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台所文芸論―生と死をめぐる食卓 第7回

  • 11 時間前
  • 読了時間: 8分

湯澤規子


雑踏の中の台所―魚柄仁之助の裏通り勝手口語り


上野アメ横を歩く

 近々、あるラジオ局の「戦後80年」をテーマにした企画で、食の歴史研究者と一緒に街を歩きながら対談することになった。都内なら上野アメ横界隈がいいと思っていたところ、その願いが通じたのか、ディレクターから「湯澤さん、ロケの場所はアメ横になりました」という知らせが届いた。

 

 私が「ぜひ上野アメ横で」と考えていたのには理由がある。縁あって私のところにやって来た「学童疎開」に関する食の史料との出会いをきっかけに、最近私の中では戦中戦後、子どもの胃袋、菓子、他者、都市、法律、行商などへの関心が広がっていた。こうした一見雑多にみえるいくつもの要素が、「ヤミ市」に起源をもつ場所には凝縮して蠢きながら、戦後80年を経た今でもなお、歴史の地層として生き続けているような気がするからである。

 

集団疎開のため、都内から北関東、東北地方へと向かった学童たちにとって「上野駅」はその発着の地でもあった。対談する相手が上梓したばかりの食と権力に関わる書籍の話を聞きながら、ぜひそういう場所で一緒に考えてみたいと思っていた。そんな折に、「渡りに舟」とはこのことか、というタイミングで対談の依頼が舞い込んだのである。私は迷わずその舟に乗った。

 

 新宿のヤミ市については、拙著『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社、2019年)で少しだけ執筆したことがあったが、あらためて上野アメ横や闇市についての書籍を集めて読み始める。1945年から1950年の間に戦時期および戦後の食糧管理制度の枠外で取り引きするいわゆる「ヤミ市」が、都内では山手線主要駅前に次々と出現した。1946年4月時点の露店設置個所合計179カ所を区別の露店数でみると上位に下谷区(2,225店)、淀橋区(1,810店)、蒲田区(1,330店)が並び、上野アメ横を擁する下谷区が巨大な露店集積地だったことがわかる(1)。その後、「露店整理令」「戦災復興土地区画整理事業」などを経ながら、「ヤミ市」はバラック飲み屋街を擁する「マーケット」へと展開し、1960年代の「都市計画事業」「市街地改造事業」「防災街区造成事業」などの影響を受けながら、高度経済成長期の追い風を受けて再開発事業とセットになった駅前共同ビルへと変貌していったところが多い。

 

 ところが不思議なことに、上野御徒町界隈はマーケットの風情がそのまま残り続けて現在に至る。地図を見ても地割や道路、線路はほとんど変わっていない。そこで私はまず、終戦直後の生と死を懐に抱いた都市の台所の残照をこの身に浴びようと、梅雨の夕暮れに上野アメ横を歩くことにした(写真1)。

 


写真1 夕暮れのアメ横を歩く
写真1 夕暮れのアメ横を歩く

アメヤ横丁とアメ横

 JR御徒町駅の北口を出て、上野駅までの線路沿いを望むとまず「アメ横」を掲げたネオンが見える(写真2)。ところが歩いていくと、上野駅近くのネオンには「アメヤ横丁」とある(写真3)。この表記の違いは何を意味しているのか。じつは、終戦直後はこの界隈では多くの「アメ屋」が商売をしていたのだという。昭和21年の夏、80軒ほどのバラック造りの露店が御徒町駅寄りに姿を現した。そこで売られたもののほとんどが甘味品、「芋アメ」であった。一本一円の芋アメは飛ぶように売れた。人びとは甘味に飢えていた。芋アメの原料となる芋を運ぶのはかつぎ屋(行商)の仕事だった。経済警察が目を光らせる上野駅の一つ手前でかつぎ屋が下りるようになって、御徒町駅寄りにまずヤミ市が立ったのだった(2)。


写真2 JR御徒町駅側のアメ横の入口
写真2 JR御徒町駅側のアメ横の入口
写真3 JR上野駅側のアメ横の入口
写真3 JR上野駅側のアメ横の入口

 終戦直後の風景を確認するために都市製図社が製作した「火災保険特殊地図」を見る(3)。あった。「アメ」の文字。しかも、思っていたよりもたくさんある。御徒町駅に近いアメ横通り沿い、高架下の上野問屋街、現在の徳大寺界隈には特に多くのアメ屋が集積している(写真4)。どんな味だったのだろうかと想像しながら昭和22年にこの地でミカン箱一つの広さから創業したという「二木の菓子」第一営業所に立ち寄る。あった。鹿児島産の芋アメを見つけた。これは偶然か、必然か。明るすぎる蛍光灯の下、令和のキャンディ売り場に突然時空の裂け目が口を開けて私を招いているように感じ、思わず身震いする。

 

写真4 「火災保険特殊地図」に記載された「アメ」の文字(『東京戦後地図―ヤミ市跡を歩く』より引用)
写真4 「火災保険特殊地図」に記載された「アメ」の文字(『東京戦後地図―ヤミ市跡を歩く』より引用)

 アメヤ横丁からアメ横になったのは昭和23年頃から。チョコレート、チューインガム、煙草、衣料、洋酒などの輸入雑貨が流れ込み始めた。翌年、昭和24年には砂糖が大量に調達できるようになり、砂糖ブームが起こり、甘味は芋アメから砂糖に取って代わられた。やがて、「芋アメ」の「アメヤ横丁」から、アメリカ製品の集荷市場「アメ横」へとその名を変えていったというストーリーである。

 

『台所に敗戦はなかった』

 濡れそぼつアメ横のアスファルトから乱反射するカラフルなネオンの光を眺めながら、私は食文化研究家の魚柄仁之助さんのことを思い出していた。魚柄さんなら今、この街をどんなふうに歩くだろうか。それに、きっと魚柄さんなら「芋アメ」の作り方を教えてくれるはずだ。だって、戦時期のレシピから「甘藷おはぎ」を紹介していた人なのだから……(4)。などと考え始めたら、今度は本格的に時空の裂け目に足を踏み入れたようで、気づけば私は終戦直後の魚柄さんの生まれ故郷、福岡県戸畑市(現在の北九州市)の裏通りを歩いていた。

 

 魚柄さんの実家は懐石料理や精進料理を出す料理屋だった。料理屋の表玄関からは華やかな食の世界が見えるが、裏口には魚のアラなどを大鍋に煮て、立ち寄った人がいつでも食べられるようにしていた。戸畑市は製鉄業が盛んな地域だったから、方々から集まる労働者たちが立ち寄ってはそこで胃袋を満たしていくのだった。少年だった魚柄さんは華やかな玄関口の食よりも、そうした裏通りに面した勝手口の食になぜか惹かれたのだという。

 

 裏通りから表通りへ出たところで魚の行商をする女性に出会い、魚柄さんは戦中戦後を生き抜いてきた人の人生を目の当たりにする。戦時中に子どもを餓死させてしまった後悔と無念を抱きながら、それでも食べ続け、生き続ける自分を「情けのうて、あさましゅうてのぅ……」と責めながら生きる彼女の小さな背中から、魚柄少年はきっと、食べること、台所に立つことにつきまとう、生と死の混然一体とした切なさと哀しみを感じとったに違いない。でもだからこそ、大人になって魚柄さんが食べることと台所に立つことを語る文章には、そこはかとない慈しみが滲むのではないか。魚柄さんの作品を「裏通り勝手口語りの台所文芸」と称し、文庫として復刊された『台所に敗戦はなかった』の解説に、私はそんな思いを綴ったことがある。

 

 魚柄少年は野外で七輪を使ってご飯を炊いたり煮物をしたりする「おいさんたち」を羨ましく眺めていたこともある。ちょうど一度目の東京オリンピックが開催された頃のこと。この「おいさんたち」は高度経済成長を支える八幡製鉄関係の労働者たちだったのかもしれない。大人になってから、魚柄さんは1980年頃の秋葉原でも路上炊事の魅力を経験している(5)。木枯らしが吹く寒い11月の夕暮れ時に、赤々と燃える練炭七輪にゆがんだアルミ鍋をかけて何かを煮ている。湯気が上がるその鍋を囲んで4人の「おいさんたち」が宴会をしていた。素足に下駄ばき、腰まで伸びた長髪、ぼうぼうの髭という風貌の魚柄さんを心配したのか、「おいさんたち」は「おーっ、ニーチャンも火にあたっていきなよ」と声をかけてくれたのだという。

 

 鍋にはきのこや白菜、大根に混じって蛤が4つ、エビも入っていた。秋葉原から歩いて数分の御徒町駅前の生鮮食品店が、売れ残った魚介類を分けてくれていたのだとか。現在のようにコンビニ弁当に頼る日々などではなく、路上生活者たちが自炊して暮らしていたという風景の中を、私はカラコロと下駄を鳴らす魚柄さんと一緒に歩き、令和のアメ横へと戻ってきた。

 

雑踏の中の胃袋と残響と

 そういえば、柳美里『JR上野駅公園口』という作品では、東北から上京して高度経済成長期の建設現場を支えた一人の男性の生涯が上野駅を舞台にして語られる(6)。同書は2006年に実施された、ホームレスの人びとの間で「山狩り」と呼ばれる行幸啓直前に行われる「特別清掃」、つまり、ブルーシートの住居「コヤ」の撤去と、そこに生きていたホームレスの人びとのライフヒストリーの取材を通して執筆された。路上で「生活する」人びとではなく、家を「失った」人びとという言葉へと転換した時代の厳しさと社会のまなざしの変化を思わずにはいられない。

 

 2011年に東日本大震災と原発事故が起こった。2014年に単行本として刊行されるまでの間、上野駅界隈は劇的にきれいになり、ホームレスの人びとは限られたエリアに追いやられることとなった。そして、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。「あとがき」には、この時開催が決まったオリンピックに関わる土木工事、建設現場に震災や原発事故で家や職を失った人びとが従事するのではないかという推測と懸念が綴られている。「感動」と「熱狂」の後先に生まれる光と影。生と死。

 

 ほんの一時間弱のフィールドワークがとてつもなく長く深く感じられた。変わらないものと変わったもの。見えるものと見えないもの。見えないように追いやられたもの、隠されているもの。過去と現在。私と誰か。その間を行ったり来たりしながら、アメ横の夕暮れが夜に変わるあわいの頃、私はようやくJR上野駅にたどり着いた。

 

 駅前には音楽の大きすぎる響きを囲んで人だかりができている。社会への抵抗を示す小さな立て看板が立つ。通り過ぎる人、立ち止まる人、スマホで写真や動画を撮影する人。ごった返す雑踏の向こうに「文化の杜路」と掲げられた地下通路の入口が見えた。地下通路に向かって私は歩みを進める。

 

 明るく穏やかな地下通路のさざめきの中に身を置くと、終戦直後、たくさんの人びとが雨露をしのぎ、震える胃袋を抱え、生と死をさまよったあの頃の都市の残響が聞こえるような気がした。

 


(1)橋本健二、初田香成『盛り場はヤミ市から生まれた・増補版』2016年、青弓社、36頁。

(2)猪野健治編『東京闇市興亡史』1978年、草風社、87頁。

(3)藤木TDC『東京戦後地図―ヤミ市跡を歩く』2016年、実業之日本社、12-13頁。

(4)魚柄仁之助『台所に敗戦はなかった』2024年、ちくま文庫、172頁(2015年に青弓社より刊行された『台所に敗戦はなかった―戦前・戦後をつなぐ日本食』を加筆修正)。

(5)魚柄仁之助『うおつか流 食べつくす!―一生使える台所術』2020年、農文協、56-66頁。

(6)柳美里『JR上野駅公園口』2017年、河出文庫(2014年に河出書房新社より単行本として刊行された)。

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