台所文芸論―生と死をめぐる食卓 第1回
- 湯澤規子
- 8 時間前
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湯澤規子
バオバブの実―『星の王子さま』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
南アフリカ北部の小さな農村の台所でバオバブの実を食べた。
それは分かりやすくはない味で、酸っぱく、甘く、淡く、ほろりとほどけて、硬い種のまわりにはいつまでも舐めていたいような優しさがあり、しかし刺激的でもある不思議な味わいだった。村に暮らす女性たちの人生に耳を傾けるフィールドワークをしている時、ある女性にすすめられて私はそれを口に含んだ。

出会ったばかりの時、村に暮らす40代のその女性は淡々と私の質問に答えているように見えた。しかし、新しく建てたばかりのチウール(シロアリ塚)を混ぜた赤褐色の土壁と草屋根の小さな家のことに話が及ぶと、「私が自分で建てた家なの。とても気に入っているのよ」と、彼女の表情は華やいだ。この村ではまだ、伝統的な家屋がいくつか残っており、その壁にはシロアリたちが巣をつくるために大地から掻き出した土や、牛糞が使われている。いわば、排泄された「死」が活用されて、「生」を守る素材となって暮らしを支えているのである。私たちの研究チームは、こうした生と死の「循環」世界のありようを知り、その意味を考えるために、世界各地へフィールドワークに出かけている。
案内されて入った小さな円柱型の家の中は、まるで彼女の秘密のアトリエであり台所だった。乾燥したシコクビエやメイズやいくつかの植物がブーケのように束ねられ、壁に控えめに飾られている。中央に置かれたテーブルには収穫した落花生がびっしりと網の袋に入れられ、大切に並べられていた。浅いたらいには、小さな種子が豊かに実ったシコクビエが保存されている。これでビールを作るのだと彼女は言った。そして、おもむろに「隣の家の人にもらったから」とバオバブの実を私たちに差し出し、食べさせてくれたのである。
はじめてアフリカを訪れた時に圧倒されたのは、このバオバブの木の存在だった。大地から太い幹を立ち上げ、枝は力こぶを見せるたくましい腕のようで、その先に繊細な小枝が無数に繁茂している。動物たちが憩い、鳥たちが巣をつくる。人間はそこに聖なるものを見出して畏怖し、頼り、物語を紡いできた。実を食べられるとは知らなかった私は、その種を蒔いて育ててみたい衝動にかられた。そして私は、フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの作品『星の王子さま』にバオバブの木が登場していたことを思い出す。「生」の源のように見えるバオバブの木が、王子さまが暮らす小さな星では星を「死」に至らしめる存在でもあるのだと書かれた一節と挿絵が印象的な、あの場面である。この村の土地では悠々と生きるバオバブの木も、私の小さすぎるキッチンガーデンでは庭かバオバブの木かどちらかが死んでしまうだろう。

いままで味わったことのなかったバオバブの実との出会いが象徴するように、私は南アフリカでたくさんの食べものと料理、そしてそれらを慈しむ人びとと出会った。乾季の日差しを遮って人びとに憩いの場を与える大きなマンゴーの木々、食べ頃のグヮバ、様々な柑橘類はこれから始まる長く厳しい乾季の暮らしを潤す頼もしい相棒になるのだろう。たわわに実る青パパイヤと香辛料で和えたアチャール、育てることに喜びと安心と誇りが宿るメイズミル(白トウモロコシ)、メイズミルを水と混ぜて炊き上げるパップ、食用バッタのヅェ、食用イモムシのマソンジャ、豆と野菜を煮込んだチャカラカは、小さな村の大きな「まかない力」を証明していた。畑や裏山にたくさんの作物、野生植物が生えていることが何より幸せだと多くの女性たちが語ったことは、その裏付けでもある。
彼女たちの声や言葉は「文字」だけでなく、かつては数え切れないほどの「唄」や「言い伝え」として村の暮らしを彩っていた。ヅェ採りの唄、マソンジャを得た喜びの唄、皆で共に畑を耕す鍬の唄。食べものを育てること、得ることの喜びを表現する「くらし唄」がたくさん存在することを知った。一方で、それらが急速に忘れ去られようとしていることも。スプーンカスタネット(ごく普通の2本のスプーンを背中合わせで鳴らす打楽器)で唄にジョイントすると、私にも彼女たちの暮らしのリズム、人生の息吹、彼女たちが息を合わせる大地の鼓動を感じられたような気がした。「今は年を取った人しか気にかけてはいないのだけれど……」と案内されたのは、村で「聖なる場所」と言い伝えられてきた湧き水の泉だった。水底から伝わる鼓動が水面に波紋を描きながら初秋の陽光をたたえて煌めいていた。
こうした食べものや人や唄、場所との出会いは、文字や数字に依拠しすぎた学術のあり方や大文字の経済を第一指標とするような世界理解の方法を相対的かつ批判的に見つめ直すことを私に迫っているようにも感じられた。日が暮れてから秋の風が届くホテルのフロントポーチで村での出会いや出来事を振り返る。南アフリカの人びとが親しむ「サバンナ」というリンゴの発砲酒やケープタウンで醸された安くて美味しいワインを飲みながら仲間と語り合ったのは、「文字や数にはならない」「小さくて」「目を凝らさないと見えない」あるいは「意図的に見落とされてきた」、しかし私たちが生きるうえで決定的に大切な何かを、どうすれば私たちの胸に抱きとることができるのか、ということだった。
同時に、私はその困難さにも気づいていた。南アフリカの小さな村で見た牧歌的ともいえる「生」の気配に満ちたその日常の裏には、長く続いた人種差別の痕跡、白人入植者と現地住民との圧倒的な格差、それが生み出す分断と葛藤と苦悩、その後の土地改革に伴う混乱が「死」の気配とともに黒々と横たわっている。それらも一緒に胸に抱えなければならないからだ。だからこそ、私がその意味を自分なりに料理し、咀嚼するには、マリーズ・コンデという作家とその作品とめぐり逢うことが必要だった。学芸に文芸を組み合わせるのは禁じ手という人もいるが、学芸が取りこぼしてきた世界を豊かに描き続けてきた文芸の力なくしては、「生」と「死」が入り混じる、この複雑で深淵な世界の淵にさえ立てないと思ったからである。
【参考文献】
サン=テグジュペリ著、内藤 濯訳『星の王子さま』2019年、岩波文庫。
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