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台所文芸論―生と死をめぐる食卓 第2回

  • 湯澤規子
  • 9月20日
  • 読了時間: 9分

湯澤規子


料理だけは疑うことができなかった―『料理と人生』マリーズ・コンデ


料理と文学、二つの情熱

 学芸に文芸を組み合わせるのは禁じ手という人もいるが、学芸が取りこぼしてきた世界を豊かに描き続けてきた文芸の力なくしては、「生」と「死」が入り混じる、この複雑で深淵な世界の淵にさえ立てないのではないか。そんなことを考えながら南アフリカから帰国して手にした一書がマリーズ・コンデの『料理と人生』(1)だったのは、何か運命的なめぐり合わせだったといえるのかもしれない。マリーズ・コンデは、1937年、アフリカにルーツを持ち、カリブ海のグアドループに暮らす裕福な一家に生まれ、教育を受けたフランス語を母語として小説を綴ってきた作家である。

 

 著名な作家は料理をどのように語るのだろう。かねてから、「料理」という、「文字」にされてこなかった世界を膨大に孕む領域をどのように論じることができるのか考えてみたいと思っていた私にとって、『料理と人生』という書名はそれだけで、関心を寄せるのに十分だった。なにせ、私はこれまでの論文や書籍のほとんどを「台所」という場で書いているのだから。また、「台所」から生まれる哲学や文学が、国内外のいくつかの作品を通して「文芸」として結実していることに気がついていたこともあり、新聞書評に同書が紹介された時、私は直感的にマリーズ・コンデの作品を手に取っていた(写真1)。

 

写真1 マリーズ・コンデの料理と人生に関わる書籍
写真1 マリーズ・コンデの料理と人生に関わる書籍

  冒頭を読んで私は自分の直感が間違っていなかったと確信する。彼女は言う、「文学同様、それは長きにわたりわたしの人生を占めてきた情熱だったのである。(中略)これらふたつの情熱は根本的には切り離せない(コンデ2023:6)」と。周囲からは作家である彼女が料理と文学を結びつけることに対しての理解を得られず、それは「雑巾と布巾」あるいは「ジュートと中国絹」を混同するような不埒な行為であると非難されることもあったという(コンデ2023:9)。料理は雑巾、あるいはジュート。つまり、取るに足らない価値の低いものと認識されることが世間一般の見解だったということだろう。

 

料理とは何か

 コンデは特に母親から、料理は白人家庭に仕える召使がすることで、あなたがするようなことではないと言われ続けた。しかし、彼女はそれに反発するように文学と分かちがたい情熱をもって、料理を愛した。彼女にとって料理とは「寛ぎと対話」であり(コンデ2023:8)、その情熱は「自由への夢」そのものだったからである(コンデ2023:17)。じつは彼女の祖母、ヴィクトワールこそが、白人家庭に仕える召使として料理に生きる人生を送った人物にほかならなかった。その娘であるコンデの母は教育を梯子として教師となり、召使だった母よりも上の階級に上りつめ、娘にもその梯子の続きを登らせることを切望していた。だからこそ、自分の母の人生を肯定できず、娘が料理に夢中になることを嫌悪し、その価値を認めようとしなかったのである。

 

 しかし、コンデは「料理の技は授かりもの」であると敬意を寄せ(コンデ2023:21)、祖母の人生を『ヴィクトワール、味わいと言葉』(未邦訳)という作品に結実させている(2)。コンデが「料理を愛する」という時、それは祖母の人生を肯定して受け入れることであり、自分のルーツとしてのカリブ海世界やアフリカの人びとがたどった厳しい運命と向き合うことでもあった。奴隷、植民地、混血、差別、搾取、抵抗、アイデンティティ…… 。それはまさに、生と死が織りなす壮大な物語である。

 

南アフリカの生と死の風景

 20章からなる『料理と人生』はコンデの旅と人生が描かれた随筆であり、その時々に印象深い料理や台所が登場する。「12章 神よ、アフリカに祝福を」には、コンデが南アフリカを旅した時のエピソードが綴られ、つい先日私が訪れたヨハネルブルクという都市が次のように描かれている。

 

リシャール(コンデの夫、筆者注記)とわたしはヨハネルブルクで数日過ごそうと考えた。あらゆる抗議運動が起こりうる町だ。ふたりともどうかしていたのだろうか? ヨハネスブルクといえば地球上でもっとも暴力に溢れ、危険な場所となっていたというのに。アパルトヘイトの終結以来、白人たちは町を捨て、彼らの屋敷やアパートは失業者たち、麻薬の売人たち、あらゆる悪事に手を染めようとしている者たちに不法占拠されていた。通りには毎日のように死体が積みあがっていた(コンデ2023:167)。

 

 フランス文化機関が主催するフェスティバルに招かれたコンデは、こうした町の黙示録的光景に戦慄しながらも、ヨハネルブルク郊外のメルヴィルという町の滞在先のホテルでためらうことなくキッチンに向かった。そして、従業員たちに冷たくあしらわれならがも、彼女は料理をすることを通して南アフリカという国に出会い直していくのである。

 

わたしはインパラや羚羊(れいよう:カモシカの一種、筆者注記)、 駝鳥の煮込みの作り方を覚えた。ことさらに敵意を見せる従業員がひとりいて、わたしの母が共感しそうなひと言を不満げに呟くのだった。/「淑女は料理なんて関知しないものなのに」/ わたしは黒人と白人を融和に導く、南アフリカの郷土食とも言うべき料理、パップの作り方も覚えた。トウモロコシのお粥で、トマトとチャカラカと呼ばれる薬味が飾られている(コンデ2023:168)。

 

食卓に向けられた敵意と憎しみ

 プレトリアにあるフランス大使の豪華な屋敷の昼食会など、公式の場では様々な国籍の多様性に守られていたが、ひとたびそこから離れ、リシャールと2人で食堂に足を踏み入れるたび、コンデの体には冷たい汗が流れた。「死のごとき静けさが垂れこめ、いくつもの燃えるような視線に襲われる(コンデ2023:171)」と表現される食堂。それは、かつて人種間の結婚が違法だった南アフリカという国に、白人の夫と黒人の妻としてコンデ夫妻が食卓についていることへの反感であったのかもしれない。コンデは自分を取り巻く白人、黒人双方の目に、深い敵意と憎しみがあることを読み取った。

 

 コンデはクレオール作家と称されることが多い。「クレオール」とは、ある土地に新たに運ばれた種がそこで次世代を誕生させた時、その新しい世代のことを意味する。人間世界でいえば、新大陸や植民地圏で生まれた白人および黒人を指し、やがて彼らの習慣や言語を含めた世界を意味するようになった(3)。それをふまえたうえでコンデ研究の第一人者である大辻都は、クレオール作家という枠組みには収まらない魅力と意味をコンデは備えているという。彼女が女性であり、それゆえに、歴史的にヨーロッパ男性の性的興味の対象としてその視線にさらされてきたカリブ海の女性自身が書き手に転じ、クレオール社会で見落とされてきた女性世界を描いてきたこと、そこに非常に大きな意味があるのだと(4)。

 

 それをふまえると、南アフリカでコンデが流した冷たい汗には、クレオールであること、黒い肌をしていること、そこに向けられる視線への恐れだけでなく、女性に向けられた世間からの理不尽さのようなものに対する戸惑いや悲しみも含まれているように思えるのである。

 

2025年、南アフリカにて「融和」の料理を味わった夜

 私が南アフリカを訪れた2025年、プレトリアの大学で民俗生物学を教えているキャシーと、彼女と旧知の仲である私たちの研究リーダーは再会を喜び合いながら、かつてと比べてプレトリアの治安が格段に良くなったことについて話していた。ヨハネスブルクの治安は今なお非常に厳しいが、プレトリアでは駅に銃を持った警備員を配置しなくてもよくなったのだという(写真2)。今回の旅で私は生と死が重なり合うような南アフリカの風景を直接的に実感することはなかったが、コンデの文章を通して歴史の地層を知り、その風景とかつてそこに生きた人びとへと思いを馳せるようになった。連発銃で武装した警備員について、コンデは次のように描写している。

 

警備員はほぼ決まってフランス語を話すコンゴ人かルワンダ人だった。彼らは歩道に座り、ミントティーを淹れ、小エビのベニエ(衣揚げ、筆者注記)を食べていた。ザ・ラスト・リゾートの警備員はカディマという名前だった。わたしはときどき、彼と会話のようなものを試みた。彼は数年来対立する三つの軍隊に虐げられた地元の地区の惨状を詳細に教えてくれた(コンデ2023:179)。


写真2 プレトリア駅周辺の風景(2025年5月撮影)
写真2 プレトリア駅周辺の風景(2025年5月撮影)

 

 大辻はコンデの作品群を「渡りの文学」と名付けた。先祖のルーツであるアフリカ、生まれ故郷のカリブ海、教育を受けたフランス、作家としての仕事に打ち込んだアメリカなど、自身の生と運命に導かれるように時空を広く旅しながら思索を深め、創作し続けてきた作家への敬意が込められた秀逸なネーミングだと思う。

 

 旅をしながらコンデが発見したことは、外国と自国との違いは文学や音楽だけではなく、何より料理が違っているということ、そして、どんなに困難な状況や理解しがたい他者と向き合ったときも、料理だけは疑うことができないという実感だった。未知の世界や他者を知り、やがてそれが信頼へと届く時、そこにはいつも料理があった。

 

 コンデの作品群の中心に『料理と人生』を置いてみると、彼女が描いてきたのはクレオール世界とそこに生きた女性たちというだけでなく、それをも包摂するような「料理」をめぐる日常の思想と、見落とされてきた他所者や異邦人を含めた数多の人びとの人生でもあったことが浮き彫りになる。そうした人びとの断片的な声の連鎖によって語り継がれる物語の特徴から、コンデの作品は「微弱なポリフォニー(多声性)」によって紡がれる小説と評される(大辻2013:321)。奇しくも私自身、『焼き芋とドーナツ』(5)という作品の中で多声によって成り立つ歴史叙述について言及していることを思い出し、学芸と文芸が共鳴する結節点としての「料理」や「食」の可能性を垣間見たような気がした。

 

 2025年に訪れた南アフリカのある夜、私はハマクヤという農村近くの地元の食堂に足を運んだ。食堂のテレビは南アフリカのマラポーザ大統領とアメリカのトランプ大統領の直接会談のライブ中継を報じていて、私たちは地元の人たちと一緒にしばらくそれを眺めていた。その時に私が食べていたのがトウモロコシの粉を蒸したパップとチャカラカと呼ばれる豆と野菜の煮込みだった(写真3)。それはコンデが「黒人と白人を融和に導く、南アフリカの郷土料理とも言うべき料理」と綴った一皿であった。果たしてそれは、実現されているだろうか。私は今、あらためてその味わいを複雑な心境で思い出している。


写真3 パップ(右奥)とチャカラカ(右手前の右側)(2025年5月撮影)
写真3 パップ(右奥)とチャカラカ(右手前の右側)(2025年5月撮影)

 


【参考文献】

(1)マリーズ・コンデ著、大辻都訳『料理と人生』2023年、左右社。

(2)未邦訳。本稿では英訳版を参照した。Maryse Conde, Richard Philcox(Translated), Victoire: My Mother’s Mother. ATRIA International, New York, 2010.

(3)今福龍太『クレオール主義』2003年、ちくま学芸文庫、219-220頁。

(4)大辻都『渡りの文学―カリブ海のフランス語作家、マリーズ・コンデを読む』2013年、法政大学出版局。

(5)湯澤規子『焼き芋とドーナツ―日米シスターフッド交流秘史』2023年、KADOKAWA。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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