凪のめぐる 第9回
- 3 時間前
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光の縁側
岡庭璃子
一般財団法人水俣病センター相思社の職員である永野三智さんに話を伺うため、相思社へ向かった。
道は次第に細くなり、住宅街を抜けていく。車窓から見える、やけに大きなサボテンや、電信柱に目をやっていると「水俣病センター相思社」の看板が現れた。看板のある坂を右折すると、急な坂道になり、坂の途中のスペースに車を停める。
車を降りて、繁茂した木々の間の細い道を抜けると高台に出た。中央に佇む大きな木の影に立つと、不知火海に浮かぶ島々がよく見えた。海は煌めき、風が抜け、黒いアゲハ蝶がひらひらと舞っている。
相思社は、水俣病第一次訴訟の原告たちの拠り所として1974年創設された。寄付や維持会費、地元の農産物の販売などの利益によって運営され、現在も水俣病患者の相談窓口であり続けている。永野さんはここで、患者やその家族の抱える悩みに向き合おうと日々努めている。
チッソは今も水俣の経済を回す大切な役目を担っており、多くの人が働き、工場は稼働し続けている。一方で、水俣病に罹患した方達はいまだ肩身の狭い思いをし、「自分は水俣病だ」と打ち明けにくい状況が、水俣病公式認定から七十年を目前に現在も続いている。国の認定は厳しく、心身ともに苦しみを抱えながら生きている人が、今も数多くいる。相思社を訪れる人のなかには、家族にさえ打ち明けられない思いを抱え、勇気を振り絞って訪れる人もいるという。
敷地内にはもう一つ、水俣病歴史考証館という建物がある。そこには、水俣病に関する資料をはじめ、不知火海で使われていた漁具、チッソと患者が結んだ見舞金契約書の写し、原因究明期に「ネコ実験」に用いられた小屋、水俣病闘争の際に使用された「怨」の文字が白で染め抜かれた黒旗、水俣湾に堆積した水銀ヘドロなどが展示されている。「資料館」ではなく「考証館」としているのは、患者たちが、水俣病はまだ終わっておらず「考え続けられる場所にしたい」といい、考え証していく「考証館」という名前にしたのだという。
さまざまな人が、さまざまな思いを抱えながら、この相思社の坂を登ってくる。
到着してほどなく、永野さんが現れた。打ち合わせや宿泊に使われている日本家屋の縁側に通される。蚊が来るからと置いてくれた蚊取り線香の匂いが漂い始め、永野さんは静かに話しはじめた。
2003年、溝口秋生さんが提訴した溝口訴訟を知った。溝口秋生さんは、永野さんが幼い頃に通っていた書道教室の先生である。学校嫌いの永野さんにとって溝口先生は学校の先生以上に「先生」であったという。しかしその裁判で初めて、溝口先生の母親が水俣病で亡くなっていたこと、そして先生の息子も胎児性水俣病であることを知った。身近にいた人の、知らなかった事実。そのとき、自分が無意識のうちに水俣病を見ないようにし、知らないままでいようとしていたことに気づいた。
永野さんは、溝口先生の裁判を応援するため、そして自分自身と向き合うために水俣へ戻り、相思社に入った。永野さんは、少し考えながら、こんな話をしてくれた。水俣病について学び、患者と触れ合うなかで、ようやく真正面から向き合えるようになった。しかし、患者と向き合うなかで、どうしても苦しくなってしまったことがあったという。目の前にある痛みに、何もできない自分が情けなくて、泣きたくなった。その気持ちを、石牟礼道子さんに打ち明けると、石牟礼さんは「悶(もだ)え加勢(かせ)すれば良かとです」と答えてくれた。むかし水俣では、苦しんでいる人がいると、その人の前を行ったり来たりして、ただ一緒に苦しむ、そんなことがよくあった。そうするだけで、その人が少し楽になることもあるのだと。永野さんは、その言葉を聞いて、何もできない自分を責めるのではなく、目の前の痛みに寄り添っていこうと思った。ともに悶え加勢する人が増えることが、患者の力になるかもしれない。永野さんの言葉は、一つひとつ、感情を確かめるように選ばれているようで、迷いを含みながらも、まっすぐで、強く、そしてどこか明るさを帯びていた。
蚊取り線香のけむりが縁側に注ぐ穏やかな光に照らされ、ゆっくりと立ちのぼる。少しずつ日が傾いて縁側に影が落ちる。 相思社のスタッフの辻よもぎさんが黄色い彼岸花を持って帰ってきた。
「相思社によく来る患者のおばあさんに、いまは彼岸花がとっても綺麗だから、少し摘んで妹の位牌に生けて欲しいと頼まれて」
そう言って縁側にあるシンクの中で花瓶に彼岸花を生ける。夕日が真っ赤に燃えて彼岸花が黄金に輝いている。相思社の敷地には水俣病で亡くなった患者の位牌や石仏、エコパークの親水護岸にあった魂石(たましいいし)のようなものもある。水俣病で亡くなった方、その家族が憩うための場所でもあるのだ。
気がつけば縁側に差し込む光はもうなくなっていて、急に肌寒い。夜がもうそこまできている。永野さんは知り合いのやっているレストランで打ち合わせがあるというので、そこまで車で送ることになった。そうしてレストランに到着すると、ある人を紹介したいからと中に招き入れてくれた。
そこには車椅子に座って介助を受けながら夕飯を取っている方が二人。
重度の水俣病の方と話をするのは初めてで、突然のことだったので、どうしたらいいかわからなくなってしまった。
「こんばんは」と挨拶はできたが、その先の言葉が見つからない。取材の目的を語ることに違和感があった。何かを伝えようとして頭に浮かんだのは、水俣で見た景色や出会った人々の記憶だった。海のきらめきやひらひらと舞う黒いアゲハ蝶、黄金色に輝く彼岸花、水俣病によって重い症状を抱えながら生きる人、それを介助する人、差別をした人、された人、裁判を起こした人、起こしたくても起こせなかった人、症状がありながらも世間体のために言い出せずにいる人。
前に進まなくてもいい、わからない感情があったっていい。ただ、今の水俣をまっすぐに見て、記していく。理解できないからと目を逸らすのではなく、わからないものは、わからないままに写しとればいい。それは、何かを解決するためでも、答えを出すためでもない。ただその場に立ち、逃げずに、共に在ろうとすること。縁側で聞いた「悶え加勢する」という言葉が、ふと思い出された。
「また来ます」と伝え、レストランをあとにした。




溝口訴訟*
溝口秋生さんが、母・溝口チエさんの水俣病認定申請に対する棄却処分の取り消しを求めた一連の行政訴訟。チエさんは熊本県水俣市周辺で生活し、1974年に水俣病の認定申請を行った。熊本県が実施した検査は眼科および耳鼻科に限られ、水俣病の判断に重要とされる神経内科や精神科の診察は行われなかった。チエさんは1977年に亡くなっている。
申請後、長期間にわたり認定の可否についての判断は行われず、秋生さんは県に対し、かかりつけ医の診療記録の調査や認定手続きの進行を求めて、電話での問い合わせや水俣病相談事務所への訪問を続けた。しかし、熊本県が改めて調査に着手したのは、チエさんの死亡から17年後の1994年であった。この時点で、かかりつけ医はすでに廃院しており、診療カルテは保存されていなかった。
1995年、熊本県は「十分な検査が行われておらず、民間医療機関のカルテも存在しないため、水俣病かどうかを判断する資料が不足している。資料不足の場合は棄却とする」として、チエさんの認定申請を棄却した。検査や調査が長期間実施されなかった結果として資料が失われたにもかかわらず、その不利益は申請者側に帰される判断であった。
秋生さんはこの棄却処分を不服として行政不服申立てを行ったが、2001年に棄却された。これを受け、同年、棄却処分の取り消しを求める行政訴訟を提起した。第一審では県の判断を是認する判決が出されたが、控訴審である福岡高等裁判所は2012年、チエさんの生活歴や症状経過などを総合的に評価し、熊本県の棄却処分を違法と判断した。
この高裁判決に対し熊本県は上告したが、最高裁判所は2013年、高裁判決を支持し、県の上告を棄却した。これにより、チエさんを水俣病患者と認定すべきとする判断が確定した。
この訴訟は、水俣病を過去の公害事案としてではなく、現在における被害認定と救済の問題として司法が判断した事例の一つである。


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