台所文芸論―生と死をめぐる食卓 第6回
- 5月23日
- 読了時間: 10分
湯澤規子
鍋と釜と燃える火の前で引き受ける女と哀しみと喜びと―石垣りん「くらし」など
学年通信の片隅に
何か私の研究の鍵になる言葉をと求められた時、きっと私はそのひとつに「日常」という言葉を選ぶだろう。それは私が幼いころから台所という場所に親しみ、日々の瑣末と思われることに格別の関心を寄せてきたせいなのだろうと思い込んでいた。ところが最近、それとはまったく別の理由がストンと私の前に差し出された。
高校生の時、「じっちゃん」というあだ名の国語の先生が学年通信なるものを発行していた。B4サイズの藁半紙に印刷された一枚には、事務連絡よりも多く、今週の予定よりも長く、大きな紙幅を割いて、生徒たちが日々生み出す言葉を学級日誌から拾い上げ、何気ない日常の風景や生徒の表情を記録した写真が掲載されている。そして時々、気まぐれに、詩が差し挟まれているのだった。初めて出会う詩ばかりだったが、私はこの型にはまらない学年通信とそこに載っている詩が好きだった。1枚残らずファイルに綴じ込んでいたおかげで、それは数十年の時を経た今も私の手元にある。
先日、久しぶりに同窓会に出向くことになり、そういえば、と思い出してこの学年通信のファイルを取り出した。今にも崩れてしまいそうなほど黄ばんだ藁半紙をめくって気がついたことがある。それは、じっちゃんが「生活のリズム」という言葉を好んで使い、そのメッセージの流れと静かに呼応するような詩を選んでいるということだった。
遅刻や居眠りが多く、掃除をサボったりするティーンエージャーたちを諭すために、「生活のリズム」がいかに重要かというメッセージを一貫して伝え続けたのに違いないが、私にとってその内容は、「日常の中にある何か大切なもの」への熱を帯びた慈しみのようにも思えたことを思い出す。はっきりとはわからないけれど、目の前に滔々と流れる日常が文芸によって結晶することへの感動といったたぐいの情動は、この「学年通信」によって育てられたのかもしれない。古い藁半紙の少し香ばしい匂いを嗅ぎながら、そんなことを思った。
そして、五十路を過ぎた今、あらためてじっちゃんの文章や選び取られた詩を再読してみると、10代の頃には分からなかった日々の喜びだけではない苦しみや哀しみ、せつなさが、紙幅のはざまから、ポロポロとこぼれ落ちてくるような気がした。そんな気持ちになって、ようやく、ああ、私もあの頃のじっちゃんと同じ年代になったんだと思い至る。
「くらし」という詩
1992年1月13日、No.079の学年通信を通して私が出会った詩人のひとりが石垣りんだった。この日の学年通信は「石垣りんさんの詩に『くらし』という詩がある」という一文から始まっている。下記にその詩を引用しよう。
くらし
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。(1)

高校生の頃はとくだん気に留めることもなかった一編の詩が、息を吹き返して私の前に現れたのは、初めて石垣りんという詩人に出会ってから四半世紀を過ぎた頃だった。私は新鮮な驚きをもって旧友と出会い直すように、「くらし」という詩と再会した。それはちょうど、『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会、2018年)という本の原稿を書いているさなかだったから、「食わずには生きてゆけない」の後に続く言葉の中に「親」や「きょうだい」や「師」があり、台所に「父のはらわた」が散らばっているという描写の生々しさに心をつかまれた。「私たちは何を食べてくらしてきたのか」と問う私の問題意識に決定的に欠けていたのは、生きるために食べ続けなければならない逃れようのない業にまとわりつく苦しみや哀しみやせつなさが、台所や食卓に累々と降り積もっているという風景への理解だったからである。
だから私は率直に、『胃袋の近代』のあとがきの冒頭を次のように書き出している。
これまで様々な地域の人びとの「くらし」を描き続けてきた、つもりであった。
しかし、くらしを描くとは、個々の人生に敬意を払ったり、共感したり、価値を見出すという、ある意味、前向きで、積極的な解釈だけでは十分ではないと、歳を重ねるごとに実感するようにもなった。これまで私はくらしの半分の世界しか描いてこなかったのである。
その根拠は、紛れもなく石垣りんの「くらし」という詩との出会いにあった。私はこの詩を通して、「くらし」とはかくも厳しく、哀しく、孤独なものであること、「くらし」という柔らかく温かな言葉の莢に包まれた深い闇、隠しておきたい人間の性もまた「くらし」の一部だということに気づかされた。台所に漂う明と暗、生と死、喜びと哀しみ。
それなりに歳を重ね、仕事を得て、新しい家族と出会い、楽しいことや嬉しいこともあった反面、悩みや迷いや葛藤も抱え込んできた。「折り合いをつけてきた」といえば聞こえは良いが、言葉にすることを躊躇して向き合ってこなかったことは多い。そうした日常の明暗が、石垣りんの詩との再会によって、確かな輪郭と陰影を持って私の前に立ち現れるようになったのである。
石垣りんの日常と詩
石垣りんは、1920(大正9)年に東京・赤坂で生まれた。家族関係は複雑で、りんには4人の母がいた。実母が亡くなり、その妹が新しい母となったが彼女も亡くなり、3人目の母がやって来た。その3人目の母と父が離婚した後に再婚したのが4人目の母である。4人目の母を迎えた時、りんは満17歳だった(2)。
満14歳の1934(昭和9)年、りんは高等小学校を卒業して日本興業銀行に事務見習いとして就職した。初任給は18円。現在の金額にすれば10万円弱という多くはない給料を受け取って、仕事を失った父と、父に依存する母、病気の祖父と障がいをもつ弟を養い、小さな借家の屋根の下に渦巻く家族の愛憎に根を張ってくらし続けた。結婚はせず、生涯独身で定年まで勤めあげたその小さな肩にはいつも、血縁によって逃れられなかった家族の重みがずしりとのしかかっていた。
そうした日々について、石垣りんは自らの言葉で次のように綴っている。
人はよく前向きに生きる、と申しますが、私が前を向くと、うしろばかりが立ちふさがってくるのです。あまりに不安定な世の中に生まれ、未来ではなく、既にあるもの、どうしようもないかなしみのようなものに手も足も染めて、何とかしなければ、という思いにばかり立てられるために。希望とまではゆかない、こまやかな願いごとをつなぎ合わせることで日々をつないできました。(3)
家族のために会社で働きながら、台所にも立ち続けなければならず、いつしかそういう日常から、その日、その時とぬきさしならない関係を持つ詩が生まれるようになった。幼い頃から詩や短歌を書き、民衆詩派の詩人、福田正夫に師事し、やがて「生活詩人」と呼ばれるようになった石垣りんの言葉は、彼女自身の苦しみと哀しみを掬い取り、生をかろうじて明日へつなごうとする力を宿すようになったように見える。石垣りんは、自身にとっての詩を次のように説明している。
そしてとにかく詩は、私の内面のリズムであり、思いの行列であり、生活に対する創意工夫であり、祈りのかたちであり、私の方法による、もうひとつの日常語。(4)
学年通信にじっちゃんが綴り続けた「生活のリズム」への敬意は、もしかしたら石垣りんの創作と「もうひとつの日常語」への敬意だったのかもしれない。
台所と食卓と女について
1959(昭和34)年、満39歳の時に刊行された第一詩集のタイトルは『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(書肆ユリイカ)である。タイトルになったその詩の前で私は立ち尽くす。ああ、そうだった。台所とはそういう場所、つまり、長らく女の喜びと死と慈しみと抗いと小さな願いに満ちた場所だったのだと。
私の前にある鍋とお釜と燃える火と
それはながい間
私たち女のまえに
いつもおかれてあったもの、
自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。
その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり
台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と
それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、
それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象であって励むように。
血縁のしがらみに拘束されながら、そのくらしを一身に背負って生きた40代前後の石垣りんが綴ったのがこの詩だったと知った時、同年代として私が彼女の詩に再会して心が大きく揺さぶられた意味を諒解することができた。
時代はずいぶん変わったとはいっても、大学、学会、社会、家族、地域という大小さまざまな人間関係の中に生まれるしがらみの煩わしさ、納得できない理不尽などはあり、私は心の中に宿ったそうしたわだかまりに気づかないふりをして日々をつないできた。台所で働きつづける一人の女として、台所に立ち続けることからくる焦りを感じないわけではなかった。そんな折に読んだこの詩には、台所という場所も、女という存在も引き受けるに値するものだというしたたかな表明と、鍋とお釜と燃える火の前でこそ培われる意思と思想があると綴られていた。

「食卓」という言葉が登場する詩もある。五十路を歩き始めた今の私の心情を映し出す鏡のような詩だ(5)。
海のながめ
海は青くない
青く見えるだけ。
私は真紅の海
海に見えないだけ。
生まれた時から皮膚は
からだ全体をおしつつみ
いつも細かく波立っていた。
そして自分の姿
私をとりかこむすべて
岸辺という岸辺に
打ち寄せ打ち寄せてきた。
けれどどんなことをしても
私の波立つ血が私を離れて
あの陸地
と呼ぶ所にあがることは出来なかつた。
太陽にあたためられる表皮
つかの間の体温
内部にひろがる暗い部分は
冷えた祖先の血の深み。
もういわない、
私が何であるか
食卓でかみ砕いたのは岩
町で語りかけたのは砂
森で抱きしめたのは風
それだけ。
両手を顔にあてれば
いつかはげしく波立ちはじめる、
落日の中
暮れてゆく
みえなくなる
女。
まさに今、女ひとり、私はこの言葉の一つひとつを台所に設えてある食卓で書いている。みじん切りをする包丁のリズムの中から「もうひとつの日常語」が生まれることを、もっと信じてもいい。鍋から立ちのぼる湯気の中でファイティングポーズをとったっていい。岩をかみ砕いた食卓で、ユーモアという飛び道具を使って明日を夢見てもいい。石垣りんがそうしていたように。だから、もう一度、台所という場所について、食卓というものについて、女という存在について考え始めてみたい。自分の内側から生まれる「もうひとつの日常語」を綴りながら。
(1)石垣りん『表札など』2000年、童話屋、18~19頁。
(2)西原大輔「評伝 石垣りん 生活詩人の生涯をたどる」日下部行洋『別冊太陽 日本のこころ331 石垣りん 鍋とお釜と燃える火と』平凡社、2026年、11~58頁。
(3)石垣りん『朝のあかり―石垣りんエッセイ集』中央公論新社、74頁。
(4)石垣りん『朝のあかり―石垣りんエッセイ集』中央公論新社、229頁。
(5)石垣りん『表札など』2000年、童話屋、82~85頁。


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