凪のめぐる 第8回
- 1月26日
- 読了時間: 6分
美しい背中
岡庭璃子
不知火海の漁の光景を見てみたい。私たちの無鉄砲な思いつきは、様々な方の協力によって実現することとなった。
教えてもらった湾の名前をスマホに打ちこみ、指し示された場所に向かう。どの道を辿れば良いのか分からず、細い道を入っては行き止まり、バックで引き返し、集合時間を少し過ぎた頃、ようやく目的の船着場にたどり着く。コンクリート護岸で作業している小柄な女性の姿が見える。場所を聞こうと車を寄せると、奥の方に停められた船に男性が立っていた。辻潤さんだ。その手前で作業をしていたのが、パートナーの佐々木郁江さんだった。
車を降りて挨拶をすると、2人は少し照れたように笑い、「今はなかなか魚が獲れなくて、漁というには恥ずかしいんですけどね。海の上の案内だと思ってください」と言って、船へと案内してくれた。
船が護岸を離れる。エコパークの親水護岸から見えた恋路島が、ゆっくりと近づいてくる。昇り始めたばかりの太陽の眩しさが、海面を金色にきらめかせている。ガソリンと潮風の混ざる匂いがみぞおちのあたりに違和感を与える。
佐々木さんが海上に浮かんでいるブイを手繰り寄せ、仕掛けの網を海から引きあげる。前日に網を仕掛けておいてくれたのだ。船の巻き上げ機に網を噛ませ、レバーを引くと、モーターが唸りをあげて網を巻き上げていく。チラホラと魚の姿が見える。佐々木さんは網にかかった魚を外しながら一瞥し、生簀に投げ入れたり、海へと投げ返す。潤さんが巻き上げられた網を絡まないように整頓していく。2人の体に染み付いた独特のリズムが流れる。私たちはそれを後ろからじっと見つめていた。
「これはもう死んでるから、売り物にはならんですね」
昨今は海水温が上昇し、前日の夕方に仕掛けた網にかかった魚は、翌朝には死んでしまうことが多いのだという。話している間に船に上がったマゴチはすでに息をしていない。
「今はもう、漁師は60人ほどですね。出水(いずみ)アジっていう高級な真アジが獲れれば、1キロ7000円くらいで売れるけど、そんな魚を狙ってやっと食っていけるくらい。漁だけで飯を食ってる人は、数えるほどです」
潤さんの声は穏やかで、恵比寿さまのような満面の笑みがとても印象的だった。潮風の中に、船のエンジンの音が響く。
仕掛けた網を引き上げるかたわら、話を聞かせてもらった。
潤さんは香川県の出身で、学生の頃に水俣病のことを知り、水俣を訪れたのがはじまりだという。やがて相思社に通うようになり、「うちの職員にならないか」と声をかけられたのをきっかけに、相思社で働きはじめる。そこで出会った人々と海に惹かれ、娘のよもぎさんが生まれた頃に相思社を離れ、漁師の道を選んだ。長崎の海で漁をしていた時期もあったという。
パートナーの佐々木さんは岡山県生まれ。大学を卒業後、縁があり水俣へ来ることになる。そこで潤さんと出会い、一緒になる。潤さんが長崎から引き上げ、水俣で再び漁を始めることになったとき、佐々木さんも漁を手伝うようになったという。
「戦争のときは、魚が増えるんです」と潤さんが言った。
「船が出られんから。人間に獲られないから増えるんです。皮肉ですよね。水俣病のころはちょうど戦後のそんな時だった。あのころは漁協にたくさん漁師がおって、『魚(いお)湧く海』って呼ばれとった。みんな、漁だけで食べていけたんです」
船の操舵輪を握り、風を読みながら、潤さんは陸に向けて船を走らせる。
網を引き上げる潤さんと佐々木さんの背中を見て、石牟礼道子「苦海浄土」の「ゆき女きき書 五月」が思い出される。
「晩に一番思うことは、やっぱり海の上のことじゃった。海の上はいちばんよかった。春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。うちたちの海はどんなにきれいかりよったな。
海の中にも名所のあっとばい。『茶碗が鼻』に『はだか瀬』に『くろの瀬戸』『ししの島』。
ぐるっとまわればうちたちのなれた鼻でも、夏に入りかけの海は磯の香りのむんむんする。会社の臭いとはちがうばい。
海の水も流れよる。ふじ壷じゃの、いそぎんちゃくじゃの、海松じゃの、水のそろそろと流れてゆく先ざきに、いっぱい花をつけてゆれよるるよ。
わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。
ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。
海の底の景色も園の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。」「ゆき女きき書 五月」—石牟礼道子 著—苦海浄土—わが水俣病より
これは石牟礼が初めて水俣病患者について書いた、坂本ゆきという女性についての文章である。水俣に住む茂平のところに天草から嫁いできたゆきは働き者で、漁師としても優秀で、2人で漁に出ていた。嫁いで3年くらいするとだんだんとゆきの様子がおかしくなり、漁に出られなくなってしまう。痙攣がとまらず、発する言葉も途切れ途切れになり、悪化してついには病院で寝たきりになってしまう。そんなゆきが病床で晩に思い出すのは水俣の海の風景だった。ゆきの病状が深刻になればなるほどに海の描写は力強く臨場感を持って瑞々しく紡がれていく。苦海浄土の中にはそんな哀しみの中にある美しさで溢れている。潤さんと佐々木さんの背中にもそれを思わせるものが確かにあった。
数か月後、潤さんはクモ膜下出血で急逝した。その知らせを聞いたとき、あの朝の光景がすぐに蘇ってきた。
船の航行によってだんだんと大きくなる恋路島、エンジンの音、ガソリンと潮風の混ざった匂い、眩しい太陽と海面のゆらめき。魚を掴んで離す佐々木さんと網を引く潤さんの背中のリズム。
同じ時間が二度と繰り返されることがないように、光もその一瞬に表れ、繰り返されることはない。光景とはそういうものである。
翌年、再び水俣に取材に訪れた際、娘のよもぎさんに渡そうとその写真を持参した。近くを水俣川が流れる老舗の飲食店で待ち合わせをした。写真を渡すと、よもぎさんは静かにじっと写真を見つめて、
「ありがとうございます」と言った。
そして、少し間をおいてからこう話してくれた。 「父は3台船を持っていたんですけど、2台は引き取ってもらって。1台は残してあるんです。母も船舶の免許を取って、たまに2人で船の操縦の練習をしています」
「いつかよもぎさんと佐々木さんの船に乗らせてください」とお願いすると、
「いいですよ」と返してくれた。
店を出ると、風が少し冷たくなっていた。帰り道、私は船を操縦するよもぎさんの背中を想像しながら歩いた。やはり思い出されるのは石牟礼の紡いだ水俣の海、ゆきの中の美しい海の風景である。







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