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台所文芸論―生と死をめぐる食卓 第5回

  • 4 日前
  • 読了時間: 11分

更新日:2 日前

湯澤規子


三度豆の情動渦巻く台所―向田邦子『阿修羅のごとく』 


揚げ餅が食べたくなって

 新年を迎えたあとの一月のある日、揚げ餅をつくった。 

 

 お正月で食べきれなかったのし餅をさいの目に切って、二日ほど寒風に晒してひびが入ったところを油で揚げる。ジュワジュワと餅に熱い油が沁み込んでいく音と、香ばしい匂い、堪えきれなくなったようにプクッと膨れて鉄鍋の中でくるりと回る揚げ餅の愛嬌にしばし見惚れる。塩をふれば出来上がり。揚げた先から次々と手が出て無くなっていく、魅惑の食べものの一つだ(写真1)。


写真1 揚げたてに塩を振る。醤油を垂らしても美味しい。
写真1 揚げたてに塩を振る。醤油を垂らしても美味しい。

  

 揚げ餅を作ろうと思ったのには訳がある。 

 

 今年は年末年始をまたいで再読も含め積読になっていた小説や漫画を読むことにして、しかもその作品の中に描かれる季節に合わせて読んでいくということをやっていた。例えばクリスマスの頃にクリスマスの話題の場面を、お正月の頃にそういう場面を読むという具合なので、一気に読み進めることはできないが、不思議な共鳴体験みたいなものがあって楽しかった。さらにその作品がドラマや映画になっている場合には、映像作品も観た。二重三重にも同じ場面や台詞を感じられるような体験は初めてだったが、こういう読み方もありなのかもしれない、と悦に入る。 

 

 読んだ文芸作品のひとつが向田邦子の『阿修羅のごとく』で、そこに美味しそうな揚げ餅が登場する。だから揚げ餅が食べたくなった、という次第。竹沢家の四姉妹(綱子、巻子、滝子、咲子)が繰り広げる愛憎渦巻く情動豊かな家族物語に心惹かれるのは、私が三姉妹の真ん中、小説ではちょうど「巻子」と「滝子」のあいだのような存在だと自覚しているせいかもしれない。読み返すたびに、読んだ時の年齢ならではの共感がある。そこがこの作品に個人的に惹かれ続けている所以でもある。 

 1979年1月13日にNHKで第一回が放送されたドラマの台本がもとになって、小説や映画にも展開し、それぞれの時代を代表する女優たちが四姉妹を演じてきた。今年の正月は、各時代の映像作品の比較まで踏み込んだだけでは飽き足らず、台本を読んだ。 

 

鏡餅のひび割れと母の踵 

 最初の幕は「女正月」というタイトル。鏡餅を割って、揚げ餅を作る台所の描写から始まる(1)。揚げ餅が美味しそうなのは言うまでもないが、狭い台所にごちゃごちゃと集う姉妹の会話に向田邦子という作家の才能が結晶していると思うのは、きっと私だけではないだろう。手際よく料理することで知られる向田邦子が描く台所とその空気感の表現はとりわけ秀逸だと思う(2)。 

 

綱子「鏡開きって、今日だった?」 

鷹男「本当は、ヨイショ! 十一日だったかな」(3) 

巻子「なんでも、子供の時とおなじにやりたい人なのよ」 

綱子「男はみんなそうよ。うちだって、生きている自分は、一夜飾りはいけないとか、松の内は針持つな、とかもう――。ご大家様じゃあるまいし、ああ、面倒くさいってあたし」 

鷹男「死なれてみると、懐かしいでしょ」 

綱子「(笑っている)これ、油で揚げて、塩振るとおいしいんだ」 

巻子「この人も、それ目当てなのよ」 

綱子「あたし、手伝う!」 

(中略) 

滝子「お鏡じゃないの」 

巻子「ね、何か思い出さない? お餅のひび割れ、見て――」 

滝子「アッ!」 

綱子「お母さんの踵!」 

巻子「そうなのよ」 

滝子「それ、言いたかったんだ!」 

綱子「ねッ!」 

 餅のかけらを手にあっけにとられている鷹男。 

 

 台所(夜) 

たぎっている天ぷら鍋、中に、ひび割れた鏡餅が落とされ、金色に色づいて揚がっていく。巻子が揚げ、綱子がアミにとって、バットにあけ、滝子が、半紙を敷いた皿にとって、塩をかける。 

    三人、話のつづき――。 

 

 綱子「あたし、覚えてるなあ、お母さんが足袋、ぬぐ音」 

 滝子「夜ねる時でしょ、電気消したあと、枕もとで――」 

 綱子「足のあかぎれに、足袋がひっかかって、何とも言えないキシャキシャした音、立てンのよねえ」 

 巻子「どうして、あんなに踵、ひび割れてたのかしら。荒れ性だったのかなあ」 

 滝子「苦労したからよ。お母さん、食べるもの、食べない時期あったもの」 

 

 鏡餅のひび割れから母の踵を連想して騒ぎ出すあたり、絶妙としかいいようがない(写真2)。「台所で想起する母といえば、あの料理、懐かしい味」というようなステレオタイプの会話を軽々と超えて、やけにリアリティある描写が続き、読者である私の中から何かが引き出される。実家の台所で繰り広げられる会話といえば、こうした類のものだよなぁと思わせられ、身につまされるような気がするのである。 

 

写真2 餅のひび割れ
写真2 餅のひび割れ

  

 「母」は母であるまえに自分たちと同じ女であり、一人の人間である。きっと今の自分たちと同じ年頃の時には、折々の喜びだけでなく、悩みや葛藤、苦労もあっただろうことに想い至り、笑いさざめき合いつつ、それぞれが今の自分に照らして、ふと何かを考えている。 


 会話の端々に、間接的に女のからだと心情を想起させる艶っぽい行間が散りばめられているところにも惹かれる。そう思うのは私だけだろうか。いや、少なくとももうひとり、共感してくれる人がいるとわかった。出版された台本や小説を確認しても見当たらないが、2003年にリメイク公開されたドラマでは、揚げ餅を揚げる場面に、綱子「女の踵見ると、殿方にご無沙汰しているってわかるんだって」、滝子「どうして?」、綱子「ご無沙汰だと、磨かなくなる」という台詞が加えられて、台所で巻子と滝子が密かに自分の踵をもう片方のつま先で触って確かめるという場面が差し挟まれている。きっと2003年版の監督森田芳光氏もこの場面の台本の行間に、女のからだと心情のゆらぎが生み出す艶を連想したのだろう。 

 

勝手口で吐露される本音 

 私は『阿修羅のごとく』の中でこの場面が一番好きなのだが、それは姉妹同士の会話の中に、生身の人間の取り繕いきれない心情が見え隠れするからなのかもしれない。建て前で飾った「玄関」ではなく、「勝手口」で吐露される本音のようなもの。台所に渦巻く女の本音のようなもの。それは確かにあるのだけれど、そういう世界は学術ではなかなか上手く伝えることができない。測ったり、数値にしたり、再現したり、形あるものとして見せることができないからである。 

 

 綱子、巻子、滝子の三人がひとしきり台所で、文字通り姦しく話した後、末の妹咲子が合流し、揚げ餅の大皿と番茶が載った食卓を囲んである相談が始まる。 

 

 滝子「お父さん、面倒みてる人、いるのよ」 

 

 穏やかに暮らしていると信じていた実家の父と母。その父に愛人がいるかもしれないという話から、四人姉妹は色めきだって、笑い、動揺する。この会話に滲む「色」とは、決して他人事ではなく、姉妹それぞれがのっぴきならない人間関係、とくに男と女のあれこれをめぐる自分事にも反転しつつ、物語は四姉妹それぞれの人生にも波及しながら展開する。華道の先生をする未亡人の長女綱子、主婦の次女巻子、独身の図書館職員の三女滝子、ボクサーと同棲する四女咲子。それぞれが内側にもつ複雑な「事情」と「心情」が絡み合う。それはまるでインドの民間信仰上の魔族「阿修羅」のごとき様相だと、向田邦子の軽妙な筆致は女という存在をその心情をも含めて立体的に描き出すのである。 

 

「情動」を含めたオルタナティブ・ヒストリー 

 台所や勝手口の本音の世界について、学術研究としてはどのように論じることができるのだろうか。どのように、という前に、そもそも論じることはできるのだろうか。ちょうど先日、偶然というべきか、必然とみるべきか、ある学会のシンポジウムに招かれて、この問いに直面することになった。シンポジウムのテーマは「生活文化」で、私は「食をめぐる生活文化」について報告することを担当した。これまでの研究で語られてきた「食をめぐる生活文化」とは、いわゆる「食文化」と言い換えられ、食材、調理法、調理道具、行事、食制、食器などを対象、指標として語られることが多かった。台所もしかり。調理をする空間としての構造や道具の配置が研究対象になったとしても、学術としてはそこに渦巻く心の動きまでをくみ取ることはない。 

 

 以前私がこの連載で論じた「漬物」をめぐる義母の想いや女性たちの思念のようなものは研究の対象にはなってこなかった。だから、例えば揚げ餅を揚げるという調理技術やそれを食べるという行為自体を客観的に記すことができても、向田邦子が生き生きと、そして生々しく描いたそこで繰り広げられる姉妹たちの会話の意味をくみ取ることはできないのである。それは、文芸的な魅力があったとしても、学芸的には無意味と見なされてきた「ノイズ」だからである。 

 

 けれども、そこにこそ人間存在の何か大切なものが宿っているのではないか。そんなことを考えながら、私は各地域で引き継がれてきたレシピに付帯して記録された人びとの声やメモ書きのような部分に焦点を当てた報告をした。それゆえだろうか。報告を聞いた同僚がアフターセッションの時にひと言、「湯澤さんが議論したいのは、つまり『情動』の世界なのではないか」と言ったのである。まさにその通りだと思った。会場はどよめきつつも、これまで切り捨ててきた「情動」を学術分野でも議論していくべきなのではないかという合意のようなものが感じられ、私はあらためて自覚的に「情動」を学芸の中で受けとめるにはどうすればよいだろうかと考えるようになった。 

 

 人間理解に届くようにと誕生した「行動科学」という分野があるが、文芸に学ぶ「情動科学」への拡張は新しい学問の可能性になるかもしれない。さらには、「科学」という枠組みさえも脱ぎ捨てる必要があるのかもしれない。「情」にはたくさんの熟語がある。愛情、友情、感情、情景、表情、人情、情緒、私情、詩情、慕情、情熱、温情、同情、無情、情念、旅情、叙情、純情など。それらはいずれも文芸には親和性があるが、学芸には縁遠い。 

 

 西洋近代の学問には理性や意識を中心に物事を語り、客体となる対象を理性的、また意識的に観察する主体という構図があり、それが科学的な記述を支えてきた。その範疇では、阿修羅のごとき情動など、到底論じることはできないのである。ところが、西洋近代的な枠組みの学問の限界が反省されることに伴って、昨今は「情動」という概念が注目を集めるようにもなっている(4)。局所的、あるいは限定的な理性の範疇に収まらない現象や事象を、「情動」という概念を通してまなざすことで、理性が支配的になっている言説に対する「オルタナティブ・ストーリー(代替となる物語)」を語り得るという柿並・難波の主張を援用すると、「情動」を含む歴史研究はオルタナティブ・ヒストリーとして論じることができるかもしれない。ここにも文芸と学芸との接点とその可能性が垣間見える。 

 

三度豆たち 

 ところで『阿修羅のごとく』の第二幕のタイトルは「三度豆」という。 

 「三度豆って知ってる?」私が尋ねると、母は「知ってるよ。インゲン豆のことやろ。年に三回穫れるから三度豆っていうんやなかったっけ」と答えた。第二幕には次のような印象的な文章がある。 

 

姉妹というものは、ひとつ莢の中で育つ豆のようなものだと思う。大きく実り、時期が来てはじけると、暮しも考え方もバラバラになってしまう。 

 

 三度豆姉妹が台所に集うと、ばらばらの暮しの悲喜こもごもと、それらをめぐる心情が交差して絡み合う。だから、できればそこには揚げ餅を作る作業とつまみ食いする遠慮のなさと、鏡餅のひびをめぐる思い出と切なさと笑いがあって欲しい。向田邦子が描く台所とは、そういう世界なのである。話題をずらしながら、笑いながら、手と口を動かしながら、じつは深刻な心情を密かに打ち明け合う場所。 

 

 と、格好よく書いてみたものの、あえて構えずとも、だいたいそういう雰囲気がいつも台所には漂っている。今年もおせちをみんなで作る日に三度豆の私たち姉妹が持ち寄ったのは、日々の喜怒哀楽とそれにまつわる愚痴と笑いと少しの猜疑心と受容と納得だったのだから(写真3)。おせちを作るという行為は、神様のためとか、家族のためとか、伝統だからというのではなくて、本音のところでは、いろいろあった一年の話を持ち寄って、阿修羅のごとき己の姿と情動をひとまずわが身に受け容れるための口実、そのついでの作業なのだというような気もするのである。 

 

写真3 実家に集まって姉妹と母とおせちを作る 
写真3 実家に集まって姉妹と母とおせちを作る 

 

 そんなことを考えているうちに、今回あらためてタイトルについて気づいたことがある。「阿修羅のごとく」には、女たちに明確な意思と主観が備わっている。蛇足と承知で言葉を補えば「阿修羅のごとく生きる女たち」となるからである。主体はあくまでも女たちである。一方、例えばそれを「阿修羅のごとき」とした場合、「阿修羅のような女たち」となり、客観的に女たちを説明することができても、それと引き換えに女たち自身の声は後景に退いてしまう。主体は女たちを観察する書き手にある。だから、学術表現としては後者が選ばれるだろう。後に動詞がくるか、名詞がくるかで物語る主体が大きく変わる。向田邦子が描きたかった台所とは前者の世界だ。それが「ごとく」という表現に凝縮されているように思うのである。年の始まりに揚げ餅を揚げながら、そんなことを考えていた。 

 



(1)向田邦子『向田邦子シナリオ集Ⅱ 阿修羅のごとく』2000年、岩波現代文庫。 

(2)向田和子(著、監修)『向田邦子の手料理』1989年、講談社。 

(3)鷹男は巻子の夫である。 

(4)柿並良介・難波阿丹編著『「情動」』論への招待―感情と情動のフロンティア』2024年、勁草書房。 

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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