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凪のめぐる 第6回

風の味

岡庭璃子



水俣の案内人、遠藤さんと別れて天の茶製園へ向かう。くねくねとした細く長い坂道を車で進み、辿り着いた頃には太陽はすこし傾いていた。


看板もなく、通り過ぎてしまいそうな茶園の入り口に立つ天野さんの笑顔を見てこちらも思わず笑みが溢れる。

抜けるような空と昼下がりのからっとした陽の光は天野さんの日焼けした肌をより一層引き立ててみせた。


案内された庭園のテーブルには軽食が用意されていて、ベンチに座って待っていると天野さんが温かいお茶を淹れてくれた。金色の透き通ったお茶からは、ジャスミンのような香り。農園を手伝いに来ているという大学生の岸さんと近所の人と一緒に机を囲み、一息つくと、じんわりと広がる茶の味に喉が渇いていることを自覚するのであった。


天野さんの軽トラに乗って、農園へ向かう。山道を進むと見晴らしの良い広大な茶畑が車窓いっぱいに広がる。海抜500メートルの飛石高原にあるこの土地は水俣川の源流に程近く、水俣の町の人々が飲み水を採る場所よりも上流にある。よく風が抜け、石が飛ぶほどなのでこの名前がついた。


「風が味を作るから、風味、というんですよ」と天野さんは言った。


「お茶の大会に出すお茶は台風の日の翌日に刈りとったりするんです。強い風にさらされたお茶は甘味が増して、いい味になるんです。」

風や雨、雪、気温の変化などの適度なストレスがお茶のおいしさを強くするのだという。

風の通り方は土地の形状によって異なる。海に面して風の通りがいいところや、そうでないところ、風がたまるところ。風の影響を受けてお茶の味が変わるため、品種が同じでも植えてある場所で名称を分けている。土地に沿って綺麗に刈り取られた茶畑はまるで風のかたちを見ているかのようだった。


お茶はたいてい苗から育てるのが一般的である。しかし、天野さんの祖父、天の茶製園の一代目は種からお茶を育てた。今もそのお茶の木は残っており、苗から育てるよりも根っこがしっかりしていて強い。「葉脈を見ると木の根っこがどうなっているのかわかる」と天野さんが葉っぱを一枚ちぎって見せてくれた。目には見えない地中の世界の情景が葉脈に写し出されている。そしてそれは川の構造と似ているという。川の源流が根っこの先端で、本流に降っていくにつれて徐々に太くなっていき、最後は海へとたどり着くのだ。水俣川の上流にあたるこの茶園で農薬や化学肥料を使うことは水俣の町の飲み水を汚すことでもあるのではないかと疑問を持ち、農薬はもちろん化学肥料も一切使っていない。


一般的な茶畑は色や形がきっちり整っていて、綺麗なところが多い。

「農薬や化学肥料を使うと色も見た目も綺麗なお茶ができます。害虫もつかないし、雑草も生えないから管理がしやすくなるというのもあるけど、一番はお茶の価値を決める品評会の時に葉っぱの形や色で値段が決められてしまうから、農家の人たちは農薬を使っているんです。それもまた生きるためであるということはよくわかるんです。でも形は綺麗でなくても、農薬や化学肥料を使っていないお茶の方が、私は幾分も豊かに感じるのです。農薬や肥料を使わないとなると雑草も生えるし、管理も大変です。育つスピードもまちまちなので、丁寧に人の手で摘まなければならない。でも、そのことの方が豊かで価値のあることだと、わかってもらえると信じています」


目に見えないものに対して人はどれだけ想像できるのか。そして思いを馳せ、行動に移すことができるのか。

お茶の色や形を美しくするために使用した農薬も、お茶の味を美味しくする風も、強く生きる糧となる心の中にある大切な一言も、チッソが流した排水の中の水銀も、目には見えないがそこに確かに存在する。


目に見えることだけがこの世界を形成しているのではない、という当たり前のことを私たちはよく忘れてしまうよな、と風のかたちを目でなぞり、思った。


軽トラに揺られながら事務所に戻ってから、天野さんが今見てきたお茶を6種類振る舞ってくれる。渋みや甘み、苦味、スモーキーな感じ、ウーロン茶みたいな感じ、複雑な酸味。喉を通る温かいそれを流しながら私は見えない風のことを思っていた。


見えないけれど思いを馳せること。

太陽はもうだいぶ低くなり、大きく広がる空を橙色に染めていた。







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