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凪のめぐる 第11回

4 日前
読了時間: 6分

女島の舟

岡庭璃子


 

不知火海に面した芦北町女島。島と言っても水俣市内から20分ほど車を走らせたところにある海辺の集落だ。空には雲がかかり、地面に落ちる影は柔らかい。海と空の間にあるはずの水平線はぼんやりとしてはっきりしない。 


2022年に水俣に通うようになってから、さまざまな文献を読むようになった。なかでも緒方正人さんの著作『チッソは私であった―水俣病の思想』(河出文庫)には、とりわけ衝撃を受けた。患者として、また漁師として、水俣病患者運動に参加した正人さんは、チッソや行政を相手に闘っているはずなのに、次第にその怒りの矛先を見失っていく。もし自分がチッソの従業員だったら、社内の圧力を押し退けることができずに、汚染水を垂れ流し続けたんじゃないだろうか。疑心が正人さんを激しく追い詰め、ついにはテレビを家の外に放り投げて壊し、信号機にすら嫌悪を覚え、日常生活を送れなくなっていった。1985年、正人さんは認定患者協議会から離脱し、自ら水俣病認定申請を取り下げる。以降、自分が対峙しているのは一企業の責任や補償制度ではなく、近代化そのものではないかと考えるようになる。自分自身もチッソと同様に、近代という仕組みの中に生きている。ならば自分は、チッソに何かを言える立場にあるのか。彼の思索は、被害と加害の図式を超えて、近代化のなかで人間が何を引き受け、何を切り捨ててきたのかという根源的な問いへと向かっていく。それは、人間だけではない全ての生き物の「魂のゆくえ」を問う思考と言っても良いものだ。 


1994年、正人さんは熊本県芦北町から東京品川を目指し、不知火海の伝統的な打瀬漁法に用いる打瀬船に乗って、2週間かけての航海に出る。「東京水俣展」で打瀬船の展示をするために、運搬をする必要があったからだ。もともと陸路で運ぼうとしていたのだが、運搬費が膨大になり、正人さんが自ら海路で運ぶことを提案したのである。船にエンジンはついておらず、風と潮の力だけが動力である。無謀とも思われるその航海は、しかしながら一方で正人さんの生き方そのものを表しているようでもある。「水俣東京展」で正人さんはこう語っている。 


「これから先、世間では広くあるいは政治的には、水俣病は終わったと言われている状況の中で、決して終わることのできない水俣病の本質的な問題をかかえていこうという、意志表明の機会だったんではないか、そしてそのことを自らに確認しなきゃならんやったじゃろうと思います」(緒方正人『チッソは私であった−水俣病の思想』河出文庫、2020年、136頁) 


正人さんは私にとって、お会いしてみたい方の1人だった。水俣の案内人である遠藤さんに正人さんと会えるか聞いてみると、約束を取り付けてくれた。 

 

正人さんの家は、海のすぐそばにある。目の前には船着場があり、いかだや漁船が停泊している。庭には立派な松の木が立ち、母家と「游庵」と称した離れがある。游庵の玄関には「海山東泊」と彫られた表札。「海と山のあいだに身を置く場所」という意味の言葉だ。足元には石でできた恵比寿様が置かれている。 

玄関を上がって、すぐの部屋に案内された。執筆や読書に使われている書斎で、文机の奥には「常世の舟」と書かれた掛け軸がかかっている。その前にはトトロの置物、鹿の角、本、キセル、鉄瓶。 


正人さんは冷たいペットボトルのお茶を用意してくれていた。それからそのお茶をみんなの分、コップに注いで、かりんとうを出してくれた。 


「水俣病には、本来、一人ひとり違うかたちがあるの」 


緒方さんは我々に話し始める。 


1995年以降に繰り返された水俣病患者とチッソとの和解。補償金額はあたかも商品の値段のように定められ、水俣病は換算可能な問題になった。自分の経験を語らずとも、匿名のまま補償を受け取ることができる。過去の差別や加害に向き合う必要もない。制度上、水俣病を語ることは、もはや不要になっていった。 


「本来、責任とは何かっていうと、『課題に応答する』ことだと思うの。金に換える責任じゃない。救済としての補償が一般化してゼニで片がつくようになっていったんです。そうやってお金で解決されるようになったら、一人ひとりの水俣病に対する想いはみえなくなってしまった。でも本来ならお金の話に帰結してしまうのではなく、水俣病と向き合うべきだと思うのね。医者であれば医学的な課題、科学技術者であればその課題、役人であれば役人の課題。それぞれの立場に役割があるんです。そういった役割の一つとして本願の会の魂石もあるわけ。他には、音楽だって、絵だって、作家が文字で物語を紡ぐこともそうだし、ドキュメンタリーもそう。本当の意味で責任を取るということは、一人ひとりが水俣病に対して、適切な表現を持って応答することなんです」 


1994年、正人さんは石牟礼道子らとともに、国家や企業の責任を追及する運動とは別に、水俣病を考えるための場として「本願の会」を結成する。本願の会のメンバーは何年もかけて石を掘り、そこに水俣病への想いや痛みを託して、祈りを捧げて魂入れをする。そうして魂石となった野仏をエコパークの親水護岸に安置し、この地での出来事を多くの人に伝えていく取り組みをしている。


水俣に訪れ、話を聞き、この土地について知ることも、正人さんのいう「課題に応答する」ための表現になるのだとしたら、そこにある私なりの責任についても、しっかりと考えなければいけないと思った。 


「あなたの持ってるカメラのフィルムなんかもチッソは作ってたの。有力な企業だったよ。100種類くらい作ってたんじゃないかな。 

『近代化された』ということは要するに社会制度に組み込まれたっていうことです。感性も、生活様式も。今日、近代化に関わっていない人を探すとすれば、アマゾンの奥地の原住民くらいじゃないかな。 

だから俺は認めちゃったの。『チッソは私であった』って。 

水俣病事件で失われたのは人の痛み、苦しみということだけではないんです。水俣病事件を近代化という大きな物として捉えるとそこには自然との離別という問題がある。以前は自分の家の裏で野菜を作って、海でとってきた魚をみんなで分けあったり、潮の満ち引きや季節のめぐりが生活と一体となっていたの。でもそのうち車でスーパーへ買い物に行くようになったり、海岸をコンクリートで覆ってしまったりして、私たちが自ら自然とのつながりを断ち切ってしまった。水俣病事件はこうした出来事の中にすでに現れ始めていたんです。家にはテレビがあって、冷蔵庫があって、仕事ではプラスチックの船に乗っているわけでしょ。そう考えると私だってチッソと同様に自然とのつながりを断ち切って生きているように感じたんです。いまはその罪を背負い直すことが必要だとおもうの。そういったことは決して水俣だけじゃなくて日本各地にあるの。ゴミを捨てたとか、汚染されたとかいうと忌み嫌ってみんな見ないふりをする。福島も長崎も、いま一度そこに立ち返って再び向き合うということが必要だと思うの」 

  

文机の奥の掛け軸の「常世の舟」の「常世」とは、正人さんが狂った時に、最後にたどり着いた世界だという。そこでは、人は患者でもなく、加害者でもなく、ただの存在になる。正人さんの言葉は制度の岸から、常世へ向かう舟だった。正しさを積み上げるための言葉ではなく、矛盾を抱えたまま課題に応答し、この世界を渡るための言葉。 


車で水俣に帰る道すがら、護岸の上に恵比寿様の石像が置かれているのに気がついた。車を止めて近づいてみてみると、恵比寿様はこちらに背を向け、海の方を向いていた。満面の笑みで静かな海をじっと眺めていた。






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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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