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奥歯からオペラが聞こえる 第10回


中村昇


牛になるとは、どのようなことか


 私は、牛ではない。人間である。しかし、この人間であるというのは、どのようなことなのか。私が人間であることをたしかめることは、できるのだろうか。朝起きて洗面台にいく。鏡を見ると、そこに自分の顔がある。たしかに人間といわれる様子をしている。外出すれば、多くの人間に会い、鏡に映る自分の様子や動きと、ほぼ同じ形や動きをする存在がいることを確認することもできるだろう。これらのことにより、どうも自分は、人間といわれる存在だということを日々たしかめることができる。

 あるいは、脳や内臓の手術をすることによって、医者や看護師により、自分が人間であることを、より客観的に(科学的に?)たしかめてもらうこともある。病院のなかで、自分のなかの、人間といわれる特徴が、さまざまな角度から確認され、人間というカテゴリーに自分が、ほぼすっぽり入っていることに納得する。

 鏡、他の人間たち、入院、手術。その他にも、多くの機会により、自分が人間であることを時々刻々たしかめ、自分は生きていく。

 だからといって、自分が人間であることを「内側から」たしかめたわけではない。内側から自分がどのような存在なのかをたしかめる術はあるのだろうか。もしこの世界に鏡がなく、他の人間が一人も存在していなければ、自分がどのような存在なのか、どうたしかめたらいいのか。たしかに自分の姿を見ることはできるだろう。首を動かし、下の方を見れば、自分の脚や胴体や腕を見ることはできる。顔や眼球は、けっして見ることはできないにしても、自分の身体のおおよその形や動きは、たしかめることがきるだろう。それが何であるかはわからないにしても(ここには、鏡も他の人間も、医者も看護師もいないのだから)、それが、ある動きをするものであることはわかるだろう。それらを見ることはできるのだから。

 しかし、私に眼球がなかったらどうだろうか。あるいは、眼球があったとしても、それが何の働きもしないただの球体だったら。そのとき自分は、暗闇のなかで(それが、暗闇かどうかすら、わからず)、もごもご動く存在になるだろう。触覚や聴覚や嗅覚をたよりに、静かに、あるいは激しく動く存在になるだろう。しかし、さらに触覚も聴覚も嗅覚もなかったらどうか。そもそも五感がなかったら、どうだろうか。それは、いったいどのような存在なのか。自分自身を「内側から」知ることは、そもそも可能なのか。何の手がかりもなくなったら、<それ>は、いったい何なのか。

 さて、私たちは、進化の歴史を経て、こうして存在していると言われている。ヘッケルの唱えたことに、いくぶんかの真理があると仮定すれば、われわれの個体発生には、系統発生の痕跡がたたみこまれていることになるだろう。この世に存在し始めてから(子宮のなかで)、生物進化をひととおり経験して(もちろん意識はしていないにしても)、この光に満ちた世界に登場する。そして視覚や聴覚や触覚を駆使して、だんだんと人間に「なっていく」。こう考えれば、私のなかには、系統発生と個人の歴史が、たたみこまれていると言ってもいいだろう。

 わたしは、自分自身を内側からは、しっかりたしかめることはできない、というあり方と、しかし、いろいろな経験(子宮内、子宮外の)から、自分自身の存在を、ある程度、無意識的、意識的に知っているというあり方との二重のあり方をしていると言えるだろう。

 こうした二重のあり方をしている私が、牛になるとは、どのようなことか。

 たしかに牛は、哺乳類であるから、進化史的には、われわれ(ホモ・サピエンス)にかなり近い。もしかしたら、気持ちが通じ合う瞬間だってあるかもしれない。何を考えているか、わかるときもあるかもしれない。「カマキリ虫になる」や「カツオになる」や「金木犀になる」よりは、楽かもしれない。

 しかし、「牛になる」とは、そのようなことではない。

 私は、私自身がどのような存在であるか、内側からは、けっしてわからない。それに前回触れたように、私という身体をつくっている細胞は、私とはかかわりなく毎瞬生きている。「私の身体」とは言っても、自在にコントロールできているわけではない。私は、内側から不定形の曖昧な存在であると同時に、唯一確認できる身体もまた他者的なあり方をしているのだ。

 そもそも自分自身の最重要構成単位(?)である遺伝子を、われわれは、自分で選んだり、変更したりは、絶対にできない。こちらの都合とは一切かかわりなく、DNAは、綿々と遥か昔から存在しつづけている。ドーキンスでなくても、ある観点からは、自分自身が遺伝子の乗り物であることくらい充分わかっている。

 そういう存在が牛になるのである。ようするに何が言いたいかというと、そもそも私という存在が、牛以前に「何である」のかすら、誰もわかってはいないということだ。「牛になるとは、どのようなことか」という質問をする前に、そもそも「この私とはどのようなことか」という質問の答すら、わかっていない、ということなのだ。

 だからこそ、「牛になる」あるいは「牛になれる」のである。

 土方巽のお姉さんは、土方のなかにいた。つぎのように言う。


 私は、私の体のなかにひとりの姉を住まわせている。私が舞踊作品を作るべく熱中するとき、私の体のなかの闇黒(やみ)をむしって、彼女はそれを必要以上に食べてしまうのだ。彼女が私の体の中で立ち上ると、私は思わず坐りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。というかかわりあい以上のものが、そこにはある。(「犬の静脈に嫉妬することから」『土方巽全集 Ⅰ』河出書房新社、2005年、171頁)


 あるいは、宇野亜喜良との対談では、つぎのように語る。


 なぜ髪の毛を長くしているのか、と聞かれるでしょう。私は死んだ姉を私の中で飼っているんです。(中略)いま二人で住んでいるんです。髪をすくとか、とめるとか、死んだモーションもいっぱいある。そういうものを自分の体の中に蓄えているわけです。ですから、朝から昼までは姉の仕草をする。着るものでもみな昔の柄です。銘仙なんかでも頼んで捜すわけです。(「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」『土方巽全集 Ⅱ』27頁)


 土方は、まさに、自分のなかに他者(姉)を飼っている。死んだ姉が、土方と一緒に土方の身体に住んでいるのだ。ただ、土方だけではなく、いま、いくつかの角度から確認したように、われわれだって、多くの他者(進化史、細胞、遺伝子、身体、他の人などなど)が、われわれのなかに住んでいるのである。だから、そういう他者を甦らせることこそが、舞踏だと言えるのかもしれない。多くの他者の集合体としての<私>、そして、器としての<私の身体>を、べつのものども(多くの他者たち)の活躍の場にすることだと言えるだろう。

 あるいは、自分自身が<なにものでもない>ことを自覚し、自分自身ではない<なにものか>になる営為だと言えるかもしれない。

 だから、われわれは、まずは「牛になる」のだ。


 最後に土方の長い引用で締めよう。


 舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持してなければならない。過渡の充足、突然の闖入は当然霊の通過現象を起す。このことによって器は溢れ出し、からっぽになり、闖入物の小爆発によって抜け出た物の後に、続いて移体する。このような状態で励まされる空虚が、舞踏の律動なのである。舞踏は、からっぽの絶えざる入れ替えである。自・他がトランス状態に置いて(原文ママ)保持されている。溢れ出したり抜け出ていったりする瞬間に、充足し闖入される。からっぽの運動それ自体が器の場所になる。溢れ出し抜け出ていったものに慰められている状態が、舞踏の身振りにはしばしば起る。抜け出ていった自分は、当然、いまある自分に変容されているのだ。(「遊びのレトリック」『土方巽全集 Ⅰ』238~239頁)

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