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ケルト神話のキャラクターたち 癒しの秘術 第11回

  • 鶴岡真弓
  • 11 時間前
  • 読了時間: 31分


「泣き叫ぶ麦の首」

交叉する死生のフォークロア


鶴岡真弓


 


 伝統社会の儀礼は、時を超え、現代の私たちの忘却を発見させる。

 ケルト文化の暦は、穀物や家畜を育て、人間がその命をいただくヨーロッパの「農耕牧畜社会の生命循環」の思想を、その古層から、民間の儀礼のなかで伝えてきた。

 夏の太陽の力がピークとなる「夏至」祭から、収穫の秋の「ルーナサ」祭へ。

 その習わしは、ミッド・サマーの生の絶頂や、収穫の歓喜の只中でこそ、「死生の交叉」が起こるということを深く自覚し表現してきたのである。

 人間にとって収穫の成就を約束する、刈り取られた「最後の麦の束」は、穀物の「泣き叫ぶ首」であったということを––––––。



■「火を見つめる」五月祭


 ケルトの暦では「夏のはじまり」は、「5月1日=ベルティネ祭」である。

 古来、夏の太陽のパワーは、この「ベルティネ祭」で力強く復活すると信じられた。今日の「五月祭=メイデー」の起源である。

 「ベルティネ」とはケルト語派のゲール語で「明るい火」の意味。祭りでは「火」が焚かれる。ブリテン諸島のケルト文化圏のほか、ヨーロッパ大陸でも、古代にケルト語文化圏であったボヘミア(チェコ)などの東欧圏でもおこなわれている。

 この日、再生した天の火、太陽の力は、いや増し、人間は天に向けて地上から火焰のエネルギーを送る。「大地は私たちの母、火は私たちの主人」。この写真にみられるスコットランドのベルティネ祭では、そのように唱え感謝を捧げる(図❶ スコットランドの「ベルティネ祭」の火)。

❶

 北ヨーロッパ、アルプス以北では、農耕牧畜の生命力の最盛期は「5月~6月」である。ベルティネの祭日に復活した夏の太陽の力は、穀物の小麦や家畜の牛や豚を大きく成長させ、陽光エネルギーは「6月」の下旬の「夏至」に向かって一層高まっていく。

 しかし北ヨーロッパの「夏は短い」のである。

 アジアの温帯の四季折々の自然環境に恵まれている日本人には想像しがたいことだが、早春から始められた家畜や穀物の生命の育みが、無事、6月の「夏至」に至る。ということは、実質、穀物の「収穫」までの日にちは、「余すところあと40日」となる時季なのである。日本ではこれからが真夏本番という、「7月の末日」までに小麦は刈り取らねばならない。

 つまりヨーロッパ社会の生業において、「夏至」とは、7月中に「収穫」する穀物や、それから早や2ヶ月後の10月末の「冬のはじまり」までに屠られ冬のビタミン源とされる家畜が、共に、その「太陽の至点を無事越える生命」とならねばならない日であるのだ。

 つまり人々は、人間の糧となる尊い動植物の生命を、太陽エネルギーが極まり、日からは弱まる境目のこの日、健やかに、無事「通過させる」儀礼をおこなう。それは北半球の諸民族の伝統文化として伝わってきたが、このケルト語文化圏でもいにしえから今日まで変わらずおこなわれる大切な祈りの祭りである。


■「夏至の火と浄化」––––––農耕牧畜の生命


 念願だったアイルランド西部のドゥーリン村を訪れることができたのは、まさに夏至の日だった。

 長きにわたり19世紀末まで、イギリスの支配によって奪われた、アイルランドの伝統文化を残してきた「西部」の村のひとつである。

 門外の旅人であってもその特別の祭日に起こること拝ませてもらえるならと願い、川辺の会場に赴いた。

 夕刻、すでに村の人々が、中世の石の橋と、川の両岸に集まっていた。

 冬から納屋に積んできた藁や、家畜を囲った板などを高く組んで、その「山」に火が点けられる。ゴウーという音と共に「夏至の火/ボンファイアー」が空に向かって勢いよく立ち昇った。なお夏の「ボンファイアー・ナイト」ともいう「夏至祭」は、キリスト教に吸収されて以降は、フランスのアルザス地方などヨーロッパ各地で「聖ヨハネの火祭」とも呼ばれる行事となり、今日に至っている。

 温帯に住む私たち日本人にとっては「夏至」の祭りといえば、これから灼熱となる真夏のお祭りの光景が想像されるかも知れない。「火」を焚くのも、夏の「暑さ」と競うのであり、華やかに燃え上がるフェスティヴァルを演出するものだと思われるのではないだろうか。しかしそれは違うことをドゥーリン村で深く知らされることになった。

 川の土手に陣取った村人の大人たちと、肩を並べて座る小さな子どもたちは、一心に「火」を見つめていた。はしゃぐ子はいない。真夏なのに、「夏至の火」のもとでは、むしろ静寂が支配するのである。「悠久の時間を生きてきた儀礼」に人々が厳かに臨場していることが、無言で伝わってきたといえばよいだろうか。村人たちは「火を見る」というより「火に魅入られている」といったほうがよい表情なのであった。その「火」は「真夏のパワーの炸裂」などとは反対の特質を孕んでいた。

 人々は火を見つめ、仰ぎ、「祈っている」のであった(図❷ 夏至の火 アイルランド西部ドゥーリンにて 撮影:筆者)。

❷ ⒸMayumi Tsuruoka
❷ ⒸMayumi Tsuruoka

 北ヨーロッパでは「夏至の火祭り」は、第一に太陽の「絶頂」を、ではなく、「絶頂と下降の交叉」こそを告げ知らせる儀礼であった。

 ゆえに第二に、その「火」は、真夏の頂きの「陽」を象徴すると同時に、切実に、地上の家畜と人間をあらゆる「(疫)病」から護る「浄化の火」、「祈りの火」として受け継がれてきた。なぜなら「夏至」とは、農耕牧畜の共同体にとって、夏の疫病に冒されずに、「植物(穀物)と動物(家畜)の命」が通過しなければならない「関門」だったからだった。つまりヨーロッパの牧畜農耕社会は、穀類の「育みの時間」は短くしか与えられていない。その期の「3月・4月・5月」を無事超え、「6月」の夏至に至らねばならなかった。

 「ケルトの暦」はそれをよく表している。

 1年のうち、搾乳が解禁になり土を起こす「2月1日=インボルクの祭日=春のついたち」から、人々は野辺に出て労働をスタートする。インボルクには生まれていた子羊を育てはじめ、3月には種を蒔き、4月へとそれらの命を大切に運ぶ。

 そして冒頭に述べた「5月1日=ベルティネの祭日=夏のついたち」に、夏の太陽が復活する。その日から穀物も家畜も一気に育つ、本番の「夏」を迎える。

 そして「6月」。早春から、夏の始まりに至った、3月・4月・5月の農繁期からの生育が、安定し、熟していく豊饒の月となる。

 いかにも伝統社会において、今日でもこの季節に成婚する花嫁、「6月の花嫁=ジューン・ブライド」は、「豊饒・多産の地母神」と二重写しのアイコンとなってきた。動植物の「命」は、この真夏の季節に最も成長をみるからである。

 しかしまた動植物の生命が旺盛に交流する夏にこそ、病害が広がる危険を孕んでいた。最高の成長期には、危険な「病」が起こる。十分な水分もなく、枯れる大地にもなる。

 だからこそ無事辿り着いた「夏至」に、病害を寄せ付けぬ「浄めの火」を焚く。人々は、いにしえの自然哲学によって、動植物も人間も、つつがなく、その「最高潮の時季」こそを無事に通過すること、そして初めて、家畜も穀物も「収穫」に結びつくことを熟知していた。

 ではそれは、なにによって可能となるのか。

 「浄化」によってである。

 では浄化はなにによってなされるのか。

 それは「火」によってである。

 「火」は疫病の元を焼き尽くしてくれるのである。

 しかし「火」による浄化は「生きている存在」だけに与えられるのではなかった。

 祭りの火は古来英語で「ボンファイアー」と呼ばれる。それは、「ボーン」つまり「骨」を焼いたからである。

 病によって夏至に到達できなかった動植物生命の「死」は、ここで「焼かれた」。そうしなければ、共同体はその先に進めなかった。したがって「火を見つめる」ことは、「生死を見つめ」、「浄めを祈る」ことであったのである。

 こうして、ケルトの暦の「夏至」の儀礼は、翌月から始まる「収穫」が、人間が生きとしけるものたちの「死との交叉」によって成就されるという死生観と祈りを伝えている。

 真夏に交叉する「生と死」。「死と生」。それが「夏至の火祭り」の根源的な由来であった。


■「至点」を越える「火」と「死」


 いかにもケルト伝統の祭日の「火」は、「夏至」ばかりではなく、他の祭日にも焚かれ、掲げられる。

 すでに冒頭で述べた「夏の始まり」の「ベルティネ」。そしてそれと真反対にある「冬の始まり」の「サウィン」、つまり1年の終わりのハロウィン(万聖節)のルーツである「サウィン(万霊節)」にもボンファイアーが焚かれる。

 「ベルティネ」は「冬から夏へ」の交叉と転換。「ハロウィン/サウィン」は「夏から冬へ」の交叉と転換。

 すなわち前者は「死から生への時の移動」、後者は「生から死への時の移動」という、大きな季節の節目をしるす二大祭日であり、つつがない「時の交替」が祈られ、火が焚かれるのである。

 それに対し、上で述べてきた「夏至の火」は、「生命の最も旺盛な至点」で焚かれる火である。その日は最も日が長く、すべての生命が「最も輝く」。ゆえに魔が差し「最も危うき時」であるからこそ、その安寧を願い、生きとし生けるものを「浄化する」のである。

 100年前の20世紀初頭、「夏至の火」はブリテン諸島の各地で、おこなわれていたが、都会人には相当に珍しいものとなっていた。

 それはケルト語文化圏の田舎では存続はしていたが、特に産業革命から機械工業社会となったイギリス本島の都会人にとっては、フォークロアの世界だけに残る「珍しいもの」や「前近代的な慣習」と映っていた。

 それをアイルランドで取材し、体験した、知る人ぞ知る「2人」がいた。イングランドの大都会マンチェスターの『マンチェスター・ガーディアン』紙のため、アイルランド西部のメイヨーの村の夏至を、絵と文の記事にした。その「2人」とは、アイルランドの詩人ウィリアム・B・イェイツの弟であるジャック・B・イェイツ(1871-1957)と、世界に知られる紀行小説となる『アラン島』(原題『アラン諸島』1907年)の作家のジョン・ミリントン・シング(1871-1909)だった(図❸ J.B.イェイツ「夏至のボンファイアー」1905年;Life in the West of Ireland ,1912)。https://www.whytes.ie/art/st-johns-eve-bonfire-night/165798/?SearchString=&LotNumSearch=&GuidePrice=&OrderBy=LH&ArtistID=&ArrangeBy=list&NumPerPage=30&offset=157

❸

 2人は、画家ジャックの兄である詩人のウィリアム・B・イェイツが、19世紀末から推進してきた「ケルト文芸復興」に重要な役割を果たす芸術家、作家となった。

 一目見ればわかるだろう。この味わい深く力強い線が特徴の作品は、弟のジャック・B・イェイツによるものである。近代「ケルティック・リヴァイヴァル」は、「ことば・言語」によって神話伝説や民話を復興させただけではなかった。このように生きられた共同体が守ってきた、「行為としての信仰」、すなわち「儀礼のフォークロア」の遺産を、近代化した先進の欧米社会に紹介したのである。

 アイルランド西部の夏至祭に共に赴いたシングと、画家のイェイツとの縁には運命的な前史があった。シングはダブリンの郊外で生まれ、トリニティ・カレッジとアイルランド王立音楽アカデミー、そして1893年からドイツ、イタリア、フランスでも学んでいた。96年ソルボンヌ大学在学中にパリで兄のイェイツと出会った。兄のイェイツの「ケルト復興」への情熱に衝撃を受けたシングは、それまでの批評的なエッセイを書くのを止め、アラン諸島を訪れ、島人の生活から小説の素材を引き出した。

 アイルランドの「西部」の伝統社会を舞台に小説や戯曲を創造し、「復興」の旗手となり、その名作『アラン島(諸島)』は日本でも訳され、大西洋の風に吹かれ崩れた石積みと白いコテージの風景を、世界に知らしめることになった。

 一方、画家のジャック・B・イェイツは、アジアの日本にも知られるそのシングの『アラン島』の挿絵を描くことになるのである。口絵の名作「島の男」(1906年)は、このメイヨーの夏至祭への2人旅の翌年に描かれたものであることを、私はこの度気づかされた(図❹ J.B.イェイツ画「島の男」、シング『アラン島』口絵)

❹

              

 アラン島の岩に立ち、静かに大西洋を見つめている「アランの男」。このイメージは20世紀前半に最初のドキュメンタリー映画といわれるフラハティー監督の『アランの男』のイメージの源ともなった。

 アラン島も、イェイツ兄弟の祖父母がいたスライゴー地方も、アイルランドの「西部/ウェスト」は伝統の民俗とゲール語を遺す、最後のケルト語文化圏として、注目を集めていくときであった。(なおラフカディオ・ハーン/小泉八雲(1850-1904)が父の国アイルランドからアメリカ経由で日本に辿り着き出雲や松江はじめわが国のフォークロア、すなわち「民俗」や「昔話」を西洋世界に英語で紹介する時期に、それは重なっている。)

 2人が旅したこのメイヨーのベルマレット村も、ドゥーリンと同じく、旧い民俗、慣習が伝えられてきた西部の代表的な共同体であった。夏至祭に、村の青年たちは、大きな焚き火作りを競い合い、畑に生い茂る雑草を燃やして、耕作地に灰を撒いた。独身女性は、よいお婿さんとの出会いを祈って、火を飛び越えた。その火に婚約中のカップルも幸福を祈った。

 子どもたちも即席の花火を空高く投げ上げた。残り火はかき集められ、家畜を納屋に追い込む浄めの火となった。画家と小説家の2人は、夜空に上がる火を村人と共に仰いだという。「火を見詰め、祈る人々」の面差しや佇まいは、この100年余後に、私がドゥーリンで見た人々のそれと違(たが)わないものだったろう。

 夏至の「祝い」は「祓い」である。と同時に、この日を境に起こる、太陽エネルギーの「絶頂」と「下降」の交叉をしるしている。焚かれる「夏至祭の火」は「祈りの火」だった。

 村人は、燃えさかる真夏の火をみつめることで、浄めによる生命循環の厳粛さを見守っている。人々の顔に火焰のオレンジ色が反射する。炎と煙が天に昇っていく。旅人の私も言葉にはならない、生の真ん中に赤く脈を打つ命を火に実感する不思議な体験ができた。野辺で祈る人々の仲間に、そっと入れていただいたありがたさ。旅人は頭を垂れた。

 こうして「夏至という天の至点」の日に、アイルランドのすべての村は、「逝く夏」の兆しを捉え、農具と心の両方で、収穫の7月を迎える準備をするのである。


■「糧」と「財」である穀物


 無事この日を越えたなら、日照時間は短くなっていき、逝く夏の名残りを兆す。

 村人は「収穫の7月」へと向かい、麦刈りが始められる。その時季にイギリスやアイルランドを旅行すると、フィールドに見渡すかぎり巨大なロール状に巻かれたり、積まれた麦藁が点在している光景に出くわすだろう。収穫作業が無事終わりつつある証である。

 古来、穀物は、いうまでもなく「財」だった。収穫高は新婚の縁組みにも影響を与え、人間のみならずすべての穀物や野菜は、豚や牛など家畜の飼料も約束し、より肥らせることができる。

 そう、いかにも「猪・豚」は古代からヨーロッパ人の冬のビタミン源で、ゆえにその野生、すなわち「猪」ケルトの聖獣であり、神話では「英雄」の猛勇を象徴し、また英雄の悲劇では、猪の牙にかかり、殺されもする。2000年以上前の古代フランス、ケルト語文化圏のガリアでは、このような「猪(野生の豚)の神」の体に猪を刻んで、豊饒を祈願した(❺「猪の神」 フランス 国立考古学博物館蔵)。

❺

 ケルト文化、神話では豚も猪も「異界」の生き物として崇められたからである。ウェールズの嫁取りの神話の白眉「キルッフとオールウェン」ではお嫁さんをもらうために「猪の耳の間にある櫛」を探せという、とんでもない難題がキルッフに課せられる。アイルランドの伝説「ディアルミドとグラーネ」では戦士ディアルミドが、首領フィン・マク・クウィルの若妻だったグラーネとの愛の逃避行の末に、猪の牙にかかり、命を落とす悲劇は有名である。猪・豚は、越冬の最重要の「食糧」、「財」だった。8月1日の収穫祭の3ヶ月後の「10月31日=ハロウィン」までに、越冬の食糧として屠(ほふ)られ、保存される。 一夜明けて11月1日から無事、新年となり、小麦や豚は、再び翌年の5月1日のベルティネの前夜まで続く、「闇の(冬の)半年」に、人間に糧を与え、命を支える恵みとなる。

 猪・豚がケルトの動物神であるなら、小麦・穀類は、植物の精霊である。

 7月末までに刈り取られた麦が、民間の儀礼、祭壇において主役となる。


■秋のはじまり–––––収穫祭「ルーサナ」の起源


 ケルトの暦の「8月1日の収穫祭=ルーナサの祝日」は、「秋のついたち」である。イングランドでは「ラマス」と呼ばれる。

 上で述べてきた「ケルトの4つの季節祭」の「冬:サウィン」「春:インボルク」「夏:ベルティネ」に続いて四番目、つまり最後に「秋:ルーナサ」の「収穫祭」が来る。

 「島のケルト文化圏」の「ルーナサ」祭の名は、アイルランド神話の神々である「トゥアタ・デー・ダナン」族のなかでも、最も輝く「光の神ルー/ルグ」に由来する。

 神ルー/ルグは、育ての母親テルタウに育まれた。そして母テルタウは農地を切り拓いて、亡くなっていった。つまり「ルーナサ」の祝日は、単に収穫祭の祝いの日ではなく、その大前提としてのルー神の母の死に対する「追善」が折り重なっている聖日なのであり、ここでも生命の収穫への感謝と、その開拓者の母親の死が交叉していることが重要なのである。

 「ルーナサ」祭りはこの名どおり、ルー/ルグを主神としておこなわれる。そして「夏至の火」が「死の骨」を燃やし疫病を祓い、豊饒の収穫へ向かったように、「死からの豊饒」の観念が読み取れる祭なのである。

 というもの、その祭日に、収穫物とともに供えられる、麦わらやトウモロコシで作った「ヒトガタ」=「コーン・ドリー」こそは、「生と死の交叉」を代理する聖なるエージェントであることを、私たちは知らされる。


■穀物精霊「コーン・ドリー」のヒトガタ


 「コーン・ドリー/穀物の人型(ヒトガタ)」は収穫の象徴である麦わらや、トウモロコシの茎、果物、根、ジャガイモ、粘土、紙、蝋、枝、ハーブを詰めた布等から作られ、島のケルト文化圏だけではなく、ヨーロッパ中に見られる。特に中欧・東欧のチェコ、オーストリア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、スラヴ語圏のウクライナやロシアなどに多様な造形が伝えられている。

「ヒトガタ」であるが、それらは明らかに「子を産む性・女性」のヒトガタであり、主に麦藁で作られ「少女」のように見える。「コーン・ドリー」は「穀物の精霊」を表した民俗文化であり芸術であり、島のケルト語文化圏では8月1日の収穫祭「ルーナサ」の祭壇に供えられる収穫のシンボルである。戸々の窓辺や祝いの壇にも飾られる(図❻ アイルランド リムリック地方 「コーン・ドリー」)。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Claidheach.jpg

❻

 しかしこの「ヒトガタ」はただ愛らしいだけではない。穀物の精霊として霊魂を宿している。それは来年の、未来の豊饒を「予祝」する。

 しかも、この姿をよく見つめるとわかるが、民間信仰では魂の架け橋となるとじられてきた。それはこれを受け取る人の健康や幸運を願うなどの善意の目的のためにデザインされる一方、このヒトガタによって、命を奪う力も具わると信じられてきた。

 「コーン・ドリー」は「コーン・マザー」とも呼ばれる。人類の神話に普遍的な女神や母神は、「生命の付与」と「生命の奪取」の両方をおこなう神霊である。ここでは「コーン・ドリー」や「コーン・マザー」は「収穫祭」において健康や長寿という「生の側面」を司る、と同時に、「死の側面」にかかわる呪力ももっていると考えられたのだ。

 ではなぜ、そもそも「麦藁」にそのような「呪力」があると信じられたのか。それは野辺や畑で収穫の最終日におこなわれる、ある伝統の「儀礼」に表されてきた。


■刈り取られる「首の叫び」


 キリスト教化以前、つまり異教時代に遡る信仰において、前述したとおり麦わらやトウモロコシで作ったヒトガタには「穀類の精霊」が宿っていると考えられてきた。材料はイギリスでは小麦オート麦ライ麦大麦が多いが、穀類の藁以外に、アイルランドでは灯心草(ラッシュ)、南フランスでは棕櫚の葉などで作られる。

 これらの穀物・植物は、人間の生命を支える糧を捧げている生命である。麦やトウモロコシの「収穫」とは人間にとっては「生命を得ること」であるが、それを反転させてみれば、穀物・植物の「死」である。

 これを家畜・動物の場合で考えれば、(動物の一種である)私たち人間は、このことをより実感的に悟ることができる。つまり家畜・動物の肉や髄や骨や血を「糧」として収穫することは、動物にとっては「死」であり、「死をもって生命を捧げる=サクリファイス=犠牲」のうえに、人間界の「収穫(祭)」が成り立っているということである。

 したがって–––––ここからがとても重要なのだが––––この「犠牲」の真実を、人々は収穫が成就する最終日に儀礼で示してきたのだった。「最後で最期の穂麦」を「切断」し、それを「首」と呼び、畑で「掲げる」。それを掲げ、捧げて、行列で「練り歩く」のである。

 イギリス本島の最西部ケルト語文化圏のコーンウォールや、隣接するイングランドのデヴォン地方でもおこなわれてきた儀礼がそれである。コーンウォールの収穫祭は、「グルダイズGuldize」=「穀物の山の饗宴 Gool dheys 」と呼ばれ、麦の刈り取りの最後に催される。それはいったん20世紀に廃れたが、今世紀、2008年に復活した。海辺に聖ミカエルの巌山があるペンザンスをはじめ、2010年頃からはコーンウォールの各地で復活した(図❼収穫最後の「麦の首」を掲げる農夫 コーンウォール  セント・コロンブ・メイジャー 2008年)

❼

 これはコーンウォールで内陸の聖女ゆかりの地名を抱くセント・コロンブ・メイジャーの「最後の収穫」の風景である。この地方には先史青銅器・鉄器時代の遺跡が多く、丘陵要塞キャッスル・アン・ディナスやコーンウォール最大の立石列ナイン・メイデンズ石列 、クォイトの村にある悪魔のクォイト(アーサー王のクォイトとも)などがあり、異教の伝統の厚い土地柄で知られる。麦畑でおこなわれる一見、牧歌的なこの儀礼の重要なシーンは、しかし「衝撃的」なのである。

 宴の前に、農家の人々の間では麦の「最後の一握りの束」を、刈り取り人のひとりが束を頭上に高く掲げて、大声で「首だ!首だ!首だ!」と叫び、村人皆が一斉に「首、万歳!」と叫び寿ぐのである。すなわちこの儀礼が「泣き叫ぶ首(クライング・ザ・ネック)」ともいわれるゆえんである。

 私たち人間がおこなう、穀物、麦や米の収穫=刈り取りとは、鋭い鎌の刃で、その稔った植物の「首」を斬り落とすことである。収穫することは、穀物を「泣き叫び」させることであることに私たちは気づかされる。

 収穫とは、人間にとっては「生者(人間)の歓喜」である。が、収穫されるものたちにとってそれは「死者の叫び」なのであった。その年の長い農耕の日々のゴールに到達した農耕者の歓喜の瞬間に、最後に刈り取られた穂麦が、「死生の交叉」を、人間に知らしめるのである。

 穀物の穂を束ねて切り落とすことは、北ヨーロッパの農耕牧畜社会にとって、飢餓の中を生き抜かねばならなかった冬ごもりの前に、「猪」や「豚」を屠殺することと同様であった(図❽「泣き叫ぶ首/クライング・ザ・ネック」としての穂麦の束)

❽

 この絵をよく読み解いてみよう。その深い意味が絵図の「農具」にまで込められていることがわかる。

 農具と穂麦の束を、何気なく見る私たちにとっては、一見このポスターは、よくある収穫の季節の風物詩を表しているようにしか見えないかもしれない。真ん中の写実的な絵は、1年の農作業の苦労を越えて稔りの刈り取りに勤しむ農民の姿であり、上部には収穫物の上に無事役目を終えた農具が描かれている。確かにこれらのヴィジュアルなアイコンは、普通に「今年も満作!」の徴として眺めることができる。いかにも前面には、無事収穫された黄金の麦の束が立てられ、リボンも飾られ、まさに「収穫、おめでとう!」のポスターとして常套の「絵」であるだろう。

 しかも上部の両脇の刈り取られた束とその上に置かれた農具がモノクロームで表現されているのは、収穫された小麦の「ハレ(日常・祝日)」の黄金色と、農耕の日々の「ケ(日常)」の道具のコントラストを地道に示していると感じられるだろう。しかし、このポスター全体には伝統社会の生命論というべき「深い思惟・黙考」が秘められているといえる。

 上部のモノクロームの麦の上に置かれた「農具」のなかの、ヨーロッパの農村ではお馴染みの半円形の「鋭い刃の鎌」は、堂々と横たわり、月光のような光を帯びて描かれている。まさに収穫を成就させるのが、この「鋭い刃の鎌」である。その他の道具は耕しと馴らしのためのものである。つまり主役は「鎌」である。

 この写真には前掲のポスターの上方の農具の部分の「鎌」と同様の鋭く湾曲する刃を、ブーメランの勢いで投げ、「老婆」(後述)と呼ばれる「最後の小麦の束」を収穫者が鎌を投げて刈り取っている北アイルランドの儀式がリアルに映し出されている(❾W・A・グリーンによる「最後の穂麦の刈り取り」より 北アイルランド国立博物館蔵)。

❾

 いかにもこの「鎌」が「麦の首」に当てられる時––––すなわち前の月の真夏の「夏至」を無事通過した家畜と人間と共に、収穫の7月に到達した穀物–––––穂麦は、その生命を、人間に捧げる時を迎えるのである。

 したがって、このポスターは上部の「刈り取られた麦=モノクロームの麦」は人間のために捧げられた「植物の死=犠牲」を表し、手前の「(祭壇に)飾られる麦=黄金色の麦」は同じく人間のために捧げられて「植物の稔り=成就」を表している。と共に、後者の黄金の麦は、来期へ向かう農村と穀物自身の「再生」を生命の最高の色の黄金で表してもいる。

 つまりこの伝統的ポスターの絵図の全体は、図像のシークエンスにおいて、収穫の束は、麦という「(生き物の)首」であり、麦の命の絶たれた「最期の束」であるという、農耕の人々の「自戒」を孕む、「収穫(祭)の死生論」ともいうべき観念としても読まれるべきものである。

 人間が奮う鋭利な鎌で「刈られた麦」は「斬られた首」である。そしてそこから未来への「糧」が生まれ、さらに再生する未来をも孕んでいるということを、である。

 7月末、野辺でおこなわれる収穫祭で、これを掲げ、練り歩く農耕者=人間は、人間界から見れば「獲得者=勝利者」である。が、真の農耕者としての人間は、同時に自分たち、人間というものが、自然の生命に対して怖ろしき「斬首者」であることを思い出し、繰り返し「自覚」し「自戒」することを促す。それが収穫祭の真の意味であることを伝えてくる。

 刈られた「首」としての穂麦は、それを掲げて練り歩く人間たちによって感謝と祝福を受け、祝宴の「主宰」となった。

 この儀礼は19世紀スコットランド生まれの社会人類学者フレイザーが『金枝篇』(初版:2巻本 1890年;13巻完結 1936年)を私たちに想起させる(吉川信訳『初版 金枝篇』ちくま学芸文庫(上下)2003年)。「植物神・樹木神」は「死ぬ神」「殺される神」であり、1年の周期的な自然界は「植物の枯死と再生」を繰り返す。イタリアのネミ湖の祭司王は「植物の精霊」として殺されることによって新たな祭司王が誕生するとフレイザーは解釈した。「島のケルト」文化・伝統の収穫祭の儀礼もフレイザーの観察に響きあう要素を示している。

 フレイザーのいう「金枝」とは、常緑の「ヤドリギ」のこと。ヤドリギは、古代ケルトの祭司ドルイドが聖樹とするオーク(ミズナラ)の樹に宿り、白や薄い琥珀色の円い小さな実をつけ、「万能薬」(ラテン語でパナケア)として崇められた植物・樹木である。冬至には天井や鴨居から吊す。そのヤドリギの下で接吻するカップルは結ばれ幸福になるというフォークロアもある(鶴岡真弓『ケルト 再生の思想』ちくま新書)。

 以上こうして私たちも、島のケルト文化の伝統辿り、6月の夏至を無事 に越えて、7月におこなわれる「麦の収穫」に至るとき、麦藁のヒトガタ「コーン・ドーリー」が、8月1日のケルトの収穫祭「ルーナサ」祭壇の主役となることの意味を深く理解できるのである。

  それは人間の農耕・収穫の歴史において、刈られ、殺された穂麦の「生まれ変わり」にして「再生した姿」であるということである。今日も8月1日の祭りで、「穀物の精霊」として祭壇の主役として供えられている「コーン・ドーリー」。麦藁素材のこの「ヒトガタ」の前身が、あの「泣き叫ぶ首」の麦であったのである。

 穀物の穂を束ねて、穂を頭部と見立てるとき、その下側は「首」であり、切り(斬り)落とされる。冬ごもりの前に「豚」(家畜化された「猪」)を屠り、感謝し、浄め、来るべき次なる豊饒を予祝した。これもそれは屠殺による動物の「死からの再生」への祈りの慣習にして儀礼であった。

 したがって、しっかりと真冬の飢餓に供えて豚・猪、麦の備蓄を完了して迎えるのが、ケルトの暦でサウィン(ハロウィン)であった。その夜には「この世とあの世の交叉」というカタストロフ(大変動)が起こり、それによって生死の間の壁が壊され、死者が回帰し、生者と交流し、供養され、それまでの1年の旧い時間がリセットされて、真新しい時空が誕生するのだ。

 一夜明けての11月1日「ケルトの元旦」の再生・新生は、死者が回帰する「万霊節/サウィンの夜」が明ける翌日にやってくる。つまり前夜の「死者を供養する聖日」こそが「再生の日」元旦を生むということを人々は深く知っていた。

 だから「死生の交叉による再生」は、更なる生命が(男女の)番(つがい)いにから産出されることも予兆させる。穫されるために、身を斬られた穀物の「死=タナトス」は、生命の終わりを指すのではなく、再びの「生殖=エロス」へと展開することまでが祭りによって示唆されるのだ。

 コーンウォールの余興的な儀礼では、青年が穂麦の「首」を持って祭りの会場に駆けつけ、こっそり建物に入り、見つかったら、女性によってずぶ濡れにされるが、見つからずにこのゲームに成功すれば、「熱いキス」を受けられる。いったん「死んだ」麦の束が、若い男性によって運ばれ、若い女性によって祝福され、再生され、穀物の再誕生を予祝するのだ(図❿ 花嫁と麦藁姿の青年 アイルランド国立民俗コレクションより)https://askaboutireland-ie.translate.goog/reading-room/history-heritage/folklore-of-ireland/folklore-in-ireland/the-life-cycle/marriage/wedding-day-traditions/?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=wapp

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 それは「ケルトの4つの季節祭」の暦日でいえば、来年の「夏のはじまり」の5月1日の「ベルティネ」の夜明けに、夏の太陽が蘇ることを予告するともいえる。5月1日の「ベルティネ祭」の「夏のついたち」は、10月31日の「サウィン」の「冬のはじまり」と正反対に、対となっている祭日で、10月31から6ヶ月続いた「死=冬」の季節が終わり、自然界が生命を充満させる最初の日。

 その夜明けに向かう「前夜」(ドイツ語圏では最後の冬の魔女たちが飛び交う「ワルプルギスの夜」)の森の生命的カオスを描いたのがシェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』だった。狂言回しの妖精パックの落とす「エロスの液」によって、恋人たちの熱い季節が始まる。

 「冬=死」から、「夏=生」へ。

 だから近代の西洋社会では、この「夏の太陽の再生の勢い」を借りて、「ケルトのベルティネ祭=五月祭=メイデー」の日が、労働者の給料ベースアップ、アピール集会の祭日ともなったのである。


歩く「麦藁の束」–––冬の鳥ミソザザイの「埋葬と予祝」


 さて、最後にもう一度「麦」の話に戻ろう。

 というのも、こうしてケルトの暦に添って「死と生の交叉」を表象してきた「穀物の精霊としての麦藁の束」の役割は、8月1日の収穫祭では終わらず、次の季節への「続き」があるからである。

収穫祭が終わると、自然界は早くも冬の冷気へと変わる。アイルランドでもコーンウォールでも、ケルトの伝統文化は、農家の人々は10月31日までに、穀物と家畜の肉を保存して、冬の食糧備蓄を完了させねばならなかった。

 冬は駆け足にやってくる。収穫祭「ルーナサ」の約50日後は「秋分」、その約40日後に、キリスト教の諸聖人の記念日「万霊節/ハロウィン」となる。ハロウィン(起源はケルトの「万霊節/サウィン」)の10月31日の夜から11月1日の翌朝までに、民間では今でも祖霊と死者を供養する。つまりその夜は「ケルトの大晦日でお盆」であり、8世紀にキリスト教に吸収されても「供養」の習わしは続けられた。なぜなら「ハロウィン」は「エリートであるすべての聖人」を記念するキリスト教の聖日であっても、「すべての死者たち」を供養するのではないからである。

 この夜にこそ、あの「麦藁」が登場する。しかも等身大の人間のサイズで「より大きく」なって現れるのだ(図⓫ 麦藁をまとう子どもたち スコットランド シェトランド諸島)

⓫

 8月1日の収穫祭で納屋に納めたあの「麦藁の束」を、人形のようなヒトガタではなく、今度は人間の子どもたちが実際に纏い、万霊節/サウィン(ハロウィン)の夜と、一夜明けた新年にも、予祝として家々を回った。そのお返しに供養や感謝の食べ物をいただくのである(「トリック・オア・トリート!」の起源である)。

 この写真はスコットランドのシェトランド諸島で、麦藁衣装を着た「スケクラー」と呼ばれる子供たち。「厳冬から太陽を取り戻し、豊作を確保する予祝」をおこなってきた。

 そしてこの「万霊節/サウィン」の約50日後に「冬至」が訪れる。冬至を境に日照時間が延びていき、太陽=陽光が蘇る。キリスト教が定めた12月25日クリスマスは、この異教の「冬至祭」に「寄せた」祭日であった。

 さらにアイルランドでは、そのクリスマスの翌日の「聖ステファヌスの日」、各地で「麦藁人形」の格好をした「レン・ボーイズ」がある儀礼に則りパレードする。

 彼らの全身も麦藁で被われ、真冬の季節を浄め、来年への予祝をおこなう。

 「レン・ボーイズ」と呼ばれるのは、冬の鳥である「レン=ミソサザイ」から来ている(図⓬ 麦藁姿の「レン・ボーイズ」&「レン(ミソササイ)」)。https://blogger-googleusercontent-com.translate.goog/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEia927c1Q3JP_hWLgIRRO_w9BdB5tfV1_OI9G261GyQN1qBV2U2C6wts_l6bPtQTnRTPcSh9GFxvfx2LVwQlrh9ANfS_qXNKOgbje38dp0dquo2BrVvGOrO4mJiMcPrt2rd8WvHfJ9SMwU/s720/wren+boys+today.jpg?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=wapp


⓬

   

                     

 



 12月26日の聖ステファヌスの日(北アイルランドではアルスター地域ではボクシング・デーとして知られる)は、ケルトの異教時代の民間信仰による「ミソサザイの日」(アイルランド語Lá an Dreoilín)としてアイルランドやマン島に残る習しで、より正確にいえば真冬行事「ミソサザイ狩りの日」(マン島語Shelg yn Dreean)である。

 この日、冬の「鳥の王・ミソサザイ」を青年や少年たちが狩った。20世紀半ばまでアイルランドの田舎では、成人男性と少年のグループが棍棒で茂みや生け垣を叩き、ミソサザイが飛び出すと、これを仕留め、「ミソサザイを殺した者は、1年間幸運に恵まれる」と信じられた。仕留められたミソサザイ(現代では剥製(はくせい))は「ミソサザイの茂み」の中に横たわらされ、常緑のヒイラギ、ツタ、色とりどりのリボンで作った長い棒の先に結ばれた。

 この日の青少年の一団の格好は、「麦藁」の仮面と衣装で(ヤギ・ウサギ・馬の皮の「仮面」を着用するパターンもあった)、太鼓・横笛メロディオンの音に合わせ、「ミソサザイの歌」を歌い練り歩き、家々を回る。お弔いのあった家を除いてお金・食べ物・飲み物をもらい、お返しに翌年の予祝を唱え、未婚のカップルを結びつける役割もする。


ミソサザイ、ミソサザイはすべての鳥の王

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ミソサザイの「埋葬に」1ペニーを

1 ペニーがなければ、半ペニーで十分

半ペニーがなければ、神のご加護がありますように


 この祝日の要は、「ミソサザイの埋葬」にあった。それは「ミソサザイの通夜」とも呼ばれた。つまりこれは冬至から新年への祝祭であり祈りであったことを示している。19 世紀まではイギリス西部やフランスの一部でも同様の伝統があった。

 なぜミソサザイは狩られ、殺され埋葬されねばならないのか。

 真冬の鳥「ミソサザイ」は、「冬至」にかかわっていた。地上に最も闇の時間が長くなる冬至を境に、陽光が闇から蘇って、再生する。その力の回復のために必要な「犠牲」であった。

 彼らは「麦藁を纏う=穀物の死の帷子(かたびら)である麦藁の束と化す」ことによって、人間の糧となるため、収穫の最後に首を斬られ「犠牲となった穀物の精霊」としての役割を果たしている。

 とすれば、麦藁の束を被った「レン・ボーイズ=ミソサザイの青少年たち」自身が、新年を呼び込むための「犠牲」にして、自然の生命の「蘇生」を予告するエージェント=代理なのである。日本の真冬に春の到来と来年の豊饒を予祝する、あの「なまはげ」の藁と仮面の姿に重なる。ユーロ=アジア世界はここでも一直線に繋がっている。

 彼らは冬の鳥「ミソザザイ=レン」を狩る人間=狩猟者=捕食者であると同時に、殺されたレンの命の力によって復活する「自然の生命力」として真冬のコミュニティを温め、予祝する。自然の鳥の生命をもらい、「死の冬からの春の再生」への生命の循環を予言するのである。

 それこそは、命に溢れる青少年「レン・ボーイズ」のケルト文化伝統の役割であったのである。

 こうしてケルトの伝統社会は、8月の収穫から、最も厳しい冬の入り口のサウィンを越え、冬至、クリスマスを越えて、(キリスト教が定めたもうひとつの)新年へと向かった。1月6日はキリスト教の「公現祭」(神の子イエスが東方の三博士の礼拝を受け初めて公にお姿を現される祝日の意)である。が、アイルランドの慣習では同時に「女性のクリスマス=ノリグ・ナ・マン」でもある。クリスマスの日(かつては冬至に基づく)から12日間ずっと台所で休む間もなく働いた女性たちがようやくほっとしてテーブルを囲みご馳走をいただく日で、日本の「女正月」に当たる。春はそこまで来ているのだ。


■おわりに––––麦畑と一体化する老女の身体


 ところで私事にわたるが、「麦藁の束」で作られた愛らしい「コーン・ドーリー」に私、筆者が、「ユーラシア大陸」として出会ったのは、半世紀も前のことだった。19歳のとき、「ユーラシア(つまりアジアとヨーロッパが繋がっている大陸」を見聞しなければ、「世界を知る」ことは始まらないと決心して初めての海外への旅をした。

 スラヴ語圏も訪ねた。民俗博物館近くの土産物屋で、「麦藁のヒトガタ」を初めて見たとき、深い郷愁を覚え、買い求めた。それからずっと我が家に飾っていたが、本の引っ越しの際に失くしてしまったらしい。その藁人形は消え失せた。 

 その人形、ヒトガタは、まさに本章で述べた「コーン・ドーリー」のスラヴ民俗ヴァージョンであった。

 私が初めて上陸したそのスラヴ語圏とは、ロシアであった。モスクワでもサンクト・ペテルブルクでも民俗関係の博物館・資料館にはそれが数多く展示されている。ずっと後に訪ねる沿海州のナナイ族の人々の村にもそうしたヒトガタが展示されている。むろんそれはウクライナにもポーランドにも他の東欧地域をはじめ諸国にある。

 それに関連するが、前述した畢生の書『金枝篇』を遺したフレイザーは、ロッキング・チェアーの人類学者と呼ばれ、旅する人ではなかった。スコットランド第二の都市グラスゴーで生まれた。しかしグラスゴーは大都会だが後背地のハイランドやヘブリディーズ諸島などの島々のケルト語文化に接しており、それらの伝統文化を知り得ていたであろう。イギリスという島国から出ずに論考をものしたが、一方、ヨーロッパ大陸の民間における「植物の精霊」信仰と「樹木崇拝」については、遙か東方のスラヴ語圏の地域についても記述した。

 そうして彼が「殺されることによって、継承される祭司王」が植物の精霊を表象していると唱えたことは、農耕牧畜で生き抜いてきた北ヨーロッパで「麦の収穫」における「最後の一束」の穀物を刈り取った後、麦藁をヒトガタにして、次の豊饒を予祝する人間のたちの衣装ともなってきたことに響き合っている。

 そしてフレイザーはそれを目撃したことはなかったが、アイルランドの伝統文化と同様、ロシアでもウクライナにもあったであろう、麦畑のもうひとつの儀礼は忘れてはならない。

 それは「命を終えていく老婆」が、大地の豊穣を未来に伝えるため、麦藁の傍に座り、あるいは畑の周りを「転がる」ようにして、麦畑と一体化して「大地に力を取り戻させる」という野辺の儀礼があったことである(図⓭ 収穫後の畑と一体化する、「最後の一束」の穀物としての老女)。https://blogger-googleusercontent-com.translate.goog/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh236wDfF9nHrv9wg6445pQfWI8qIPNEYOFiHNnfEyXr_j15LOiwOvCaYL2odO38HT-5bRADhI4Vb2O8e1Hug85lvnw8KHqoaWmu4013SM1OEIb2vIG3OSs6oAEhsK6kEeg43masIHFIIw/s1000/woman+rolling+on+grain+field.jpg?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=wapp

⓭

 女性と大地の豊穣を直接結びつける、ヨーロッパの麦文化の収穫の習慣は、アイルランドから遠いロシアの麦畑にもあった。おそらくそれは、稲文化圏の日本列島にもあったであろう。

 彼女たちは老いるとき、その生命は、冬至のケルトの真冬の鳥の王「ミソザザイ」のように、身をもって畑に身を横たえ、共同体の次なる生命時間と大地の再生を招来させたのである。

 いかにもアイルランドで麦の収穫の「最後の束」から編まれるコーン・ドリーは「カレフ/カーリャハCailleach」と呼ばれ、「老女」「魔女」「山姥」の意である。同じくスコットランドでも「最後の麦の束」は「収穫の老婆cailleach-bhuaineadh(カレフ/カーリャハ・ビィーナ<kay-luhk, bwee-nah>)」と呼ばれてきたのである(図⓮ 「収穫の老婆」としての「最後の麦の束」)。「スコットランド・ゲール語のデジタルアーカイブhttps://dasg-ac-uk.translate.goog/blog/113/en?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=wapp

⓮

 思えば、島のケルトの暦の収穫祭「ルーナサ」の起こりは、その主神となるルー(ルグ)の「育ての」母親テルタウの追善にあった意味と符合することに気づかされる。田畑を開墾して、亡くなったテルタウは、彼女の死と引き替えに、豊かな耕地を神の息子と人間のために遺した。アイルランド神話のスターたる光の神「ルー(ルグ)」を育てたのは、「穀物の精霊」であったのである。


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◆資料写真 

▼右は、異教とキリスト教の「習合」としての「麦藁の束」を纏うドイツ、バイエルン、ベルヒテスガーデンの「ブットマンドル(麦の束の男たち)」。聖ニコラウス(サンタクロースに関連)と一緒に。

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▼北アイルランド北東部、アントリム州の収穫祭の食事。

テーブルの真上に吊られた「麦藁の束(カレフ/カイリーャ)」

(W・A・グリーン・コレクション 北アイルランド国立博物館蔵)。

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① アイルランド西部の収穫のための「案山子」②ゲール語地域のカフェ・ショップにたなびく樹の絵

鶴岡真弓 撮影 ⒸM.TSURUOKA

⓲ ⒸM.TSURUOKA
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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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