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凪のめぐる 第7回

ここが海だったとき

岡庭璃子



吉永理巳子さんにお話を伺うため、明神町にある自宅に訪れた。車のナビを入れていくぶん迷ったあと、たどり着いた目的地には見たことのある景色が広がっていた。この場所は昨年水俣を訪れた際に、遠藤邦夫さんに案内してもらった水俣資料館の裏にある水俣メモリアルのある岬だ。イタリアの建築家の作ったオブジェが水俣の家屋とミスマッチでよく覚えている。手前の家の屋根の向こうには、先のとんがった矢筈岳の稜線がよく見え、そこから反対を向くと不知火海に浮かぶ御所浦が広がっている。不知火海からの風が畑に植えられたローゼルの葉を揺らしている。

 

吉永さんの家はこの岬の端に立っている。吉永さんに挨拶をすると、どうぞこちらへと案内してくれた。玄関を通り過ぎて下り坂になった細い脇道を曲がったさきの裏庭には立派なアコウの木があり、その隣からはエコパークという運動場が一望できる。岬は見晴らしがよく、テニスコートや運動場でスポーツに勤しむ老若男女の姿がよく見える。ダブルスでテニスをする壮年ら、スケートボードの練習をする少年、ランニングをする女学生たち。ホイッスルや、審判の声、スチールバットが弾くボールの乾いた音。その様子は、かつてこの運動場が海だったことを微塵も感じさせない。

 

エコパークはメチル水銀を含んだヘドロと汚染魚たちによる埋立地だ。

水俣病は、1968年に政府によって「公害」と認定されたが、メチル水銀を含んだヘドロは海底に放置され続けていた。1973年、不知火海に隣接する有明海で「第三の水俣病」が報告されたことを契機に、熊本県は対応策として総水銀濃度25ppmを上回る低質ヘドロを浚渫移送し、およそ60ヘクタールの海を埋め立てた。その際には捕獲された汚染魚も2500本のドラム缶に詰め込んで埋め立てられた。そうして1990年にエコパークが完成した。

 

以前は両側が海に面した岬で、石段を降りると砂浜があり、そこでは子供達が巻貝や牡蠣を獲っておやつとして食べながら、親が仕事から帰るのを待った。およそ200万年前の噴火による溶岩が作り出した地形から、山に降った雨が水俣湾に清流となって流れこむ。そのためもあって「魚(いお)沸く海」と呼ばれるほど豊かな海で、漁師であった吉永さんの祖父は庭のアコウの木に登って魚の群れを探した。しかし、今はもうその海も見えない。

 

「ここが海だったときの思い出のほうが強いから、どうしても夢に出てくるのも海なんです」

アコウの木の葉っぱの茂みの間から見えるテニスコートを眺めながら吉永さんは話し出した。

「9月のお盆どきにエコパークにある親水護岸で水俣病の犠牲になったすべての命を祀るっていう火のまつりをしています。最初の火のまつりの年に石牟礼道子さんと一緒に白装束の衣装をまとって、土地を清めるっていうのをしたんです。私も一緒に巫女をしました。その祭りの前日に夢を見たんです。そこは海で、私はその上の空を飛んでて、鳥かなんかになったつもりの夢だったですよね。そしたらね、ボコボコボコボコ下から砂が噴き上がってきていて。埋め立てる前は井戸があったんですよ。真水が沸いていて。そのボコボコと砂が噴き上がっているのを見て『あら、まだここに井戸が残っとったね』っていう夢だったんですよ。一緒に巫女役をやった漁師の杉本栄子さんに夢のことを話したんです。そしたら『それは誰にも言わずに黙って歩きなさい』って。火のまつりでは草履を履かずに白い足袋だけでエコパーク内を歩いたんです。そうすると、足をつたっていろんな人たちが上がってくるから、黙って歩きなさい、と言われたんです。だから、井戸の神様が上がってきたのかどうか知らないですけどね」

 

吉永さんの父は1954年、吉永さんが3歳の時に急性劇症型の水俣病を発病し、2年後に亡くなっている。漁師であった祖父も9年間の闘病の末、1956年に亡くなっている。水俣では現在でも水俣病のことを語れる人は少ない。かつてのチッソは未だ水俣に工場を有し、人々の生活を経済的に支える構造になっているからだ。そんな中で1997年10月から吉永さんは水俣病資料館の語り部となり、水俣病や自らの家族の話を通じて、この土地での出来事を次の世代へ繋いでゆく活動を始める。

 

「水俣病という病気の話は誰にもできんかったし、ましてや自分の家族が水俣病だと友達にも言えんかった。寝込んでいるじいちゃんを見られるのも怖くて、誰も家に呼べんかったです。水俣病と聞くと自分のこと言われているんじゃなかろうかち思って怖くて、言い返すだけの知識もないから、もう知らないことにしとった方が楽だった。もうあと10年逃げ切れば50年経つから忘れられてしまうだろうと思って家族が水俣病だということを誰にも話せずにいたんです。でも『もやい直し』というので水俣病の人と市民のお互いの話を聴こうという運動が水俣市で始まって、自分で勉強し始めたんです。そうしたら水俣病は恥ずかしい病気と思わされとったというカラクリがわかったんです。それで多くの人の前で話をし始めました。水俣で水俣病のことを話すことは簡単なことではないけれど、父の死の悔しさが大きかったかもしれませんね。父は何が原因なのかも知らずに死んでしまったから、もし生きとったならちゃんと原因を明らかにしたかっただろうし、自分から進んで話をしたかっただろうなと思ったんです。『水俣の再生を考える市民の集い』で初めて家族の被害を話しました。知り合いに話す勇気はないけれど、大きな会場で、多くの人々に向かって話すと私は話せたんです。子供たちも私が語り部になったことを、マスコミを通じて知ったと思います」

 

メチル水銀を含んだ魚たちやヘドロの蓄積が真新しい運動場へと変わり、ここでの出来事がなかったことのように、海の恵みとして魚を食べ水俣病になった人、差別された人の記憶も全てが埋め立てられて見えなくなっている。エコパークのホームページには、ここが出来た経緯についての記述はなく、その代わりに次のようにある。

 

「環境都市である水俣市には、花と緑いっぱいの公園や道の駅がある『エコパーク水俣』があり、その突端に美しい海に面した親水護岸があります。約465mもの遊歩道があり、さわやかな潮風と恋路島の眺めを楽しみながら散歩ができます。環境に配慮し、遊歩道には防腐剤などが一切使われていません」

 

エコパークは鋼矢板とコンクリートで造成された護岸で、50年の耐久年数で設計されており、半世紀に一度は工事を繰り返さなければならない。

吉永さんに淹れてもらったレモングラスのお茶が美味しく、喉もカラカラだったので一気に飲み干してしまった。すると空になったコップに気がついた吉永さんがお湯を足してくれる。それから小一時間ほどお話を伺い、最後に写真を撮らせてもらうことにした。縁側をあとにして、細い路地を戻り、来た時に通った岬にもどる。

 

「矢筈山にこないだ初めて登ったんです。孫と一緒に住んでいるんですけど『あそこの三角の山に登って山頂で手を振るから見てなさい』って言ったのだけど、なーんにも見えなかったって。向こうからはこっちが見えるから、見えるかなと思ったんだけどね」

明るい笑い声が風にのってその場の空気を軽くする。

「漁師の人があの山を見て船の方向決めてたっていうのはよく分かりますよ。山と海が近いから、山から見ると不知火海っておとぎ話の中の世界みたいなんです」

 

三角の矢筈山に向かって手を振る吉永さんの姿を写真に収めて別れた。後日、エコパークの親水護岸に足を運んだ。親水護岸の先端が波の力によって削られ錆びていて、そのえぐれた部分が「見える」ということの弱さを体現しているように思えた。今、目の前に見えているものよりも、吉永さんの夢の中の海の風景や親水護岸に埋められた魚の存在の方が、はっきりと強く感じられる。大量の魚たち、海で遊ぶ子供たち、チッソの廃水、埋立工事。吉永さんの庭のアコウの木は、ここで起きたもう見えることのない幾つもの不知火海を見ている。








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