top of page

ケルト神話のキャラクターたち 癒しの秘術 第10回



「ケルト復興」の「語り部」

オスカー・ワイルドの名に秘められた神話

鶴岡真弓


 


1.神話のイニス(=ケルト語で「島」)

◆島から大陸へ


 人間の歴史において文明・文化が、ある場所から広まる時、主として「大陸から島へ」の伝播が大方であろうと思われている。たしかに日本列島の文明を成立させた「文字(漢字)」も「利器(鉄器)」も三大宗教のひとつである「宗教(仏教)」も、半島経由であれ、直であれ、「大陸」から来たのであった。

 しかし一方、それよりずっと以前、日本「列島」には今から約1万2000年前に「縄文文明」が始まり、1万年以上も続いていた。大陸からの影響の要素だけではあり得ない、オリジナリティに溢れる芸術に世界観や死生観を表現してあまりある文明である。

 独自の土器や土偶の造形には「生命循環」の観念が読み取れ、それは「文字」受容以前の人々の豊饒な「神話的な思考とイメージ」を示していた。

 量的にも質的にも東アジア大陸にはなかなか比肩するものはみられない。レヴィ・ストロースのいう先史社会の「多殖な表象」のさまざまが表されたのであった。

 なお「島」でも「大陸」でもない「半島」にも時にユニークな文化が生まれる。朝鮮半島も然りであり、ヨーロッパでは、「イタリア半島」はギリシャから来たエトルリア人の文化が育った。その後、ラテン人(ローマ人)が、ヨーロッパからオリエントにまで届く「帝国」までをつくり上げた。

 それは多様な「世界」を、巨大な「炉としてのローマ世界」に呑み込み、それを変容させつつ己のものにして文明として編み上げたものであるが、出発点は「半島」だった。

 これらの事実は、人類のおおいなる芸術的表象活動が、広い「大陸」から「半島」や小さな「島」へ伝わるベクトルのみではなく、「島」や「半島」に生まれた個性的な思考や芸術が数多存在することを示している。

 世界の文明史のなかで、輝きを放ち、長い年月をかけて、「島から大陸へ」、「島から世界へ」というベクトルも広がっていく、「特殊から普遍へ」という価値展開の可能性を力強く示している。

知られざる魅惑のイニス(ケルト語で「島」)が世界中にあった、そして今もある。



◆アイルランドという島


 さてユーラシア大陸の東西を俯瞰すると、日本列島とは真反対側に、地理上「合わせ鏡」の関係にある「島」が「西のきわみ」にある。

 それが「アイルランド」という島である(図❶ ブリテン諸島 https://www.westoneschool.com/post/2019/12/16/england-great-britain-united-kingdom-the-british-isles-what-is-the-difference)。

図❶
図❶

 ヨーロッパの西の端、現代のイギリス、すなわちブリテン本島の西の、大西洋を背にして浮かぶアイルランド島は、古代ローマ人が「ヒベルニア=冬の国」と呼んだ島で、北海道よりやや大きいほどの面積である。

 遅くとも紀元前4世紀にはケルト語文化圏であったアイルランドは、豊かな想像力を示す「神話」および、古代・中世を貫き表現されてきた「美術・造形表象」や、「文学・詩歌」などの芸術の遺産で知られている。

 ケルト語は、ヨーロッパのほとんどの言語である「インド=ヨーロッパ語族」の祖語に遡る。島のケルトでは、アイルランド、スコットランド、マン島では「ゴイデル語系のケルト語」が用いられ、ブリテン本島では「ブリトニック系のケルト語」であるウェールズ語、コーンウォール語、フランスのブルトン語が話された。神話伝説・民話がこれらの島のケルトの言語で伝えられてきた。

 しかし古代・中世の「島」の文化は孤立していたのではなかった。カトリックの本山、ローマを経由して、ギリシャ語、ラテン語の写本や、初期教父の著作が伝わり、ギリシャ神話や、ビザンティン美術の影響がみとめられる。

 このように古い歴史をもつアイルランドは、しかし、20世紀半ばまで800年もの間、近代ヨーロッパの「地政学」において最も強大となる「イギリス」という覇権国の植民地として、長きにわたる受難の時代を生きた。現代でもイギリスは、「君主の肖像」や「紋章」を貨幣に刻み続け、「ヨーロッパ=大陸」に属さないかつての「覇権国の栄光」を墨守している。アングロ=サクソン人主権のこの大国の足下で、「アイルランド」は長い被支配の歴史を生き抜いてきたのであった。

 他の「島のケルト」である「スコットランド」と「ウェールズ」は、近代に「イギリス」に併合された後、今日も「イギリス(グレート・ブリテン連合王国)」に留まっている。「アイルランド」はようやく1922年に自治権を獲得し「自由国」となった。しかしアイルランド島の北東部は今も「イギリス領・北アイルランド」である。

 いかにも日本では幕末期以来「イギリス(エゲレス)」と一言で括(くく)られてきた島国の正式名称は、「大ブリテン連合王国および北アイルランド」である。この国名も下図も、アングロ=サクロンによる支配によっていかに複雑な歴史を歩んできたかを示している(図❷「イギリス」=「大ブリテン連合王国および北アイルランド」と「アイルランド共和国」の関係図:①左端の楕円=アイルランド島➡「アイルランド共和国」と「イギリス領北アイルランド」に分断されている。②右側の大楕円➡イギリス即ち「大ブリテン」は「イングランド+スコットランド+ウェールズ」から成り、北アイルランドも領有。③大円➡ブリテン諸島は「ブリテン島本島」+「マン島+ジャージー島+ガーンジー島[英王室属領]等から成る)。


図❷
図❷

 いずれにしても現代の「ケルト語文化圏」は、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、マン島、ブルターニュ(フランス西部)である。そのなかで唯一の独立国であるアイルランドは、EU加盟国であり、「ケルトの虎」と呼ばれた1990年代の経済的発展で上昇気流に乗り、音楽・ダンス・映像・文学・アート・デザインまでに旋風を起こした。

 伝統のダンスの再創造となった「リヴァーダンス」は世界の舞台を席巻した。この舞台の成功は「共感」にあるのだろう。被支配の歴史を乗り越え、抵抗の歴史が、アイリッシュ・ダンスのタップの音と、分断を押しのけ無限循環するその音楽に表現されている。


 本章では、19世紀末から20世紀前半、近代の独立運動に並行して、アイルランドの「ケルト神話」と「芸術」を、それぞれの手法で「再話(リサイト)」した「異能の表現者」たちに登場を願おう。彼ら彼女らは、被支配によってケルト語文化圏の伝統が忘れ去られようとする時代に立ち合い、その死生観・自然観・美学までを近代に示した「島の血」をもつ。

 消えかかる伝統文化・伝承を、残照から巻き返して再生させることは、いかにして可能なのか。

 世紀末(ファン・ド・シエークル)から世紀転換期(ターン・オヴ・ザ・センチュリー)の文学者たちの「神話」と「芸術」への思いが、いかに「力による支配」を被った島国の歴史に光をもたらすことができたのか。それは私たちの現在の昏迷と祈りを映し出すのではないだろうか。



◆ケルト系修道院の黄金時代


 アイルランドは、小さな島国の中に、2つの「国」がある。「アイルランド共和国」と「イギリス領・北アイルランド」である。「アイルランド共和国」は1922年にイギリスから自由国となって悲願の「独立」を果たした。が、北東部の「アルスター地方」(前章で語った英雄クー・フリンが生まれた王国)の6州がイギリス領のままに残ったのである。

 この「南北分断」は1960年代末に勃発した「北アイルランド紛争」に始まったのではなく、中世から続いた「アングロ=サクソンによる支配」が近現代へ雪崩れ込んだ結果であった。

 しかしかつて、この島国には、ブリテン本島はもちろん、ヨーロッパ大陸にも繋がったケルト系修道院の「黄金時代」があった。ケルト系修道院が、古代末期までローマ帝国に抑えられていた「ヨーロッパ」に、新たな「信と知」を、辺境の「島のケルト」からこそ、もたらす貢献をしたのである。

 アイルランド島は、大陸やブリテン(イギリス)本島とは違い、古代ローマに征服されなかった。そのため、初期中世の修道院文化が、ヨーロッパでいち早く発展し、祈りの活動と共に学芸・芸術が早期に熟した。即ちローマの本山は別格としても、ケルト修道院文化が築かれたアイルランド島は、「ヨーロッパ」の政治・文化・宗教が大転換する初期中世(5-8世紀)に、西ヨーロッパ随一の「聖人の島」「学者の国」と呼ばれたのである。

 アイルランドのケルト系修道士たちは、イングランドよりも1世紀以上早くキリスト教を受容した。イギリス本島のキリスト教化の拠点となるイングランドのカンタベリーに先駆けて、5世紀以降、古典の言語(ギリシャ語・ラテン語)と、母語のケルト語(ゲール語)によって、ケルト語文化圏の神話伝説や歴史も写本に記す活動が開始されていた。

 それゆえに至宝『ケルズの書』(福音書写本)をはじめとして、「ケルト文様」に満ちる装飾写本の美も生み出し、その遺産は今日に至っている。

 ケルト系修道士たちは、新たなキリスト教信仰と学芸と共に、異教ケルトの香りを強烈に記憶する造形芸術や装飾の美を「島から大陸へ」伝えた。カロリング朝シャルルマーニュ大帝の宮廷学校の写本工房で指導する人材も輩出し、パリからアイルランドを目指した留学僧もいた。

 ヨーロッパの辺境から大陸への果敢な行脚は、諸国の為政者や人々を驚かせた。

 それは7世紀までにおこなわれた、アイルランドやスコットランド出身のケルト系修道士たちによる、ヨーロッパ大陸への「キリスト教伝道」である。

 それは喩えればわが国の遣唐使、空海のごとき行動力だった。

 死を覚悟で日本から大陸中国へ向かった「空海」が、日本最西端の九州の陸地を日本の地の最後かと眺めやり、荒波を越えていったように、修道士も小船を漕いで、ガリア(現在のフランス)を目指した(図❸―① 聖コルンバヌスの道 アイルランドから大陸への伝道https://friendsofcolumbanusbangor.co.uk/in-his-steps/ )。

 空海が中国へ旅立った地は、今日、姫島を背に立つ「日本の最果ての地を去る」という意の碑「辞本涯じほんがい」の場所とされている(図❸―②空海ゆかりの「辞本涯」長崎県 https://www.nagasaki-tabinet.com/islands/spot/688)。


図❸―①
図❸―①





図❸―②
図❸―②




 

                          



 最も知られるのが、聖コルンバヌスと12人の弟子のミッションで、現代の北アイルランド、バンゴールから出航し、この地図(図❸―①)にあるように、現代のフランス、ノルマンディーとブルターニュの境に上陸。そこから内陸へ行脚し、東部のルクシーユへ進んだ。いまだ、アルプル以北のヨーロッパ大陸のほとんどは「異教」の地だった。

 聖コルンバヌスの一番弟子であった「ガル」(人名)は、スイスの森にまでに分け入った。

彼はイタリア、アッシジの聖フランチェスコのように、「生きとし生けるもの」に語りかけた。ガルは「熊」に語りかけたともいわれる(図❹「森の熊にも話かけた聖ガル」 https://www.wi2017.ch/stgallen-2.html)。

図❹
図❹

 ケルトの異教時代でも「熊」は蜜の在り処を知っている、森の「賢者」であったからだ。ベルンからは古代ケルトの「熊の女神」像も出土している。ベルンには現代でも特別の「熊の園」があって崇められており、現代スイスの首都ベルンのマスコットも「熊」である。

 ガルが庵を結んだその地は、山中の森であった。現代では世界遺産の有名なザンクト・ガレン修道院(現存:バロック様式建築)が建っている(図❺アイルランドの写本 8世紀 スイス ザンクト・ガレン修道院文書館蔵 https://www.wga.hu/support/viewer_m/z.html)。

図❺  © Web Gallery of Art
図❺  © Web Gallery of Art

 ザンクト・ガレン(ドイツ語)は、「聖ガル」に由来する。中世以来この修道院が結び目となって「アイルランドとスイスの絆」が続き、多くの巡礼を集めている。

 しかしアイルランド修道士の大陸への伝道の旅にはまだ先があった。ガルの師、「聖コルンバヌス」はアルプスを南へ越えて、北イタリアはミラノに近いボッビオへ到達し、614年にそこで客死するまで布教に勤しんだ。

 この修道院の創設と歴史は、あの大ヒット映画の原作であるウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の修道院を思わせる(図❻『薔薇の名前』の文書館 俯瞰図 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Name_of_the_Rose#/media/File:Labyrinthus_Aedificium.svg)。

図❻
図❻

 正にこの文書館の左のゾーン、すなわち「西=オクシデンス Occidens」は「ヒベルニア=アイルランド」のセクションであり、アイルランド・ゲール語やラテン語で書かれた文書や関連写本が納められていることを表している。さすがウンベルト・エーコは、アイルランドと北イタリアの中世修道院の交流を背景に「史実」に則って文書館をイメージしたのである。

 実際ウンベルト・エーコは、アイルランドの至宝、福音書写本の傑作『ケルズの書』の豪華複製版の出版に際し、「ケルズの書のざわめき」という珠玉のテキストを寄稿したほど、中世アイルランドのケルト系修道院文化に篤い関心を抱いてきた(『ケルズの書』復刻版:Faksimile-Vlg., Luzern,1990)。

 さて、こうして私たちは近代では遅れた辺境とみなされていた、「アイルランド」の初期中世「修道院文化の黄金時代」という「島国の奇跡」を押さえた上で、今、1000年余の時空を遡り、19世紀末のイギリス(ブリテン)諸島に降り立つ。



◆19世紀末「ケルト復興」の背景


 アイルランド島では、遅くとも紀元前の4世紀にケルト語が用いられていた。また前3世紀までにはヨーロッパ大陸のケルト鉄器文明のラ・テーヌ様式の金工美術がより洗練され定着した。しかし紀元後5世紀、大陸北西部にいた西ゲルマン語系のアングル人、サクソン人、ジュート人がブリテン本島に侵入し、それを祖とするアングロ=サクソン人が12世紀からブリテン島が支配していく。以来、アイルランドは800年間、「アングロ=サクソン/イングランドの植民地」として、土地も言語(ケルト語)も奪われることになった。

 19世紀、「大英帝国植民地」統治下でその統治がピークに達する。スコットランドやウェールズ同様、いっそう「母語」は禁じられていった。支配者アングロ=サクソンの公用語「英語」の陰で、ケルト語(アイルランドではアイルランド・ゲール語)で読み書きも、物語ることも、歌うこともできず、伝統の言語文化は風前の灯となっていった。

 追い打ちをかけたのが19世紀の40年代における主食ジャガイモの全滅による大飢饉だった。当時800万人あったアイルランドの人口は餓死と移民で20世紀に入っても激減の一途を辿っていく。人がいなくなれば中世・近世の写本や民間伝承で伝わってきた「神話・伝説・民話」も風化してしまう。文字通り、ケルト文化は世紀末の末期症状を呈していく。

 しかしそこに登場したのが、「アングロ=アイリッシュ」を中心とする詩人・小説家などの表現者たちだった。ワイルド(作家・批評家)、W.B.イェイツ(詩人)、グレゴリー夫人(劇作家)やジョン・M・シング(作家、主著に『アラン島』)たちである。彼ら彼女ら、「アングロ=アイリッシュ」とは、祖先の系譜からすると「アイルランド人」と「アングロ=サクソン人」の混血であり、アイルランドと、イングランドや大陸のヨーロッパを自由に往復する表現者としての強みによって、「ケルト文芸復興」の中心となった。日本でもイェイツやワイルドやシングたちの作品が明治時代から今日まで愛読されてきた。

 もちろん20世紀文学に「意識の流れ」の手法をもたらしたジェイムズ・ジョイス(作家)は、西部コネマラの石工を祖とする生粋のアイルリッシュであった。ジョイスほど、祖国を去りながら「アイルランド」を「外部・異郷」から常に見詰め、アイルランドとその首都ダブリンを描いた作家はほかにいなかった。「ケルト文芸復興」を超えて、「世界文学の新世紀」の誕生に「アイリッシュとして」寄与した作家はほかにいない。

 「ケルト文芸復興」はまた文学以外の美術などまでに及んだ。総合的に「ケルト復興=ケルティック・リヴァイヴァル」呼ばれているゆえんである。

 上記の表現者たちは、中世ケルトの修道士たちのように、「島国」生まれだが、「隣の大国」(イギリス)や「大陸の都」(パリなど)に赴いて活動した。それはジョイスの戯曲『エグザイルズ(放浪者たち)』のタイトルに端的に記されているように、祖国を離れて彷徨う「エグザイル」とも称された。その表現と行動は世紀末からモダニズムへという緯(よこ)糸(いと)を携える、ヨーロッパ全体の近代芸術家の魚影の群れの中にあった。しかしそこに彼ら彼女たちの出自にかかわる伝統の「言語・文化・信仰・思想・考古・審美」という経糸(たていと)の魅力を太く編み込みながら、英語という普遍言語への戦略的翻訳も強みとして、欧米を中心に耳目を集めていく。

 個々人の作品と共に、イェイツやグレゴリー夫人は、情熱的に「ケルト復興」を世に示す神話・民間伝承の「再話」を発表した。それはスコットランドでもウェールズでもブルターニュでもほぼ同時に興っていくが、特にアイルランドでは、帝国イギリスからの「独立運動」と並行する「復興」運動となった。国民の生死にかかわる闘争と背中合わせのムーヴメントとして興り高まっていく。

 「近代化から遅れた辺境」とみなされたアイルランドやスコットランドやウェールズやブルターニュなどの「島のケルト」の伝統文化は、先進の覇者イギリス=大英帝国の近代経済システムの大車輪によっても滅せられなかった。イェイツたちは「いにしえから通奏するもの」を響かせる神話伝説、昔話の「語り」「物語」「詩」を、収集し翻訳し、それを自らの作品にも編み込んだ。己たちが、新たな「語り部=ストーリーテラー」となるという目標を立てたのである。

 アイルランドには「民間伝承を伝える語り部」はゲール語で特別に「シャナフィseanchaí 」と呼ばれてきた。

 その「語り」「歌い」の伝統は、ちなみに現代においてノーベル「文学賞」受賞者最多の国を、アイルランド共和国としていることに繋がっているといわれる。その伝統、詩歌のリネージは、受賞者イェイツ(受賞、1923年)を筆頭に、『ゴドーを待ちながら』の不条理劇で今も人気のサミュエル・ベケット(同、1969年)へ、そして現代では農家で育ち『ナチュラリストの死』を処女作として「ペンで大地を掘った」シェイマス・ヒーニー(同、1995年)までに引き継がれていても不思議ではないだろう。それがイングランドにはなき、アイルランド文化の強みであった、そして、今もある。



◆越境する神話と民間伝承:アイルランド、ドイツ、日本まで


 ケルトの神話や民間伝承の主人公は、「異界」からやってくる。あるいは地上の英雄たちが「地下世界」に降りて行き、異界を棲み処とする「死者」や「妖精」や「祖霊」と出会う。もちろんこのような物語は世界中の民族にあるだろう。しかし現代でも「アイルランド」のそれに人が惹き付けられるのは、単にその物語の奇想天外さや神秘性だけでなく、本章のテーマである、それを死滅させず「近代において」さまざまな方法で「再生」させようとするムーヴメントを経ていることを読者たちは知っているからであるだろう。

 世紀末とモダニズムの間にあって、「目に見えないものを透視する目」と「根源を見る目」を通して、「ケルト語文化圏から発せられた詩・物語」は、ヨーロッパ諸国、さらに北米や日本の人々にその文学的伝統にあった「神話伝説」の在り処を伝えた。

 イェイツは「アイルランド神話伝説」を大英帝国の公用語「英語」に翻訳して国外に広めるアイデアを抱き実践した。「ゲール語から英語へ」の翻訳で、神話伝説を流布する。この方法に対しては今も様々に評価が分かれる。しかし皮肉にもアイルランドを支配していたアングロ=サクソン人の「英語」によって、「ケルトの神話伝説」も世界に放たれる門戸が開かれたことは確かだった。

 もっとも、イェイツたちの試みによる功績以前、19世紀前半にも、アイルランドの民間伝承は、ヨーロッパ大陸に伝わっていた。ドイツの「グリム兄弟」は「ドイツ国民」のためにその「国」の統一のため言語の統一をめざし、家庭で母子たちも読めるドイツ語普及の媒体として最も魅力的な素材たる「民話」を収集・出版していった。その中、ヤーコプ・グリム(1785-1863)と弟のヴィルヘルム=グリム(1786-1859)の兄弟は、いち早く「ケルト」の民話にも興味をもち、アイルランドの好古家でフォークロアを収集したクロフトン・クローカー(1798-1854)の『南アイルランドの妖精伝説』を、1820年代半ばにドイツ語に翻訳し出版しており、この「民話」のドイツ語版は、今日も読み継がれている(第1部:Irische Elfenmärchen, Leipzig, 1826;『グリムが案内するケルトの妖精たちの世界(上・下)』藤川芳朗訳 草思社 2001年)。

 ヴィルヘルム・グリムの長い序文を、クローカーは英訳して紹介もした(Kamenetsky, Christa,The Irish Fairy Legends and the Brothers Grimm,Children's Literature Association Quarterly,Johns Hopkins University Press, 1982 Proceedings,pp. 77-86. https://muse.jhu.edu/pub/1/article/457710/pdf(図❼グリム兄弟訳初版+現代普及版)。















                図❼


 国内でクローカー自身が採集したとするアイルランド古謡や詩の断片は、アイルランドのトマス・ムア(1779-1852)による著名な『アイルランド歌曲集』の出版に貢献し、アイルランドからイングランド、ロンドンに移り住む栄誉に浴した。

 なおムアの歌曲集には現代でもよく歌われる「夏の名残の薔薇 The Last Rose of Summer」が含まれている。この詩が日本でも知られるようになり、里見義(ただし)によって「夏の名残の薔薇」として、1884年(明治17年)3月、「小学唱歌集 第三編」に入れられ、この歌はやがて歌詞の最初にある「庭の千草」のタイトルで知れ渡り今日に至っている。なおこのメロディーはジョイスの代表作『ユリシーズ』(1922年)にも出てくる。

 このようにアイルランドの民間伝承は、「民話」や「歌」にもなって、ヨーロッパ大陸にも影響を与えた。それは18世紀末から胎動し、19世紀末に本格化した「ケルト文芸復興」の波によるものであり、時間差で大正時代の日本にも届いたのである。

 大正時代、英文科出身の芥川龍之介が、ケルト神話の再話を和訳していることも驚くには当たらない。イェイツによって書かれた「ケルト神話」の再話で、芥川が和訳したのは、ほかでもないイェイツの代表作『ケルトの薄明』より「宝石を食ふもの」「三人のオービユルンと悪しき精霊等」「女王よ、倭人の女王よ、我来れり」という奇想の3篇である(「青空文庫」参照:https://www.aozora.gr.jp/cards/001085/files/1128_17118.html)。

 イェイツたちがゲール語から英訳したことから、日本にも知られることになり、そこへ東京帝大の英文科出身の芥川龍之介も身を乗り出して和訳した。いかにもこうして、いにしえの神話伝説が、近代文学者による「再話」や「準創作」から広がっていった。

 おそらくその理由は、マイノリティーだった言語集団(ここではアイルランド・ゲール語)が語り継いできた物語が「特殊な土地」に根差しているようにみえながらも、諸民族に共有される普遍的で魅惑的な「神話素」を保っていたからではないだろうか。もっといえば極めて巨大にして人間的な神々が活動する「ギリシャ神話」に比して、「ケルト神話」の主人公がその環境はひとつの「儚さの領域」に住まう者たちという印象を与える。

 いずれにしてもそれを語り継いだ人々・民族との神話伝説は、知られざる辺境の出生地をもちながら、そこから飛び立つとき、人間文化の生・死・再生のテーマを軸として「普遍」の地平に届く力を孕んでいる。そのため「特殊」な特色を消し去ろうとする強大なパワーによって、もぎ取られる寸前の困難の状況にこそ、受難を反転させ、その「普遍」的意味価値の翼を羽ばたかせるチャンスをもったのではないか。

 近代ヨーロッパ諸国の国民国家創成時代にあって、政治的に「利用」され、原語を奪われながらも、「復興」を実現することができた。そもそも大英帝国の政治的支配力が、ケルト文化を抑圧しつつ、今日世界で最もよく知られているその神話の金字塔(アーサー王の神話伝説)を帝国の架空の宗主に仕立てようとしたのも、その物語が実は当の「権力」によって回収されない不可知の魅力があったからであろう。

 19世紀末に、「島国アイルランド」の文化伝統の「血」をもった表現者たちは、それぞれに、どのようにして「ケルトの歴史・文化・芸術の伝統」を捉え、ヨーロッパや北米にまで、その残照と再生を知らせようとしただろうか。

 本章で述べていく以下のアングロ=アイリッシュを中心とする「ケルト復興」時代に立ち会った表現者たちは、近現代に起こる神話の「負の利用」や衰亡の間(はざま)に立ち、ゆえに彼ら彼女ら自体が文化継承と革新の創造に揺れる試行錯誤の主人公であったとしても、近代における自民族を含む「人間の再生」を筆という灯火で示したことは確かだったといえるのではないだろうか。

 本章では希代の批評家として時代の寵児となるひとりのアングロ=アイリッシュの生き方を軸に、私たちはその同時代に立ち会おう。



2.オスカー・ワイルド ―「ケルトの神話・芸術」と「大英帝国」の間(はざま) に生きた唯美主義者

◆アングロ=アイリッシュの出自


 アイルランドのダブリン出身で、19世紀末から20世紀へ、時代のパラダイムを変容させる存在となって躍り出た異才といえば、オスカー・ワイルド(1854- 1900)である。ワイルドは「芸術は自然を模倣する(真似る)」のではなく「自然が芸術を模倣する」という逆転の思想を打ち上げた芸術家にして批評家である。「芸術」という小宇宙は、人間の「生=自然」に従って存在するのではなく、人間の「生死」を決定するほどの力と魔力をもつということを、自らの人生の躍動と、滅びを以って、世に示した。

 父のウィリアム・ワイルドの一族は、プロテスタント(アイルランド国教会)の信徒で、1690年にオレンジ公ウィリアム(=ウィリアム3世:1689年-1702年:イングランド、アイルランド、スコットランド王)の侵略軍とともにアイルランドに渡ったオランダ人のデ・ワイルド大佐に遡り、アングロ=アイリッシュ系の子孫であった。父ウィリアムは大英帝国の「女王陛下の眼科医」の栄誉をもつ医者であった。が、黎明期にあったアイルランドの考古学に熱心であり、好古家からアイルランド王立アカデミーの考古学部門に貢献した。

 開医の傍ら、アイルランドの風土、文物についての著作も発表した(The beauties of the Boyne and its tributary the Blackwater, 1849. Lough Corrib, its Shores and Islands, 1867, republished 2002. 'The Early Races of Mankind in Ireland', The Irish Builder, 1874.)。その功績で1873年、アカデミーから金メダルを授与され、ダブリンのトリニティ・カレッジの同僚アイザック・バットがアイルランド議会党の前身として設立したアイルランド民族主義の 自国政府協会の創設メンバーでもあった。

 しかしオスカーの母こそは、「スぺランツァ」のペンネームを奮う詩人・活動家として、独身時代から活躍してきた「愛国主義者」の芸術家だった。ナショナリストの活動家としても独立運動に参加し、アイルランドの民俗、フォークロアの保持に力を注ぎ、伝承を調査し刊行した才女であった。こうした両親から息子オスカーは生まれながらにして、個性の強さ、行動力、文才を贈与されていたであろう(両親の著作集は現代でも読まれている:Selected writings of Speranza and William Wilde, edited by Eibhear Walshe, 2020)。

 富裕層の恵まれた環境で、ダブリンの中心、メリオン広場にある、今日名所ともなっている「ワイルド・ハウス」で、オスカーは生後まもなくの1855 年から1874年(20歳)でオックスフォード大学モードリン・カレッジに進学するころまで住んだ。その意味でオスカー・ワイルドは生粋の「ダブリン人」だった。しかし「ダブリナー」であるということは、30年ほど後に生まれるジェイムズ・ジョイス(1882-1941)が描いたように、イギリスによる長い支配に耐え、カトリシズムの訓えにも抑圧を感じさせる「麻痺状態(パラノイア)」の町を故郷とするということを意味していた。アングロ=アイリッシュ系である恵まれた生まれも、アイルランンドに居る限り、あるいはそこから脱出して他所から思いを馳せる限り、「ダブルバインド」の苦みを生きる、少なくとも強く共感する宿命を背負っていた(図❽ オスカー・ワイルド)。


図❽
図❽

 オスカー・ワイルドは長生きしたイェイツ(1865-1939)もアングロ=アイリッシュであり、「ケルト文芸復興」の立役者といわれるイェイツも、ワイルドと同様、またジョイスと同様に、「放浪者」であったといえる。ワイルドは生年からみて、イェイツより10年も早く生を受けており、上記の母親が活動家でもあった「アイルランド独立運動」が激しくなっていく19世紀半ばに生まれた。その1950年代初頭は世界最強の支配者「大英帝国」は世界中から集めた文物を第1回「世界万国博覧会」をロンドンで開催しその覇権の絶頂へと突き進んでいたときである。

 オスカー・ワイルドは、大英帝国の旭日を落とす勢いの時代にダブリンからオックスフォードへと旅立ちその大国の庇護の下で学生から芸術家へと、いわば急成長した、最も幸運なアングロ=アイリッシュの青年だったといえる。

 20代で気鋭の唯美主義の批評家として寵児となり、北米で1年間にも亘の講演をこなし、その言動とファッションが社会現象を巻き起こし、30代に入ると1887年 -90年、雑誌『婦人世界』(The Woman's World)の編集者としても注目を浴び、社交界の人気者になったのである。91年にはパリで『サロメ』をフランス語で執筆し、94年には「恋人」であるダグラスの英訳でも『サロメ』が出版された。

 しかし正に世紀末、1895年、41歳のとき、男色の科(とが)によりロンドンで投獄され、世間から忘れられた者となり、梅毒によって、20世紀の夜明けを待たずに、46歳でパリで亡くなるという波乱万丈の人生を送ったのだった。

 そしてこのようなワイルドのドラマティックな人生と死は、よく知られているものである。

しかしこうした美と生の探求者として世界文学史に名を遺すオスカー・ワイルドには、革新の芸術論者で世紀末の退廃の美学者であった顔のほかに、果敢に「祖国アイルランド」の「ケルト復興」を呼びかける活動家の姿があった。



◆母が与えた神話英雄名―イギリスの「ルネサンス」政策とワイルド


 彼のアイロニーに満ちた批判精神は、何世紀もの間、宗主国のイギリスによる支配に縛られ、常に瀕死の状態を突き付けられてきたアイルランドの国をみつめる、彼のもうひとつの批評家としての「パトリオティック(愛国的)な表現活動」があったことはあまり知られていない。

 その顕れは早く、大学を終え、1年間にわたる有名なアメリカ講演に向かい、大西洋の反対側で大きな歓迎を受けた20代前半に起った。講演先の各地には、富裕層のほかに、アイルランドから移民したアイリッシュ・アメリカンの聴衆が大勢詰めかけた。それは世紀末唯美主者を目撃しようという野次馬もいたかも知れない。その聴衆を前にワイルドは「芸術家としてのケルト人」のテーマで、文芸・芸術における「ケルト復興」を喧伝したのである。

 ワイルドのアメリカ講演で際立つこの出来事は、アイルランドを支配してきたアングロ=サクソン主権のイギリスの「ねじれ」を「ケルト」の鍵穴から解いたといえる。

 イギリスは、同じゲルマン語派のライバルである、ヨーロッパ大陸の列強「ドイツ」に、その文化の古さ、古代性のステイタスの意識において、過剰なほどに対抗してきた。文化的優越性をアピールするため、「大英帝国ヴィクトリア朝は、イタリア・ルネサンスの後継者」であることを謳ったのもそのためである。すなわち帝国は、ヴィクトリア朝の絶頂を示すため、「ヴィクトリア&アルバート美術館」(前身は1852年開館、現在の建築は1909年竣工)のコレクションを中心として、首都ロンドンや地方都市のモニュメントや建築デザインにおいて「ルネサンスの後継者」を強力に可視化する国策をとった。

 既に述べたとおりその「時代(アエラ)」にオスカー・ワイルドは、植民地の首都ダブリンからオクスフォードに進学し、アングロ=サクソンの大国の環境で恩恵を受け、批評家として身を立て始めたのである。

 そのなかで、ヨーロッパの「芸術の根源」として、「ヨーロッパの詩の芸術」の原初は「古代ケルトの司祭ドルイド」に遡ると語り、書いたのであった。

 しかしワイルドのこの批評や表現には、ひとつの「捻じれ」「二重の背景」が折りたたまれていた。

 改めて、ワイルドの家系はアングロ=サクソン系の祖をもつ。それは彼が「アイルランド人でありイングランド人である」、あるいは、「アイルランド人でもイングランド人でもない」出自であることを意味している。

 その曖昧なアイデンティティに対して、詩人にしてアイルランドのナショナリストのオピニオン・リーダーであった母は、息子に「神話」的な名を与えることによって「アイリッシュネス=アイルランド人であること」の自覚を与えようとした。実際母は、息子オスカーに「ケルト神話」のヒーロー名「フィンガル」の名を与えた。したがってワイルドのフルネームは「オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde」というものなのだ。

 「フィンガル」とは、アイルランド人なら誰もが知っている、ケルト神話の主人公。いにしえのアイルランド南部の王国、マンスター王国を護る騎士団の長であり、英雄の名であった。イギリス側の文化人ならこの「ケルトの英雄」は知っていた。この英雄の勲を主題として作曲家メンデルスゾーンが作曲した有名な「フィンガルの洞窟」が初演されたのはロンドン(1832年)であって、人々は「フィンガル」神話を、アイルランドとイギリス側で共有していた。

 しかし愛国の表現に止まない、詩人の母から授かったこの誉ある名を、オスカー自身は、真に受け入れてはいなかったのだろう。青年になるとき、彼は「フィンガルを消す」ことによって、、20歳でアイルランドを後にし、イギリスへ渡り立志した。すなわちダブリン大学トリニティ・カレッジを優秀な成績で卒業し、大英帝国の最高学府オクスフォード大学のモードリン・カレッジへ進んだ時、このケルト神話で最も有名な英雄の名を、封印したのである。

 そしてワイルドは、「アングロ=サクソンの帝国」の国を挙げての「文化政策=イタリア・ルネサンスの正統な後継者としてのヴィクトリア朝イギリス」の息吹のなかで学び、頭角を現す。

彼がダブリン大学に続きオクスフォード大学で修得した「第一の」文明・芸術は、当然、当時の人文学の定めとして「ギリシャ・ローマの古典古代」およびその復興としての「イタリア・ルネサンス」であった。

 ジョン・ラスキン(1819-1900:批評家。ターナーやラファエル前派を擁護する美術評論と並行して、実践的社会改革の提唱者。『近代画家論 』1843-60年、『建築の七灯』 1849年))の講義を聴き、ヴェネツィアに憧れを抱いた。決定的にはウォルター・ペイター(批評家、小説家)を通じて「ルネサンス」の芸術・文化を身に着け、ワイルドは「弟子」としてペイターの『ルネサンス』(初版1873年)を黄金の書として奉じた。なおペイターもオランダ系医師の子としてロンドンに生まれた「異邦人」であった。

 オスカー・ワイルドの古典古代文化への憧れとイタリアやギリシャへの旅は、当時の特に上流階級の学生にもあったものだが、1875年にトリニティ・カレッジの恩師ジョン・マハフィーとイタリアやギリシャに旅したことで既に熱く叶えられていた。「ギリシャ・ローマ」の古典への旅は、英国ブルジョワジーの憧れの「グランド・ツアー」の近代的伝統だが、優秀なワイルド青年のヨーロッパの歴史観は、地中海の古典を源とするところからスタートしていた。

 そのギリシャ・ローマの芸術と文化が、「イタリア・ルネサンス」によって復興し、そして今や目の前の「大英帝国」によって、新たな継承が実現されている。ワイルドにとって師ペイターの『ルネサンス』(初版1873年)はバイブルとなった。それは日本におけるイギリス文化・文学者にとっても必携の書となってきたほど、「イギリスによるイタリア・ルネサンスの継承」という国策は、国際的にイギリスを輝かしい帝国とすることにペイターの書は貢献した。

 なによりペイターの「弟子」としてオスカー・ワイルドはペイターの『ルネサンス』を「黄金の書」として奉った。そのことから世紀末期に同書は、正にワイルドが成熟させる「唯美主義」や「デカダンス」のイメージを纏ったのである。「唯美主義(耽美主義)」は(トーマス・カーライルの耽美への先駆的貢献などへの評価にあるように1820年代後半に芽生え)1860年頃からイギリスやフランスの芸術思潮に際立っていったっもので、「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く」思想であり生き方である。

 そもそも芸術作品の価値は観念的な思想にあるのではなく、鑑賞者の五感、感覚に訴える「形態や色彩」そのもの美にあるとするのである。そのために人間は「感覚的」に繊細・鋭利であるべきであり、それを磨くことが肝要である。それは日常の自分自身とその環境(服飾・インタテリアなど)において「生活の芸術化」を進めることが促進されるべきである。それは感覚的志向を重視する態度から、官能的な享楽を求めるという側面では「デカダンス」に結びつけられるもする。

 そのデカダンス、退廃的美の使徒とみなされるようになったのがオスカー・ワイルドであり、それは彼の奇抜なファッションや、男色など「反社会的な行為」として眉を顰められた。しかしワイルドにとって、「唯美主義」「デカダンス」、「生活の芸術化」とは、当時の列強が競った近代経済システムによって、急速な進歩主義が進み、効率性・生産性・利潤を神とする資本家を頂点に置く社会の楽観主義へのアンチテーゼであったのであった。

 「美」(たとえば同時代の工芸界における「生活の芸術家」を唱えたウィリアム・モリス(1834-1896)の「一枚の壁紙」の実現には資本・資金は必要である。しかしモリスたちの手仕事ではなく、マシンによって「美の偽物」が次々に消費され人間の生活を風化させていく、大帝国キャピタリズムの暴走を、ワイルドは身をもって阻止しようとした。

 しかしダブルバインドは、付いて回ったといわねばならない。

 既述したように、ワイルドは、卒業後、20代で当代の「唯美主義者」として人気批評家となり、1881年、大西洋を越えて最初の講演旅行を実現し、アメリカ各地での1年間に亘る活動で人々の話題をさらい、派手な服装で揶揄も受けつつ、人気を博す。しかし、そこで熱っぽく語ったのは「ギリシャ・ローマの古典」ではなかった。ヨーロッパおける「詩歌の芸術」は「ケルトの司祭ドルイド」によって始められたという、「ケルト文化」擁護の芸術史観を堂々と示したのである。

 だがしかし、この彼の「ケルト擁護」は、あくまで大英帝国のステイタス構築という文化政策の常軌に則っているものでもあった。そこに意識的にも無意識的にもワイルドならではの「妖しき捻れ」があった。

 ワイルドの『芸術論』のテキストをよくみれば、1890年にも、彼は、「今や英国では装飾のルネサンスが興っている。……われわれは悪いものをみな駆逐したんだ。これからの問題は美しいものを作ることなのだ。……ケルト族の創造的能力があれだけ旺盛なもので、現在彼らは芸術の世界の王座を占めているのだから」と書いている。

 つまりここでは「ケルト」は、「イタリア・ルネサンス」の正当な後継者としての世界の覇者、大英帝国、英国の「新生」に寄与するものとして語られていることがわかる。しかし逆にいえば、「大英帝国には魅力的な知られざるケルト文化がある」と強調しているとも読める。なぜワイルドは、大仰に、ここで「ケルト」を持ち出したのか。世界の半分以上をもっているといわれた大英帝国に、「ケルト」の価値を「塗布する必要」が、如何にしてあったのか。



◆「神話なき大英帝国」による「ケルト神話の植民地化」の背景


 それは、国の威信にかかわる、重大な要素、すなわち「大英帝国には自前の<神話>は実はなかった」という事情である。

 当時、世界で最も強大となった「大英帝国」の主権を握るアングロ=サクソンの文化には、実は、いにしえからの独自の「神話」は、他国に奪われて手元になかった。それはイギリスの歴史において重大な欠落であった。

 近代において18世紀後半から産業革命を興した大英帝国、イギリスは世界の覇者となった。木綿工業から始まった技術革新から機械工業、鉄工業などの重工業に発展し、鉄道・蒸気船の実用化で交通革命をもたらし、「工場制機械工業」の出現が社会変動を生みだし資本主義社会を確立させた。しかしこの先進的大国には「国」として「神話的歴史的な<いにしえ>」に遡れる「ステイタス」が欠落していたのである。

 そもそも現代では世界語にもなっているアングロ=サクソン人の「英語」の本家は、大陸の「ドイツ語」から枝分かれしたものである。「アングロ=サクソン」の言語文化は、大陸の「ドイツ語派」、すなわち「西ゲルマン語系」に遡るものだった。

 しかしブリテン島に侵入した民族アングル人、サクソン人たちは、西ゲルマン語から生まれるのちの「英語」の言語をもたらしたにかかわらず、その侵入、移住の際に「神話」は持ってこられなかった。なぜなら「ゲルマン語圏文化」の「本家の神話」は、ドイツや北欧で中世に写本に記された。それが今日「ゲルマン神話」や「北欧神話」と呼ばれるもので、ドイツや、アイスランドなどに保持されてきたからである。

 したがって「大陸から移動してきた一部の西ゲルマン語派の族」だったアングロ=サクソン人の祖には、本家本元の「神話伝説」は「ない」まま、ブリテン島で生きてきたのである。

 20世紀にトールキンの『指輪物語』の霊感源となった、現存する「最古の英語」(古英語)の英雄譚『ベーオウルフ』(成立は八世紀前半。写本は1000年ごろ。大英図書館蔵)も、知られるようにその主人公は、(アングロ=サクソン語で書かれていても)「西ゲルマン語圏」の「北欧人」であるデンマークのデーン人の英雄なのであって、アングロ=サクソン文化における、大元の「神話の不在」を、『ベーオウルフ』自体が物語ってしまっている。

 この問題が深刻化したのは、19世紀、国民国家創成において、「イギリス」と「ドイツ」という(本来は同じゲルマン系言語文化の兄弟姉妹であるべき)2国が、列強同士の競争と敵対によって、文化的優位性を競うことになったからである。

 アングロ=サクソン人は繁栄し、遂に19世紀、世界に冠たる「覇者」となるが、そもそも現代に至るまで神話時代に遡る国の「起源」「古代性/アンティキティ」を証するに最も必要な証明書である「神話」を、当時も今もドイツや北欧に取られてしまっている現実がある。特に、一国の神話には「王」=「宗主」の存在が詳述されているが、神話がないので、王こそが不在である。

 よって19世紀半ば、ヴィクトリア女王の王冠の下、「イギリス」は、覇権を手中とした最大のこの好機に自国を「イタリア・ルネサンスの後継者」というステイタスのラベルを「創造」した。「イギリス」の島は北ヨーロッパに属するが、ヨーロッパの起源は「ギリシャ・ローマ」という「輝く古典文化」にあると信じられており、その輝く「古典文化芸術復興」の歴史を刻んだのが「イタリア・ルネサンス」であるとする。ヨーロッパのなかで今や列強のドイツやフランスやイタリアやロシアを押さえ最も強大となった大英帝国」がその「正統の継承者である」ことを「宣言」するという、必死の国策を打ち立てたのである。

 その結果、19世紀ヴィクトリア朝のデザインは、どこに行っても「ルネサンス風」の建築、工芸、インテリア・デザインなのであり、ラファエル前派は、イタリアへ巡礼し、修道院の兄弟団を謳い、結束し、オクスフォード大学やウェストミンスターの女王控えの間にも、「イタリア・ルネサンス絵画風」のイギリス絵画を展開し、国に貢献することになった。

 しかし、この策には、飛躍があることは、イギリス以外のヨーロッパ諸国から見て、明々白々であった。たとえ「イタリア・ルネサンスの正統な後継としてのイギリス」を謳っても、実際の大英帝国の「文明の血統」は「地中海世界」に遡れることはない。ギリシャ・ローマ文明からみてイギリスはアルプス以北の北ヨーロッパに属し、しかも大陸ではなく、北大西洋に浮かぶ島である。そもそもイギリスにはそれらを証明する「神話」が不在なのである。

 しかしである。大英帝国内には、19世紀まで、そして現在も、アングロ=サクソンと同じ、「北方」文明に属する「ケルト」の「言語・文化」が存在してきた。帝国の「古代性」を証明するいにしえの神話が足下にあることに、アングロ=サクソンは、ライヴァルのドイツに対抗して、気づいた。

 それを果敢に喧伝したのが、教育者・歴史家のマシュー・アーノルド(1822-88)の著作『ケルト文学研究』(1867年)や言説であった。アーノルドは、大陸フランス、ブルターニュのケルト語文化圏の伝承をまとめたエルネスト・ルナン(1823-92)の『ケルト族の詩歌に関する詩論』(1854)にライヴァル意識を燃やした。フランスには18世紀初頭以来、ナポレオン1世をも巻き込む、叙事詩『オシアン』ブームが起こっていて、「ケルト神話・文学の第一次復興」というべき「ブーム」が実は、起こっていたのである。ナポレオンは「ケルト・マニア」とも呼ばれたほど、その物語を画家アングルに描かせた(『オシアン』ブームについては後述)。

 ヴィクトリア朝にとって「イギリスの神話的古代」のステイタスを証明するには、この領土に「ケルト」があると表明することが一番である。「古代なき宗主国」イギリスは、それを再建するため「ケルト」に白羽の矢を立てたのであった。

 実は遡ること12世紀、1136年ごろに、ウェールズ出身の聖職者ジェフリー・オヴ・モンマスがラテン語で『ブリタニア列王史』という「偽史書」をものしており、ギリシャのホメロスが伝えた神話『イリアス』のトロイア人たちの子孫こそが、ブリテン国家を建設したと書いた。これも苦肉の策であったが、ジェフリーのこの偽史書は、トロイアの子孫が着たの古代から、7世紀のアングロ=サクソン人によるブリテン支配までの2000年間について書き、そこに「ブリトン人」王たちの生涯を物語ったのである。

 そして偽史書ではあれ、その「ブリトン人」とは、今日明らかになっている、ブリタニア(イギリス)の島で話されていたケルト語系の「ブリトン語」を話す人々を指している。しかしあくまでジェフリーにとってブリタニアの民の「祖」は、古典的神話のステイタスから出自する「トロイア人」でなければならなかったのである。

 したがって1851年に世界で初めて、ロンドンのクリスタル・パレスで開催された万国博覧会会場にも、中世修道院文化の金字塔としてのモニュメントである「ケルト十字架」が飾られ、ヴィクトリア女王が自らそれを高覧する姿が版画で記録されている。(なおこの第1回万博には日本は参加していない。)

 さらにこの万博のパヴィリオンの美術監督を務めたオーウェン・ジョーンズ(1809–74 )が、植民地のインドやアフリカ、そして中国やアメリカ大陸など世界中からこの万博に集結した「装飾美術・装飾文様(オーナメント)」を百科事典にまとめて出版した際、そこにもアイルランドやスコットランドに遺る「ケルト十字架」が掲載されている(図❾ Jones , Owen, The grammar of ornament , Illustrator Bedford, Francis, Day & Son, Ltd., London,1856. https://www.metmuseum.org/art/collection/search/814025)。

図❾
図❾

 この「ケルト十字架」という石のモニュメントは中世ケルト系修道院に建てられたものである。これもアングロ=サクソン人の祖がこの島国に侵入する以前から、すでにこの島嶼に定着して鉄器文化を成熟させていた「ケルトという言語文化集団」の歴史や芸術のなかでその中世の黄金時代を代表するものである。こうして帝国は「ケルトの文化遺産」を「グレート・ブリテン」の「古代性のステイタス」の証として取り込み、万博でお披露目し、書物に表して可視化した。それら「ケルト」のマテリアル・カルチャーを、アングロ=サクソン、イギリスは、己の文化と権威の支配下に置いた。それは「ケルト文化のアングロ=サクソン化」、つまりは「ケルト文化の植民地化」といわねばならない策であった。

 そしてその事業は、文学領域の創作によってとどめを刺した。



◆アーサー王を「宗主」とした大英帝国


 それはヴィクトリア朝イギリスの都ロンドンに留学中の夏目漱石も愛読した、ヴィクトリア朝「桂冠詩人」テニスン(1809-92)による、『国王牧歌』(1856-85)の出版をという巧みな大技(おおわざ)であった(図❿ テニスン『国王牧歌』& ギュスターヴ・ドレの挿絵「アーサー王と魔法使いマーリン」 amazon.co.jp/gp/cart/view.html?ref_=nav_cart)












   

図❿

 これが大技であるのは『国王牧歌』は、時のヴィクトリア女王の夫君のアルバート公を「いにしえのケルト系ブリトン人の王、アーサー」になぞらえ、公に捧げた作品だからである。12の物語詩からなり、1856年から85年まで実に30年にわたり書かれ出版が続けられた。いにしえのケルト神話によって「大英帝国の神話を創出」した文学作品だった。

 この「王」とは、古代「ケルト系ブリトン人」の王「アーサー王」である。ケルト神話伝説の宝庫であるウェールズの『マビノギ』と、ルネサンス期にキャクストン版で出版されたトマス・マロリーの『アーサー王の死』を基にテニスンが大幅に脚色した。アーサー王を、当代のグレート・ブリテンのいにしえの「宗主」として称揚し、それをアルバート公になぞらえるという「神話の捩れ」を堂々と創造したのである。

 この捩れが、二重にアクロバティックものであるのは、皮肉なことに、そもそも「アーサー王」は、伝説でも歴史においても、このブリテン島へ侵入してきたアングロ=サクソン人に対して果敢に防戦した「ケルト系ブリトン人の王」であったからである。

 そして「アーサー王」に関するこの捩れは、遡ればさらに二重にあることも分かってくる。前出した中世のジェフリー・オヴ・モンマスが書いた『ブリタニア列王史』には、まさにブリタニアに侵入するアングロ=サクソン人をディフェンスする勇者、王として、ブリトン人のユーサーの活躍が描かれている。このユーサーを父の王位を継承し、ブリトン人の王となるのが「アーサー」なのである。ブリトン人とは既に述べたように、言語文化において、「ケルト語派(のブリトン語)を話す人々」を指しているのであり、アングロ=サクソンの侵入を防いだと同時に、長じたアーサー王は、大陸にも遠征し、ローマとも戦っていることを、ジェフリーは物語った。つまり現在の「ブリテン島(イギリス本島)」の名は「ブリタニア」つまり「ブリトン(語・人)」に語源をもつとおり、この島は、アングロ=サクソン人侵入以前に、神話においても実際においても「ケルト」の言語文化の地であった。

 しかし19世紀の大英帝国の国策は必死であった。

 『国王牧歌』の出版は単に楽しみのために鑑賞される中世趣味のイギリスの詩文学なのではなく、植民地主義を背景とした大英帝国がヨーロッパ諸国と世界に示す(示さなければならなかった)、治政学上の一大事業であった。わが国でも『国王牧歌』は、ヴィクトリア朝イギリスの「桂冠詩人」テニスンの名作として読まれてきた。が、これはヴィクトリア女王の治世の時代にわたり、20世紀への転換期まで長い歳月をかけて出版された「神話の植民地化」と「神話の捻じれ」を背負っている。

 わが国の記紀神話も「大日本」の「起源」の神話化に活用・利用されたとおり、神話伝説が近代に国家主導で「復活」するとき、その「変形」や「換骨奪胎」の危うさを披歴し、それを推進する権力の大きさを伝えている。



◆日英同盟:日本神話と列強イギリス


 「大日本」と「大ブリテン」は、自国の再神話化がおこなわれた近代において、手を携えていたことも覚えておきたい。

 いうまでもなくわが国を「神国・日本」と謳うために、記紀神話の神々や英雄を戦争と帝国主義のために張り付けた「国策」のなか、明治時代、イギリスと日本は、軍事同盟の「日英同盟」(1902年、明治35年)を結んだ。そのときこのような「絵」が、商品広告とまでなって流布された(図⓫「アマテラスとブリタニア」 インペリアル・タバコのポスター 1903年頃 たばこと塩の博物館蔵)。

図⓫
図⓫

 兜を被り楯を手にした「ブリタニア=大英帝国の寓意像(アレゴリー)」と並んで、大日本、ヤマトの女神「アマテラス(やまと姫)」は長刀を握って雲上に立ち、同名の表象となった。

 2人の「女神」は同調し、これから帝国主義の力によって、ヨーロッパとアジア、世界に、自分たちの領土がいっそう拡大する姿を睥睨するかのように立っている。

 日英同盟は、ロシア帝国の極東進出に対抗して締結され、第二次(1905年、明治38年)、第三次(1911年、明治44年)と継続更新され、1923年(大正12年)の失効前まで続いた。

 19-20世紀の大戦へ突き進んだ列強の覇権争いの歴史の実態は、この煙草パケージの広告一枚にも、あからさまに「神話の利用」をおこなった近代国家の「国策」の危うさが映し出されている。

 このように「神話」がその都度、時の権力や覇者によって、本来的でない「表象」とされ得る歴史はどの国にも起こり得たのである。



3.ワイルドの「祖国」と「神話」

◆「ドルイド」から「美術・工芸」まで


 さて大英帝国の状況をみてきたが、そこに実際に生きた表現者オスカー・ワイルドに戻ろう。

繰り返し述べてきたように彼が生きた時代は、最も「大英帝国によるアイルランド支配」が厳しかった。1840年代の世界史に知られる「アイルランドの大飢饉」はそれからの半世紀以上にわたって、800万人から400万人へと、島国の人口を半減させる。

 高見から世界を睥睨する、大帝国が編んだ大文字の歴史書からはこぼれ落ちた被植民地アイルランドの文化伝統を、母親から授けられていたオスカー・ワイルドは、アイリッシュの血をもつ者として、被植民地アイルランドの文化遺産を、この大帝国の下にも意味付ける、前出の言説を発した。

 「知る価値のあるものは、常に(教育によっては)教えられないものである」

 「ヨーロッパの詩歌の芸術は、古代ケルト社会のドルイドに始まる」とワイルドは述べた。


 当時、言語学と考古学が結びつき、インド=ヨーロッパ語族の文化圏の最も西を占めたケルト語と考古学的出土物が、「ケルト文化」として、ヨーロッパ大陸の先史を徐々に明らかにする時代が来ていた。

 ワイルドが「ドルイド」は「ヨーロッパで最初の詩人である」と言い放ったのは、空想ではなく、カエサルやプリニウスなど古代ローマ人の著述に拠ったものであった。

古代ローマ人は「ドルイド」の起源は、太古の「ブリタニア」にあると記していた。ケルト神官ドルイドの教えは、医術から呪術まで、予言から詩歌の鍛錬まで、あらゆる「技/術=アート」に通じていたと、カエサルは『ガリア戦記』に記していた。

 少なくとも、ワイルドは、アメリカでの講演や、芸術論のなかで、いにしえのケルトの祭司「ドルイド」を取り上げ、ヨーロッパにおける基層文明としての「ケルト」の領域の重要性を聴衆や読者に喚起させ、現在に起こりつつある「ケルト文芸復興」や、さらにアイルランドの伝統工芸(名産の麻布に刺繍する『ケルズの書』のケルト文様の復活)をも後押しした。



◆ケルト神話の英雄名「フィンガル」、ワイルドに授けた母


 この19世紀末、大英帝国は、植民地アイルランドなど非アングロ=サクソン系から、「文化搾取」をおこない、いっそう厳しくケルト語を捨てさせ、英語の使用を強制していった。

ワイルド自身は英語やフランス語で作品を書いたが、実は彼は「自身」が神話に結びつく「ケルトの名」を授けられていた背景をもっていた。

 彼の母親は、前述したとおり、イェイツたちに先駆け、アイルランドにおける「ケルト文芸復興」の急先鋒として活動してきた女性だった。そして生まれた男児ワイルドに、ファーストネームとして付けたのが、アイルランド神話の英雄名「フィンガル」だった。

 すなわちワイルドのフルネームは、「寿限無」のように長い「オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド」であった。

 彼が授かった「オスカー(オスカル)」という名は、アイルランドの民間でも、また北欧の王室でも、きわめて人気のある男児名であって、あのアメリカの「アカデミー賞」のトロフィーも「オスカー」の名をもっている。

 アイルランドに伝わっていた神話のなかに「フィアナ説話群」というものがある。この神話で「オスカー」すなわち「オスカル(愛される鹿)」として登場する。オスカルの父は、オシアンで、この神話の英雄、首領「フィン」の孫である。オスカルは戦士で、祖父のフィンの敵との戦闘で命を落とす。

 オスカルの父「オシアン」名は「鹿の子」の意味をもつ。つまりオスカルも、その父のオシアンも、母は「鹿」であった女性だった。

 その鹿であった女性に、父フィンが森で出会い娶り、オシアンが生まれ、またオスカルがその子として生まれたのである。

 さらにこの「フィン」はまた、アイルランド神話で「フィンガル」としても語られている。

 北欧から攻めてくる北の外敵を防戦して戦死する、あの英雄叙事詩『オシアン』の主人公、「フィンガル王」である。(メンデルスゾーン作曲の管弦楽「フィンガルの洞窟」もこのケルト神話から霊感を受けて作曲されたもので、1832年ロンドンで初演された。それはオスカー・ワイルドが生まれた1854年よりも20年も前で、以来、アイルランドやスコットランドのみならずイングランドでも「フィンガル」や「フィン」、「オシアン」や「オスカル(オスカー)」という神話の主人公たちの名は男児名として一般に広く知られ、ひとつの流行となっていった可能性もある。

 「フィンガル」がケルト神話で、最も輝かしい名として知られているのは、スコットランドから発したケルトのいにしえの叙事詩『オシアン』の英訳刊行が、18世紀半ばにおこなわれたからだった。この『オシアン』はスコットランドやアイルランドのゲール語から英語にマクファーソンが翻訳したという触れ込みで刊行され、ヨーロッパ諸国の言語にさらに訳され、ゲーテもナポレオンも愛読したほどだった。

 これをきっかけにロマン主義的な「ケルト神話」への羨望も文人の間に広まり、かの文豪ゲーテはこの叙事詩を名作『若きウェルテルの悩み』の作中にも登場させた。さらにポレオン一世に至っては『オシアン』を当時フランスで随一の画家アングルに描かせた。占領したイタリアで、ナポレオンはその絵を、さっそく、自らの寝室に飾ったのである(図⓬ アングル『オシアンの夢』 1813年 348 × 275 cm フランス モントーバン アングル美術館蔵)。

図⓬
図⓬

 アイルランド神話では、この「フィンガル」は、前述した「オスカル」の祖父である、アイルランド南部のマンスター王国を舞台とするフィアナ神話の主人公「フィン」に当たる。「フィン」はその少年時代に大詩人ドルイドの下で修業し、ハシバミの実を食べる「知恵の鮭」から知恵を得た奇跡の少年であった。そして長じて「万霊節=サウィン」(ハロウィンの起源:ケルトの暦の大晦日にしてお盆)に、タラの王宮を襲う邪鬼を、成敗もする英雄となった。

 アイルランドのフィアナ説話群の神話において、この「フィン(フィンガル)」の息子が「オシアン」(「鹿の子」の意)であり、そのまた息子が「オスカル」であった。つまりオスカー・ワイルドは、「オスカー・フィンガル・ワイルド」として、「祖父・フィンガル」とその「孫・オスカル」というケルト神話の2つの名を授かった男子であった。アイルランド南部の王国マンスターを警護して、森にも回遊するのが、フィンの騎士団の使命だった。定期的に森に赴く首領であるフィンの習いは、彼が異界としての自然界の精霊と交流できる特別の能力とスピリットをもつ戦士だったことを暗示している。

 こうした神話的な名を、19世紀アイルランドの「独立運動」と「神話伝承復興」の運動を繰り広げた母スペランザから授けられたのが、オスカー・ワイルドであった。

 しかし前半で記したとおり、ワイルドは「フィンガル」の名を、イングランドのオクスフォードに入学し、アングロ=サクソン社会の一員となった時、「封印」した。だが、それはむしろ「隠蔽」することによって、つねに彼の身心からはぬぐえない、いわば「うずき」として、ワイルドにおける「ケルトの刻印」となったのかも知れない。その源として最後に再召喚されるべきは、名付け母「スぺランツァ」である。


4.「語り部/シャナフィ」の復活―母子の挑戦

◆母、詩人「スペランザ」という分身


 母、レディー・ジェーン・ワイルド(1821-96)については、息子オスカーの華やかにして波乱万丈の人生の陰に隠れて、これまで多くは紹介されてこなかった。しかもワイルド母子の晩年の関係だけを垣間見ると、それは悲惨なエピソードだけに包まれているかにみえる(図⓭ ワイルドの母 ジェーン)。

図⓭
図⓭

 母ジェーンは、夫亡き後、ロンドンで暮らし、1896年2月3日、ロンドン、チェルシーの自宅で亡くなった。墓地で執り行われた葬儀費用はオスカーが負担したが、そのとき彼女は墓石のない共同地に、匿名で埋葬されたという。オスカーは墓石ひとつ母に与えることができなかった息子だったのかも知れない。(今日、墓碑はロンドンのケンサル・グリーン墓地にある。)

 しかし、母の人生は実は、息子に優るとも劣らず、活動的で、祖国のために命を燃やした才女の一生だったことを、オスカーが最もよく知っていた。

 そのペンネーム、「希望」を意味する「スペランツァ」として知られたジェーン・フランチェスカ・ワイルドは、1821年、ダブリンで生まれ、独身時代から語学力を発揮しフランス語やドイツ語の作品の翻訳も手がけ、アメリカで再版されたヴィルヘルム・マインホルトのゴシックホラー小説『シドニアの女』(1849年)や、ラ・マルティーヌの『ジロンド派の歴史』(1850年)、アレクサンドル・デュマの『スイス旅行の印象』(1852年)などを手がけていた。

 しかし20代であった1845年、詩人で青年アイルランド派の独立運動の闘士トーマス・デイヴィスの葬儀に立ち会い、その詩を読み、アイルランドのナショナリズムに目覚めた。ジョン・ファンショウ・エリスのペンネームで『ネイション』誌に詩を寄稿し始め、アイルランドが大飢饉の真っ只中だった1847年に同誌に詩『被災地』を発表。 48年7月に、彼女はネイション紙の編集長になったのである。

 1851年に著名な眼科医ウィリアム・ワイルドと結婚し、ウェストランド・ロウに居を構え。オスカーたち3人の子をもうける(娘のイソラは10歳の時に高熱で急死した)。

 富裕であったが夫ウィリアム・ワイルド卿の死後に生活は困窮していった。ロンドンに移り、晩年は息子のウィリーと崇拝者たちに支えられたという。主な著作として複数の『詩集』(ダブリン、ジェームズ・ダフィー刊、1864年; グラスゴー、キャメロン&ファーガソン刊、1871年); 『ガブリエル・ベランジェの回想録』[ウィリアム・ワイルド卿との共著] ダブリン、アイルランド王立考古学協会誌、1880年; 『スカンジナビアの流木』(1884年):『アイルランドの古代伝説・神秘的な呪文・迷信』 古きアイルランドのスケッチ付きで、夫である故ウィリアム・ワイルド卿による「アイルランドの古代人種」の章が追加されている(ロンドン、ワード&ダウニー刊、1888年):『社会学』(ワード&ダウニー刊、1893年):『男性、女性、および書籍に関するメモ』(ワード&ダウニー刊、1891年)を世に送り出した。

 このように多彩なスペランツァの表現活動の源には、オスカーが生まれる前、アイルランドが世界史に知られる「大飢饉」の1840年代に、アイルランドがイギリス支配から抜け出すために立ち上がった「青年アイルランド」の運動への熱烈な共感があった。富裕なアングロ=アイリッシュでありながら、アイルランド独立支持派や反英派としての著作をものし、「ネイションのスペランザ」として知られた「活動家」であったのだ。

 その勇気あるエピソードして有名なのが、同紙にアイルランドの武装革命を呼びかける論説を書いたところ、その編集者チャールズ・ギャヴァン・ダフィーに対して、ダブリン城にあった当局は新聞を閉鎖したが、スペランザは法廷で立ち上がり、記事の責任をダフィーではなく自分に課したという武勇伝をもつ。

 そうした母の「愛国主義=パトリオティズム」は、アイルランドの女性の権利の拡大、女性教育向上や、女性の参政権を訴える行動となり、1883年には既婚女性財産法の成立に貢献もした。

今日も「オスカー・ワイルドの母」ジェーンは、それ以上に「スペランツァ」として、アイルランドの人々に記憶される熱い「愛国者」であった。よってその活動は、政治よりいっそう深い、文学と結びつく時、民間伝承の継承に注力する情熱をもった。彼女こそは、19世紀末に先駆ける、19世紀後半の始まりにおける「ケルト神話伝説復興」の最初の立役者であった。

 すなわちその道程において彼女は、1864年に夫ウィリアムがナイト爵に叙せられたためレディ・ワイルドとなる栄誉も得て、医師だった夫が推進してきた、アイルランドの民間伝承に関する研究に基づき、1879年ごろには流行雑誌にも記事を書き、それが前出の代表作『アイルランドの古代伝説、神秘的な呪文、迷信』(1887年)に結実したのである。

 ワイルド家はプロテスタントであったにもかかわらず、彼女は「異教」の信仰対象とされた百万の精霊や自然のなかに救済や治癒をみいだす、アイルランド人の心の伝統を抱けた最後の世代であった。彼女が伝えたアイルランドの民間伝承のなかでは、伝統の呪術や呪(まじな)いの力への信仰が数多く語られている。アングロ=サクソン、イギリスによって800年以上、植民地化されたアイルランド人の受難には、合理性を優先するアングロ=サクソン社会では、早々に消えてなくなっていた「祈りの習い」が生きていた。

 母を通じて息子のワイルドは、多感な時期に、アイルランドの後進性の背後に、実は豊かな神話伝説を語り継ぐ人々の想像力があったことを「よく知っていた」ことは想像に難くないないだろう。

 そして母の詩作品は息子オスカーの作品に影響を与えたといわれている。ロンドンで投獄されたスカー・ワイルドの最も悲惨な経験に基づく『レディング監獄のバラード』は、母ジェーンの詩『兄弟』と比較される。『兄弟』は、アイルランド史上、悲惨な1798年の反乱での裁判と処刑の実話に基づく作品であった。

 なんと母が歌ったその詩は、前述した通り、ワイルド一族の祖先が侵略軍とともにアイルランドに渡ったアングロ=アイリッシュ系の子孫であることの「負」の歴史を図らずも炙り出したものであった。

 母と、その息子オスカー・ワイルドが詠じ、書いた、アイルランドという祖国の悲劇は、皮肉にも彼らの血の中に流れる、アングロ=サクソンの侵略の度に繰り返されてきた悲劇だったことを炙り出している。

 ワイルド一族は、アイルランドを支配し、疲弊させ、飢餓に追いやった当事者の末裔であった。母がアイルランドの史実に拠って詠じ、息子ワイルドが、自らの犯した罪で投獄された監獄のバラードに記した作品は、図らずも一族が冷徹なアングロ=サクソン人の系譜に遡ることを、逆照射するものだったのである。それは芸術家の道を選んだ母、息子からぬぐえない血であった。

 だからこそ、母は、ケルト神話の英雄たちの名を、詠い、息子に纏わせることによって、アイルランドの悲劇の陰に倒れた、幾千万の死者たちに悔いようとしたのかも知れない。


◆「伝統」と「被支配」の二重構造


 日本におけるアイルランド文学史研究者、松岡利次氏が詳らかにしたとおり、アイルランドは「強力で支配的な持続力をもつもの」を潜り抜ける力を蓄積してきた国であった(『アイルランドの文学精神』岩波書店 2007年)。

 アイルランドを「侵略」するものは中世から近代まで持続的に押し寄せ、それらが「キリスト教、ラテン文化、大英帝国、移民先のアメリカ」であった。

帝国の被支配においてアイルランド人が「権力の側に立てば豊かさを内包するもの」となると同時に、「権威主義を身に帯びざるをえないもの」となり、「経済生活でも精神生活でも、侵略する側が押しつけてくるこれらの夢や幻が自分たちの現実と激しい摩擦を引き起こしながら、結局は威圧される側としてそれらの重い荷物を自らの伝統的生活といっしょに二重構造として抱え込まざるをえなくなった」という(松岡・前掲書)。

 すなわち「アイルランドの受難」と「アイルランドの伝統」は、重い二重構造をもった。その最も厳しい、道立運動の道の只中で、オスカー・ワイルドの美学がもがきながら開花した。そして彼の擁護した、ヨーロッパの最初の詩人としての「ドルイド」が、リアルな亡霊として立ち上がったのである。

いずれにせよ確かなのは彼が「アイルランド人でもなくイングランド人でもなく」、あるいは「そのどちらでもあった」ことで、常に二項対立の一方ではありえない「誰でもない誰か」、「どこでもない何処か」に身を置いた者であったことである。テリー・イーグルトンの言葉に従えば「寄る辺のないエグザイル」であった。

 祖国アイルランドを出て、繁栄の帝国を泳ぐエグザイルとなったワイルド。その物語表現も、鋭い批判精神も、少年時代に母から与えられたと考えられる背景を、私たちは垣間見た(Coakley, Davis ,Oscar Wilde: The Importance of Being Irish ,1995)。

 オスカー・ワイルドにとって、被植民地アイルランドの神話伝説の灯が、自ら負ったあの名、「フィンガル」とともに、ワイルドの曲折の人生に寄り添っていたことを思わせる、最後のエピソードを添えておこう。



◆アイルランドの「幽霊(フェッチ)」


 ワイルドと母ジェーンの関係は、母の「死後」も不思議なつながりをもって現れたという。

 1896年1月、母ジェーンは気管支炎にかかり、死を予感し、レディング監獄に収監されていたオスカーに面会したいと申し出たが、彼女の願いは却下された。

 そして彼女は2月3日、ロンドン市、チェルシーのオークリー・ストリート146番地の自宅で亡くなった。しかしその後、独房のオスカーの目の前に母の「フェッチ=幽霊」が現れたという。

「フェッチ」とはアイルランドの民間伝承に登場する、不吉なる「幽霊」とされるものである。

母ジェーンが探究し守ろうとした、アイルランドの「国民的迷信」、そのなかでも顕著な「存在」が「フェッチ」であった。いかにも、それは、アイルランドが大英帝国に併合され、被支配が強化される19世紀初頭、アイルランドやスコットランドの「文学」にも登場するようになる。   ジョン・とマイケル・バニムの『オハラ家の物語』(1825)に往生するほか、スコットランドの国民詩人、ウォルター・スコット(1771-1832) の『悪魔学と魔術に関する書簡』(1830)では「フェッチまたは幽霊、またはドッペル・ゲンゲル」について、この用語を用いている(chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://ia803108.us.archive.org/33/items/lettersondemono00scot/lettersondemono00scot.pdf)。またパトリック・ケネディの民話集『アイルランド・ケルトの伝説物語』(1866)には「医者のフェッチ」が出てきて死を告げる。       

 その「伝承」は現代も消えていないらしい。パトリック・マッケイブの2010年の小説『迷いの地』にも登場する。アイルランドの小さな町の住民の体に一時的に住み着き、住民自身と他人に精神的および肉体的な危害を及ぼす幽霊なのだ。

 しかし、人々は「フェッチ」を畏れるが、「伝承のなかでそれを追い払う」ことはしない。つまり人間はすべてをコントロールできないのであり、たいせつな生命や死の問題は、超自然的な存在やはたらきによって導かれるという信心を捨てていないのである。

 神話伝説、民間伝承は、もとより「語り部」、アイルランド・ゲール語でいう「シャナフィ」」(ゲール語発音[ˈʃan̪ˠəxiː] )によって伝えられてきたものだった。

 今日、19世紀末の「ケルト復興」に彼なりの方法でかかわったオスカー・ワイルドは、彼自身の作品になかに、アイルランドの文学的伝統の遺産を得ているという指摘もなされている。「民間伝承を伝える語り部=ストーリーテラー」、つまり「シャナフィ」としての特質を、ワイルドの作品に探ろうとする研究である(Doyle-Corn, Jennifer Rose ,The Displaced Seanchaí: Irish Heritage in the Works of Oscar Wilde,   Western Carolina University  ProQuest Dissertations & Theses,  2010. 1474808:https://www.proquest.com/openview/26cd557b20c679bfd39b7768e3aa975b/1?pq-origsite=gscholar&cbl=18750)。

 「シャナフィ」とはアイルランドにおいて「古い伝承 ( シャナハスseanchas )の担い手」を指している(seanchas 発音:https://www.teanglann.ie/en/fuaim/seanchas)。アイルランドのゲール文化では、その役割をおこなう「吟遊詩人 (フィリfilí ; 1948 年以前の綴りではfilidhe )」も指す。(アイルランドの文芸復興における「シャナフィ」に関する研究:McKendry, Eugene. "Study Ireland:An Introduction to Storytelling,Myths and Legends" (PDF).BBCNorthernIreland. https://www.bbc.co.uk/northernireland/schools/11_16/storyteller/pdf/gen_notes_all.pdf 参照)。

 ワイルドは19世紀後半の帝国による搾取の下で、産業を興し富裕となっていくブルジョワジーの「経済」システムの「現実」を、「仮象=芸術」が生み出す「美」として、その重要性を説いて回った。

 「ドリアン・グレーの肖像」の「現実(美青年)」と「絵(老人)」の反転は、現(うつつ)の人間が老いていく代わり、仮象・虚構の「絵」がそれを引き受け、奇跡的に美を永遠化する。その大いなる逆説をワイルドは、俗世に向けて説き続けた。その結果、晩年にレディングの監獄に送られることになろうとも、「深淵から」その声を発した。

 ワイルドが、血気盛んな20代に、最初に大西洋を越えて(トランス・アトランティック)、アメリカ講演をおこなって、解き放たれるようにして、アイリッシュ・アメリカンの大衆に「ケルト復興」を届ける役割を果たした。

 彗星のように現れ、大西洋の両岸で注目される表現者となった。その大西洋の両岸の間に存在し続けたのが「いにしえからのアイルランド島」だった。大陸のヨーロッパや、大英帝国の首都ロンドンからみればそこは永遠の辺境にみえた。しかしその「エッジ」にこそ、忘れ去られようとしている「不可視の姿と声」を今に伝えようとする者たちが輩出される。

 大英帝国に生きながらも、アングロ=サクソンではなかったオスカー・ワイルドにとって、アイリッシュとしての血の誇りを支え、彼自身が自分自身と祖国アイルランドの「神話」の「語り部=シャフナイ」となった旅であった。

 「息子オスカー」の活躍を最も喜んでいたのが、ほかでもない「愛国主義者」で「伝承の守り手」であった、母ジェーンではなかっただろうか。オスカーの1882年の1年間に及んだ北米の講演旅行のニュースに、母として彼女は息子の国際的な功績を記した新聞の切り抜きを熱心に集めて、牛乳配達人にも大喜びで話したというエピソードが伝えられている。

 なぜなら彼女こそ、ダブリンと、そして終焉の地となるロンドンの「両岸」で、アイルランドの神話伝説を伝える「語り部」にして現代詩人であったからである。

 詩人「スペランツァ」として主宰の文学サロンでは、日中でも重いカーテンを閉めておき、奇抜な服装をしたりするなど、息子オスカーに負けない奇行の持ち主であり、ある友人は、スペランツァはいつも胸に祖先のミニチュア肖像画のコレクションを着けていて、それは「歩く一族の霊廟のようだった」というエピソードがある(https://marlandonwilde.blogspot.com/2019/02/visiting-grave-of-lady-jane-wilde.html)。


 そのオスカー・ワイルドの母が表した代表作『アイルランドの古代伝説・神秘的な呪文・迷信』は、今日アイルランド国立図書館のデジタル・アーカイヴでも全編を読むことができる(https://www.libraryireland.com/AncientLegendsSuperstitions/Contents.php)。

 その本の主人公たちは「死者」であり「妖精」であり「いにしえの人々」であり、異界と人間界の「あわい」ですべてのことが起る。命取りの危険と幸運が隣り合わせて存在する。しかし、それは教訓話ではない。そのすべての物語は「答えられない問い」のシャワーを、読む者に浴びせて止まない。そこに魅力、魔力がある。「生きるとはなにか」「この世にはなぜかくも摩訶不思議なことが起るのか」。「死とはなにか」そして「死者たちはなぜ回帰するのか」・・・。

 大陸にはないケルト美術の繊細な装飾の蠢きも、当時の考古学・美術史にも則って論じているこの大著で、オスカーの母は、実はアイルランドのケルト文化や芸術が、東地中海やインド・イランをはじめとするインド=ヨーロッパ語族の言葉や物語に響き合うというヴィジョンも開陳していた。

 その見方は当時、黎明期ではあれ、「ケルト語」と「サンスクリット語」を、東西を繋ぐ極みの言語文化と認識した、最先端の比較言語学に則る、彼女なりの夢のスコープを孕んでいる。

世紀末の小さな島国に復活した「語り部」の透視する物語の世界(性)。それは、強大な支配者「大英帝国」の統べる物理的な版図を、遥かに超えていたのである。





Comments


Commenting has been turned off.

背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

© 2022 なぎさ created with Wix.com

bottom of page