クー・フリンの熱い身体(前半)
──太陽神ルグの子──
鶴岡真弓
◆はじめに
神々の攻防―トゥアタ・デー・ダナンの神々
ひとつの民族や国民にはその土地や国が、神々によってどのように造られたかを語る、国土創成譚、「国産み」の神話がある。
日本では記紀神話でイザナギとイザナミの二神が高天原の神々に命じ、大八島国(おおやしまのくに)を創造したとされる。聖書では一人の神が世界を創造した。
しかしアイルランドの神話にはそうした国産みや天地創造の物語はなく、海の彼方から次々に来寇する民族の攻防が描かれている。
すなわち『アイルランド来寇の書』(11世紀成立、現存の稿本は1100年頃)には、キリスト教聖書の「大洪水」以前にこの島を目指したノアの孫娘ケシルたちに始まり、その後、六度にわたって様々な民族がアイルランドに来島し戦いを繰り広げたことが語られている。
この「来寇」の神話が収められている『レンスターの書』(1151―66年)は、アイルランドが国としてのまとまりを形成していく時代に、聖書の世界観に則り、この国の政治的・文化的正統性を表すため、キリスト教修道士によって書かれたものである。しかしこの神話には土着の人々の自然観や異教的な信仰の残照が深く照り映えているといわねばならない。
『来寇の書』によれば、旧約聖書が語る大洪水の300年後、アイルランド島にパルトローン族が一番目に来寇したとき、この島には太古から先住していた神フォウォレ(フォモール)族がいた。
この鬼神フォウォレ族はキリスト教からみて邪悪な者の象徴である以上に、当時の修道士たちにとって、謎めいた異教時代の想像力が濃厚に感じられる、異界的な存在であっただろう(図❶ ダンカン「フォウォレ族」1912年)。
ちなみにジョン・ダンカン(1866–1945) が表した「フォウォレ族」の絵は、鬼神の不気味さをよく表している。ヨーロッパ諸国での民族主義が沸騰した19世紀末から20世紀初頭に興った「ケルト文化復興」期に、スコットランドの画家ダンカンは盛んにケルトの神話や伝説を絵画化した。この絵はダンカンにしては特異にも暗く、フォウォレ族の荒々しい破壊力、混沌・闇・死・疫病・旱魃や飢饉を象徴する邪悪さが伝わってくる。
さてこの恐ろしいフォウォレ族がいた島アイルランドに、二番目に来寇したネヴェド族も、三番目のフィル・ヴォルク族も、この先住者を打ち負かすことはできなかった。
しかし四番目に来た、「ダヌ」を母神とする神族、「トゥアタ・デー・ダナン(ダーナ神族)」が2度のマグ・トゥレド(コナハト地方北西の平原)の戦いで、まずフィル・ヴォルグ族を破り、農耕の知識を獲得もした。そして遂にフォウォレ族を打ち破る。
その後トゥアタ・デー・ダナンは、最後に来島したミールの息子たちにタルテイゥ(東部、ミーズ州、タラの北西)の戦いで敗北し、地下世界の土塚(シード)に追いやられ、妖精のような存在となったという。
なおトゥアタ・デー・ダナンとフィル・ヴォルク族の戦いは、他のインド=ヨーロッパ語族の神話──北欧神話のアース神族とヴァン神族、ギリシャ神話のオリュンポス十二神と巨人族、インドのヴェーダのデーヴァとアスラ(アシュラ)といった――神々の戦いに比されることもある壮絶なものであった。
いずれにしても最終的に地下に追いやられるトゥアタ・デー・ダナンこそは、アイルランドに伝わる中世のケルト神話で今日まで最も親しまれ、魅力を放つ神々なのだ(図❷ ダンカン「妖精の騎士」)。
読者のみなさんもその神々の名は耳にしたことがあるだろう。
豊饒の鍋を司る大神 ダグダ
大女神 モリガン
太陽神 ルグ(現代アイルランド語:ルー)
王 ヌアドゥ
若さの神 オイングス
地母神(聖女の前身) ブリギッド
海神 マナナン
マン島の城主 ミディール
医者・治癒者 ディアン・ケヒト
鍛冶師 ゴヴニュ
いずれも誇り高く個性的な神々である。
そしてほかでもない本章の我らが英雄「クー・フリン」こそは、この神々のなかでも最も燦然と輝き、ケルトのアポロンといわれるルグ(ルー)神を天界の父とする男子なのであった。
1.アルスター王国の英雄クー・フリン
◆「クー・フリン」と「アイルランド史」
アイルランド神話の白眉『クアルンゲの牛捕り』は、ギリシャ神話の『イーリアス』を想起させるケルト言語文化に伝えられる最も壮大な英雄伝といわれている。主人公「クー・フリン」は、太陽神ルグ(ルグ・マク・エトネン」を父とする半神半人であった。近代に大英帝国の植民地であり続けたアイルランドが独立のための闘争に血を流すとき、この図像に表されているような、不屈の「英雄像」として、クー・フリンのイメージが復活したことも頷(うなず)ける(図❸「クー・フリン物語」)。
その神話、『クアルンゲの牛捕り』の前話である『クー・フリンの誕生』によれば、母はアルスター王、コンホヴァル・マク・ネサの妹デヒティネで、あるとき夢の中に太陽神ルグが現れ、身ごもり、無事男児を出産した。しかしコンホヴァル王がこの母親、つまり自分の妹との近親相姦を人々に疑われたため、養父を迎えて育ててもらい、幼名セタンタという少年に成長していく。
この少年はやがて超越的な力をもつ輝くほどの美丈夫となり、身体には、戦いの高揚で異形と化すほどのエネルギーを秘めるようになる。
なによりもその熱せられた鉄のように「熱い身体」は冷却不可能で、水を沸騰させて風呂桶までを破壊し飛び散らせる勢いであったのだ(『クアルンゲの牛捕り』の中でアルスターから亡命した兵士たちが語る挿話『クー・フリンの少年時代』)。
その異様な「熱さ」は人間の男性の怪力などを遙かに凌ぐ、いわばケルト文明が生み出した数々の金属の利器を思わせるほどのパワーをもち、自然界の火力、原初的エネルギーのように超越的なものであった。
今日一般の人々にとってはケルト神話の英雄なら、ブリトン人の「アーサー王」が最も有名であって、近代に大英帝国、大ブリテンの「宗主」に祀り上げられ、世界文学のなかでも最高位の知名度を誇る。しかしアイルランドの人々にとって、この国の歴史にとっては、英雄はといえばクー・フリンなのである。ギリシャ神話の英雄叙事詩になぞらえて「アイルランドのイーリアスの主人公」とも呼ばれているゆえんである。
その理由は「神話」が実際の「歴史」に重なるような経験を、長い間アイルランドが経験してきたからである。中世以来アングロ=サクソン人の被植民地に甘んじ、近世にはクロムウェルによる侵略戦争で一度に数千人を虐殺された。
世界の覇者、アングロ=サクソンの帝国の最も足下にあり、しかしその大英帝国の軛から自由国へと独立を勝ち取っていった近代の道のりで、「クー・フリン」はシンボリックな「アイルランド国の救世主」として蘇ってきた。神話(ミソロジー)をリアルな歴史(ヒストリー)へとつなぐ英雄として「再生」してきたのである。
自由を求めて流血した近代の闘争史に重なる「クー・フリンの闘い」は、アイルランド最長の神話の英雄伝『クアルンゲの牛捕り』(現存する最古の稿本『赤牛の書』(12世紀)と『レカンの黄書』(主要部分は14世紀末)および16世紀の2つ写本に伝えられる)は、現代では世界から熱視点を浴びる戦士キャラクターとなってアニメ・映画・再話文学・フィギュアにまで人気を集めている(図❹ レイエンデッカー 画「チャリオットに乗り戦いに挑むクー・フーリン」(部分)ローレストン著『ケルト族の神話と伝説』 1911年)。
◆「鍛冶師クランの番犬」のメタファー
さて屈強の戦士として頭角を現わす最初のエピソードとして重要なのが、彼の「名」の由来となる獰猛な「クー/犬」との格闘だった(図❺「クランの番犬」クー・フリン)。
「クー」とはアイルランド・ゲール語で「犬」の意である。
この名前を授けられることになった出来事は、少年(幼名)セセンタが、鍛冶師クランの門を守っていた獰猛な番犬を一人で倒したことである。その犬は9人の戦士が3本の鎖で押さえつけねばならない猛犬だった。少年の武勇は大人たちを驚かし、称賛されて、特別に「クランの犬=クー・フリン」の名を授けられたのである。
いかにもこの名前は意味深いものであって、即ちケルト語を含むインド=ヨーロッパ語族の2つの重要な神話的メタファーが埋め込まれていた。
1つはこのクランの館を守っていた番犬は、ギリシャ神話の冥府の入り口にいる「ケルベロス」に典型的なように、獰猛で、「異界」に通じる動物である。
もうひとつのメタファーは、この犬を飼っていたクランは「鍛冶師」であるということだ。鍛冶師は武具から金銀の装身具まで制作することができ、それは「輝く金属」から創造されるものだ。クー・フリンの出自の輝きが、その「鍛冶」「冶金」の技術・呪術に繋がっていることを暗示しているといえる。
「鍛冶師/冶金術師」は、古代ケルト、ゲルマンでもギリシャ、ローマでもインド、イランでも、インド=ヨーロッパ語族の社会において、金属器の武器・武具・道具を造る最高の職能で、「冶金術」は「生命循環」の術にかかわるため呪術をもつとも信じられてきた。
なぜなら金属のマテリアルは何度でも「炉」に入れて熔解させれば、武器や道具として無限に「生き返させる」ことができると信じられ、「冶金」術は「魔」術と同一視されたからである。
『アイルランド来寇の書』に登場するトゥアタ・デー・ダナン(ダーナ神族)にも優れた冶金術師ゴブニュが登場する。鍛冶師は神々のための武器も造った。それは技を超えた魔術であった。
(北欧神話には英雄シグルズ(ジークフリート)が父王から受け継いだ剣を修繕する鍛冶師レギンが重要なキャラクターとして登場するし、アーサー王伝説では少年アーサーが最初の名剣を引き抜いた「岩」は、鍛冶師の「鉄床」のメタファーであると考えられている。)
したがってクー・フリンが鍛冶師クランの獰猛な犬を倒し、少年ながらにして「クランの番犬」の名を与えられたのは、クー・フリンという戦士が、その名において異界的な「犬」とかかわりをもち、なおかつ「魔術的な冶金術」師の僕として「英雄」への加入儀礼を果たしたことを、このエピソードは示していると考えられる。
いずれにしてもクー・フリンは、この世とあの世の境界的なものと呪術と魔術にかかわる者となった。ゆえに、未来において彼の生死にかかわる、「決して犬の肉を食べてはならぬ」という「禁忌(ゲシュ)」を背負うことになったのである。
◆なぜ「牛」の争奪戦なのか
さて本篇に進もう。この少年は長じてアルスター王国を守る最高の戦士となる。
戦いが引き起こされたのは、西の王国コナハトの女王メイヴのひとつの欲望が発端だった。
現代のアイルランド共和国の東西南北の「四地方」は、誇り高い古代の王国名そのままに由来する(図❻ 現代アイルランド共和国の四地方)。
この神話でクー・フリンが大勢の戦士に代わって守りぬいた「アルスター」地方が、現代ではイギリス領になっているのは、なんとも皮肉なことだろうかと読者の方々も思うかも知れない。現代のイギリス領北アイルランドは六つの州(アントリム、アーマー、デリー、ダウン、ファーマナ、タイロン)で構成され、首府はベルファーストで、アイルランド共和国との間には「国境」が敷かれている。
神話では『クアルンゲの牛捕り』で西のコナハト王国とアルスター王国の間で大戦争が繰り広げられ、まだ未成年のクー・フリンが孤軍奮闘で戦いに勝利するのだ(図❼ メイヴ女王 前掲書『ケルト族の神話と伝説』1911年)。
西の国、コナハトの女王メイヴは、自分の財産に立派な牛がないことに不満を抱き、アルスターの艶やかな褐色の雄牛「ドン・クアルンゲ」を捕るために、他国の援軍も雇い入れ、アルスター王国の牛の名産地クアルンゲに攻め入る(図❽ デズモンド・キンニー『クアルンゲの牛捕り』モザイク ダブリン ナッソー通り 部分 https://www.atlasobscura.com/places/tain-bo-cuailnge-mosaic)。
そもそも「牛」はインド=ヨーロッパ語族の文化において「豊饒」のシンボルであった。典型的に古来インドでは聖獣として牛崇拝の伝統がある。イベリア半島、スペインのパンプローナなどの「牛追い祭り」や、スペインのお家芸の「闘牛」も、もともと聖牛の生命力にあやかる儀礼である。現代でも闘牛士は英雄であり、マタドールによって刺殺される「牛の血」は神聖な豊饒の徴なのだ。
アイルランド神話では、より興味深いことに、北のアルスターの王権を「牛」で表象するのに対して、より自然に親和性のある南のマンスター王国は「鹿」で表象される。マンスター王国を護衛する首領フィン・マックールの妻が精霊の鹿であり、鹿の息子「オシアン」と孫の「オスカル」は鹿の一族である。アルスターとマンスターは好対照のコントラストをなし、(ネタバレは避けたいが)クー・フリンの活躍で「牛」はこの神話の最後に、その「死」から大地の誕生や再生にその命を捧げることが予想できると思われる。
つまり『クアルンゲの牛捕り』という英雄伝は人間の兵士同士の戦いで終わったのではなく、アルスターの褐色の雄牛「ドン・クアルンゲ」と、コナハトの王アリルが所有していた雄牛「フィンドヴェナハ」が戦う。そこにこの神話の真相が隠されている。(その「牛」同士の戦いは、別の回であらためて述べる。)
2.太陽神ルグの息子
◆孤軍のクー・フリン
さてこの「牛」の聖性を守り育てる王国アルスターを守り切る運命の若きクー・フリンにとって、アルスターのピンチは最大のチャンスだった。
コナハト軍に攻め込まれたとき、アルスターの成人の兵士たち全員が「衰弱」するサイクルの只中に陥っていたからである。それには不思議な理由があった。
かつてアルスター王コンホヴァル・マク・ネッサが、ある憤慨から、妊婦の女性マハを無理矢理競争で走らせ、マハは激痛のなかで出産を果たしたが、仕返しにアルスターが危急のときに、男たちが必ず「産褥の苦しみ」を味わうという呪いを掛けたからだ(『レカンの黄書』や『レンスターの書』などに記された『ウラドの戦士たちの衰弱』のエピソード)。
しかしそのなかでひとり未成年のクー・フリンはそれを免れたのである。意を決して、孤軍で戦い、褐色の雄牛はコナハト側に奪われるが、アルスターの人命と国を守り抜くことができた。
この特別な特質はどこから来たのか。
大戦争の英雄クー・フリンは、ギリシャ神話のアキレウスと同様、「英雄の条件」の筆頭を満たす、「半神半人」であった。天界の父の系譜から生まれた男子であったことを、私たちは知らねばならない。
◆クー・フリンの美と異形
『クアルンゲの牛捕り』は戦いの神話であるから、その描写の白眉は戦闘場面にあると思われている。しかし、この神話の読みどころは、実はケルトの考古学や美術史が明らかにしてきた、実際の美術に表された「美」が、キャラクターの描写に象眼されていることが一大特徴なのである。
登場する人間や神々が湛える視覚的な「光」や「色彩」や「意匠」にまでにおよぶ細密描写は圧巻である。全ケルト神話のなかでもその最高級の記述として讃えられるのが、戦闘前に現れるクー・フリンの登場シーンである。金色に輝く何本かの房毛が肩まで垂れ、王者の威厳を放つ左右の目には、各々七つの宝石がまばゆく光っていた。
髪の毛は三つに分かれていて、根元は茶色、真ん中は血のように赤く、冠は黄金色だった。この髪の毛は、
後頭部で分かれ三つのコイル状に見事に整っていた。
ゆるやかに流れる長い髪の毛の一つ本一本が、
金の糸のように美しく、きらきらと輝きで肩にかかっていた。
首筋に百本の赤金の巻毛が暗く輝き、
頭には宝石をあしらった百本の真紅の糸が張られていた。
しかし描写はこれだけではない。クー・フリンの姿は、明らかに人間を超えた「異形」を帯びているのだった。
両頬には黄色、緑、深紅、青の4つのえくぼがあり、
それぞれの王の目には7つの明るい瞳孔、目の宝石があった。
両足には7本の足の指、両手には7本の指があり、
爪は鷹の爪やグリフォンが食いしばる嘴のようであった。
(キアラン・カーソン『トーイン:クアルンゲの牛捕り』栩木伸明訳 東京創元社2011年、
参照:(Thomas Kinsella(trans.), The Táin , Oxford University Press, 1969, pp. 156–158.)
なんと足と手の指が「七本」というのは明らかに超人的な異形である。この目映(まばゆ)いほどの全身と細部の異形は、一体どこから授けられたのか。それは天界の父「ルー」からである。
だが、そのルーの血筋にも秘密があったことを神話は、別の戦争の物語において語っていたのだった。ルーは(も)「光」を纏う者となるためには、「闇」を帯び、それと闘わねばならない運命の戦士であった。
◆太陽神ルグ、クー・フリンの父
ルーは冒頭に記したアイルランド神話の神々「トゥアタ・デー・ダナン」に属し、なかでも異彩を放つ神である。異名で「百芸に通じた/サウィルダーナッハ」や、「長腕のルグ」とも呼ばれ、無敵の「槍」をもっていた。
このルーの背景に、またまた「鍛冶」の術が絡んでいる。クー・フリンの少年時代と同じように、青年ルーがトゥアタ・デー・ダナンの初代王ヌアドゥの「タラの宮廷」に仕えようと訪れたとき、門番がお前には特別な技能、スキルがあるか、なければ通せないというと、ルーは魔術・詩・戦闘・工芸・音楽・詩の技術、芸術の技を列挙し、要はこれらの「全てができる者」は宮殿にいないゆえに、門を通ることを許されたのだった(図❾ ダンカン「ルー」)。
ウェーズ語にも「ウェールズ語のLleu Llaw Gyffes(巧みな手のルウ)」という表現があり、ルーは百芸に通じる神であることがわかる。同時にルーは「手工」に優れるのみならず、その手工の最高位にある「光」や「輝き」に関係する神であることも、『クアルンゲの牛捕り』の描写から汲み取れる。
ルーはその卓越した能力と武勇によって、やがて運命的にヌアドゥから王位を継ぐことになる。それは「マグ・トゥレドの第二の戦い」での凄まじい活躍で、悪鬼フォウォレ族の統率者、独眼のバラルとの決定的な対決であった。
ルーは、トゥアタ・デー・ダナンの王ヌアドゥを倒したバラルに立ち向かい、聖書のダヴィデの手法と同じく、大敵バラルの邪眼を投石器で打ち砕き、首を斬った。
これは運命の対決だった。実はルーの母親はこの悪鬼の娘だった(ルーのフルネームは「マク・エトネン」つまり「エトネの息子」と呼ばれていたように)。邪眼のバロルは自分の孫に殺されるという予言を受け、娘エトネが男に言い寄られ妊娠しないように塔に閉じ込めた。が、医者の息子キアンが突破してエトネと結ばれ、ルーが生まれた。(ルーの父キアンこそ、トゥアタ・デー・ダナンの医者ディアン・ケーフトだ。)エトネが産んだほかの2人の赤子は死んだが、ルーだけが救われ成長したのである。
ルーの父方の祖父、ディアン・ケーフトは、ただの医者ではなかった。
マグ・トゥレドの戦いで片腕を失った王ヌアドゥに「銀の義手」を造ってあげたことは神話でよく知られているが、のみならず、負傷兵や戦死者を、死者が蘇る「健やかな泉」に浴させ再生させた、「呪術的治癒者(ヒーラー)」であった。
こうしてルーの血統には、アイルランドの神話の最も重要な、「死/闇」をもたらす「最も邪悪なる者」と、「再生/光」をもたらす「最も善なる者」の両極が孕まれていた。独眼の祖父バラルの首を取りフォウォレ族を滅亡させたとき、邪悪の系譜は浄化され、ルーの武勇によって、闇は祓われ世界は再生したといえる。
ルーが属するトゥアタ・デー・ダナンは最終的に「地下世界」に住む者となる。が、そこには「終わりの生」があるのではなく「過去が未来の予言となる」あの「サウィン/万霊節」のエネルギーがそこには保持されている。ルーたちのこの勝利の大戦争の深い意味は、そこにまでつながっている。
◆父の三日三晩の援護
さてそのルーを天界父としたクー・フリンが半神(半人)である意味、つまり彼の勇猛と高貴(光輝)さは、父のルーが成し遂げた、世界を希望の光で照らす救済を引き継いでいるといえるのではないか。
ルーは、我が子が背負った運命的なミッションの支援者として、闇を蹴散らす姿で、戦場のクー・フリンのもとに現れ、武術を磨きに異界の女戦士のもとに赴く我が子を助け、実戦で負傷している息子の前に現れ、介抱し、三日三晩自らメイヴの連合軍と戦いもする。
それは『クアルンゲの牛捕り』の前話のエピソード『エウェルへの求婚』に書かれている。
少年クー・フリンが武者修行でスコットランドの女武者スカータハ(スカサハ)の「影の国」へ向かった。スカータハの本拠地は異界。そこは険しい離島かハイランドの奥地を思わせる所であっただろう(図❿スコットランド スカイ島 https://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Skye#/media/File:Blaven_across_Loch_Slapin_-_geograph.org.uk_-_307916.jpg)。
到達するには難所があり、クー・フリンは「不幸の野原」の暗いの沼地で立ち往生してしまった。すると、そこへ青年が姿を現した。しかしそれは実はルー神の顕れだったのだった。クー・フリンは「車輪」を授けられ、それを転がして進むと、車輪から火花を発した。お陰でその熱で沼地が乾き、クー・フリンは無事「不幸の原」を通り抜けることができたのだった。
『クアルンゲの牛捕り』の本編の実戦の只中にも、戦士の姿の父ルーがクー・フリンの前に現れる。
「異界からやってきた」というその戦士はクー・フリンの勲を讃え「私はおまえに力を貸すためにきた」と伝え、「ルグ(ルー)・マク・エトネン、異界に住むおまえの父親だ」と名乗り「三日三晩眠るがいい。敵軍のことは私に任せて」と宣(のたま)い、クー・フリンの傷口を手当てし、眠りに就くのを見守りながら歌を詠じた。
そして三日三晩、息子の代わりに戦った。
「立ち上がれ、アルスターの強き息子よ‥‥星明かりの浅瀬で色白の顔を輝かせて孤軍奮闘する戦士‥‥異界はおまえの味方についた‥‥戦車に飛び乗るときがきた さあ立ち上がれ、わが息子」と鼓舞した(カーソン 前掲書『トーイン:クアルンゲの牛捕り』栩木信明訳)。
なおこの「三日三晩」、「父親が子を癒し鼓舞し再生させる」という神話的思想は、古代ギリシャで成立しローマ時代とその後も広く西方に広まった有名な『動物譚』における「雄のライオン」の行動を彷彿とさせる。アイルランドの修道士は、その「父ライオン」の輝く鬣(たてがみ)の神々しさまでをも想像したかも知れない。
なぜなら『クアルンゲの牛捕り』のこのシーンの幕開けに颯爽と現れたルーの容姿や装束や武器の描写から読み取れるルーの高貴さと光輝さが深く印象的に表現されているからである。
ルーの姿はその光、色彩、シルエットなどの細部が語られている。
その戦士は色白で背が高く、黄色い巻き毛、緑のマントを纏い、胸の上のマントには白銀のブローチが輝き、白い肌の隣に、彼は膝まで届くレッドゴールドの縁取りが付いたロイヤルサテンのチュニックを着ていた。
これは冒頭で見た、あのクー・フリンの戦場への登場と二重写しになるシーンである。
武器は白銅の装飾突起の付いた黒い盾、五尖の槍と、刺股の投げ槍。しかし、誰も彼に挑めない。人々には彼の姿が見えない。ルーがあまりにも神々(こうごう)しかったからである。
ここでこの神話において私たちは負傷した我が子クー・フリンの前に現れた父ルーの「光輝さ」の強調が、既述したクー・フリンの姿の描写における異様なきらきらしい「輝き」と重なっていることを鮮やかに想起させられる。と共に、美丈夫の戦士クー・フリンのルーツは、天界の父ルーにあり、ルーが光の神、太陽神であることを裏付けている。
3.大陸のルグス神と島のルー神の「収穫祭」
◆古代ケルトの「太陽神ルグス」
実際、「大陸のケルト」の考古学から、アイルランド神話のルーが光の神、太陽神であることは、奉納碑文や地名学で証明されてきた。
大陸のケルトに関わる古典の著作では、紀元前51年にガリアを征服したカエサルが『ガリア戦記』でガリア(ケルト)の神々について記し、メルクリウスを「あらゆる技芸(技術)の発明者」と表現している。カエサルはガリアのケルトの神々の名と神格をよくは知らなかったが、メルクリウスをこのように語った。つまり万能の技芸を具えるこの神は、アイルランド神話における「長腕のルー」の異名「百芸に通じた」を想起させる。それは考古学で証明されている、大陸のケルト地域で崇敬されていた「ルグス」に対応すると考えられている。
ガリアやイベリアにおける太陽神「ルグス」崇拝は、具象的に「ルグス」の姿を彫り込んだガロ=ローマ時代の石彫の出土物で確認できる。「三面」があることは「生命の三相」である「生・死・再生」や、農耕牧畜に必要な観念であった時や季節の巡りの「昼・薄明・夜」を司る神であったのかも知れない(図⓫「三面のルグス神」の石彫 ①パリ出土 ②北東ガリア出土)。
図⓫
その崇拝の篤さは、ガリアからピレネー山脈を越えたイベリア半島中東部、テルエル地方ペニャルバ・デ・ビリャスタルから発見された碑文(ラテン文字のケルトイベリア語)にも示されており、解読によって「ルグス」に奉納されたものが明らかとなっている。
さらに重要なのは「ルグス」にまつわる地名学である。
この「神名」を遺す地名が、ヨーロッパ大陸の古代からの諸都市、即ちフランスの古都リヨン(ルーグドゥヌム)やラン、オランダの古都ライデン、ポーランド南西部のレグニツァ(13世紀にはモンゴル軍が侵攻した)などに遺されている。
これらの地名が「ルグス神崇拝」の名残と考えられるのも、各都市は古代から豊かなケルトと他の文化の「交叉点」であったからである。
古代ローマの歴史家タキトゥスの『ゲルマニア』によれば(プトレマイオスが『マグナ・ゲルマニア』の地名として挙げた)ルイジ(Luigii)に関係するのが、上述した現ポーランドのレグニツァで、その一帯はケルト人と東ゲルマン人の文化が行き交った地方だ。ルジドゥヌ(Lugidunum)やグウォグ(Głogów)の地名は、歴史においてレグニツァの文化圏に関係づけられる。
これらの地名もルグスに関係すると推測され、古くからこの地はプシェヴォルスク文化の特色があった。その文化は紀元前2世紀から紀元後4世紀にかけて、ポーランドの南部と中部およびウクライナの西部に広がって存在していた鉄器時代文化を指しており、原スラヴ系、ケルト系、東ゲルマン系の混淆文化であったと推定されている。
さて最後に最も大切な問いがある。
ではなぜ「ローマ」征服後もケルト神「ルグス」は崇拝されていたのか。
◆「収穫祭の暦」の意味
カエサルに征服される前の紀元前のみならず、紀元後の中世にまでつながり、クー・フリンの英雄神話にまで継続されたこの神は、ケルト語文化圏の神話・宗教にとって最も重要な守護神であった。とすれば、その理由はケルト文明の人々の農耕牧畜という生業の背景に遡れるはずである。
ガリアに植民したローマ人は、ケルト、ガリアの農耕牧畜文化の「暦」を継承した。
「ケルトの暦」は、カエサルの考案したローマの「太陽暦」とは異なって、太陰太陽暦を用いていた。それは約2000年前にガリアで用いられていた有名な「コリニーの暦」(リヨン、ガロ=ローマ博物館蔵)によって、ガリアの人々の「ケルトの暦」の特徴がよく示されている。
彼らは1年を「闇の半年」と「光の半年」に分けていた。農耕牧畜の成長が止まる「サウィン(ハロウィンの起源)」の夜(10月31日)から始まるその「闇んおの半年」を耐え抜き、6月後にようやく訪れる夏のついたち「ベルティネ(メイデ―の起源)」に光の季節を迎え、「5月・6月・7月」の3か月で「麦と家畜」を成長させるのである。この生業は、現代でも変わらないこの「暦」によって生命が保持され、生活が成り立っている。
そして肝心要の「収穫の日」が訪れる。それが今日、アイルランドやスコットランドやブリテン諸島の民俗行事で祝われる「8月1日のルーナサ」の祝日である。
そう、この収穫祭の名「ルーナサ」とは「ルグス(ルー)の司る収穫祭」の意味である。
大陸の「ルグス」神は、ローマに征服された後も、島のケルト語文化圏に生き残り、「ルー」神として生き続けた。
なによりも「ルグス」の太陽神としての神格、属性を、「ルー」は失うどころか、継承し、英雄クー・フリンの父親として神話に再登場もするのである。
「ルグス」が太陽神である由来の一つは、前述した「ケルトの暦」の「光の半年」の6か月の前半に麦や牛・羊が育ち、穀物を成長させる「太陽」「光」につながっている。その前半の「5月・6月・7月」の3か月に育成・栽培され、7月末までに収穫されるのが習わしの麦・穀類を筆頭に、翌日の8月1日に、現代でも、野の祭壇に捧げられる「収穫物そのもの」が人間にとって「光」であることを、大陸のルグスと島のルーは、一貫して象徴し続けてきたといえる。それはキリスト教信仰が広まった初期中世以来、今日まで変わらないケルト起源の暦となっているのである。
こうして、アイルランド神話、『クアルンゲの牛捕り』では、クー・フリンと父ルーの神々しさが、戦闘という国の防衛のための「ハードな鋼鉄・武具の輝き」を表象する前に、民の「命を育む光」を表象したのだった。
なぜならその暦において、「ルグス/ルーの司る収穫祭:8月1日」が終わると、ヨーロッパは一気に冷たい風が吹き、「闇の半年」の始まりへと向かう。その飢餓の暗黒は、ルグス/ルー神によって守られるように願われた。
だから古代ガリアではカエサルによる征服後も、太陽神「ルグスの収穫の祝日」はガリアを統治するローマによって禁止されるどころか、積極的にローマの統治下においても収穫量を基にした「1年の計を定める大集会の日」としてガロ=ローマの都でおこなわれる暦日に取り入れられたのである。
◆ローマ帝国の暴君とケルト神話の交点
その都とはラテン語で「ルグヌドゥヌムLugdunum」といわれ、今日の、フランス第二の都市「リヨン」のことである。
そしてあのローマの遺跡「大浴場」で知られるカラカラ帝は、実はガリア生まれであった。父が遠征した当地で生まれた。「カラカラ」は渾名(あだな)であり、ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス(188- 217)といい、暴君で知られる。
「ガリア」で生まれたことで、そこに愛着をもった。「カラカラ」という渾名は、この暴君からは想像できない、知る人ぞ知る縁を今日に伝えている。「カラカラ」の名は当時ガリア人が着ていた、フード付きのチュニックの呼び名から採られたものだったのである。
世界に冠たるローマ帝国のカラカラ帝も、ガリアの8月1日の「ケルトの祭日」に開かれることになった大会議の前提となる「ガリアの収穫祭の暦」は聞かされていただろう。
そしてそれが自身の生まれたガリアの都「ルグドゥヌム」(リヨン)の地名の語源たる「ルグス」というケルトの神名であったことも知っていたかも知れない。それが1000年以上後に、クー・フリンの父として、アイルランド(ヒベルニア)の島に再誕生することは予想できなかったとしても、である。
ただしローマ帝国とカラカラが奪った属州ガリアの民の命の数は想像を絶しするものであっただろう。その深すぎる闇には、ルグス神の光も届かなかっただろうことも真実だろう。
カラカラを英雄として描写したローマ帝国のコインの裏側には、帝を「ローマの太陽神ソル」が祝福している図像が表されている(図⓬ ローマ発行のコイン「カラカラの肖像とローマの太陽神ソル」)。
帝国の膨張によって、このローマの「太陽神ソル」が、ガリアの「太陽神ルグス」に取って代わったのである。しかしローマの太陽神ソルの光も、その後、底なしとなっていく「帝国の闇」を祓うことはできなかったのではないか。
アイルランド神話のクー・フリンとローマ皇帝カラカラは、共に「太陽に祝福される英雄」であるが、その意味は異なっている。
こうしてまた「ケルト神話」は、ひとり「島」に追いやられて閉じられたのではなく、現代の世界史を問い直す重要なカギを与えてくれる。
人々の言語文化は、征服された後も息を吹き返す。「ケルト」の言語文化によって伝えられた神話はその造形表象と共に、今日のヨーロッパ文化にも生き、「大文字の歴史」に抗い、それを逆照射する力をもっていることを伝えている。
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