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ケルト神話のキャラクターたち 癒しの秘術 第6回


近現代に回帰した「イゾルデ」と「湖の乙女」たち

治癒と寄り添う意志


鶴岡真弓


 

 前章(前回)にお読み頂いた、「トリスタンとイゾルデ」は、ヨーロッパ諸国の中世とルネサンスの宮廷人から民間までに流布し、時を超えて、私たちの時代に帰って来た。

 今日、世界が知るこのロマンスは、ケルト言語文化圏に伝わった物語を源に、12 世紀のブリテンのトマ、およびフランスのベルールの詩を始まりとして、13世紀の散文トリスタンの 広まりによって「トリスタン」と「アーサー王伝説」が融合し、中世ヨーロッパのロマンスを代表する「トリスタンとイゾルデ」として広く浸透していった。

 そして近代、イゾルデは、時代のパラダイムが大きく変化するときに回帰し、19世紀後半の耽美派の絵画から演劇・オペラ、そして現代では映画やアニメーションまでの主人公となる。

 19 世紀のロマン派の民族の神話伝説とナショナリズムの結びつきは、中世趣味を起し、ロマンティックを超える力強い「イゾルデ・リヴァイヴァル」が始まった。騎士トリスタンよりも、「イゾルデの意志」に、当代の芸術家たちは光を当てたことである。即ち、イゾルデを、トリスタンの恋人である以上に、「死からの再生」への祈りを、「治癒への行動力」によって循環させていく女性キャラクターの代表として捉え直したのである。

 たとえば20世紀半ば、戦争の痛手がヨーロッパを包んでいた第二次大戦後ただちにジャン・コクトー(1889-1963)の脚本は「トリスタンとイゾルデ」の物語を映画で蘇らせた。『悲恋』(監督:ジャン・デラノワ、1943年公開)は、わが国でも戦後すぐの1948年に公開されたほど注目を集めた。物語の骨子はジョセフ・ベディエ(1864-1938)が1900年に刊行した『トリスタンとイゾルデ』に基づき、邦題はメロドラマ風に変えられているが、原題は哲学的な『永遠回帰』である。

 コクトーはこのタイトル、概念をニーチェの思想から霊感を受けた。主人公は何度も負傷する。死に囚われ生の有限性に抗えない私たちは人間(トリスタン、パトリス)に運命と奇跡を起そうとする女性(イゾルデ、金髪のナタリー)がいる。

 オリジナル・ポスターには「胎児」が暗示的に描かれている。様々な評価が与えられたこの問題作にコクトーは、「人間」のみか、「物語」じたいの永遠回帰をも企図したといわれる。トリスタン(パトリス役ジャン・マレー)は当時ファッションとして話題となったセーター姿であるのに対して、イゾルデの衣は中世の長衣を思わせるのである(図❶コクトー脚本・映画『悲恋』(原題『永遠回帰』 1943年)。

図❶

◆イゾルデの最期の歌

 さて、20世紀の「トリスタンとイゾルデ」芸術を用意したのは、なんといってもワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1865年6月10日、ミュンヘン、バイエルン宮廷歌劇場初演)であった。

 実に演奏時間は約3時間55分。第三幕、大団円に轟くイゾルデの「愛の死」は、聴衆の胸に迫り、「再誕生」のテーマに、女性イゾルデの力を大団円に表現し尽くした。

 それは既述のコクトーの想念と同じように、結晶化してしまう(終りを迎える)永遠の「愛」と「死」ではなく、負傷し続ける人間に寄り添い、「死の先に」芽を生むことを知って欲しいと、オーディエンスに訴えるのだ(図❷ イゾルデ役のニルソン 1959年 https://birgitnilssonsociety.com/2020-2/)。

図❷

 往年、イゾルデを当たり役としたドラマティック・ソプラノ、 ビルギッド・ニルソン(1918- 2005)によるパフォーマンスが、今日では独和対訳の画面とともにYouTube(文末:注1)でも鑑賞できるのは幸いで、是非視聴してほしいと思う。

 大団円の第三幕、第三場。イゾルデによって「愛の死」が歌われるその場には、「媚薬」の秘密を侍女のブランゲーネから教えられたマルク(マルケ)王が駆けつけ、ふたりを赦そうとするが、トリスタンの死に驚き、絶望する。しかしイゾルデは哀しみに押しつぶされながら、遥かに異なる次元にいた。

 ワグナーが思いを籠めたこの「愛の死」の歌のロ短調は、宗教的なパッションを表現していると評されてきた。聖母マリアの「被昇天/アセンション」のような、荘厳さと二重写しになる。イゾルデの言葉は、絶望からの狂乱でも、逃避でもない。ただしそれは、単に明るさへの転換ではなかった。

 注目すべきは、13世紀(1210年頃)に書かれたゴットフリート・フォン・シュトラースブルク(未完部分は先行したトマによる『トリスタン』で補われ得る)の最終章には、ふたりの「死」の意味の微妙な「違い」が書かれている。


「彼(トリスタン)は彼女(イゾルデ)への憧れのために死に、彼女は救助に間に合わなかった傷心のために死んだ」。(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』 石川敬三訳 郁文堂 1976年 p.343)。


 イゾルデの生とは「愛と治癒」「愛の治癒」をトリスタンに捧げることだった。父を戦いで亡くし、母をも亡くし孤児となり、生涯、戦いで負傷し続ける騎士トリスタンにとって、イゾルデはどれほどの光をもたらしてくれた女性か計り知れない。ゆえに負傷しても死の追っ手に襲われても、その都度癒されたトリスタンは、最期までイゾルデへの「憧れのために」死に、イゾルデは最期の最後に、間に合うことができず、「癒すことができなかった無念によって」死んだ。

 トリスタンが息を引き取っても、「傷はどこ? 治させてちょうだい!」(第二場)と彼女は叫んだ。なすすべもなかった。しかし、私たち「人間すべてに」向けて、あなたたちには、誰しもが「死によって」この全宇宙に溶け込むことができる、最期の「救済」が与えられること、それが「見えないのですか?」、死は全ての終わりなのではないと思えませんか、と問いかけるのだ。


しだいに明るく

輝きをまして

星の光につつまれながら

空高くのぼっていくのが

みなさんには見えないの?


(『ワグナー「トリスタンとイゾルデ」』第三幕三場 音楽の友社 1988年 pp.175-177)


 駆けつけた彼女が、トリスタンに見たのは、冷たい亡骸ではなく、彼女が手当すべき傷ついたまだ温かい体であった。到着が「遅すぎた」後悔。しかしイゾルデにそこからこそ手繰り寄せる、「何ものか」が湧きおこった。

 それはふたりが別々に存在するのはなく、おおいなる力によって、重ね合わされること、即ち「神秘の再合一/ミスティック・リユニオン」への願いだったであるだろう。


波打つ潮(うしお)の中に、

高なる響きの中に、

世界の息の

かよう万有(すべて)の中に、

おぼれ、

沈んで、

われを忘れる、

おお、この上ないよろこび!

              (前掲書)


 この「愛の死の歌」は「愛の死の描写」なのではなく、「世界」に対する、「呼びかけの歌」であり、それは、「生と死」を、始まりと終わりの線分の内にしか見ず、煩悩に閉じ込めようとする、現代の私たちすべてへの問いかけとなっていることに気づかされるだろう。

 人間は、神々のような「不死の/インモータルな存在」ではなく、「死すべき/モータルな存在」である。ゆえに、誤解を恐れずにいえば、「モータル」な存在、人間は、いつか確かな「インモータル」となるために、生きるのかも知れない。死を引き受け、それを経て、「不死となる」のだと、イゾルデは歌っているのではないだろうか。「トリスタンとイゾルデ」は、「愛によって死者となる」ことで、「永遠の始まりに立つ」だろう。

 つまり私たちは、この最期の歌「愛の死」の場面だけでなく、「物語の全体じたい」が刻々描き出そうとしたのは、生が「死」で閉じられ終わるのとは逆に、常に有限の時間を超え、来るべき「未来」へと歩み出していることを告げるためのものであったと知らされるのである。

 いいかえればそれはワグナーの追究した「通奏低音」という音楽が、この楽劇において無窮の「再生のための音」となっている。ワグナーの音、歌は、茫漠として静止状態の「宇宙論=コスモロジー」ではなく、太古から人間が仰いできた、蠢く「宇宙生成論=コスゴモニー」を、現代に回復させる芸術ともいえるのではないだろうか。

 「トリスタンとイゾルデ」という物語は、彼ら自身とともに、「世界への」、最大の「治癒の歌」であると思えるのである。


◆「ケルト神話」の囲い込み――アングロ=サクソン、大英帝国の国策

 さて、私たちは、ドイツのワグナーのオペラ劇場を出て、同じ19世紀のイギリスに飛ぶことにしよう。ここではかつて世界最大の覇権国となったイギリスと「神話/芸術」の関係についてお話ししておくことになる。

 19世紀は、「帝国の神話的可視化」が全開する時代だった。欧化するために、わが国も巻きこまれた、それは政策であった。

 「トリスタンとイゾルデ」がドラマティックな楽劇によって聴衆の前に現れた19世紀後半から世紀末のヨーロッパの社会は、民衆革命の後の激動の時代に入り、半ばに向かう1853年から56年の間、イギリスはフランスほかの国々とともに、黒海北岸のクリミア半島を巡ってロシアと戦い、正に負傷兵を介抱する「白衣の天使」と称えられるナイチンゲールが英雄となった時代である。

 一方、その前の40年代、イギリス本島のすぐ隣の「最も足下の植民地」アイルランドでは人口は半分となる「大飢饉」が起った。しかし大英帝国が救済の手を差し延べることはなかった。

 そうした西洋、ヨーロッパの激動のなか、世紀末へ向かい、民族の「神話・伝説」を大衆に広める政策が本格化し、列強においてほど、強力な推進のポリティクスが展開されたのである。

 イギリスは産業革命を成功させ、近代経済システムを推し進め、工業生産の雇用を拡大し、人間が機械に使役されても「労働の喜び」の道徳を説き、民衆の不満を抑えながら、植民地政策による国際関係の緊張の下、戦争、競争を繰り広げた。そのなか、重要な「国策としての文化政策」は、「国民国家のシンボル」を「(古代の)神話」に求め、それを歴史的ステイタスとして、「神話の主人公たち」を可視化する芸術を推進した。

 神話伝説は、純粋に鑑賞される物語ではなくなり、国家の揺るぎない「古代性(アンティキティ)」というステイタスを証明する材料として収集・普及されることになる。公的空間で、政治的なアレゴリー、「国家」の寓意のはたらきをするようになった。

 百万、幾千万の「国民」が、「ブリタニア」や「ゲルマニア」や「イタリア」や「ガリア(フランス)」や「イスパニア」の民族国家のアレゴリー像の下に結束し、同じ統一言語を話し読み、民族の神話を掘り起こし、平時にも、有事にはなおさら、より強化されるべき、「国民国家創成」がヨーロッパ各国で進められていった。

 典型的にも、ドイツでは、グリム兄弟の貢献によって、「民族の」神話や「民間」伝承が、それまで分断されていたドイツ国民の国家統一のために必須の言語文化教育の必需となった。グリム兄弟は純粋にアイルランドなどのケルト語圏の民話にも関心をもち、それもドイツ語で紹介している。

 そのなか、イギリスは、ドイツと(同じゲルマン語派のルーツにおいて)明確なライヴァルとなった。つまり「アングロ=サクソン人」は、もともと大陸にいた西ゲルマン語の言語文化集団であったため、彼らの「古代性(アンティキティ)」を証明できる民族の神話は、そもそも「ドイツ」に取られていた。したがって、アングロ=サクソン、イングランド人が打ち立てた大英帝国は、ケルト系ブリトン人の王アーサーを「宗主」として取り込まねばならないほど、自前の「神話」が無かった国だった。

 そこで「アングロ=サクソン、イングランド」の主権、大英帝国は、中世以来、「ブリタニア」の領土内に抑えてきた、アイルランド、スコットランド、ウェールズなどのケルト語文化圏の神話伝説、民間伝承という金鉱脈から、古代のケルト系ブリトン人の王であった「アーサー王」の伝説を取り出し、それを「大英=偉大な/大きなブリタニア」の「宗主」として祀り上げる政策に至ったのである。しかし日本人が幕末以来「イギリス」とフラットに呼ぶ、この国は、実は、「ケルト」と「アングロ=サクソン」の対立と複雑な支配/被支配で成り立ってきた歴史をもつ島国である。もともと「ブリタニア」という語源は、「ケルト系ブリトン人」の言語「ブリトン語」文化を指すものであった。

 こうして逆説的にも、19世紀にピークを迎え、その絶大な支配力で、自らの文化ではない、「ケルト」語文化圏の神話や民間伝承を、「アングロ=サクソン」のレガシーとして必死に囲い込んだ。それがヴィクトリア朝のイギリスであった。


◆ケルト「神話」の称揚と「母語」の抑圧

 この任務を担ったのが、日本人も英文学史でお馴染みのヴィクトリア朝の著名な文人や詩人たちだった。

 感性から知性を磨く教育普及をおこなった耽美派詩人で文明論者のマシュー・アーノルド(1822 - 88)は、フランス側のケルト(ブルターニュ)の言語伝承研究と張り合うようにして『ケルト文学研究』(1967年)を出版した。また「桂冠詩人」アルフレッド・テニスン(1809-92)は、ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公を「アーサー王」や騎士たちになぞらえ、長大な『国王牧歌』(刊行:1856-85)を公に捧げ、大英帝国の「古代性」の厚さを内外に知らしめようとした。アーサー王の「エクスカリバー」は20世紀初頭でも「イギリス」の主権のシンボルとして、このように本の表紙にも華麗にデザインされた(図❸『国王牧歌』 挿絵入り新版 1911年)。


図❸

 しかしこの国策じたいが、結果的には、神話であり、アネクドート(説話)であったことは否めない。現実の「大英帝国領土内」の統治において、ケルト文化の当の人々は、依然として厚遇されることはありえなかった。むしろアングロ=サクソンの母語「英語」普及強化のため、「ケルト語使用の禁令」が強まり、英語を話さない子供たちは学校でも罰せられた。

 上記のアーノルドの『ケルト文学研究』が発表された直後の1870年は、アングロ=サクソンの体制側の環境にあった師弟は義務教育制度で恩恵を受けたが、同年、ウェールズでは、ケルト語派の「ウェールズ語禁止」が再強化された。地理的にアングロ=サクソンのイングランドと地続きであるウェールズでは、16世紀のウェールズ法 (1535年)で、法廷で使用される言語は英語のみとし、ウェールズ語を単話話者として話す者は公職に就くことが禁止された。まして人を裁く法廷で英語のみしか使用できない現実は、ケルト母語使用の被告側はいかなる陳述も禁じられ裁かれることを意味した。

 「人々が…この領域内で自然の母語(英語)とは全く異なる言語を使用すること…そしてこの領域(イングランド)の法律とは異なる邪悪な伝統と習慣を消滅させること」を目的とする、英語=アングロ=サクソンの言語=英国の主権=大英帝国による禁令は、19世紀のケルト神話の囲い込みにおいても手を緩めることはなかったのが現実であった。なお1870 年当時、アイルランドの農民の97% が小作人であり自分たちが生き耕す耕地はアングロ=サクソン、イングランド人のモノであった。世界の半分以上を領有するといわれた覇権国のピークにおいて、最も抑圧されていたのが「ケルト」語とその慣習のみならず、この世で生きる土地も奪われていた事実を、世界史において忘れてはならない。ケルト語禁止に対する反対と回復運動は20世紀まで続き、こうした報道写真にも残されている(図❹ ウェールズ語回復運動 1960年代)。(注2)


図❹

◆「ファム・ファタル」を超えるイゾルデ・イメージ

 さて私たちは、人間の歴史では、このような「神話」の囲い込みや漂流が、どこでも起こり得ることを踏まえた上で、19世紀に蘇った「イゾルデ」とその芸術に進もう。

大英帝国の政策の「ねじれ」にかかわらず、ヴィクトリア朝の美術界では、ラファエル前派、ウィリアム・モリス、バーン=ジョーンズたちが、アーサー王伝説を盛んに描いた。

 画家たちは国策のためだけに芸術を生むのではないこともまた真理である。アーサー王伝説に組み込まれて伝わってきた「トリスタンとイゾルデ」のテーマも画題として人気となり、名だたる画家たちが「イゾルデ」像を再創造したことに注目しなければならない。

 当時ヴィクトリア朝社会でどのくらいイゾルデが人気であったか。それは早くも1862年にこれを豪華にも自邸のステンドグラスの装飾の画題として、ウィリアム・モリスたちが設立した商会に発注した、ヨークシャーの実業家がいること、またそのデザイン・下絵を、モリスのほか、ヒューズ、ロセッティ、プリンセップ、バーン=ジョーンズ、マドックス・ブラウンという、ラファエル前派とそれに関わるアーティスト、デザイナーが総がかりで制作したことだけでも、よくわかる。

 しかもその特徴は、「イゾルデ・イメージ」を、トリスタンの恋人や王女や妃然とした女性像から解放し、「特別の叡知」のある女性像として描き表したことだ。この2つの絵画を見比べると、よくわかる。

 世紀末イギリスの美術界の寵児、オーブリー・ビアズリー(1872-98)の代表作となる作品には、イゾルデの深い内面を覗きこまされるような妖しさが際立っている(図❺ ビアズリー「イゾルデ」 『パン』誌 v. 5, pp. 260-261. 1899年:図❻ アンダーソン「イゾルデ」 1906年)。

図❺
図❻


 

 繊細な画家・イラストレーターであったビアズリーの「イゾルデ」は、彼の姉が女優であったことも想起させる。ひとり、舞台を背負って立つヒロインを思わせる。深い神秘性は目の前にあり、リアルに私たち、観客に届くごとき作品である。このイゾルデ像は、自律しており、斬新なリトグラフの技法で複製され、芸術・工芸の雑誌を彩り、ベルリンやウィーンの世紀末芸術家たちをも魅了した。

 後者❻の「妃としてのイゾルデ」は、権威ある王族の一員としてのステレオタイプな像であるが、それに対してビアズリーのイゾルデは、媚薬を飲む場面であるにもかかわらず、あえてトリスタンは省かれ、単独で描かれており、なにかに属する者ではなく、王族の環境から離れ、トリスタンと共に、ふたりだけの孤独において、覚悟の下に「生死の境界を彷徨う人間」、イゾルデを浮かび上がらせている。

 このイゾルデ像には、メディアに載るリトグラフの普及とともに、新しさがある。

 伝統的にヨーロッパ美術史では「聖母マリア」像を別格として、理想的女性像は、イタリア・ルネサンス以降、ギリシャ・ローマ神話の「ヴィーナス(アフロディテ)」から「アルテミス」までの「女神たち」であり、美の化身にして愛の象徴であり同時に男性から鑑賞される裸体美のピンナップとしても存在してきた。しかし時代が下り、19世紀後半には、国家と資本家が動かす大衆の時代になり、前述の通り各国で神話伝説が掘り起こされ、ナショナリズムの高揚と共に、文学や演劇のテーマ、ヒロイン(当時は「女優」の創成期でもある)となっていく。この世紀末に、最も魅惑的な「女性像」とされたのは「サロメ」や「ユーディット」などの聖書物語を基にした「運命の女性/ファム・ファタル」だった。即ち、男性の運命を変え、最後にそれを「死にまで追い詰める女性」である。

 ヘロデ王の御前で踊りヨハネの首を所望したサロメや、敵将ホロフェルネスを斬首するユーディットは、男性を誘惑するが、敵視する存在として、恐ろしさと妖艶さにおいて絶大な魅力を放つ。

ビアズリーもオスカー・ワイルドの戯曲のために「サロメ」を描いた(図❼ ビアズリー「踊り子への褒美」ヨカナンの首を得たサロメ 1894年)。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Aubrey_Beardsley_-_The_Dancer%27s_Reward.jpg

図❼

 しかし一方で、ヴィクトリア朝イギリスの圧倒的な「アーサー王」伝説称揚のなかに登場した「イゾルデ」を見逃さず、男性の運命に大きく関わることでは同じでも、「ファム・ファタル」とは真逆で、その「上を行く」女性として登場させた。

 イゾルデは王女であり妃となった女性だが、なにかに従属はしていない。聖書的な信仰の使命感だけで動くのでもない。ただ、自らの意志で、命を賭し、騎士トリスタンを介抱し、治癒し、愛を育み、寄り添って、死んでいく、「救う女性」としてそこにいる。

 中世のケルトの神話伝説から復活したイゾルデは、ビアズリーにとっても、自分自身でも媚薬をつくれる妖術師のような面差しをもつ女性であり、イゾルデはこの飲料が「媚薬」であることを直観しており、トリスタンよりも一歩先んじて、自ら愛の魔法にかかろうと挑んでいるような光景にもみえる。

 ビアズリーはイゾルデの「治癒者(ヒーラー)」の横顔に加えて、「呪術者(ソーセラー)」の片鱗をのぞかせる女性を描いていたといえるとすれば、その雰囲気を分かち持っているもうひとつの絵がある。それはヴィクトリア朝芸術を、美術・工芸・社会主義思想から打ち拓いたモリスの作品である。


◆イゾルデと呪性

 ウィリアム・モリス(1834 - 96)によるこの有名なイゾルデ像は、ヴィクトリア時代の「アーサー王」ブーム只中の絵画であるゆえに、従来、この女性はアーサー王の妃ギネヴィアとみなされてきた説があったが、近現代絵画コレクションの殿堂、テート・ギャラリーの調査によってイゾルデと確定された作品である。

 イゾルデは中世の室内装飾に囲まれ、植物や、手にしている帯にまで、魔法のはたらきがあるような呪術性を発散している(図❽ モリス「美しきイゾルデ」1858年 テート・ギャラリー蔵)。


図❽
図❾

 卓上の「書物」は「信仰」の聖書であると同時に、彼女は古代の「叡智」を集めた博物学や錬金術の書も読んでいたかも知れない(実際、彼女の母のイゾルデは「媚薬」を製造した)。

 物憂げながら理知と情念を秘める面差し。髪飾りは桂冠ではなく、野の花でつくられており、ドレスの植物の文様は、愛を招く「薬草」を暗示しているのだろうか。

 部屋がたっぷりとした布で満たされているのは、運命の「糸巻車」を操る、呪的な「織り姫」を暗示しているようにもみえる。神話伝説では「織布の原料」は女性たち自らの「髪の毛」や、ゆかりの鳥の「羽毛」で編まれた。アーサー王の母となるイグレーヌも神秘的な「織り姫」の側面をもっていた(ヴァルテール『アーサー王神話事典』)。

 加えて私室、ベッドのある寝室での、イゾルデの「帯」の着脱のこの仕草は、アーサー王伝説の、白眉である「サー・ガウェインと緑の騎士」で、謎めく館に住み、首斬りゲームへの挑戦をガウェインに約束させた「緑の騎士」の奥方の「帯」を連想させないだろうか。宮廷恋愛の作法で女性の「帯」は、騎士の愛と勇気を験すものといわれる。謎めく緑の騎士の妃は、緑色の帯を解いて、アーサー王の甥、ガウェインを誘惑したのだった。

 更にこのモリスのイゾルデの装飾的インテリアや象徴的小道具のセッティングは、ラファエル前派に関係したフレデリック・サンディス(1829-1904)の「妖精モルガン」と酷似していると思われた読者もおられるだろう(図❾「妖精モルガン」1863-64年 バーミンンガム博物館&アートギャラリー蔵)。

 ここには明らかに「織姫」の機織りがあり、床に書物があり、錬金術師の持つ壺が並び、モルガンの右手には薬草や媚薬づくりや、呪いの金属器が掲げられている。モルガンの服の裾の「文様・シンボル」は、当時発掘されつつあった、スコットランドの「ピクト」の石彫のケルト的文様であるという懲りようは、当時リヴァイヴァルした「ケルトの呪的なしるし」を描くなど手が込んでいる。

以上、「ファム・ファタル」像にも一線を画し、また、ヴィクトリア朝ケルト神話の中心にいた、アーサー王の妃ギネヴィア像をも凌いで、「イゾルデ」像は、こうした当代一流の画家たちの手で送り出されていた。中世の物語のヒロインは、むしろ「新しい女性像」をみせた。

 ビアズリーの「サロメ」(前掲:図❼)が、(母ヘロデアに促された)欲望からの「生命の奪取」と「死」を表象するとすれば、同じビアズリーの、真剣に媚薬の盃を覗き込む「イゾルデ」(前掲:図❺)は、(不死の薬を作り出そうとした母の女王に重なり)「生命の探求」と「(死からの)再生」を念じる姿にもみえる。

 いずれにせよ、男性を「誘惑する女性」性よりも、「治癒する女性」性が優っている。

 ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの写本に記された解釈のように、「寄り添い」こそが「治癒」の究極であることを知っているイゾルデがいる。


◆モルガン・ル・フェからエレインまで

 ところで、女性的受動の反対で、人間的能動の姿勢をみせる、「癒す女性」のイメージといえば、ヴィクトリア朝イギリスが必要とした、「アーサー王」伝説のおおいなる流布によって、同じく絵画や演劇でクローズアップされるに至った、或る一群の女性キャラクターと交叉する。

 それは「湖の乙女」と呼ばれる妖精たちである。

 共通点は、自分の意志と愛から、男性(王や騎士)を治癒し、育み、支える力を発揮することである。それは彼女たちの「命のミッション」といえる。

 筆頭のキャラクターは、いうまでもなく、アーサー王の姉(父親を異にする異父姉)、モルガン・ル・フェである。

 アーサー王は最後の戦いにおいて、王国の後継たらんとする甥のモルドレッドと一騎打ちとなり、深傷を負う。が、瀕死のアーサー王を、異界「アヴァロン」から急行して介抱し、この「常若の島」へ連れていくのがこの「姉」である(図❿ バーン=ジョーンズ「アヴァロンのアーサーの眠り」1898年 プエルトリコ ポンセ美術館蔵)。


図❿

 モルガンは、アーサーを護るために、呪力を使う強力なフェアリーであり、バーン=ジョーンズの名作は、異界のアヴァロンでモルガン・ル・フェが、膝枕で、永遠に弟アーサーを癒し続け、傷が癒えたアーサー王は、今は眠っているが、この世になにかが起これば、ブリトン人とその末裔の人々を助けに戻ってくると信じられている。

 アーサー王の壮絶な戦いでの負傷に対するモルガン・ル・フェの必死の介抱は、ドラゴンとの闘いで瀕死となったトリスタンを見つけ出し、癒し、命を救ったイゾルデに重なる。モルガン・ル・フェが水に囲まれた彼方のアヴァロン、リンゴの島に待機しているように、イゾルデも(トリスタンに最初の治癒をおこなったイゾルデの母である王妃と共に)コーンウォールの騎士トリスタンにとって、アイリッシュ海を隔てた、異国の島アイルランドの女性であった。

 「トリスタンとイゾルデ」の物語の始まりでは、トリスタンとマルク王の本拠のコーンウォールから望むと、アイルランド島は、貢物として命が奪われるほど恐ろしい島である。と同時に、この上なく優しく癒され、やがて愛をもらえる、非現実の異界であった。

 ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクも、アイルランドは、トリスタンが最初に戦った、モロルトの姉妹である仙女(イゾルデの母である王妃)が支配しているような、「遠方の島」だとして、異界感を強調している。

 イゾルデは、母親のイゾルデの能力との「二重性」において、二重に逞しく、父王の指図でコーンウォールのマルク王に嫁ぐうら若く美しい女性であることを超えて、神秘の媚薬によって闘う騎士との「神秘の結合/ミスティック・ユニオン」を得、ふたりは、逃避行で、負傷と治癒、死と再生の波を、何度も、サーフする。

 その意味で、「トリスタンとイゾルデ」という物語は、イゾルデの「治癒者」の側面を掘り下げる物語といえないだろうか。

 それは少なくとも、モルガン・ル・フェを筆頭とする、ケルト神話を彩る複数の「湖の乙女」を彷彿とさせる。

 

◆「湖の乙女」——愛による献身・呪力・警告

 アーサー王伝説に登場する「湖の乙女(Lady of the Lake)」と呼ばれる妖精たちは、「湖の姫」、「湖の精」、「湖の貴婦人」(フランス語:ダーム・デュ・ラックDame du Lac)」などと呼ばれる。トマス・マロリーの『アーサー王の死』(Le Morte d'Arthur)をはじめ、さまざまなアーサー王の物語に、「湖の乙女」たちの活躍が伝えられてきた。

 「湖の乙女」はひとりではない。ヴィヴィアン(Viviane)、ニミュエ(Nimue)、エレイン(Elaine)、ニニアン(Niniane)、ニマーヌ(Nimane)、ニニュー(Nyneue)、ニヴィアン(Nivian)、ニムエ(Nimueh)などとして登場する。つまり「湖の乙女」という呼称は、これら妖精のキャラクター、そしてその特質と能力を、総称する呼び名である。

 彼女たちは、異界から来る。森のなかに包まれた湖が棲み処であろう。人間にはなれない哀しみをもつが、その物語に触れる私たち人間は彼女たちに憧れを抱かされる。この絵のごとく、優しく手招きする美女であり、逞しさとその身体の儚さを併せ持つ(図⓫ スピード画 ノウルズ著 『アーサー王と円卓の騎士』挿絵 1912年より)。


図⓫ 


 「湖の乙女」の物語の主題は「愛」と「呪力」である。

 その働きは、多彩で、騎士や王である男性を支える役割で共通している。

彼女たちは、知と技に優れ、情が深い。ゆえに男性への母性愛も、恋愛も、嫉妬も、そして、愛のための死も起こる。

 たとえば円卓の騎士ランスロットの守護妖精は「ヴィヴィアン」であり、異界の威嚇的な力の化身となり、魔女ともなるのが「ニムエ」である。姿を変え、神出鬼没する。

 したがって彼女たちの物語がいかに劇的で、中世以来、どれほど深く人々を魅了してきたかは、中世やルネサンス時代の写本や、19世紀末から20世紀初頭の絵画までに描かれてきたことからわかる。

 その作品とともに、ここに代表的なキャラクターに登場を願おう。


① エクスカリバーをアーサー王に授ける「湖の乙女」

 アーサー王といえば、なんといっても、名剣「エクスカリバー」である。これを与えたのが「湖の乙女」であった(図⓬ ワイス「アーサー王とエクスカリバー」1922年)。

 ペリノア王との戦いに敗北し、(最初の)剣を折られたアーサー王。そこに、新しい剣(エクスカリバー)を渡すのである。突然、湖から、輝く、長い剣を握った手が、すっと出現し、アーサーは、驚きつつ、この運命の贈物を頂くのであった。

 なおこのとき、乙女とアーサーのコミュニケーションがあった。「湖の乙女」は、アーサーに、「将来、私の願いを必ず一つかなえること」と約束させたともいわれる。どんな願いであっただろうか。

図⓬

② ランスロットを養育・治癒した「湖の乙女」

 アーサー王の「円卓の騎士」のスターといえば、ランスロットだ。彼は美しく勇敢で、アーサー王の妃ギネヴィアと宮廷恋愛を繰り広げる花形である。

しかしその生まれは不幸であった。父王の死後、母とも離れ離れとなる。その幼子ランスロットを18歳まで養育するのが「湖の乙女」であった。ランスロットが「湖の騎士Lancelot du Lac」と呼ばれる由縁である。

 一方、乙女は、母親から息子を奪ったともいわれる。父王がブリタニアに援軍で不在中、その居城が落城したため、妃エレインは赤子ランスロットを抱いて逃亡したが、「湖の畔で」、「湖の精」ニミュエによってさらわれてしまったという(図⓭ 「湖の精(乙女)にさらわれるランスロット」 テニスン『国王牧歌』 挿絵より)La Dame du Lac - ランスロット - Wikipedia。


図⓭
図⓮

 いずれにしても、乙女は、ランスロットを大切に育て、更に、長じたランスロットに治癒もほどこしたのであった。即ち右図(図⓮)は、コーンウォールのティンタジェル城でランスロットを、治癒するために、彼に付き添う「湖の乙女」(中世の写本)の姿を描いたものである。

 ランスロットの病のきかっけは、アーサー王の妃ギネヴィアと愛を交わしていたのに、妃が彼をないがしろにして不実をした夢をみて、心を痛めたことを背景にしている。なおその原因は、妖精モルガンの妖計であったという。

 こうして「湖の乙女」はランスロットの心の傷までも癒した。この写本挿絵では、白い衣のランスロットはまさに患者然とした姿であり、乙女は看護婦の役割である。しかしその出で立ちは、お妃にも負けない豪華さであり、ふたりは恋人たちにみえる。中世やルネサンス時代のこうした写本を眺めた宮廷人たちは、エレガントで力強い「湖の乙女」に憧れを抱いた(図⓮ 15世紀の流布本写本より フランス国立図書館蔵  fr. 114 f. 352 1475年頃)。


③ 魔法使いマーリンを閉じ込める「湖の乙女」ミニュエ

 その魔術によって、アーサー王をコーンウォールの城で誕生させた、男性の魔法使いマーリンは、アーサー王とグィネヴィア王妃の結婚式で、「湖の乙女」(ミニュエ)に惚れこんでしまった。その弱みから、なんとマーリンは、魔法の全てをミニュエに教えてしまう。

 それに対してミニュエは、マーリンを、森の繁み(または空中の楼閣)に監禁する。これによって万能の魔術師マーリンも衰弱し、アーサー王の国力も衰退させることになる。

 なお有名なバーン=ジョーンズが描いた「騙されたマーリン」のなかの、マーリンの閉じ込められている森の茂みの花は「サンザシ」で、いわゆる「ケルトの守護樹」のひとつ。「豊饒・多産・育み」のシンボルである(図⓯バーン=ジョーンズ「騙されたマーリン」1873-74年 レディ・リーヴァー美術館蔵 図⓰トマス画:『アーサー王と円卓の騎士』 ノーレス著 1862年より)。


図⓯
図⓰

④ アストラットのエレイン(シャロットの乙女)

 恋愛は哀しみを生む。ランスロット卿に恋し、受け入れられず死に至る「アストラットの乙女」は「シャロットの乙女」とも呼ばれ、ヴィクトリア朝のこの絵が、人々の涙を誘ってきた(図⓱ ウォーターハウス 「乙女」 1888年 テート・ギャラリー蔵)。


図⓱

 乙女は、槍試合に参加しようとしていたランスロット卿と出会う。乙女エレインは変装のアイデアをランスロットに提案し、彼は赤いスカーフを身に付け試合に臨む。

 しかし瀕死の重傷を負い、乙女は懸命にランスロットを看護し、快癒させたのだった。しかし彼はエレインを受け入れず、乙女は悲嘆のうちに亡くなる。

 エレインの遺言に従い、ランスロットへの手紙を握り締めたエレインの遺骸は、小船に乗せてランスロットが活躍するアーサー王の城、キャメロットの方角へ流された。これを発見したアーサー王や円卓の騎士たちは涙するのであった。


⑤ 騎士ペレアスの恋人になった「湖の乙女」

 あるとき、円卓の騎士のひとりであるペレアスは、ある女性を恋い慕い、愛の橋渡しをガウェインに頼んだところ、事もあろうに、ガウェインがペレアスの思い人である女性と同衾してしまった。悲しみのあまり放浪していたペレアスに、「湖の乙女」が恋をして、相思相愛となった。

 ペレアスは槍試合で、強いランスロットとは闘わなくて済むような、魔法にも浴する。アーサー王の他の騎士たちが「聖杯探求」や内乱(ランスロットが起こした)で、大勢落命するなか、ペレアスは幸福な最期を迎えられた。それはなによりも「湖の乙女」に愛されたゆえであった。


⑥ エクスカリバーを「湖の乙女」に還したアーサー王

 アーサー王は「最期の戦い」となるカムランの戦い(史書『カンブリア年代記』では537年)で瀕死の重傷を負い、名剣「エクスカリバー」を湖に還すように、家来のベディヴィアに命じた。

 何度投げ入れても失敗し、漸く三度目の正直で剣が湖面に触れるやいなや、かつてそれを王に授けた「湖の乙女」の手が現れ、しっかりと回収して、湖中に消える。

 即ち、アーサー王は、湖という大自然から授かった名剣を、瀕死の状態でも意識気高く、その元の「湖」=「湖の乙女」に還したのだった。

 このエピソードは極めて重要で、「エクスカリバー」のアーサー王による「湖」への返還は、名剣=金属器を、元の「炉」に還して、傷ついた剣を「再生」させるための「ケルト的な生命循環の思想」と私はしばしば指摘してきた(鶴岡真弓『ケルトの創造力』青土社)。

 なぜなら、ケルトを含むインド=ヨーロッパ語族の神話と歴史において、「剣=金属器」は、「聖なる炉」から誕生する「生命」そのものと考えられてきた。その光の輝きと強さが、アーサー王とその王国を支えたのである。即ち「湖の乙女」は、ただの妖精ではなく、冶金術師の化身でもあったと考えられる。

 「湖へ剣を還す神話」は同じインド=ヨーロッパ語族のコーカサスのオセット人にも伝えられおり、「アーサー王」の物語でなぜ「エクスカリバー」が重要なのか、は、それが戦いの道具なのではなく、「再生のしるし」であるからである(鶴岡真弓『ケルトの想像力』青土社 2018年)

 そのアーサーの王権を支えた「名剣エクスカリバー」の創造者にして守護者としての「湖の乙女」が彼を護り、ここ、湖にいる(図⓲ ビアズリー「湖の乙女に返されたエクスカリバー」1893年)。


図⓲

⑦ アーサー王をアヴァロン島へ誘う大妖精モルガン(前述と併せて)

 負傷し瀕死となったアーサー王を、アーサー王の異父姉・モルガン(妖精モルガナ)、ヴィヴィアン、ニミュエたちが、「常若の島、アヴァロン」へ誘い、治癒させた。

 アーサー王は永遠の命の島で今も生きている。王の異父姉・モルガンも「湖の乙女」の血統であった。正にアヴァロンの島は、聖なる水に囲まれている(図⓳ バーン=ジョーンズ 「アヴァロンのアーサーの眠り」前掲 部分&全体)。






図⓳


◆「癒しの秘術」——「寄り添う」イゾルデの意志

 以上、私たちは、アーサー王伝説を代表する「湖の乙女」の「はたらき」をみてきた。 

 彼女たちは、知者であり、呪術の遣い手である。王・騎士を守り、養育し、看護し、治癒をほどこす。弟と最も血の濃い姉であり、恋人でもある。片思いでは死ぬほどに、愛情を注ぐ者である。

 異界(湖)から、この世に現れる。「境界」に居つつ、強力な、手を差し延べてくれる。即ち、自然界の力を常に変換し、その生命力を、人間界にもたらす。彼女たちの力は、困難を転じさせる「反転力」ということができるだろう。

 そのなかで、「湖の乙女」たちの、治癒者(ヒーラー)としての力は絶大であることは、上記の物語から、よく分かる。今回、繰り返し述べてきた、あの「イゾルデ」は、人間であるが、その愛と知から絞り出される、治癒の「術」性(あるいは「呪」性)によって、トリスタンに寄り添い、癒した。

 むろん「救済」「救援」「癒し」は、身体的な苦しみや痛みを消すことが第一にあるけれども、精神的には、すべての闇と靄を晴らすことではないものでもあろう。

 その通り、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクは、「トリスタンとイゾルデ」の物語を書き始めるに当たって、「どんな苦しみをも忍び得ず、ただ喜びの中に浮かんでいたい」というような人々には「私の話は向かない」と前置きして、この物語を始める。

 己がこの物語を伝えたいのは、(愛において)「心からなる喜びと憧れの苦しみを、(また)好ましい生と、いとわしい死を、(そして)好ましい死と厭わしい生を、一つの胸の中の併せ持つ」人々に語りかけたいのだ、と記している。

 「トリスタンとイゾルデ」の物語は、あたかもケルトの渦巻や組紐文様のように、絡まり合い、交叉し、「生―死―再生」を辿る物語である。情熱と勇気によってダイナミックに蠢き、進み、しかし戻り、佇みもして、明暗のはざまを行きつ戻りつする。絶え間なく反転する生命の螺旋的な力に導かれていく、主人公のふたりは、人生の醍醐味を深く味わえる人間となって成塾していく。


 そして物語作者のひとりとして、ゴットフリートは伝えている。


私の物語によって、いくらかでも胸にしむ痛みを鎮め、苦しみを和らげることができるよう。


 (ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク、前掲書、pp.2-3. 

  なお訳文の一部を平易に改めた)。


 人間は、神の子が「復活」する奇跡を語る「聖書」物語や、「ファウスト」のように悪魔と取り引きをするが「永遠の女性」に救われ、からくも天に昇れた波乱の人生を、聞き読む。それによって、人々は物語を生き、「受難」も「癒し」も経験し、成長するということである。

 「トリスタンとイゾルデ」の物語は、幾世紀にもわたって語られ詠われ読まれリヴァイヴァルしてきた。それは、人間の「生」もまた月の満ち欠けのように、潮の満ち引きのように、大自然の変化に呼応し、生成、変化、更新の下にあることを、示し続けて、人間に力をもたらしてきたからである。

 「死」もまた私たちにとって、憂いと悲しみと嘆きの氷塊なのではなく、みつめられ、もがき、受け入れられたとき、深まるものであるということを伝えてきたのであった。


 ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクは、「トリスタンとイゾルデ」の物語は主人公たちの「逃避行」ではなく、その逆の「探求」の物語であることを、「イゾルデ」に光を当てて、こう書いている。

 アイルランドの「王妃(イゾルデ)も王女(イゾルデ)も、二人とも絶え間なく彼(トリスタン)を介抱し、彼の体のためになると知ったことは、何によらず、このうえなく熱心にほどこしたのである」と(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク、前掲書、石川敬三訳、p.160. なお訳文を一部平易に改めた)。

 ここでいう「知ったことは、何によらず」とは、日夜、中世に人の命を救うため、治療・治癒のための妙薬を発明しようとした錬金術師パラケルススのように、特別の鍛錬を欠かさない「イゾルデ」の切磋琢磨の行為、エキスパートの力の強調である。

 イゾルデは、治療薬を探求した初期のアルケミストのように、「術」と「呪」までを学んでいたように称賛されている。イゾルデ(母娘のダブル)は「寄り添う愛」つまり治癒の心と術を磨いていた。そうであったからこそ、その島、アイルランドに、トリスタンが、運命的に渡って来た。

 「トリスタン」とは、傷つき、愛を求め、介抱を待つ存在、即ち、私たち「人間」のことなのである

アーサー王伝説の多彩なる「湖の乙女」たちと、「イゾルデ」は、騎士と王の前に現れ、「寄り添う人」として生きている(図⓴ 「トリスタンとイゾルデ」挿絵『コーデックス・マネッセ』 部分 14世紀 ハイデルベルク大学図書館蔵)。


図⓴

 「イゾルデ」というキャラクター。それはケルト伝説の「湖の乙女の系譜」に連なる、人間的な反映であったといえるのではないだろうか。イゾルデの特別の能力、意志、美しさのルーツは、充分に異界の「湖の乙女」のそれに遡るものであろう。しかし霊界から来た透明な血をもつ妖精たちと異なることがある。

 イゾルデはトリスタンと出会い、人間の滾(たぎ)る赤い血潮をもつ人間の女性となったのだった。彼女は異界へは戻れない。地上の有限の生を生きる女性となることを選んだのである。イゾルデは、今も、この中世写本『コーデックス・マネッセ』の挿絵のように、微笑み、トリスタンを優しくかき抱いている。


 

(注1)ビルギッド・ニルソン:「イゾルデ」の「愛の死」歌唱:

https://www.youtube.com/watch?v=FhtFbF02IVQ


(注2)「ウェールズ語の禁止の歴史」

https://www.theirishstory.com/2018/10/11/to-extinguish-their-sinister-traditions-and-customs-the-historic-bans-on-the-legal-use-of-the-irish-and-welsh-languages/https://www.theirishstory.com/2018/10/11/to-extinguish-their-sinister-traditions-and-customs-the-historic-bans-on-the-legal-use-of-the-irish-and-welsh-languages/

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