『ネラ異界行』
「未来」を予言する「死者たち」
鶴岡真弓
◆はじめに―不自由な生者
「人間はどんなに偉く、強力でも、1尾の魚ほどの自由もない」。
19世紀イギリスの美術批評家で社会改革の指導者ジョン・ラスキン(1819-1900)の数ある有名な金言(アフォリズム)のひとつである。
ここに出てくる「魚」とは、「自由」の身心の象徴であるだろう。生きとし生けるものの内で、池でも大海でも水あるところなら何処でも、泳ぎ回ることができる。
それに対して人間は、地上の何処にでも歩き回り、わがもの顔で自然を開発し管理してきたが、果たして「魚の自由」をもっているのだろうか、と問いかけているのだ。
「魚」は「自然」を生きる。が、「人間」は「人工」に縛られ、自然の摂理を壊して生きている。
では、今、この「魚」の語を、「死者たち」に置き換えて読み直してみるとどうなるか。
「人間はどんなに偉く、権力者であろうとも、死者たちほどの自由を持てない」となるだろう。
ラスキンの生きた19世紀、産業革命の雄、大英帝国は、人間世界の機械化のトップを走っていた。加速する近代的邁進によって、人間は魚を、死者を、彼らの本来の場所から追い出した。汚染水で死に至らされる魚を人は憐(あわ)れむが、海水を汚し続けてきたのは人間で、自然全体が汚される危機を招いている。
そして人間はなおも「地球の主人公」という無意識の特権を手放そうとはしていない。自ら「不自由」をつくり出し続けている。
そのエクスキューズとして、思い出した時にだけ「死に至る魚」を思い浮かべるのみである。死に至った人々同様、魚を、「別の世界」にいる生物であると、思いこんでいるからである。
そして私たちも、死者について、「別の場所に葬られた人々」や「過去の人々」であると、思いこんでいないだろか。現代人は忘却と隠匿によって、人間を自由どころか、ますます自らを不自由にしているのではないだろうか。
しかし一方、いにしえから変わらない想像力は、枯れ井戸となる前に、最後の浄化の泉を湧き出し続けてもいることを思い出さねばならない。
19世紀、ラスキンの大英帝国の足下にあった被植民地アイルランドには、不在地主による被支配と、ジャカイモの胴枯れ病による大飢饉(1845-51年頃まで)の厳しい現実の中にあった。それゆえに人々は死者たちを「過去という墓」に閉じ込めることはしない伝統を捨てなかった。
前世紀の18世紀半ば、イングランドは清教徒革命のさなかに、アイルランドを再征服するという暴挙に出た。数千人の命を奪ったクロムウェルによる侵略と大量殺戮(1749-53年)を経験したアイルランドの人々にとって、19世紀の世界史にいう大飢饉以前から、「死者はいつも生者の傍にいる存在」であった。
この世での生と死の皮膜を知るアイルランドの人々は、生きている者たちよりも「死者の自由」を感じ取り、畏れ、敬い、死者や祖霊の物語を伝えてきたといえるだろう。
それはとりもなおさず、ケルトの暦に刻まれた「サウィン」という「祭暦」が示してきたものであった。
死者たちは、活き活きとした魚のように、文字通り「回遊」してくる。祖霊や死者たちこそがおおいなる「自由」の存在なのであると、人々は信じた。
その暦の背骨には、厳冬を乗り越えるための「周期」への思いがあった。冬が迫る晩秋の10月31日の夜におこなわれるキリスト教の「ハロウィン」という祭りは、もともとヨーロッパの基層、ケルト文化伝統の「サウィン=万霊節」に起源がある。
「サウィン」は鎮魂と供養の夜であり、現代でもそれは変わらない。
◆サウィンの「予言」
復習になるが、今日世界に知られる「ハロウィン」とは、キリスト教の「諸聖人の祝日の前夜」の意で、10月31日の夜である。その翌日「11月1日」はキリスト教文化においては、中世8世紀に正式に「諸聖人の祝日」と定められた。
しかし元々この「11月1日」は、ケルト言語文化圏での「1年の始まりの日」、つまり「新しい年の元旦」であった。そして重要なことには、その前夜の「大晦日」は、すべての死者がこの世に回帰する「万霊節」だったことである。
中世、キリスト教会が、このケルトの暦の上に「キリスト教の聖人を記念する日」を上書きし、今日に至った。
だがアイルランドなど「島のケルト語文化圏」の民間信仰においては、1年の最後の夜には、「この世とあの世」を隔てている扉が開くと、信じられ、畏れられた。
厳冬の到来を告げる冬の嵐とともに、「祖霊」と「死者たち」が、年に一度帰ってくる。しかも日本の「お盆」とは異なる点があった。
厳しい自然環境にある北ヨーロッパ。それは「冬」が始まる夜である。大嵐が吹き荒れ、太陽は消え、動植物の成長は止まり、「闇の半年」が始まるのだ。
つまり10月31日という暦日に「サウィン=万霊節」が置かれた理由。その根源にはこの季節、「成長」の反対側にある「死」や「飢餓」のゾーンに入る「闇」の訪れを鋭く認識してきた、農耕牧畜者の人々の祈りがあった。「闇」の入り口に立つからこそ、「生命の存続」への助けを、有限の生者ではなく、永遠の死者たちに求め、その祈りを暦に刻んだのである。
そこに祖霊や死者たちが帰宅するのだ。それは個別のプライヴェートな帰還ではない、大きなミッションを背負って現れるのである。
「死者たちの総力」が、うねりをあげて、この世に回帰する。そのパワーは、それまでの1年の間に、さまざまな悲しみや邪悪に塗(まみ)れた、生者がうごめくこの世界を「浄化」し、「新年」を迎えるカタストロフをもたらす。
いいかえれば、この超自然的な大変動を起こすのは、地上ですべてを掌握しているかにみえる「生きている私たち」では「ない」というところに最大のポイントがある。それを起こしてくれるのは、「すでに死んだ人々」なのである。
人間の欲望がむき出しになった私たちの現代社会の渾沌とした状況であれば、なお一層、力強く「再生を促す者」たる死者たちが動き出すであろう。
生きている人間には決して出来ない、「この先に起こること」への透視。それをおこなえるのは、生者ではない。
「未来は死者によって予言される」。
「サウィン」の夜にそれを体験した、ネラという戦士の数奇な「異界行」に、潜入しよう。
◆『ネラの異界行』
中世アイルランドのケルト神話に、ゲール語で「エフトラEchtra」という物語ジャンルがある。
「エフトラ」とは「冒険・遠征」と訳される。対して「イムラムImram」は「航海譚」である。「エフトラ」には航海も含まれ得るが、より何が起こるかわからない、行先も奇想天外な、「アドヴェンチャー」が「エフトラ」なのである。
その代表的な「エフトラ」の神話といえば、コナハトの戦士、ネラが主人公の『ネラの異界行』である。「サウィン」の夜の超常現象に始まり、ネラの勇気と愛が、「終末」を「未来」へと繋ぐ物語である。
ネラが仕えたアイルランド北西の王国コナハトは、アリル王とメドヴ(メイヴ)女王の王国で、アイルランド神話で最も重要な物語『クアルンゲの牛捕り』の戦争の発端をつくった、誇り高くも、お騒がせのペアでもある。この戦争はメドヴ女王が、アルスターの名高い牡牛ドン・クアルンゲを欲し、コナハト軍がアルスターへ攻め入り、迎え打つ英雄クー・フリンが大活躍する(神話の成立は1世紀頃。『赤牛の書』『レカンの黄書』等の12世紀以降の写本で伝わる)。
一方、『ネラの異界行』(10-11世紀成立。『レカンの黄書』他で伝わる)は、『クアルンゲの牛捕り』の前話で、地上の人間同士の戦争ではなく、この世と異界の間を往還する戦士の不思議な物語である。しかしここでも事の発端は、コナハトの王族である。
コナハトの都クルアハン(考古学上はロスコモン地方のいにしえの遺跡に当たる)の城塞で、宴が開かれていた。それはほかならない「サウィン」の日であった。
アリル王は、戯れに、戦士たちをけしかけ、絞首刑で死んだ捕虜二人の足に、柳の編み枝細工をひっかけたら、黄金の柄の剣の褒美をとらすという。
「柳の編み枝細工」とはアイルランドのケルトの伝承では「呪力」をもつと信じられてきたもので、そもそもはドイルドが扱うものであった。
この王の要求に、ただ一人名乗りを上げたのが、ネラだった。
絞首刑となった遺体に、編み枝を掛け、その目的は果たした。ところが囚人の死霊は、ネラに向かって「この自分の死体を担いで、水が飲める所に連れていけ」と迫った。ネラは死体を担ぎ、水を求めて彷徨(さまよ)い、ようやく三軒目の家でそれを叶えてあげた。しかし死体は水を飲み終わる寸前、最後の水を寝ていた一家に吐きかけ、なんと一家は死んでしまう。
アイルランドの民間信仰では、寝る前に、水を入れた桶を放置すると、死を招くというタブーがある。「水」は「異界に通じている」からだ。日本でも河童伝説は川などの「水界」が異界への入口になっているようにである。
死者は、正にこのように、静かに横たわっているのではなく、自分の意志をもち、欲望し、人を殺めることもする。「強力な存在」であり、なおも「生きている」ことを、ネラは思い知ったといってよいだろう。とにかくネラは、その死体の望むとおりにしてあげたのだ。
さて、ネラは、いったん城に戻ったのだが、驚くべき惨状を見ることになる。城が攻撃を受けて燃えあがり、兵たちが殺戮されていたのである。
ネラは敵の後を追った。するとそれは妖精たちの姿をした者たちで、塚の中に入っていくではないか。それを追いかけ、地中に降りたネラは、妖精塚の王に謁見する。
さらに妖精の女性のひとりが、ネラの妻となったのだった。その妻の口から、実はネラの故郷の城塞は「まだ破壊されてはいない」、「ネラが見たのは<未来に起こる事>の幻想」であり、実際は「次のサウィンに襲撃される」と予言される(図❶アーサー・ラッカム「風に踊る秋の妖精たち」https://letterpile.com/creative-writing/The-Strange-Adventures-of-Nera-1-A-Tale-of-Irish-Halloween-Samhain-Spookiness)。
妖精の世界の方が、時が進んでいて、「未来」が先取りされているのだ。一方、地上ではネラの仲間がまだ、先ほどのサウィンの饗宴を楽しんでいるのである。
ネラは妻から、「来年のサウィンに妖精塚の入り口が開く」と聞き、地上の城に戻った。
死者と精霊のいる異界、妖精塚の方が、過去ではなく「未来」であるのだ。(あるヴァージョンでは、ネラは現世に戻る際、証拠として、地上では来年にしか手に入らない夏の植物である野蒜、桜草/オトギリソウ、黄金シダ/キンポウゲを持って帰り、仲間に「未来」に起こる災難を忠告している。)
全てを知ったアリル王は、その時が来たら妖精塚を攻撃するとして、ネラには今のうちに塚の中のお前の家族と家畜の牛を連れ出せと忠告した。
ネラは再び妖精塚に戻った。そこでは既に1年が経っており、息子を出産したことを妻から告げられた。そしてまた妻から、次のサウィンに妖精塚の入り口が開かれると教わる。
再びネラは城塞に戻り、サウィンに妖精塚の口が開くことをアリル王に告げると、王はネラに前の忠告どおり、今のうちに大切なものを取り出しておくようにと繰り返した。(ネラが連れ出す牛の中に、ドン・クアルンゲの血をひく仔牛がおり、これが有名な『クアルンゲの牛捕り』の火種となる。)
さていよいよ次のサウィンが近づく。アリル王は妖精塚の襲撃の準備を始め、遂にコナハトの軍隊は、妖精塚に攻め込み、これを破壊したのだった。この時、アリル王の軍隊が王冠を略奪するが、この王冠は、エリンの国、アイルランドの三つの至宝のひとつとなった。
この戦いの末に、最後にネラは、どう行動したのだろうか。
彼は妖精塚の家族とともに、塚に留まった。もはや人間の地上に戻ることはなかったのである。
それにしても、なぜアイルランドのケルト神話では「妖精塚」がこれほど、重要なテーマやトポスとなってきたのだろうか。
◆「ラース」の意味
アイルランドの民間伝承で、妖精の棲み処は、ゲール(ケルト)語で「シー」と呼ばれる。「妖精」も「シー」である。一方「ラース」は「土の城壁・円環状の砦」のほか「土の層」や「魚の浅瀬」も意味した(https://www.wordsense.eu/r%C3%A1th/)。(図❷ラースの上に立つ「ダティの墓」)
『ネラの異界行』の幕開けの舞台であるコナハトの城塞のある都クルアハンも、実際の「ラスクルアハンRáth Crúachan」、すなわち「クルアハンのラース」と呼ばれる所に当たるといわれている。
円環状の土の層や土塚である「ラース」は、アイルランドでは大小4万を数える。たしかにその円環の形状は、墓であるようにも、妖精が踊っている場所のようにもみえる。
アイルランド東部の王たちの古墳が集中して残るボイン川流域の丘にある「ノース」の古墳は、紀元前3200年も前の円墳で、周りにさらに17もの円の塚が取り囲んでいる(図❸「ノース」の古墳 前3200年 アイルランド、ミーズ地方 https://en.wikipedia.org/wiki/Knowth)。
土塚の上に、人間が家を建てようとしても、繰り返し崩されて永遠に完成しないのは、妖精たちの仕業であるという民間伝承は、昔から広く知られている。
このような「いにしえの墳墓」から神話や物語が生まれたことは大いに想像できる。
『ネラの異界行』に物語られたように、「妖精塚」はサウィンの夜にその口を開くと信じられた。地上の人間界にさまざまな「隙」や「油断」があると、妖精に悪戯されたり、死霊に襲われたりする。
実際この土塚の多くは、太古からの墳墓であって、死者たちの棲み処である。アイルランドでは上掲❷の「ダティの墓」も紀元前200年から紀元後200年頃につくられた、アイルランドの上王(アルド・リー)ダティのものと推測されている。
◆生きている古墳、異界への入り口
『ネラの異界行』の物語の発端で、アイルランド北西部のコナハトの王と女王の宴が開かれた城は、「クロハンの砦」と呼ばれ、それは実際の太古の遺跡、「ラスクルアハン」に当たると考えられていることは前述したとおりである。
そこは『ネラの異界行』の舞台としては、現世の王の砦だが、この物語を語り継いできた人々の想像力の大きさを思わせられる。
即ちこの物語を創造した人々は、死者たちが「今も生きている」と実感できていた。それは彼らの歴史的、自然的環境の懐に、常にいにしえの祖霊が眠る古墳や城塞が存在したからであった。アイルランドにはヨーロッパで最大級の円墳「ニューグレンジ」のみならず、前出の「ラース」と呼ばれる中小の土塚がそこここに見られる。
これは同じブリテン諸島でも、広々とした平地もあるイギリス本島とは異なる風景だ。アングロ=サクソン文化は、「過去」を「近代」システムによって凌駕したが、アイルランドはその過去を消せなかったし、消さなかった。
『ネラの異界行』という神話を想像した中世の人々の力は、その古墳や土塚が、「祖霊たちの過去の地層」であるという認識に留まってはいなかったのだ。
この神話に登場する城塞に当たるラスクルアハンは、アイルランドの王たちの六つの遺跡の一つで、6平方㎞に240 以上の古墳や土塚があり、内60は現在国定記念物となっている。遺跡である墓の「生命時間」は途方もなく長く、新石器時代(前4000-2500年)から青銅器時代(前2500-500)、鉄器時代(前500 -後400 年) にわたる。中世初期以降にもそれは受け継がれてきた。
そこは「異界への入り口」、即ち「アイルランドの地獄の門」と考えられ、異教のケルト神話の女神モリガンの棲み処ともいわれてきた。モリガンは『クアルンゲの牛捕り』の英雄クー・フリンに恋し、岩に縛り付けたその瀕死の肩にとまり、最期を看取る。「生と死の境」を司る女神である。女神モリガンは、サウィンの日に、ダーナ神族のダグザと交わった産出の女神でもあって、生命賦与と生命奪取の両方をコントロールする。
これらの神話的存在は、いにしえの墳墓や妖精塚を飛び回っている。東部のボイン川流域の王族の古墳群も同様だが、アイルランドからこれらの遺跡の風景を差し引いたら、この国の歴史/物語が見えなくなってしまうほど、これらは悠久の「神話的時空」なのである。
墳墓や土塚の多くは、土地の人々によって妖精塚とも考えられるようになり、具体的な妖精が神話に出現する。「妖精」とは即ち「霊である者」であり、「死者」でも、神々でもある。
墓の中の、妖精塚の地下世界で妖精の姿をとる祖霊や死霊たちを、「過去の人々」としてとらえる(文字通り、私たちの生きている地上から見下ろすのではなく)、「リアルな存在」として、実感できていたということにある。
神話は、人々の背後に広がる景色によって編み上げられる。逆にいえば、アイルランド神話の幻想的キャラクターは、リアルな古墳や土塚を母胎に生まれたといってもよいだろう。
『ネラの異界行』の神話も、空想物語ではなく、実際に風雨にさらされながら数千年を経てきた墳墓が「生きて」いる中で展開する。永遠に過去形にならない「いにしえ」からの「風/土」に根差した、物質文明/マテリアル・カルチャーが、土地の人々の「身心の想像力」をかき立て、神話が生まれたといえる。
そうでなければこのように、生々しく神秘に満ちた「異界」とこの世を往還できる物語を語り継ぐことはできないだろう。
いいかえれば新石器時代以来のアイルランドの遺跡の風景は、ケルト神話に際立つ、めくるめく「反転するストーリー」の根源的要因だったのだとさえ思われる。見知らぬ場所の出現。名づけることのできない生きもの。登場するキャラクターの驚嘆すべき変容。なによりも異界の存在の力。この世とあの世の交流の発露は、この墓に、この塚に「死者たちは生きている」という確信にあったといえるのではないだろうか。
したがって、特別のサウィンの夜ともなれば、怒涛のように「過去と現在」が混じり合い、土塚を舞台に、「死者たちと生きる私たち」が交わることができる
いかにもアイルランドのいにしえから変わらない景観から生まれた神話的実感は、実は現代のアイルランドのアニメの魅力ともなっている。
今やアカデミー賞アニメ部門ノミネートの常連となっているトム・ムーア監督率いる「カートゥーン・サルーン」の代表作には、必ずといってよいほど、現代の鏡に太古の丘や遺跡が映し出されている。代表作『ブレンダンとケルズの秘密』(2009年、アカデミー賞アニメ部門受賞)の「森の奥」がそれである(図❹ブレンダンが迷い込む森 『ブレンダンとケルズの秘密』https://www.artdocentprogram.com/wp-content/uploads/2019/08/Brendan-and-Aisling-co-IMDB..jpg)。
キリスト教文化の堅牢な囲いである修道院の壁の外に広がっている深い森には、「いにしえの神々」が生きている。異教の神々の荒ぶるエネルギーに、少年僧ブレンダンは、恐れおののきながらも、森の聖域に潜入するのだ。
ブレンダンが黒い神々と遭遇するシーンは「異界行/エフトラ」の始まりを思わせる。異教の聖地への潜入は、恐怖でありながら、この世に新しい突破口を開くと経験なのだという期待感が修道士の心にも、よぎるのだ。 ムーア監督は太古の神々の姿を、有名なアイルランド西部のボア島に現存する「ヤヌス」像などをヒントに表現しており、魅了されない人はいないだろう(https://en.wikipedia.org/wiki/Boa_Island#/media/File:JanusFigureBoaIsland.jp)。
異教の神々は、祖霊は、死者たちは「死んでいない」。キリスト教化されても「太古の神々」への鋭い実感を捨てなかった民間信仰の篤さは、現代のムーア監督にも引き継がれていると思わせられる。
であればこそ『ネラの異界行』は、「死者」たちを「過去の人々」とは考えず、「死者たちこそが、未来を予言する」と物語ったのである。
「サウィン」という特別の夜、1年に一度だけ、生と死の扉が開き、祖霊は、過去の亡霊ではなく、これからの未来への「予言者」となって現れる。正には正のエネルギーを、邪には邪の崩壊をもたらすために。
◆硬直からのエクソダス
この信仰と思想は、今、アイルランド神話を越えて、私たち人間が、なぜ、死者たちの前で「祈る」のかという、普遍的問いの答えを提示しているのではないだろうか。
土地と神話の結びつきを忘却した現代人は、「生は生」、「死は死」の方程式しか与えられずにいる。しかし、伝統社会では、逆説的にも、「死者の再生」が、私たち「生者の再生の契機」であると考えられたのである。
私たちが「死者」の鎮魂を祈るのは、生者の利益や都合で、祟(たた)らぬようにと、荒ぶる死者に祈るのでは「ない」。死者の魂の鎮まりによって、死者が再生し、生者の再生もが、もたらされることを信じるのである。ケルトの「サウィン=万霊節」は、「生死の邂逅」を可能にし、「死者の力」はこの世に注がれる。
私たち人間は「有限の生」を背負う「時間内の存在」であるが、死者たちは「時間外の存在」として生まれ変わってそこにいる。それらの存在が、わが国でいう「ほとけ」や「かみ」といわれる者であり、『ネラの異界行』の妖精塚の王や人々である。土塚、そこは、仏教でいう西方浄土、ケルトの伝説でいう「常若の国/ティル・ナ・ノーグ」の入り口でもある。
「生物の死は硬直した終わりの状態」という西洋医学による定義を豊かに解(ほど)く思想、正に死者たちは自由自在な境域に生きている。
いったんこの世で死ぬことによって、彼ら彼女らは、生きている現世の人間には逆立ちしても不可能な、「無限の時間」と「無辺の空間」の存在に昇華していると、人々は信じた(図❺「アイルランドの亡霊たち」1888年 https://letterpile.com/creative-writing/The-Strange-Adventures-of-Nera-1-A-Tale-of-Irish-Halloween-Samhain-Spookiness)。
人々は死者を供養しつつ、生きている人間の「有限」性と、死んだ人々の「無限」性の違いを、より深く知ることになる。いいかえれば現代人は、「生きている人間にしか、未来は予測できない」と豪語して久しいが、それが誤りであることが、明らかになる。
サウィン(ハロウィン)の夜には、「この世の有限のいのちから自由になった」存在が、悠々と回帰、回遊し、それは来たるべき未来からの回遊でもある。
今、私たちは、地球の現在と未来を「人新世/Anthropocene」(人類が地球の地質や生態系に与えた影響に注目して提案されている、地質時代における区分)と名づけるまでになった。
近代経済システムが張り巡らされた地球にいる現代人には、「死者が未来を予言する」など迷信であると、信じることなどできないかも知れない。
しかし、「人新世」のいきかたは、どんなに効率がよくとも、いにしえから変わらない一回性のこよなき生命に、汚染水を魚に与えるような「不自由」と「病い」を増幅させてしまうのを避けられない。とすれば、今こそ、あらゆる局面で、「未来を予言できるのは、私たち生者ではなく、死者たちである」というネラの物語の真意を、分かち持つ時が来ているのではないだろうか。
アイルランドの「異界行」の物語は、私たちにとって、「硬直した死の概念からのエクソダス」をもたらす。
地上に戻らなかったネラは、妖精塚という永遠の再生の場をつかんだ。それを「真」とできるかどうかは、神話という「信」の物語を、創造して享受する、私たち人間自身の「心」にかかっている。
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