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ケルト神話のキャラクターたち 癒しの秘術 第8回



アーサー王の「熊とドラゴン」

──父と子の運命の星──

鶴岡真弓


 

◆はじめに―「動物」と「人間」の神話的重層 

 ユーロ=アジア世界の東西では「狼」「熊」「鹿」「猪」「馬」などの獣、「鷲」「鷹」などの猛禽類、魚類の「鮭」などが、自然界の荒ぶる神々、精霊、神々の眷属、聖なる動物として畏敬されてきた。

 すっかり現代人は忘却しているが、「動物と人間の関係」は、人間が動物を捕獲して飼い慣らした時に深まったのではなく、それよりずっと以前、動物の行動や、仕草に至るまで、荒ぶる大自然を生きぬく「知恵と技法」を、人間の方が、動物たちから教えられ、その「匠」を学び始めた時に生まれたのだった。

 アイヌの人々は、最たる自然の恵み「鮭(アキアジ)」を、激流で捕まえる「熊」が、一瞬にして手で鮭の皮を剥いでみせる「妙技」を目撃し、崇め、模倣した。

 同じく「鮭」と人間の関係は、アイルランド神話「フィアナ説話群」で有名な、将来首領となるフィンは、ドルイドのもとで修業中の少年時代、「鮭」を焼いている最中に火傷した指を口に含み、「鮭の知恵」を授かった。

 キリスト教の修道士も、こうした異教的な「動物崇拝」を照り映えさせる神話を排除せず写本で伝えたのであった。

 「鳥」と人間の間にも、神秘的出来事が起こる。

 北欧やゲルマン神話伝説(『ニーベルンゲンの歌』『ヴォルスンガ・サガ』『詩のエッダ』)の英雄ジークフリート(シグルズ)は、ニーベルング族の黄金を独り占めしてきたドラゴンを退治して、その大量の返り血を身に浴び、口にも呑むと、「鳥」の言葉が理解できるようになった。ワルキューレ(戦乙女)の一人ブリュンヒルドが岩山で炎に包まれて眠っていることを知り、救い、堅い鎧を脱がせてあげ、口づけで目覚めさせたのである。

 しかしジークフリートは、ブリュンヒルドを欺き、ブルグント王グンテル(グンナル)と結婚させ、後に妻クリームヒルト(グズルーン)とブリュンヒルドの口論をきっかけに、死ぬことになる。ドラゴンの血を浴びた時に不死身になったはずが、背中の1ヶ所に菩提樹の葉が付いていたせいで血が掛からず弱点があったのだった。

 このように英雄の運命は、「動物」からもたらされるものと深いかかわりがあるとした、古代の人々の観念は普遍的であり、ヨーロッパでは「北方」の神話に鮮やかにみられ、その観念は地続きで、私たちの日本を東の極みに置く「ユーロ=アジア」諸文明にもつながっている。


◆「動物名」を帯びる「英雄たち」

 ところで、こうして伝統社会では、「動物」と「人間」との関係を語り継ぐなかで、特別の「人間」に特定の「動物名」を与えもした。動物は人間を遥かに超える存在であり、「大自然」の脅威と驚異を体現する生き物であるとみなされていたからである。特に神話の「英雄」は、スーパー・マン、超人間、半神半人である証拠に、動物名を伴う。

 モンゴルではチンギス・ハーンがその出自の伝説から「狼」の名をもち、近代ヨーロッパでも音楽家の「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」など、男児名に「狼=ヴォルフガング」をつける伝統がある。「狼」はモンゴルからヨーロッパまで時空を超えて畏怖され、英雄や強い男子になることを祈り与える典型的な動物名だったことがわかる。

 「狼」は、北欧神話では「神々よりも」強い。北欧神話の狼「フェンリル」は、悪神ロキが女巨人アングルボザとの間にもうけた巨大な獣で、軍神テュールの腕を嚙み砕く(図❶「狼フェンリル」バンレル画 スウエーデン 1911年)。

図❶

 フェンリルの一族を産んだのは、イアールンヴィズ(鉄の森)にいる老婆で、一族のうちのスコールが「ソール(太陽)」を追いかけ、ハティが「マーニ(月)」を追いかけるので、それから逃げるため、太陽と月は馬車を走らせ、これが天の運行を司るとされた。

 天や神々が動物の怪物に脅かされる。その通り、「神々の黄昏(ラグナロク)」には、「日月」は追いつかれて飲み込まれる。そして怪物フェンリルは、ラグナロクで、最高神オーディンを飲み込むのだが、オーディンの息子ヴィーザルがその口を引き裂き殺す。

 しかしこれは「狼」の強さがこれ以上なく炙り出されている神話には違いない。現代でも「狼」への崇敬は表現され続けている。現代のアカデミー賞をアニメ部門で受賞しているアイルランド、キルケニー地方に本拠を構える、トム・ムーア監督率いるカートゥーン・サルーン制作のファンタジー・アドベンチャー 『ウルフウォーカー』(2020年)は、アングロ=サクソンの支配によって、精霊である「狼の森」が焼かれる悲劇と闘いを描いている。

 命がけで森の狼を護ろうとする、赤毛の狼少女「メイヴ」と、アングロ=サクソン人の親友の少女が  狼たちを救う。ムーア監督たちは、このアイルランドの「狼少女」の名に、ケルト神話に登場する威厳ある古代コナハト王国の女王の名「メイヴ」を付けたのであった。生命に溢れ、大自然界と人間界をつなげる存在である(図❷ 狼を率いるメイヴと親友の少女ロビン 『ウルフウォーカー』 チャイルド・フィルム 配給 ポスターより:カートゥーン・サルーン&メルシーヌプロダクション国際共同制作:


図❷

 さて、本章の主人公「アーサー王」と、そしてその父王もまた、ともに「動物名を授かった英雄たち」だった。それは地を行く「熊」、そして、空飛ぶ「竜」である。

 本章では、この「父子」のふたつの異名に秘められた物語を読み解き、ケルト神話中、今日最も世界に知られる英雄「アーサー王とは何者か」を探ろう。


1.アーサー王伝説(アーサリアーナ)の成立と広がり

◆アーサーの登場──神話と歴史のあいだ

 伝説のアーサー王は、古代ローマ人によってブリタニアと呼ばれた現在のイギリス(ブリテン)本島で活躍したケルト系「ブリトン人」である。ブリトン人とは、人種名ではなく、現在のウェールズ、コーンウォール、ブルターニュに伝わる、ケルト語派の「ブリトニック語」の話者である言語文化集団を指している。伝説のアーサーが生きた時代は、紀元後400-500年代、父王を継いでブリテンの王となる武人である。

 アーサー王の「最期」は不義の甥モルドレッドと戦う「カムラン戦い」で瀕死となる時であるが、ウェールズの『カンブリア年代記』ではそれは537年とされている。このアーサー王は「神話」と「歴史」のあいだに現れる存在である。

 アーサーの父子の活躍は、「外敵」としてブリテンに侵入するアングロ=サクソンとの戦いから始まった。史実ではローマ人がブリタニア(ブリテン本島)を属州とした時代(紀元42-410年)が終わり、それと入れ違いに5世紀半ばの449年、大陸から「西ゲルマン語派」、即ち英語の祖語を話すアングル人、サクソン人、ジュート人が、ブリトン人が先住していたブリテン(イギリス)本島に侵入した。これと攻防し勝利していく「指揮官・戦士・王」としてのアーサー王に関する神話伝説が、初期キリスト教時代から盛期中世、ルネサンス、そして近代までに伝えられて今日に至っている。

 アーサー王の存在が具体的に「アルトゥール」の名で登場する、「アーサリアーナ(アーサー伝説)」最古の資料とみなされているのが、9世紀のネンニウス『ブリトン人の歴史』(829-830年頃。伝ネンニウス〔著〕、瀬谷幸雄訳、論創社、2019年)である。

 著者ネンニウスは、ウェールズのグウィネズ国バンガーの司教の弟子で、ラテン語、古アイルランド語、古英語にも通じ、その証拠にそれまでに伝わったアーサー王についての実に幅広い「出典」を参照したと「序文」に記している。

 アキテーヌのプロスペルとセビリアのイシドールスの『年代記』、エウセエビウスの『教会史』、そして足下の6世紀のギルダス(494/516-570年:イングランドのケルト系キリスト教の高位僧)が著わした『ブリトン人の没落』や、8世紀、ケルト系のリンディスファーン修道院が聖エイダンによって創設されて花開いたノーサンブリア文化の中心に生きた尊者ベーダの『イングランド教会史』。更にアイルランドに伝道した聖パトリック(パトリキウス)の伝記、アーサー関係のウェールズ語の詩編、『聖ゲルマヌスの書』等を参照したとされる。なおウェールズにはそのほかアーサーについて前述の10世紀の『カンブリア年代記』、中世の『王の系図』や、タリエシンの詩、民話『キルッフとオルウェン』、中世ウェールズの聖人伝などが伝わっている。


◆『ブリタニア列王史』:アーサー王像の流布

 しかし今日私たちの知る「アーサー王」を世に送り出したのが、中世盛期、12世紀の聖職者ジェフリー・オヴ・モンマス(1100頃-55年)だった。おそらく南ウェールズのモンマスに生まれ、ベネディクト会修道院の下級修道士として1129年から1151年までオックスフォードで活動、その後は北ウェールズで終生を過ごしたといわれている。ジェフリーは、先人の著作と伝承をベースに『ブリタニア列王史』(1136年頃)をラテン語で著した(図❸ ジェフリー・オヴ・モンマス『ブリタニア列王史』現代英語対訳版)。


図❸

 この著はそもそもブリタニアの歴史物語を、同時代の為政者の権威に結びつけるため「ギリシャ・ローマの古典」のステイタスと「ケルトのアーサー王物語」を記したものといわれ、その始まりはギリシャ・ローマ神話を借りた偽史となっている。ローマ人によれば、ホメロスの『イリアス』に登場するトロイア人たちの子孫が、トロイア戦争後イタリアに定住し、更にトロイア人アエネアスの曾孫ブルータスが追放と放浪の末、ローマ神話の女神ディアナの指し示した「西の海の島」に定住し「ブリテン」と名付け、建国した。その後、7世紀(事実では5世紀)にアングロ=サクソン人が侵入し、ブリテンを支配するまでの1900年間の歴史として、99人のブリトン人の王の生涯を年代順に物語ったものである。

 しかし本書こそ、それまでに断片的に紡がれていたアーサーの物語の魅力を最大限に引き出し、ウェールズ語の圏外にも広くアーサー王伝説を知らしめる功績を残すものとなる。ジェフリーの筆の特色は、アーサーがブリテンの王であるに留まらず、ヨーロッパ大陸に遠征して連勝しローマにも挑んだ「ヨーロッパ世界の王」として描き出したことだった。

 今日『ブリタニア列王史』の中世の写本が215冊も現存することからも、この著の人気のほどがわかるだろう。たとえばこれを元に1155年、詩人ウァースは、ブリテンを征服し定住したアングロ=ノルマン人の新領土の伝説や歴史に関心を持つノルマン人の聴衆のために、本書をアングロ=ノルマン語に訳し韻文の『ブリュ物語』として書き挙げた(図❹「赤と白のドラゴンの闘い ヴォーティガンの塔」『ブリュ物語』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E7%89%A9%E8%AA%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Roman_de_Brut_-_Vortigern_Tower.jpg)。


図❹

 ちなみにこの写本挿絵の「赤と白のドラゴンの闘い」は、ジェフリーが『ブリタニア列王史』で著わした、ウェールズのブリトン人(赤)と、侵入者アングロ=サクソン人(白)の闘いと勝敗を暗示した有名なシーンであって、ゆえに「赤いドラゴン」は現代でもラグビー選手の胸にも輝く「ウェールズのエンブレム」となっている。またこの『ブリュ物語』は13世紀初期にラヤモンによって中英語韻文『ブルート』に訳される。

 13世紀末までに『ブリタニア列王史』は3つのウェールズ語散文にも翻訳されていった。ヨーロッパ大陸でも12世紀後半にはフランスを中心に「アーサー王ロマンス」群が咲き誇った。その魅力の大きさは、13世紀半ば、ギヨーム(ウィリアム)・ド・レンヌが、ジェフリーの『列王史』を『ブリタニア列王の事蹟』として叙事詩化したことにも示されている。それは約5000行の詩で、そのハイライトが「アーサー王伝説(仏語圏:アーシュリアーナ)」(第7-第9巻)である。

 ギヨーム自身、誇り高い詩人で、アルトゥールス(アーサー)の栄光を、ギリシャ・ローマの英雄に勝ると讃え、ギヨームこそが、古典古代のウェルギリウス(『アエネイス』)やスタティウス(『テーバイス』)やルカ―ヌス(『内乱記』)や、ゴーティエ・ド・シャティヨン(『(アレウサンドロス)大王の歌』)たちを凌駕する詩人たるという思いを込めて、アーサーの物語を歌い上げたのである(『ブリタニア列王の事蹟』、瀬谷幸男訳、「訳者あとがき」論創社、2020年)。

 このようにモンマスによるアーサリアーナは、ヨーロッパに絶大な影響を及ぼし、300年後の15世紀後半には、更に、ウェールズ人の騎士トマス・マロリー(1399 - 1471)による長編の『アーサー王の死』(1470年頃)が、その死後の1485年にウィリアム・キャクストンによって印刷・出版され、アーサー王伝説はいっそう広く浸透していった。王の出生、円卓の騎士たちと聖杯探求、ランスロットとグィネヴィアの不義、最後の戦い、しかし瀕死のアーサー王がアヴァロンへ誘われるまで……アーサー王文学の集大成となって今日に伝えられているゆえんある。


◆「大英帝国ヴィクトリア朝の宗主」の創造とアーサー王

 更に「アーサー王の人気」が、近代において、イギリスの「国家」規模の文化政策に寄与したことも忘れてはならない。19世紀、ヨーロッパ史上の最大の覇権国となった「大英帝国」は、象徴としての「神話的宗主」を世界に示すため、ひとつの重大な理由によって、「アーサー王」に白羽の矢を立てたのだ(図❺ 湖の乙女からエクスカリバーを与えられるアーサー王:部分 1922年)。


図❺

 実はアングロ=サクソン主権のイギリス(ブリテン)では、その国語である英語の源は、「西ゲルマン語」であって、ゲルマン語で伝わった偉大な王や英雄の神話は、そもそもライヴァルである「ドイツ

」や、伝統にある神話伝説(『古エッダ』)の宝庫たる「北欧」に取られてしまっており、「大英帝国の宗主」は、歴史と精神文化のうえで「空位」のままだった。大英帝国は「アーサー王」が「ケルト系ブリトン人」であるにもかかわらず、政治的・文化的に「アングロ=サクソン」主権の「大ブリテン」の宗主としたのである。

 この「国策」によってヴィクトリア女王の夫君アルバート公をアーサー王に見立てるという、帝国一世一代の神話の再創造を、桂冠詩人・アルフレッド・テニスン(1809-92年)は担い、その『国王牧歌』を長い出版年数をかけて(1856-85年)、早世するアルバート公(1861年、42歳没)に献じた(図❻ 黄金のアルバート公像 ブロック作)。


図❻

 

 大英帝国はアクロバティックにも生ける「宗主アーサー王」を盛んに美術・工芸で視覚化させた。新しい工芸・デザインを開拓していたウィリアム・モリス、ラファエル前派やバーン=ジョーンズの絵画による「アーサー王」美術が百花繚乱となった(図❼ ウィリアム・モリス「 アーサー王とランスロット卿」ステンドグラス 1861-75年)。


図❼

 そして「アーサー王」は海を越え、アジアにも届く。わが国における明治・大正・昭和の戦前までの「英文学」を主とする「アーサー王もの」の華やぎも、このアングロ=サクソン主権の帝国の表象の再創造の勢いが、極東へ到達したゆえである。ロンドンに留学して帰国した2年後、夏目漱石(1867– 1916)が書いた短編小説、『薤露行(かいろこう)』(1905年)が、日本初の「アーサー王」をテーマとする文芸となる。

 こうして初期中世ケルト語文化圏に発した王の物語は、ヴィクトリア女王時代のイギリスの政策下における「アーサー王」を経て「世界文学」となり、また子供たちのための「ヒーロー」となり、そのシンボル「名剣エクスカリバー」はディズニーのアニメ『王様の剣』(『石に刺さった剣』1964年)のアニメや数々の映画にフィーチャーされ今日に至っている。なお王室がないアメリカ合衆国では、アイルランド系で初めてアメリカ大統領となったケネディの官邸ホワイト・ハウスが、アーサー王の城「キャメロット」と呼ばれたほどであった(図❽『キャメロットへの道』 アルファ・ビデオ DVD表紙 2015年)。

図❽

 さて、私たちは以上で、中世から現代に至るまで、「アーサー王伝説(アーサリアーナ)」が、いかに流布し、人々の心を掴んできたかの流れを踏まえた。

 では、いよいよここから「アーサーとは何者か」を解き明かそう。


2.父王ユーサーと息子アーサー

◆アーサー王の誕生とマーリンの魔術

 「アーサー」は、名や生まれからして英雄の条件をもっていた。冒頭で予告した通り、その名は「熊」を意味するケルト語に由来するといわれ、ウェールズ語ではアルス(arth)、大陸のガリア語ではアルトス(artos)などに関係する。(またブリテン島をローマが支配したローマン=ブリテン時代のローマ氏族名アルトゥリウス(Arturius)に関係するという説もあるが)いずれにしてもこの語は原インド=ヨーロッパ語に遡り、アーサーはこの名において「熊のように強く賢い人間」となることを、誕 生において背負ったということになるだろう。アーサーは「熊」に最も結びついていると共に「竜」や、ケルトの聖獣である「猪」にも関係づけられている。

 そもそもアーサー王の誕生は特別な「妖計」によるものだった。アーサーの父の代から王を支えた魔術師・予言者の「マーリン」が活躍する。アーサーの存在と武勇は、「父のユーサー」自身の神秘的運命と、その役割を継承したものだった。 

 アーサーの父「ユーサー」については、古いウェールズ語の 詩に僅かな言及がいくつかあるが、彼の「伝記」は ジェフリー・オヴ・モンマスの『ブリタニア列王史』(1136年頃)に初めて書き留められ、ブルターニュ出身の修道士ギヨーム・ド・レンヌ(13世紀中葉)でも伝えられるものとなる。ジェフリー・オヴ・モンマスによれば、「ユーサー」は、ブリタニア王コンスタンティヌス二世の末息子たっだ。三兄弟は共に、ブリテン島に侵入するアングロ=サクソン人から国土を守る武人であった。その道程は、厳しい血塗られる戦いであった。

 そもそもユーサーたちの父王は、ブリタニアの最北部の辺境、バノウグ山以北の異境プラディンに住むようになった侵入者ピクト人によって誘(おび)き出され林の中で殺された。王位を継いだ長男コンスタンスも、その王冠を狙う悪しきウェールズ南東部の指揮官だったヴォーディガン(ウォルティギルヌス)の思わく通り、ピクト人たちに殺害されたのだった。次兄のアウレリウス・アンブロシウスと三男のユーサーは若年だったため、養育者の機転で一旦ブルターニュへ亡命した。

 悪者ヴォーディガンは、まんまと自ら王冠を戴き、ピクト人征伐のため援軍として、本来外敵であるヘンギスト率いる大陸のサクソン人をその兄ホルサと共に、サクソニアからブリタニア南東部のケントへ上陸させてしまったのである。しかしこの同盟も仲たがいによって失敗し、ヴォーディガンの力が弱まった時、満を持してウーサーと次兄アウレリウスは大軍を率いブリテンに帰還。兄アウレリウスがヴォーティガンを焼き殺し、ブリタニアの王座を奪還し、サクソン人が破壊した教会の修復、法の改正など王国の回復に全身全霊を傾けた。

 なにより戦いで命を落とし、既に葬られている者たちために立派な「記念碑」を建造したいと願い、「未来を予言」できる者を、王国の隅々まで探させた。泉の傍で見出された「魔術師マーリン」が、王の前に呼ばれたのがこの時だった。

 予言者にして魔術師のマーリンは、先王たちの墓の記念碑に最も相応しい巨石は、ヒベルニア(アイルランド)のキララウス山(現在のナス付近)にあること、その巨星は「巨人の輪舞」と呼ばれ、石自体に治癒の力を秘められていると語った。そこで兄アウレリウスの悲願を成就させるため、弟のユーサーが1万5000人の兵士を引き連れてアイルランドに乗り込み、抵抗するヒベルニア軍を制し、魔術師のマーリンと共に巨石をブリタニアに運び、「巨人の輪舞」の並びを再現して記念碑を建造した。この巨石こそ、今日に知られる「ストーンヘンジ」である。

 しかし兄アウレリウス王はまもなく病の床に伏してしまい、その隙を突いた悪しきヴォーディガンの息子の悪だくみに加担した、偽の医者に毒殺されてしまった。

 この出来事が起こった時、不思議にも、空に「ドラゴン」の形の火球のような星が出現した。とっさにマーリンは、アウレリウスの死を嘆くと共に、一刻も早くユーサーに、ヴォーティガンの息子とサクソン人の同盟軍を攻めよ、そうすればユーサーは全ブリタニアの王となると予言したのである。

 予言通りユーサーは大戦に勝利。「ペンドラゴン」という異名を与えられ、王となり、辺境を守り、サクソン人の反乱を鎮圧した。亡くなった兄アウレリウスを鎮魂し、巨石の記念碑「巨人の輪舞」に壮麗に埋葬した。

 さてこうして、ユーサーは魔術師マーリンの予言や魔術に支えられて王となったが、その軌跡の内、最もよく知られる場面が、ここに訪れる。

 即ちユーサーは、こともあろうに、サクソン人に勝利した宴で、コーンウォール公ゴルロイスの妃を見初め、「ブリテンのすべての女性を凌駕する美しさ」を誇るそのイグレーヌに横恋慕して、思いを遂げたいと願った。そこでマーリンは妖術でユーサーを、夫ゴルロイスの姿に変身させ、同衾を成功させて、イグレーヌは男児を身ごもった。

 その赤子はそのままなら、私生児になるところだったが、受胎は、戦場へ派遣されたゴルロイスの戦死後であったので、子はユーサーとイグレーヌの正当の嫡男となれた。それが「未来の王となるアーサー」である。

 おそらくこの「アーサーの誕生」に至るマーリンの魔術は、父ユーサーにもたらされた奇跡として、アーサー王の神話伝説全体の中でも最もよく知られている幸運だろう。しかし、この誕生に先行して起こった、前述の大空に出現した「ドラゴンのような星」に焦点を当てて読み直すと、「息子ユーサーと父ユーサーとの絆」を、より象徴的レヴェルで深く理解することができる。

  

◆アーサーの父「ドラゴン」の星──光の玉の出現

 話を戻せば、アーサーの父となるユーサーが、はっきりと「ユーサー・ペンドラゴン Uther Pendragon」という名前を得たのは、とにかくこの「星」の出現によってである。

 ユーサーは殺された父王の三番目の息子であり、長兄も次兄も殺戮された中、敵を駆逐する勇者だった。しかしその地上の運命と邁進は、自分からではなく、「天」から出現した超常現象と、それを読み解いた予言者マーリンによって、真の「王」となる道が示されたことが要である。

前出通り、ブリテンで悪政をおこなってきたヴォーティガンが、招き入れてしまったサクソン人がブリテンに侵入して、その混乱の最中、夜空にドラゴンの頭のような彗星が現れ、マーリンは直ちにユーサーに、戦闘を開始せよと告げたのである。

 ユーサーは敵を倒し、死した兄アウレリウス・アンブロシウスの無念を晴らし、「ペンドラゴン」の名と共にその王権を継承してブリテン王となった。この中世の貴重なマシュー・パリスの写本には、ユーサー・ペンドラゴン王の眷属然として「ドラゴン」が力強く描かれている図❾ 「ユーサー・ペンドラゴン」 マシュー・パリス『年代記梗概』1255年)。

図❾

 「ペンドラゴン」の「ペン」は、ケルト語(ウェールズ語)の「先端・高み・岬」を意味した。字義通りには「頭領であるドラゴン」の意味となる。それは亡くなった兄が名乗ってきた「最高司令官」の称号を指しているともいわれる。フランスの詩人ロベール・ド・ボロン(12世紀後半-13世紀初頭)が用いた説話では、「ペンドラゴン」という名前を付けたのは、ユーサーの兄アンブロシウス・アウレリアヌスであり、ユーサーは兄の死後にこの名を継承し自らに与えたともいわれる。一方、ローマ騎兵隊のドラコ(ドラゴン)軍旗の影響があった可能性も推測されている。しかしジェフリー・オヴ・モンマスは、「ドラゴンの頭」をした彗星が、三度も出現し、マーリンの予言によってユーサーが王となり、その名を戴いたことを物語った。 

 更にジェフリーが物語ったのは、天に現れたその火球のような星の「頭」からは、「二筋の光」が出ており、象徴的にも1つは「ガリア」の方向を遥かに超える大陸を延び、もう1つは「ヒベルニア(アイルランド」」の方位を指していたことである。それは息子アーサーと、その妹の未来をも示した驚異の超常現象であった。ガリアを指す光は次代の王となる息子アーサーを示唆し、実際アーサーはヨーロッパへ遠征、ローマにも挑み、島と大陸を貫く「ヨーロッパの王」として王冠を戴くことになる。その予兆が、すべて「星」とその光線から発したのであった。

 そしてその星が「ドラゴン」の名に関わり、またそのドラゴンが「熊」に関係してくるエピソードを、ジェフリーの『列王史』は語っている。


3.「ドラゴン」から「熊」へ

◆アーサー王の正夢

  私たちはアーサーがその名において「熊」であることを知っている。と共に、同時にこの驚異の天体の現象によってアーサーはユーサー「ペンドラゴン=竜頭」の息子、つまり「ドラゴン」(の子)でもあるということが示唆されている。アーサーが「熊」であって同時に「ドラゴン」であること、そしてその名が負う、アーサーが真に「熊」の異名を得るに相応しいことについては、以下のアーサーが見た「夢」のなかの出来事に暗示されている。

 『ブリタニア列王史』やそれに基づくワースの『ブリュ物語』(前出)によれば、アーサーは夢で、大陸側のノルマンディーの海を臨むモン=サン=ミシェルで「巨人(熊)を退治」した。15歳で王位に就き大陸にも遠征し連勝を重ね、ローマがしぶとく貢物を要求してきたので大軍を率いてノルマンディーと隣り合うブルターニュに乗り込んだとき、その地方を荒らし回っていた巨人を、ローマとの交戦の前に倒したという夢である(図❿「アーサーとモンサンミシェルの巨人の戦い」1455年頃、ブルージュ、羊皮紙、407 f.、430 x 320 mm フランス語  310 (f. 221 v.) フランス国立図書館蔵:https://essentiels.bnf.fr/fr/image/dda84686-914e-4ab2-95d3-b65867ff869a-combat-arthur-et-geant-mont-saint-michel)。


図❿ © Bibliothèque nationale de France

 アーサーがこの夢から覚め、側近たちに夢のことを語ると、家臣たちが「夢解き」をした。即ち西から来た「ドラゴン」はアーサー自身であり、負かされた巨人が「熊」であり、これはアーサーがローマに大勝する予言であるという。「西方」から「ドラゴン」がやってきて「熊」をその火焔で焼き殺したこと。それはアーサーが、ローマに打ち勝つ予兆であるのみならず、「熊」と戦うその挑戦と勝利によって、それが戦士アーサーにとって通過儀礼となり、アーサー自身が「真の熊」となったことが示唆されていると。そしてこれは正夢であったことをジェフリーの『列王記』が、続きを綴っている。

 アーサーは巨人を退治するのに軍隊をあえて出動させず、夜陰に紛れ、午前二時頃二人だけの家来を伴いモン・サン・ミッシェルに昇って行った。すると嘆きの老婆が現れ、恐ろしいその巨人によって養女が殺され、わが身も暴力を受けたこと、それは呪われた怪物であることを泣きながら告げ、あなたも直ちにお逃げなさいと叫んだ。しかしアーサーはひるまず、豚を喰らって血だらけの巨人と死闘を繰り広げた。最後は頭蓋を剣で突き刺し、怪物を倒した。

 巨人の頭を晒(さら)して民衆に見せることを家来に命じた。この巨人とアーサー王の戦いのエピソードは古い民間伝承に遡るとも考えられている。いずれにしても、アーサー王は、巨人の「熊」を「西から来たドラゴン」の威力を以って闘い勝利し、「熊のように強い戦士/王」であることを証明したことが、夢の予兆と実際の戦いのダブルで物語られている。このエピソードの要は、いずれにしても、巨人もアーサー王も、人間を越えた、怪力、獰猛さ、恐ろしさを帯びている存在であって、その戦いは獣のいる異界である「山中」を舞台としていることの理由である。

 舞台のフランス側、ノルマンディーの「モン・サン・ミッシェル」や、その小型版であるコーンウォールの「セント・マイケルズ・マウント」は、どちらも大天使ミカエルの名が付けられているが、アイルランドの「スケリグ・ヴィヒール(聖ミカエルの巌)」同様に、キリスト教時代以前は、この世と異

なる時間が流れている、ケルトの「異界」であった山・巌であった。キリスト教の天使が舞い降りる以前には、そこに異教の聖獣・怪物として、「熊」に象徴される「動物」=「自然」が生きていたのである。


4.熊戦士-「北方」ヨーロッパの動物信仰

◆荒ぶる「熊戦士」

 そうした信仰は、ケルト文化圏のみならず、ユーロ=アジア世界の西端部の島であるブリテン諸島や、大西洋沿岸の大陸のケルト語文化圏のみならず、初期中世に神話や造形美術で相互に影響関係にあった北欧にも、色濃くみられる。

 その典型が、ヴァイキング時代の金工の、有名な「熊戦士」の図像表現で、これは古ノルド語で「ベルセルク(複数形berserkir)」=「熊のシャツ=熊皮を着る人」と呼ばれた戦士たちで、彼らは「熊のように」トランス状態で戦うと伝承されている(図⓫「ベルセルク」スエーデン 南東部 オーランド島出土 ヴァイキング時代 540-790年頃)。


図⓫

 「熊の皮」は、人間のために熊が犠牲となったものであり、熊たちがその「死の皮」を人間に捧げることで、力を与えているとも解釈できる。熊の頭蓋骨や皮を神々に捧げる儀礼は、シベリアや日本列島のアイヌ文化にも、また北米にも習いがあり、ユーロ=アジア世界を貫く「熊崇拝」が、アーサー王神話の中にも照り映えていた可能性がある。

 大陸の「ケルト美術」として熊関係では有名な、大陸のケルト文明圏であったスイス出土の「熊の女神/アルティオ」があり、ガロ=ローマ時代の共同体でも、このように「熊の女神」が崇拝されていた。それは台座のブロンズ板に刻まれた女神名「アルティオ」および、具体的な象徴物、生命的な樹木と女神が持つ「豊饒の実を詰めたバスケット」で示されている。熊の後ろには「生命の樹」のような「自然」の生命を表象するものまでが、ユニークなうねる造形で表現されている(図⓬ 「熊の女神 アルティオ」 スイス ベルン歴史博物館蔵)。


図⓬

 この「熊伝統」の息は長く、ケルト・ガリア時代から2000年後の現代でも、スイスの首都ベルンでは、「熊」が市の紋章で、町中が熊の彫像やマスコットの人形のディスプレーに溢れていて、正に熊たちは現代でも「神話的キャラクター」として生きている。

 古代ケルトの「アルティオ」の熊の女神信仰は、「熊の動物園」がベルンの名所であることにも照り映えている。熊たちはたんに「飼われている動物」では勿論なく、ベルン、スイスの人々の「精霊」であるといえるだろう(図⓭ ベルン市の紋章「熊」)。


図⓭

 そもそもスイスが古代においてローマ人から「ヘルウェティア」と呼ばれたのは、ケルトの「ヘルウェティ族」の本拠地であったためだった。アルプスを挟んで大ローマ領のすぐ北に位置する、スイス(ヘルウェティア)は、古代ローマ人にとってまず征服しなければならない「ガリア」の地であった。有名な『ガリア戦記』の冒頭で、カエサルが、最も牽制しなければならないケルトとして登場する族がヘルウェティ族で、正にガリア戦自体の引き金となったのがこの一族だったのである。

 その都が、今日まで、ケルトの「熊」と「熊の女神」をシンボルとして伝えている、歴史的文化的背景や意味は、人間の抱く「動物の心象史」として、限りなく深いといわねばならない。


◆眠りから覚め「再生する熊」

 そしてアーサー王伝説に戻れば、アーサーはブリテンにおける最後の闘いで、不義の甥モードレッド軍と死闘を繰り広げて、瀕死となる。が、しかしそこに異父姉のモルガン・ル・フェが現れ、水に囲まれた「アヴァロン」島に誘われ、永遠の生命を得て、今は眠っていると考えられている。

しかしただ安らいでいるのではない。アーサー王は、いつでも、子孫のブリトン人が危険に晒されるなら、眠りから覚め、救援に来てくれるのだと伝説でも民間信仰においても信じられている。

 つまりアーサー王は、一旦瀕死となったが、アヴァロン島で眠っている。それは長い冬の眠りについたのち、春には森に回帰する「熊の冬眠」と「再生する熊」のメタファーであるとも解釈されている。 アヴァロン島は即ち「死者の島」なのではなく、アイルランドの神話伝説に語られてきたケルトの「常若の国・島」である「ティール・ナ・ノーグ」と同じく、「永遠の生命を授けられる異界」であるのだ。

 「アーサー王=熊=冬眠=再生」という観念は、アーサー王伝説が中世に広がったイタリアにも認められる。13世紀初頭に書かれたティルベリの『皇帝の閑暇(かんか)』(第2部第12章)では、シチリア東部の活火山、エトナ山の洞窟で、負傷したアーサー王が横たわっているのを、馬丁が目撃する。その洞窟は「アーサーの棲み処」として語られているのである。

 「洞窟」が「熊」の「冬眠の家」であり、眠っていた存在が、春に返り咲き、共同体を救うという伝承は、古代のギリシャ出身のへロドトスの『歴史』にも記されている。

 黒海西岸のゲタイ人の神「ザルモクシス」はギリシャのピュタゴラスに仕えて故郷のトラキア(現ブルガリア)に戻り、「永遠の生」を得ることができるという「地下」の窟に3年間潜んだ後、人々の前に再び現れた。ザルモクシスは生まれたとき「熊皮」を掛けられていたという。ザルモクシスも蘇る「熊」であったのだった(渡邉浩司「クマをめぐる神話・伝承」『ヒグマ学入門』第5章、北海道大学出版会 2008年、p170-171)。

 いかにも「トラキア」の地は、ケルト語文化圏から遠いようにみえるが、ドナウ川という文明の水のハイウェイが、中欧と東欧を現在も繋いでいるように、移動、交流があった。紀元前4世紀までにケルト鉄器文明の高度な金工美術の匠であった工人や冶金術師が、トラキア人の工房と交流した。その可能性を示す出土物、儀礼用の「ゴネストロップの大釜」(約2000年前 デンマークの泥炭地出土 デンマーク国立博物館蔵)が今日に伝わっている。そこにも「鹿」「猪」「蛇」「獅子」「イルカ」「牛」など様々な動物が表現されている。


5.生命循環を導く「父子」の星座

◆アーサー王と「北極星」 

 さて私たちは「熊」が、ケルト神話のみならず、ヨーロッパで、またそれと地続きであるユーロ=アジア世界で、いかに神話的存在として、表現されてきたかを垣間見た。そしてここで最後に、私たちは、アーサー王とユーサー王の「父子」の絆が「動物」という「聖なるもの」を引き受け、アーサー王の神話伝説の「原初性」を物語っているというところに行き着く。

 夢のなかで熊を倒し、「真の熊」であることを証し、ローマにも大勝したアーサー王は、「ドラゴンの頭」が暗示する彗星の出現によって、「ドラゴン」の称号を得た父王ユーサー・ペンドラゴンの息子である。火球のような星の頭から出た二筋の光の指した「ガリア」をも制圧するヨーロッパ世界の王となっていった。

 この運命は、父のペンドラゴンと、ペンドラゴンに勇気を与えた魔術師マーリンが、王たちを鼓舞したのみならず、私たち、人々を、時を越えて導き、勇気づける存在であったことを知らされる。なぜなら、中世から近代へ世は移っても、中世の人々のみならず、現在の私たちは、天を仰げば、この父子の「星座」を仰ぐことができた、できるからである(図⓮ ①星座「りゅう座」(中央)と「こぐま座」(右) ②「りゅう座とこぐま座」15世紀、リヨン市立図書館蔵 Wikipedia:https://en.wikipedia.org/wiki/Ursa_Minor#/media/File:Sidney_Hall_-_Urania's_Mirror_-_Draco_and_Ursa_Minor.jpg)。


図⓮-①
図⓮-②

 中世のジェフリー・オヴ・モンマスは述べていないが、ユーサーを幸運に導いた星の様相と、「ペンドラゴン」の名は、「りゅう座」を思わせ、実際、その「姿」は、あの星の出現のシーンのその形に響きあっている。

 なぜなら夜空で「りゅう座」は、ひとり君臨するのではなく、「こぐま座」(=その尾が「北極星」)を守るかのように、うねり輝いている。(りゅう座の尾の傍には、ギリシャ神話では息子アルカスと共に熊に変えられ天に上げられた母親カリストの「おおくま座=北斗七星」もある。)

 実はこの星座を、ユーサーとアーサーの「父子」としてみなす見方は、恣意的なものではない。

現在、21世紀の私たちが見ている「北極星」は「こぐま座」の尻尾に光る「アルファ(α)星」と呼ばれるが、それは約5000年前には、「りゅう座」の「α星=ツバン/3等星」が北極星だったのである。興味深くも、壮大な天の経めぐりのなかで、「北極星」は、「ドラゴンの父」から「こぐまの息子」へと、確実に「王位継承」されているのである。

 ケルトの伝承において、中世の人々の星座の観察が、その時点から遡った星座システムや、未来の夜空を予測できないとしても、ケルトの神話伝説や伝承を「星座」や「天体」から読み取っていくことはなお意味深いだろう。

 なぜならウェールズ南部では、有名なる現国立公園ともなっている「ブレコン・ビーコンズ」の山中の湖沼スリン・クムスルーフには、「アーサー王の椅子」と呼ばれる大切な場所があり、そこから正に「りゅう座」を仰ぐことができるとも伝承されている。

 確実にアーサーは、ユーサーの王の椅子/玉座を継承したのである。

ユーサー・ペンドラゴンの息子「アーサー」の名である(ウェールズ語の)「熊」は、インド=ヨーロッパ語族の諸語でも民間伝承において語り継がれた。それは単に「強い獣」としてでなく、森の「蜜の在り処を知っている知恵者」として畏敬されてきた。

 「星座」は人々の季節ごとのみならず、一生の「生命循環」を導く羅針となり、此方から彼方へ、彼方から此方へと「導く徴」であったことは間違いない。

 アーサーの父子が体現した「熊」と「ドラゴン」という奇跡は、現在の私たちのこの地上にこそ、大自然の精霊の力と天の循環による知と生命を届けてくれるのではないだろうか。

                           

※コラムへつづく

                   


🔴コラム 「鳥」だった母と、「妖精」の姉モルガン・ル・フェ ― アーサーの神秘の相関図


 アーサーの母となったイグレーヌ(英語:イグレイン、ラテン語:インゲルナ)は、古アイルランド語では「野生の雁(ギグレン)」を意味する(ヴァルテール『アーサー王神話大事典』渡邉浩二・渡邉裕子訳、原書房、2018年)。

 これはイグレーヌがアーサーを身ごもった季節は、「雁」がヨーロッパへ戻って来る頃であるのと、アイルランド神話の「アルスター」の英雄クー・フリンも、誕生する前に「白鳥」が現れたことが想起される。こうした「英雄の誕生と鳥」の関係は「鸛(こうのとり)」の神話につながるともいわれている。

 確かに「鳥」は季節の循環や、どこからともなく「到来するもの」とつながる動物である。

 またアーサーの母となるイグレーヌの出産に関するエピソードには、いくつかのヴァージョンがあって、ジェフリー・オヴ・モンマスの『ブリタニア列王史』では、コーンウォール公ゴルロイスの妻として登場するが、フランスのロベール・ド・ボロンの詩『マーリン』では、イグレーヌは、ティンタジェル公爵(名は知られていない)の前夫との間に娘をもうけていた。

 その三姉妹がトマス・マロリーの『アーサー王の死』に登場する「エレーヌ」「モルゴース」「モルガン・ル・フェ」である。それぞれに特異な能力をもっていた。

 この相関図において13世紀のフランスの散文説話では、アーサー王が、上の三姉妹の異父姉妹のモルゴースと交わり、不義の甥としてモードレッドが生まれる。アーサー王の最後の戦争「カムランの戦い」でアーサー王に致命傷を与えるのが、このモードレッドである。

 しかしモルゴースとは逆に、モルガン・ル・フェは、そのモードレッドとの最後の闘いで瀕死となったアーサー王を、常若の島「アヴァロン」に誘うのである。治癒の秘術をもち、文字通り(姉)妹の力を発揮する。これはアイルランド、世紀末の「ケルト・リヴァイヴァル」の画家の抱いたイメージである(図:マッカリース 「アーサー王の死」 1857年 https://en.wikipedia.org/wiki/Morgan_le_Fay#/media/File:Morte_D'Arthur_by_Daniel_Maclise.png)。



 運命は人為では変えられない。が、自然や天然から人間は、生命力の恵みをいただく。アーサーも、人間を超えた存在に助けられていく。アーサー自身も、熊の化身として、本文で述べた「長き眠り(冬眠)」を経て、私たちの有事に、駆け付けるキングとして、今アヴァロンにいるのである。





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