的に言えば、社会や共同体における言語という社会的手段を使った関係だろう。この発言の直前でも土方は、「私は劇団という形が嫌なんですよ。集約的な人間が性に合わなくて、やはりふとんの中へもぐって好き勝手なことをしていたいわけです」(28頁)といっている。劇団という小さな共同体でさえも嫌がる土方が、そのような劇団をも包摂する「外側」である社会から距離をとるのは当然だろう。

 そのようなところで、「コミュニケート」はしないと土方は言うのだ。そんなことはしないで、相手に「自主的に」(その人が自分の内側に自分で向かっていくことによって)「はぐれている自分と出くわす」ように促すというのである。そこで、何をしてもらうかというと、自分の肉体を熟視し、その肉体が「飼い慣らされた動作ばかり」でできあがっていて、「ひどい目にあった」ということに気づいてもらうというのである。

 もちろん、この「飼い慣らし」は、今までも指摘したように、二重の意味をもっている。まずは、「器官ある身体」という「飼い慣らし」だ。われわれは、ヒトとして生まれ、37兆個の細胞と決まりきった数と位置の器官(「既製服」的身体)をもち、形も動きもほぼ同じ個体(ホモ・サピエンス)として生きていく。さらにある特定の共同体に生れ落ち、一つの母語を習得し、その母語により「世界」を認識していく。もしかしたら、母語によって、仕草や表情、身体の動きまでも、ある程度決まっているのかもしれない。それはとりもなおさず、たまたま生まれた社会の習慣や法律にがんじがらめになっていく、ということでもある。

 こうして、われわれは、いやがおうにも二重(「器官ある身体」と「共同体の習慣、言語」)に「飼い慣らされる」というわけだ。そして、土方は、この「飼い慣らされている」身体の状態を、みずから凝視させることで、舞踏の世界へ導くのだ。「歩行」や「牛」という<器官なき身体=空虚な器>に「なる」ための訓練が始まるのである。

 それに対して、クラシックバレーやスパニッシュは、まったく逆の方法論をとる。土方によれば、これらは、新しい「飼い慣らし」をするというのだ。それまでとは別のシステムのなかで、人間を「飼い慣らす」ことによって、クラシックバレーやスパニッシュのもつ体系や方法を習得させる(無理やり身体を作り変える)というわけだ。われわれの生まれもった「器官ある身体」や「共同体の仕草や動き」とは異なる、クラシックバレーやスパニッシュの「器官ある身体」や「体系の仕草や動き」を身に着けさせる(「飼い慣らす」)というのだ。わかりやすい言い方をすれば、クラシックバレーやスパニッシュの「美しさ」や「技巧の素晴らしさ」を、外側から身体に刻みつけるということになるだろう。

 しかし、このような観点にたてば、この「飼い慣らし」は、暗黒舞踏でも同じことではないのか。美の基準や技巧への眼差しがかなり異なっているだけで、土方の考える体系へと身体を作り変えることにおいては、同じなのではないのか。しかし、土方は、つぎのように言って、その違いを際立たせる。

 佐藤健との対談での発言だ。

 

 そうじゃなくて、私のは、はぐれている自分を熟視させる。逆なんですね。ひどいこともいいますよ。「やれっていったことは、やるなっていっていることだとわからないのか!それでやれっていっている意味が!オレはやるなっていってるんだよ。でもやるなっていっていることを信じるな」とか、際限もないことをいったりする。(同書、16頁)

 

 そうなのである。ある意味で、踊れなくするのだ。「飼い慣らす」のではなく、踊れない状態へ追いこむのである。「奥歯からオペラが聞こえるように」踊れ、と言われて、どう踊ればいいのか。他にも多くの言葉が嵐のように土方の口から、こちらに降ってくる。それに応じて適切に、「優美に軽やかに」踊るなんて土台、無理な話だろう。ドゥルーズ的な意味で「吃音的身体状態」に追いこまれてしまう。そしてそれ以外に、「飼い慣らされない」方法はない。

 このように考えれば、土方の口から溢れでてきて、こちらに襲いかかってくる稽古中の言葉の洪水は、土方の詩人の才能のたんなる濫費などではなく、「飼い慣らされる」ことから、恒常的に逸脱するための必須の方法だったことがわかる。

 つぎのようにも言う。

 

 舞踏で、うまく踊れたとか踊れなかったとかいうのはナンセンスですよ。絶体絶命ほんとに踊れなくなってしまう舞踏ならわかりますが。そういう踊りをみたら人間はものすごい感動ですよ。そういうケイコはしますね。たとえば、まずそこに立って、何のために立っているのかを問いかけるとか。一寸先は闇ですから、ある目的性をもっては、踊りというのは、どうしても遅れてしまうんですね。(同書、16~17頁)

 

 「踊る」ことが、そもそもできない身体へと追い詰めていく。そこで、自分の身体が、そして自分自身が、誕生してから(いや、それ以前から)ずっと、「はぐれている」ことに気づかせるということなのだ。いわば、追い詰めることによって袋小路で、<器官なき身体=空虚な器>にであわせるのである。

 「立つ」こと自体(人の直立二足歩行)が、「飼い慣らし」であるし、「ある目的をもって」(美しさの表現を目指して、技術の完成のために)踊ることなど、以ての外なのだ。

 土方は、「立つ」ことについて、つぎのようにも言う。

 

 世界の踊りは全部そうなんですけどまず立つわけですよ。ところが私は立てないんですよ、立とうとして、お前は床に立っているけど、それは床じゃないだろうといわれると、突然足元から崩れていく、ですから一から始まらないで、永久に一に到達しないような、動きの起源というものに触れさせるとか、そういうこともやってますよ。(同書、37頁)

 

 足も、立つことも、床さえも、われわれはすべて既成のものとして、「わかった」ふりをして、自分から「はぐれている」のだ。そんなものとは、かかわりなく、<私>は、<私の身体>は、どこかにあったはず(それは、つまり、なかったはず)なのである。「永久に一に到達しないような」空虚な器だったはずなのだ。それを、土方は、執拗に、自覚し体得させようと稽古すると言っているのである。「飼い慣らされない、動きの起源」に触れさせようとしているのである。

 これが、ようするに「牛になる」ということだ。

 さらに、「メタモルフォーゼ」(変容)についても、つぎのように言う。

 

 よく子供がお金をなめると、なめるものではないと親が𠮟るでしょう。ところがどうしてもなめたいとかしゃぶりたいとかいう金属への関係が人間にはあるわけです。金属に溶けたいとかね。この金属へのメタモルフォーゼがあって、あきることのない行為の中に関係しているものがあって、その欲望のままに従っていけば当然そういう舞踏の展開が行われるはずだとおもうわけです。それは、偶発的にやるということよりも、まったく日常的な次元で、舞台という日常、日常という舞台でみさかいなく犯しあうのです。(同書、24頁)

 

 われわれは、日常の次元で、メタモルフォーゼの欲望をもっている。土方が言うように「金属に溶けたい」の他にも、「雨滴とともに大地に浸み込みたい」「楠のように立派な樹木になって静かな生を営みたい」「どんなものでもいいから、とにかく今すぐ昆虫になって隅っこを這いまわりたい」などなど。社会、共同体のなかで、つまらないルーティーンをこなしている合間に、突如、そのような欲望に流されそうになることは、誰もが経験するにちがいない。

 これもまた、土方に言わせれば、「はぐれた」自分にであおうとする渇望の現れということになるだろう。「メタモルフォーゼ」とは、「飼い慣らされた」身体から、空虚な器になり、まったき異物へと変容することだからだ。

 着物についても、土方は、つぎのように言っている。

 

 どこからでも、着れるという着物が子供の頃にはあるものでしょう。袖に足を入れたり、頭を突っ込んだりそういう按配に劇場も着るわけですね。着るとか脱ぐとかという動作のほかに、裸体と衣装との間にぬるとかはめるといったひとつの着衣の方法がある。そこには非常にデリケートな関係があるわけです。(同書、26頁)

 

 着物の着方であれ、帯の結び方であれ、決まったやり方(作法、礼儀といった、わかりやすい「飼い慣らし」)にしたがうのではなく、着物との原初的で自由な関係をもつことこそ、舞踏の第一歩だというわけだろう。この関係は、着物とともに、あらたな「変容」空間(無の場所?)を造型することだからだ。「メタモルフォーゼ」とは、脱色し空虚な身体へと向かうひとつの手段だということになるだろう。

 宇野が「着られちゃう側にまわっちゃった方がずっと楽しいという気がしますね」といったのに対して、土方が「それは正しいですね。衣装に着られるということはやはり本能的な状態ですね。中身が抜けて着物だけが残る。だから上等な昆虫になるわけですよ。」(同書、27頁)と言う。着物との融通無碍な関係の場から、昆虫へと変容することもあるというわけである。

 さらに、この対談では、土方は、つぎのような面白いことも言う。

 

 それから、後姿ですね。わたしは前向きに稽古場にはいったときみないんですよ。顔だとか、手だとか、ひじょうにある意味でうすぎたなく目的にそっているわけで、くるっと背中をみると、なんだ、あなたは十八ではないかとかね、(中略)背中をあなたは白紙といいましたけど、私は人間を後向きにして、これはだめ、これはいいと言うと、必ず当たるんですよ。なんぼけいこしてもお前はだめだから帰ってくれとかね。(同書、35~36頁)

 

 土方や舞踏とは関係なく、いつも不思議に思っていたことがある。重要な感覚器官が、すべて前方を向いているということだ。視覚も嗅覚も味覚も触覚も、ある意味では、聴覚さえも(耳たぶの存在様式)、前を向いている。危険察知を優先するのであれば、あまりにもこの前方優位は無防備だ。時間の流れの非可逆性とも関係あるのかも知れない。

 土方は、われわれ人間の、この「前面偏重構造」にも、反旗を翻していると言えるだろう。このことは、ヨーロッパの舞踊が、垂直方向への上昇に価値をおくのに対して、がに股短足で、大地にできる限りへばりつく姿勢を重視する土方の姿勢とも通じているのかもしれない。「上ではなく下へ」と同様に、「前ではなく後ろへ」というわけだ。

 私が経験した稽古では、「背面」を意識する稽古はなかった。ただ、この「背面」への志向、「背面」の重視は、いずれじっくり考えたいテーマではある。

 今年は、いいクリスマス・イヴだった。こんな原稿を書けるなんて。笑




 


bottom of page