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台所文芸論―生と死をめぐる食卓 第4回

  • 湯澤規子
  • 4 日前
  • 読了時間: 8分

湯澤規子


生と死が交歓するぬか床―梨木香歩『沼地のある森を抜けて』


漬物の面倒をみる

 晩秋の信州、11月半ばの凍(しば)れるある日、野沢菜を漬け込むために親戚の女性たちと「お菜洗い」をしていた彼女は産気づいた。そして男の子を生んだ。のちに私は成長したその男の子と出会い、結婚した。つまり、彼女というのは私の義理の母、Yさんのことだ。11月になって北風が吹くと、決まって私はその日のことを想像する。Yさんはお菜洗いをしていた時、誰と何を話し、何を感じ、どんな風景を見て、どんなことを考えていたのだろうか。

 

 今年は普段よりも少し長く、そのことを考えた。それはちょうど1年前の秋にYさんが亡くなったからというだけでなく、私が最近、漬物を漬けるようになったからなのかもしれない。一昨日は近所の農家の直売所で買った丸ごとの大きな白菜を白菜漬けにした。すでに何度か実家の母に教えてもらっていて、白菜はザクッと全部を切るのではなく、ヘタに切れ目を入れて手でググっと裂いて四等分にすること、それを半日から一日かけて天日にさらすこと、その重さの3%の塩をまぶし、重しをして漬け込むこと、水があがってきたら重しを半分にすることなどは心得ていた。

 

 とはいえ、塩漬けにした後、私が海外出張や講義などに出かけてしまうので、漬物はいつも置き去りにされて母がその面倒をみることになった。だから、私が自分で漬けたというよりは、やっぱり母が漬けた漬物の味に落ち着くのだった。

 

 しかし、今回は年末の在宅期間が長いと見込んで、最初から最後まで自分で漬けると意を決し、実際にそうすることができた。手で白菜を裂き割る時の感触は心地よく、内側に巻き込まれていた瑞々しい葉のフォルムにしばし見惚れる。塩漬けにしてからは、うまく水があがってくるだろうかと気を揉み、思うような漬け加減になっている様子を見て一人ほくそ笑んだ。食べてみて美味しいと思えた時、料理とはまたちがう達成感があった。どうして塩と重みを加えるだけでこんなに滋味深い味になるんだろう。白菜と塩、そして私の手と地球の重力が絶妙なバランスで何かを生み出している。


写真1 白菜漬けの下ごしらえ
写真1 白菜漬けの下ごしらえ

しゃべるぬか床

  漬物は「作る」より「面倒をみる」と表現するほうがしっくりくる。「手塩にかける」という言葉の通り、手と塩から何かが生まれる気配がするからだろうか。電子レンジがチーンと鳴った時や、「お風呂が沸きました」と湯沸かしシステムが発する電子信号に対しても、つい「はいはい、ありがと」と返事をしてしまう私であるが、漬物の場合、生きている何者かを気づかい、話しかけているような実感がある。実際、漬けている床の中では、微生物たちが賑々しく生き生きと活動しているのだろう。

 

 何者かのいのちを頂戴して口に運ぶまでのあれやこれやを取り仕切る台所は「死」と隣り合わせの場であるが、同時に見えない「生」の気配が生まれては消え、消えては生まれている場でもある。目視では決して見えない、私の耳には聞こえない漬物床の中の賑わいは、時に、もしかしたら私に何かを伝えようとしているのかもしれない。あるいは口を通って私の体内に入ることで、私が確固として「ある」と信じている「自己」の膜を突き破って私と混ざり合っているともいえるのではないか。漬物を生み出す目には見えない何者かが、私の中に生き続けている世界。

 

 そんなことを考えながら思い出したのは、『沼地のある森を抜けて』(梨木香歩、新潮文庫)という文芸作品である(1)。物語の重要なカギになる存在は、死んだ叔母が台所の流しの下に残した「ぬか床」。しかも、しゃべったり、呻(うめ)いたり、卵を産んだり、その卵から何者かが生まれてきたりする「ぬか床」なのである。生まれてくるのは「私」の過去とその記憶を暗示する何者かである。「ぬか床」を引き取った主人公は洗剤や化粧品などを扱う化学メーカーの研究室で働く「私」だ。化学とは相反するようにみえる「ぬか床」の世界は、いつしかこの世の秘密をひもとく可能性に満ちた存在となって、自己を探す旅へと「私」をいざなう。その「ぬか床」はどうやら「私」の曽祖父母が故郷の島から持ち出して以来、代々受け継がれてきたものらしいのである。

 

 驚きつつ読み進めていくと、奇想天外というよりもむしろ、たしかに「ぬか床」には連綿と続く生と死の繰り返しと、しかし一つとして同じものはないという人生やいのちの物語、日々の喜怒哀楽、愛憎渦巻く「家庭」という不思議な場所の孤独と諦観、そして誰にも言えなかった独白が詰まっているような気がしてくる。とりわけ毎日「ぬか床」に己の手を入れて世話してきた女性たちの連綿とした思念の数々が。不思議なことに、いつしか「ぬか床」はこの世の縮図のようにも思えてくる。

 

描き切れない変化の気脈

 「ぬか床」の物語は「私」の個人の人生を越えて彼女のルーツを遡り、ある地域とそこに暮らした人びとの「生」と「死」と「再生」の物語へとたどり着く。そして読者は、それを取り巻く壮大な宇宙とこの世の摂理の中にじつは私たちが生かされているという気づきを得る。それは限りない孤独の自覚でもあると同時に、作品に登場する「沼」という懐に抱かれ、すべてはつながって全体になっているという安堵の境地にも届く。澄んだ清冽な「水」ではなく、様々なものが交じり合うことを想起させるぬるりとした、どろりとした、濁りと淀みのある「沼」という言葉が選ばれたことが次第に腑に落ちてくる。

 

 その描かれ方は民俗学のようでもあり、生物学のようでもあり、植物学のようでもあり、哲学のようでもあり、歴史学のようでもあり、果てしなく深い。とりわけ植物や生物への深い造詣が「変化の気脈」を鮮やかにとらえて描かれる世界が梨木作品の魅力だ。一分野の学術研究では到底描き切れない複雑なこの世のありようの静謐にして躍動する描写に私は息を呑み、目を見張る。

 

 たとえば「地域が変化した」という現象を理解しようとするとき、それは単に地表面が改変されたり、形状が変わったりすることだけでなく、そこに存在して生きた数多のいのちの交歓とそのバランスが崩れていくことを意味しているのだと、梨木作品は繰り返し伝えている。それは「環境変化」や「環境破壊」という無機質な言葉では到底説明しきれない、もっと生々しい息吹渦巻く、いのち蠢く世界だ。『沼地のある森を抜けて』はもちろん、その前に読んだ、『海うそ』(岩波現代文庫)もそういう物語だった(2)。

 

 私が専門としている人文地理学が積み重ねてきた地域描写が取りこぼしてきたものを梨木作品は鮮やかに描き、多くのインスピレーションを与えてくれる。実際『海うそ』は、主人公の若い人文地理学者が、亡くなった師匠がたどったフィールドワークの足取りを追いかけていくうちに、学術分野で論じられてこなかった地域変化や人間の精神世界の深みに目が開かれていく物語である。

 

 梨木作品を通して文芸と学芸の関係について考えてみると、つい最近刊行された『生類の思想―体液をめぐって』(藤原辰史、かたばみ書房)を読了した時に私の心が強く揺さぶられた真意を自覚できたような気がした(3)。「環境という言葉がしっくりこない」という印象的な一文から始まる同書は、私たちの外側だけでなく内側をもふくめた生きものの生と死が交歓する世界を「生類」という概念で再定義し、「わずらう」「あそぶ」「はぐくむ」「たべる」「まじる」という曖昧で不安定なゆらぎのある「ことば」で語る。食べて、食べられて、生きて、死んで体液が流動し、それが交じり合う世界。それはとても人の意思や技術では制御することができない、生類たちが長い時間をかけて紡ぎ出してきた摂理のダイナミズムの中にある。梨木作品の「ぬか床」と「沼」によって導かれた世界がここに共鳴して、私の心が震えたのだ。私たちはまだ世界の多くを知らない。学術という道具と言葉のみでは手が届かない世界は、未だ私たちのすぐ足元に底なし沼のように広がっている。そこにこそ、希望が残されているのではないか。

 

引き継がれるもの 

 亡くなった義母、Yさんは自筆の漬物ノートを残していた。それは今、私の手元にある。1ページ目が「野沢菜漬け」。野沢菜20~25キロ、味噌10キロ、黒砂糖2袋半、醤油5合、かんざまし少々、とある(4)。ノートは水や調味料で繰り返し濡れたようで、ずいぶんくたびれているが、きっとここに彼女の日々の断片と様々な想い、内に秘めていた苦悩をも含めた思念が込められているのだろう。だから、それを引き継いだ私はこのノートの声を聞いてみたいと思った。彼女が産気づいたあの寒い秋の日も、このノートは彼女の傍らにあったのかもしれない。もはやこれが単なるレシピのメモに見えないのは、死と生が交歓するあの「ぬか床」の物語に出会ったからである。

 

 じつは『沼地のある森を抜けて』という作品には本編の前と後に印象的な散文が綴られている。「……こんなに酷い世の中に、新しい命が生まれること。それが本当にいいことなのかどうか。……」というモノローグが冒頭に記されて本編へと続き、最後に「生まれておいで/この、壮大な命の流れの/最先端に、あなたは立つ/たった独りで/顔を上げて/生まれておいで/輝く、生命よ」という呼びかけで筆が置かれる。

 私はしばし目を閉じて、子どもを宿したお腹で「お菜洗い」をするYさんを想った。

 

写真2 義母から引き継いだ漬物ノート
写真2 義母から引き継いだ漬物ノート

 

 生前のYさんと一緒に漬物を世話することは叶わなかった。家庭という不思議な「ぬか床」で彼女が何を喜び、何に苦悩していたのか。信州の家を訪れた時、「ここが漬物小屋」と嬉々として案内してくれた彼女の人生に、じっくり耳を傾けることをしてこなかったことが悔やまれる。でも、もしかしたらこのノートがあの「ぬか床」のように、時を経て私に何かを話しかけてくれるのかもしれない。私は研究者である前に、この世に生まれ落ちたいのちとして何を引き継ぐことができるのか。Yさんの人生に思いを馳せ、いつも食卓に並んでいた野沢菜漬けの味を思い出しながら、ノートが声を発するのを待ちたいと思う。

 



(1)梨木香歩『沼地のある森を抜けて』2008年、新潮文庫。

(2)梨木香歩『海うそ』2018年、岩波現代文庫。

(3)藤原辰史『生類の思想―体液をめぐって』2025年、かたばみ書房。

(4)燗をした酒を冷ましたもの。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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