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奥歯からオペラが聞こえる 第1回


はじめに

中村昇



「天才」土方巽


 土方巽は、私が会ったただ一人の天才である。


 たしかに本を読んだり、絵画や映画を見たり、あるいは音楽を聴いたりして、「この人は天才だ!」と膝を叩き心底感動したことはある。たとえばウィトゲンシュタインがそうだ。とてつもない哲学の才能をもつ人。普段の何気ない日常のなかに、恐ろしい哲学の深淵がぽっかり空いていることを教えてくれる。そして、その深淵にずかずかと入っていき、素手で哲学の問題をこなごなに砕く。


 あるいは、フィリップ・K・ディック、想像力の極限。誰も思いもつかない世界をまざまざと現出させ縦横無尽に物語を変容させる。そして読者をありえない領域に突き落とす。あるいは、証明という概念すら知らず定理を量産したラマヌジャンというインド生まれの数学の天才もいるだろう。この天才は、ひとりイギリスに行き身体を壊してしまう。天才ゆえの悲劇が彼を襲う。いや、数学・物理学ならフォン・ノイマンを忘れてはいけない。その頭脳ゆえに「悪魔」と言われた男だ。


 何なら笙野頼子。「母の発達」の衝撃は、何ものにも代えがたい。いやいや他にも天才はいる。モーツアルトもゴッホも、フランク・ザッパもいるだろう。


 これらの歴史上の天才(笙野頼子はまだ生きているけれども)と比べても、私のなかでは、土方巽という舞踏家は、特別だった。こんな人物が、生きていること自体何とも不思議で面妖なことだと思っていた。二〇歳前後の二年間、この人の身近にいて、なるほど「天才」というのは、こういう人のことを言うのだ、と何度も思い知らされたからだ。


 アルチュール・ランボーが、手紙のなかで、「私は、一個の他者である」と書いた。この「他者」は、「才能」のことを意味している。ランボーが言いたかったのは、つぎのようなことだった。巷間、詩人と自称する連中が多くいるけれども、詩人には、みずから望んでなれるものではない。詩人には、詩の「才能」が必要だ。そして、その「才能」なるものは、天からたまたま授けられるものである。つまり「他者」なのだ。「他者」は、よそからやってくる。天から降りてくる「他者」。それに憑依されたのが、「天才」なのだ。つまり、私は、自分ではどうにもできない「才能」という「他者」に操られているだけなのだ。


 今回の連載では、私にとって唯一無二の<生(ナマ)の天才>土方巽が、何者だったのか、という問に正面から挑んでみたい。舞踏という「他者」に、魂と身体をのっとられた土方という存在の秘密を探ってみたい。若い頃目撃した、この上ない強烈な<タツミ・ヒジカタ>という磁場に改めて迫ってみたいのだ。どこまで接近できるだろうか。


「土方巽とは、いったい何者だったのか?」


黒テントの衝撃


 一六歳だった。鹿児島市の河原に「黒テント」がやってきた。「黒テント」を主宰していた佐藤信のことを特に好きだったというわけではない。ただ演劇には興味があった。寺山修司や唐十郎のエッセイや戯曲を、ときどき読んでいた。だが戯曲を読んだだけでは、テント芝居や天井桟敷の生(ナマ)の魅力がわかるはずもない。寺山や唐や別役実の文章の面白さだけしか知らなかった。


 どういうきっかけで、「黒テント」を観にいくことになったのか、どうしても思い出せない。親元を離れ、中学から鹿児島で一人暮らしをしていたから、誰に気兼ねをする必要もなかった。だから、何となく芝居を見たいと思って河原に行ったのだと思う。しかし、いま振り返ってみると、初めての観劇が、テント芝居だったというのは、何とも不思議な気がする。佐藤信(「黒テント」)のことは、よく知らなかったから、それほど期待していたわけではなかった。


 しかし、予想は完全に裏切られた。無理やり押し込められた小さい黒テントのなかでは、芝居という宇宙がものすごいスピードで渦巻いていた。独特の科白、意味不明のストーリー、汗、躍動する筋肉群、慌ただしい足音、白粉の香り、空気のよどみ。


 そして新井純。この世のものとは思えない美しい主演女優だ。何もかも新鮮で、感動や感激といった月並みの言葉では表現できない底知れない感情を味わった。自分のなかの何もかもすべてが、「黒テント」という芝居の奔流に押し流されていった。


 しかもタイトルは、「阿部定の犬」。圧倒された。何もかもが、初めての経験だった。このとき、こちら側(観客席)ではなく、あちら側(舞台の上)に行きたいと痛切に思ってしまう。


原田芳雄という存在


 たしかに少し変わった少年だったのかもしれない。中一のとき、テレビドラマで原田芳雄という存在に気づく。これと言って特徴のないホームドラマのなかで、ひとりだけ異質だった。原田芳雄は、自分の部屋を、ものすごくぞんざいに掃除をしていた。掃除の道具を使ってはいるけれども、とても掃除とは言えない。部屋の空気を歪ませ、部屋全体を荒らしているように見えた。なぜか感動する。


 「丁寧に」とか「きれいに」といった「掃除」という概念に自然に結びつく形容動詞を、ことごとく無視する姿に感銘を受けたのだ。原田芳雄は、掃除の仕方だけで、一人の中学生の魂を掴んだのである。規格はずれのがさつな、こんな存在になりたいと思った。


 その後、原田芳雄が主演をした「無宿人御子神(みこがみ)の丈吉」という映画を、しばしば観にいくようになった。映画はよく観ていたので、足しげく映画館に通っていた。そのなかでも、「御子神(みこがみ)の丈吉」は、特別だった。


 今までよく知っている人間とは、一線を画する原田芳雄。既成のわかりやすい存在ではなく、身体の動かし方も、これまでには見たことが無いような動きをする俳優だった。無駄で泥臭く、ごろっと投げだされたような存在感の持ち主。原田芳雄は、無類だった。こういう存在に憧れたのだ。


 そういう時期に、黒いテントのなかに足を踏み入れたのだ。だからこそ、テント芝居に感動し、役者になりたいと思ったのかも知れない。


回顧的錯覚


 もっと遡ってみよう。ベルクソンに「回顧的錯覚」という概念がある。過去のある出来事をピックアップして、それを原因にして現在の状況と結びつける錯覚のことだ。過去には、無数のさまざまな可能性があったはずなのに、他の多くの可能性を無視して、一つの因果関係をつくりあげるのである。


 小さい頃、病気がちで死について深く考えていたから、その後成長し、偉大な宗教家になったといったものだ。病気がちで死について考えていたという一つの事実だけを原因に指定し、宗教家になったという現在の状況を結果にするというわけだ。


 よく病気をし思い悩んでいたのはたしかだが、昆虫採集にも出かけていたし、漫画もよく読む少年だった。それなのに、他のこと(昆虫採集、漫画を読む)を除外し、一つのもの(病気をし思い悩む)だけに焦点を当てる。これが、「回顧的錯覚」だ。ここでは、この「回顧的錯覚」を利用して、土方巽という人物との出会いへと方向を定めてみよう。つまり、これからの話は、「錯覚」の可能性が高いということである。


私の生家


 私は、暗黒舞踏にであうために、小さい頃から生きてきたわけではない、当たり前だけど。ただ、暗黒舞踏の世界に入るには、それなりの理由があったにちがいない。それを「回顧的錯覚」をしながら、とりだしてみたいというわけだ。


 私が生まれた家は、暗鬱な家だった。父親は、長期の出張が多く、家にはあまりいなかった。遊んだ記憶もほとんどない。母も、私が生まれてすぐ働きはじめたから昼間は家にいなかった。日中、家にいるのは、足の悪い祖母と、なぜかずっと居候していた老夫婦だけだった。つまり、一人っ子の私は、小さい頃は、ほとんどの時間を、三人の老人と一緒に過ごしていたということになる。


 この頃、とても気になっていた存在がいる。それは、まさに「老婆」だった。この存在は、どのようにしてこの世界に生成してきたのか。まず、性別がわからなかった。男の老人であれば、男性ということがわかる。それは、私自身が男の子だったということもあるだろう。なにかごつごつした存在だ。おそらく、青年、壮年、老年と時間の経過とともに、現在の状態にたどり着いたことは、予想できた。話す内容も、それほど面白くない。最初から興味のわかない存在だった。


 しかし、「老婆」はちがう。何とも言えない完成した存在。まるく小さく消えていきそうな存在でありながら、こちらを圧倒するようなオーラを放っている。しかも、周りの環境と、うまく区別のつかない曖昧なまがった(<曲線そのもの>のような)身体をもつ。不思議だった。喋る話も、よくわからないどうでもいいことを延々と口から紡いでいた。

 

 生家の周りも、不気味だった。正面は、棚田のような一大墓地地帯。五分ほど歩かなければたどりつかない石の階段。その坂道の両側に無数の墓地があった。裏山もまた多くの墓地があった。だから小さい頃は、よく墓石の周りで遊んだものだ。

 

 家の玄関をでて右側に行くと、火葬場があった。いまはもうべつの場所に移ったが、小学校時代は、いつも葬祭場の横を通って、墓地のなかの階段をのぼり通学していた。しかし、これでは、土方巽というより寺山修司の世界かも知れない。それはそれとして。

 

 こうして、あらためて、自分自身の小さい頃をふりかえってみると、暗黒舞踏に導かれていたように思えてしまう。うがちすぎだろうか。




【土方巽肖像写真】

増田大輔 慶應義塾大学アート・センター/NPO法人舞踏創造資源

写真提供:土方巽アスベスト館




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