ハロウィンの起源 ― ケルトの「サウィン=万霊節」
年に1度、蘇る霊たちを、供養する厳かな夜
「闇」の中に宿り、「光」の中に再生する
最強のスピリットたちに出会う夜
鶴岡真弓
ケルト神話伝説や民俗文化の主人公たちのなかで、最も「名もなき者」でありながら、最もよく知られている者たちとは誰か?
それは、北ヨーロッパの「冬のはじまり」、現代の10月31日に当たるその夜に、あの世から蘇る「死者たち」である(図❶ ハロウィンの仮装 https://www.youtube.com/watch?v=axhBj6RZOTA)。
それはヨーロッパに発し、19世紀前半、アイルランドの大飢饉をきっかけに、北米やカナダへ渡った大量の移民によってもたらされ、アメリカ経由で世界各地に広まった「ハロウィン」と呼ばれる祭りに登場する主人公としての「死者たち」である。
ところで日本も含め現在世界各地に広まった祭り「ハロウィン」は、思い思いのコスチュームで街に繰り出す、楽しい秋から初冬のイヴェントとして知られ、このスタイルはアメリカで出来上がったものといわれる。
しかし「ハロウィン」という祭りの起原、ルーツは、古代ヨーロッパのアルプス以北で鉄器文明を築いた「ケルトの暦」にさかのぼると考えられている。
「ハロウィン」とは「キリスト教の諸聖人」を記念する「万聖節(ばんせいせつ)の前夜」の意味をもつ祭日であるが、その大元には、いにしえの「ケルトの4つ季節祭」(後述)の要の「第1番目に置かれる「サウィン=万霊節(ばんれいせつ)」があった(図❷ アイルランドの「サウィン」祭 ドニゴール地方 2019年10月31日 https://donegalsquare.com/samhain-and-the-thin-veil/)。
「サウィン」は、民間でおこなわれてきた、「死者を鎮魂し供養する」、夜を徹する厳かな祭り。中世以来、キリスト教文化の下で影を潜めてきたかにみえるが、民間でほそぼそと守られ、アイルランド、スコットランドなどの「島のケルト文化圏」では現代にも復活し注目されている。
なぜ「サウィンの夜」に「死者たち」が蘇るのか、といえば、この季節に大自然のカタストロフィー(大変化)が起こり、「あの世とこの世の壁」が取り払われて、「死(者)と生(者)」が大交流できると信じられたからである。
「ハロウィン」の起源「サウィン」の夜には、あの世とこの世をつなぐ者たちが現れる。「島のケルト」文化圏ではクリスマスなどと同様、家族や友人にグリーティングカードを送る慣習が「サウィン」にもあり、この貴重なヴィンテージ・カードは、総出で紅茶で祝っている「魔女たち」を、厳かに親しみを込めて表現している。死者たちがいまここの、私たちの傍に「来てくれる夜」なのである(図❸「サウィンの紅茶」を楽しむ魔女たち)。
「ハロウィン/サウィン」には、私たち現代人が思い込んできた賑やかなコスプレのお祭りからは想像できない、厳粛さが漂い、「この世からは見えないもの」のパワーが伝わってくる。そう、ケルトの伝統では「サウィン」は、8月1日の(収穫祭=ルーナサ」の約2か月後、厳しい冬を迎える人々が、祖霊と死者の蘇ると信じられた10月31日の夜(11月 1日の前夜)に霊たちを供養する慣習を古くからもっていた。
祖先や祖霊に会いたいと思えば、生きている私たちの方から墓参しお迎えに行くのが普通だが、「サウィン」の夜には、祖霊や死者たちの方から、あなたの家めがけてぞくぞくと「回帰する」、パワフルな夜だ。古代ケルトだけではなく、アルプス以北の人々は、冬の初めに死者を鎮魂する慣習をもっていただろう。自然界では植物(穀物)も動物(家畜)も「死の季節」を迎えるその季節が、最も重要であることを、ケルト暦は知恵として伝えてきたのだった。
さて、その北ヨーロッパ環境をしっかりと感じつつ、「ハロウィン」の起源にある「サウィン」とは何かを、ひもといていこう。その起こりは何にあり、その夜に古層の人々が身心で受け止めたものとは何か。それはどのような生命思想に熟していったか。そしてそもそもこの祭日は、なぜ「冬のはじまり」に置かれているのか。その知られざる起源から、近代における「世界へ」の展開の意味までを読み解こう!
◆「諸聖人の日=11月1日」の興り―キリスト教会の暦
まずそもそも(「サウィン」をベースとしながらも)「ハロウィン」そのものとは何かを「暦」の成り立ちからみる必要がある。暦の上で、ある祭りの「前夜(イヴ)」に前夜祭が置かれる理由は、当然ながら一夜明けてのメインの祝日があるためである。「ハロウィン」は、ある祭日の「前夜(イヴ)」に置かれている。
いかにも「ハロウィン Halloween 」という言葉・概念は、英語では「Hallow=聖人」を記念する「e'enまたはeen=前夜(イヴ)」を意味し、「All Hallow’s Eve」とも呼ばれる通り、キリスト教会にとっての「すべての聖人と殉教者を記念する、11月1日の万聖節の前夜」を指している。すなわち「諸聖人の日の前夜」であり、「万聖節=11月1日」の「前夜(イヴ)=10月31日」であり、キリスト教会の暦における概念である。
メインの祭日「諸聖人の日」を決めたのは、キリスト教西欧世界の頂点に君臨する教皇たちで、初期中世の7世紀から9世紀初頭にさかのぼり、聖所や祭日の歴史的改変に拠っていることがポイントである。
舞台はイタリアの都、ローマ。まず、第一段階で、ローマ時代の遺物がキリスト教信仰の場所としての読み替えがおこなわれた(図❹パンテオンのドーム ローマ https://fr.wikipedia.org/wiki/Boniface_IV#/media/Fichier:San_Bonifacio_IV_papa1.gif)。
初期中世のローマの市中には、当然ながら1000年続いた古代の宗教的遺構が遺り、最大のものが古代ローマの神々を祀った万神殿 (パンテオン)だ。初期キリスト教時代になっても、都の真ん中の巨大神殿に天空神ユピテル(ジュピター)やウェヌス(ヴィーナス)など異教の神々の祭祀の名残が存在していたのである。
そこで教皇ボニファティウス 4世は、7世紀初頭(609 年か610 年の5 月 13 日)にこの大ドームを聖母マリアとすべての殉教者に奉献して、キリスト教の「聖堂」に変えた。そのしるしとして、教皇は古代ローマの権力によって弾圧された殉教者の遺骸をカタコンベから集めてここに埋葬し直した。
この瞬間から、パンテオンのドームの頂点にある(現代でも仰げる)古代ローマ人が崇敬した「天空」は、一神教の「神という光源」として読み替えられ、神の子の母、聖母マリアを祀ることで、イエス・キリストを媒介として神(天)と人(地)をつなぐものとなった。
この世紀のキリスト教的な「読み替え」によって、「殉教者」の遺骸は古代末期の亡霊ではなく、光を当てられ、「キリスト教の勝利」のしるしともなった。選ばれしエリートである殉教者たちは「諸聖人」の栄光とともに「5 月 13 日」の祭日に讃えられ、この日が「諸聖人の日」となった。
もっとも地中海世界のキリスト教化された地域では4 世紀から、すべてのキリスト教殉教者を記念する祈りが、復活祭(イースター)と、それから50日後の精霊降臨日(ペンテコステ)の季節を中心におこなわれていた(図❺ フラ・アンジェリコ「諸聖人と殉教者」1423-24年頃 ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵 部分)。
「5月13日」はローマ時代に悪霊を祓う異教のレムリア祭の日だったが、それをキリスト教の権威によってキリスト教会の暦として「すべての聖人」の功績を讃える日に読み替えたのである。上掲の絵は後世のイタリア・ルネサンス期の名画であるが、キリスト教徒にとって「諸聖人」とはいかに神々しい存在か、一目で圧倒されるだろう。
そうして、この約1世紀後の741 年 、今度は教皇グレゴリウス 3世 がこの「諸聖人の日」を「11月1日」に変えた。初夏にあった祭日を冬の始まりに移動した。さらに1世紀後の教皇グレゴリウス 4 世は、840 年、「諸聖人の日」を全カトリック世界に拡大させる命を出し、これによって「11月1日」に「諸聖人=万聖」を讃える儀式はカトリック教会だけでなく、西洋のキリスト教においてルター派、英国国教会、メソジストの慣わしともなり、多くのプロテスタント教会でも「11 月 1 日」は諸聖人に捧げる祭日となった。祝日は3日間続くかたちもみられる。
東方正教会でも東方カトリック教会と東ルーテル教会が、ペンテコステ(聖霊降臨日:復活祭から50日目 の日曜日 。 復活祭後の第7日曜日で、イエス・キリスト昇天の10日後の日曜日の後の最初の日曜日)に「諸聖人の日」を祝う。
さて、ここで重要なのが、その「前夜(イヴ)」の重要性の由来である。
◆「教会の外」の「前夜(イヴ)」
キリスト教会では11月1日に諸聖人を祝福するため、「前夜(イヴ)」の「10 月 31 日」には晩課から始まり夜を徹する夜祷もおこなう。それはあくまでにキリスト教徒にとっての諸聖人のための祈祷の夜である。この意義と意味は英語の場合で前述したように「ハロウィン=すべての聖人を記念する日の前夜(イヴ)」の語義に表明されている通りである。
しかしここで読者のみなさんには、疑問が湧き上がるかも知れない。「11月1日」の光に満ちる「諸聖人の日」成立の歴史的背景は分かったが、今日私たちが知っているその「前夜(イヴ)」である「ハロウィン」には、「諸聖人の日」を包む栄光の「光」や「調和」とは正反対に、むしろ「死」や「闇」や「渾沌」を帯びるものが主役となっているではないかという直感/直観からの問いである。
そして古代ローマの伝統で霊を鎮め悪霊を祓った「5月」の「諸聖人の日」が、なぜわざわざ「11月」という冬へ向かう季節に移されたのか、という疑問があるだろう。「11月1日の諸聖人の日」はキリスト教会の暦であるけれども、その前夜(イヴ)にキリスト教聖堂や教会の公式ミサとしておこなわれる祈り、晩課に始まる夜祷とは別に、ハロウィンには聖堂や教会の「外」の民間の慣わしでの祈りや祭りがおこなわれてきたからである。
それゆえに「世俗の人々がコミュニティでおこなうハロウィン」は、公のキリスト教会暦ではないものとみなされてきた。少なくとも今日その実態の仮装やパレードなどは、もちろんのこと、民俗誌が伝えるハロウィンの祭りや祀りには、キリスト教会が定めた「諸聖人の日の前夜(イヴ)」という概念には反映しきることはできない、別の根っこ、ルーツをもつ由来があるのではないかという問いである。
◆エリートの「万聖」ではなく、名もなき「万霊」が主人公
既に「ハロウィン」は、冒頭に書いた通り、日付としては「諸聖人の日」の前夜(イヴ)ではあって、キリスト教信仰の立ち上げにおいて聖別され選ばれた「エリート」である聖人たち=「万聖=オール・セインツ」に祈りを捧げる前夜である。
しかしこれを逆にいいかえれば、キリスト教化以降も、民間の伝統社会の人々の信心においては、聖人や殉教者で構成される栄光の「聖なる枠組み」からは外されている「名もなき人々の霊」、つまり「万霊=オール・ソウルズ」に祈る夜が祝われ、過ごされているという特色がある。
(たとえハロウィンの起原を知らずとも)その夜に漂う「何か」から、その特色を今日、本家の欧米のハロウィンの光景からでも、無意識にも読み取れている。
実際ヨーロッパには、「キリスト教の諸聖人の日の前夜祭」に、翌日に記念される名高い「すべての聖人」よりも、教会堂の外の世俗の町中や村では、名もなき「すべての霊」の記憶が、彫り深く、その「夜」に、卑賎の別なく、刻まれてきた伝統がある。時代は下るが、あの音楽の神童と讃えられるモーツァルトも、城外の無名墓地に最初は打ち捨てられた、名もなき「万霊」のひとりだった。
中世ならば、なおさら、飢餓、病、戦争で亡くなった無数の死霊たちがいたはずだ。
それを、北ヨーロッパの古層の文明の出自をもつケルト文化の人々は、「冬のはじまり」の季節の入り口の、そのまったき10月31日の夜の到来とともに、祖先と死者たちの霊に祈る夜として、1つの季節祭を暦に刻んだであろう。それが大陸時代から島のケルトへと移り守られてきたことは、古代の大陸のカレンダー板や中世の民俗誌や考古学から証明されている(図❻ サウィンのカード 「あなたの祖先を思い出して」)。
「ハロウィン」の起源「サウィン」の本質である「万霊節」は(キリスト教の暦ではその後の中世の10世紀に「11月2日」と定められたのだが)、それは「聖人」にはとうていなれない、あくまで「名もなきすべての死者」のための祭日のキリスト教会の定めた日付であり、メインの「諸聖人の日=万聖節」の陰にあり続けたことは確かである。
しかし聖人たちを敬いながらも、それでも「10月31日」は、世俗の人々の「生」にとって、元来のすべての霊を供養する夜であるという祭りは揺るがなかった。これは現代の私たちが想像できないほど、人々が、「生」を、「死生」というものを、小さい「己の単位」では考えず、人類・ヒューマンとして「普遍的広がり」において、やはり共同性のもとで「死(者)を思う=メメント・モリ」の社会に生きていたからである。
11 月 1 日のキリスト教の「諸聖人の日」を、ブリテン(イギリス)諸島の教会では、8世紀までに開催し始めていたことは、たんに彼らがキリスト教聖人のための祭日を「すんなり受け容れた」というだけでは説明のつかない「速(すみ)やかさ」があったことも注目される。ヨーロッパ北西の辺境にみえるが、ブリテン諸島の修道院文化は、逆説的だが、5世紀から異教とキリスト教を融合する聖パトリックの事蹟が象徴するように、ケルト修道院文化が隆盛し、イングランドにはその後にローマからカンタベリーへのミッションでキリスト教化し、ブリテン諸島の教会では、特にこの「まったき日付」が、異教時代以来、最重要であったことも喚起される。
人々にとって「10月31日」が、そもそも「死者たち」を思う日となった深い理由があった。この「まったき季節」に自然と人間の間に起こる「到来」があった。私たちもその現地のアルプス以北へと進もう。
◆南北ヨーロッパの違い
近代西洋文明の輝ける源となる素地のヨーロッパも、一枚岩ではなく、自然環境も文化も思想も当然多様であった。
ヨーロッパの地中海世界には、太陽に恵まれ海岸線に沿う港でネットワークがつくられ、「ギリシャ・ローマ文化」が成熟したが、それに対して「アルプス以北のケルト・ゲルマン文化」は、深い森を背景に厳しい冬を越えながら農耕・牧畜・漁労を営んできた(図❼ ケルトの遺蹟のあるガリアの森 フランス ビプラクト遺跡 鶴岡真弓・松村一男『図説 ケルトの歴史』河出書房新社 より)。
ローマ教皇が、はじめは5月に執り行っていた「諸聖人の日」を11月に移したのは、一説では、イタリア半島はじめ最初にキリスト教が広まった地中海地方の5月は「夏」の到来であり、時に熱い日が続き、そこに多くの信者や巡礼が押し寄せ、疫病などが流行したことによって11月の始まりに暦を移したためともいわれる。
しかしその理由だけで、この重要な祈りの日を動かすには、教皇が定めた祭日であることから、それだけが理由とは考えにくく、背景にはローマン・カトリックの本山のイタリア、ローマからヨーロッパ全土に広めていくキリスト教化のミッションのプロセスで、特にアルプス以北へ拡大していく8世紀から9世紀初頭に、土着の人々に馴染む祭日を設ける必然性があったからとも考えられる。
キリスト教は、古代末期のローマ帝国で4世紀の313年に公認され392年に国教となったが、そこからのミッションは当然平坦ではなく、異教徒が住む北辺のスカンディナヴィアまでの人々を改宗させるには11世紀までかかっている。
アルプス以北のヨーロッパには、紀元前2800年ごろまでに優れた鉄器のテクノロジーと芸術を成熟させていたケルト文化をはじめとする諸民族には「自然信仰」があり、動物・植物・鉱物、山・森・川まで、生きとし生けるものやモノにまで「霊魂の活動」をみつめ敬うアニミズムや、言霊信仰があった。それはギリシャ・ローマの古典の著述(カエサル『ガリア戦記』、プリニウス『博物誌』に記された祭司ドルイドの教えなど)からも知られる。
自然を精霊・神々とみる畏敬の心は、むろんヨーロッパに限られたものではないが、ヨーロッパのなかでも、その特色が神話から考古学にまで、よく伝わっているのが「ケルト文化」であるということができる(図❽ 古代ケルト文明 地図
こうしたヨーロッパの古層もまた、私たちの古代につながっており、筆者の造語でいう「ユーロ=アジア世界」に通底する生命観・自然観を力強く保ってきた。特にケルトの言語文化は大陸から西の境にまで広がり、ユーラシアの「西の岬であるヨーロッパ」(ジャック・デリダ『他の岬』高橋哲哉・鵜飼哲・國分功一郎訳 みすず書房)の極みにおいて、古代・中世の芸術表現にまでそれを伝えてきたということになる。人々が初期キリスト教時代、キリスト教の「聖人」を敬う「万聖節」を受け容れつつ、土着の慣わしを捨てなかったことは想像に難くないだろう。
「諸聖人の日=11月1日の前夜」に当たる10月31日は、1年の締めとなる、最大の区切りだった。本格的な冬を迎える前、翌年の5月までの「闇の半年」を生き抜くための1年の締めとなる、最大の区切りが訪れる日だからである。
ケルトの暦の伝統では、11月1日の「前夜」は、祖霊や死者たちを供養する慣習があったのだ。比喩ではなくこの「命がけの暦日」は、人々にとって古代から現代でも変わらない。したがって「冬のはじまり」に置かれた「諸聖人の日」は、一神教の神から降り注ぐ光に満ちた栄光の聖人を祝う「万聖」の日であっても、その一方には、キリスト教がヨーロッパを覆っていく時代にも、名もなく、天国にも行けず、彷徨える「万霊」への祈りを忘れていない、共同体が生きていた。
この宗教の境い目を超えて「生きる共同体/生かされる共同体」のリアリティから生まれた信仰、いや生き方が、この暦日の読み解きから明らかにできるゆえんである。
問題は、そのリアリティとは何か、である。
◆おおいなる1年の区切り―「10月31日と11月1日」
いかにもその暦の日「10月31日―11月1日」は、温暖で元旦の晴天率が抜群の日本列島人には想像がつかないが、日本では紅葉狩りたけなわのころ、北ヨーロッパでは最もダイナミックな天地のバランスの崩壊が起きると考えられてきた。ファンタジーではない。この「壊れ」を運んでくるのが、現在の暦で10月末に当たる「冬のはじまり」をもたらす大自然の「大変化=カタストリフィー」であった。
「ケルトの暦」では、この「10月31日の夜」が「大晦日」で、一夜明けて「11月1日」はケルトの「元旦」である。その大晦日の「サウィン」には「古い時間」と「新しい時間」が入れ替わるともに、「闇の半年」が始まるとされた。
このおおいなる区切りを表したのが、ケルトの「4つの季節祭」の暦だ。4つによって1年が循環する。毎年訪れる大自然の大いなる変化が起こる、その周期のその第一番目[nt12] に「サウィン」が置かれたのである。
つまり「1年」は「冬のはじまり=サウィン」▶「春のはじまり=インボルク」▶「夏のはじまり=ベルティネ」▶「秋のはじまり=ルーナサ」、そして再び▶「冬のはじまり=サウィン」を迎えるのである(図❾ ケルトの4つの季節祭)。
◆「ケルトの4つの季節祭」―「闇の半年」と「光の半年」の周期
重要なのは、この円環図が示す通り、ケルト暦の特徴は、この地上の生命の活動を「サウィンからベルティネへ」と巡る、「闇から光への生命哲学」をもっていたことである(図❿ 「ケルトの4つの季節祭」 『ケルト再生の思想―ハロウィンからの生命循環』ちくま新書 より イラスト=鶴岡真弓)。
これは「光」の季節が貴重な北ヨーロッパの「農耕牧畜民の1年の周期」のリアリティから絞り出された「カレンダー」であることは想像できるだろう。いわゆる「西欧人」がその後、世界へ進出していくガッツの根本」がこの暦の思想にあらかじめ秘められていたといってもよいほどである。
たとえば8月は、まだ真夏であると思い込んでいる日本人には想像がつき難いが、北ヨーロッパにおいて、それは収穫の秋であり、風はすでに涼しくやがて冷たさを帯びる日々となる。植物(穀物)と動物(家畜)を成長させてくれる「太陽」の恩恵に与(あずか)れるのは、このケルトの「4つの季節祭」の3番目と4番目、「光の半年」のメインである「ベルティネ=五月祭」から「ルーナサ=収穫祭」であり、たった1年の四分の一ほどに限られている。
この「闇の半年」と「光の半年」という1年のサイクルは、驚くなかれ、2000年前の大陸時代のケルトが、ガリア(現在のフランス)で用いていたブロンズ板の「コリニー・カレンダー」にまでさかのぼる(図⓫ コリニー・カレンダー フランス ガリア文明博物館蔵)。
「サウィン」の語源といわれるガリア語(SAMONI )の月名が刻まれており、紀元1世紀前後のケルトの人々が、北ヨーロッパ人の一員として、農耕牧畜を営む知恵として1年の周期に大きな区切りがあることを記し、キリスト教を受け容れるずっと以前の古代に、冬の入り口が重大な変化を経験する季節であったことを暦に刻んでいた。その暦がキリスト教中世、さらに後世にも民間で生きていたことがわかる
いずれにしてもその「闇」と「光」が反転する季節への思いは、「闇の半年」への覚悟と、「太陽」が戻ってきてくれるベルティネからの「光の半年」への希望とを、二重に畳み込んだ、実践の哲学であった。5月・6月・7月に穀物の麦と牛・羊・豚などの家畜が成長し、麦を7月に刈り取り、8月1日の「ルーナサ」に収穫し、それを元手に冬に備えて備蓄する。家畜は越冬する数以外は屠って塩漬けかソーセージにして保存し万端を調えることはできる。しかし再び厳しい冬のはじまりは必ず訪れる。
「サウィン」は、「生命としての穀物や家畜が育たない季節」=「食糧を備蓄しても飢餓への恐れのある」=「耐え忍ぶ季節」の始まりだった。つまり10月31日は、キリスト教の「諸聖人を祝う前夜」であるずっと以前の先史から、人々にとって特別の(祭)日だった。
それは「冬=闇=死の季節」への「入り口」であった。それゆえに、生命について、死について、最も重要なことを告げてくれた。ゆえに最も深い、ほかになき「祭日」となったとのだと考えてみよう(図⓬ 「サウィン」とは何か)。
◆「最強の死者」
サウィンに向かう季節。人々がリアルに実感したことは、私たちが人間なら述べるまでもないだろう。人々は闇のなかで思い続けたはずだ。
「私たち生身の人間(=生者、生きている者)に、「闇(の半年)」に対峙する力は、備わってい
ない。ならば、どこから、それを乗り越えるエネルギーを「もらえる」のだろうか。いや、そのよ
うな、力はこの世、この地上にはないのではないだろうか。それをもたらしてくれるのは、誰なの
か。」
「吹きすさぶ嵐の、まったき夜に、この世とあの世の壁が壊れ、取り払われて、<死者たち>が回
帰してくるという。ならばそれは生きている人間を脅かし怖がらせるためではなく、救済するため
に、ではないのか!」
サウィンの夜、人々が必死の淵で手にしたのが、この真理であった。後がない、必死という母胎から、厳かな祈りが「産まれた」のだと想像してみよう。
「祖霊」や「死者」は、私たちを脅かすためではなく、私たち「生者」に、「闇を生き抜く力」を授けるために、真冬の嵐とともに、あの世から「還ってくる」のだ。その最強の生命力を、私たち小さき人間に、吹きこんでくれるために。
現代人は「生きている者」の方が、死者よりも優越していて、強いのだと思い込んでいる。けれど、より濃い闇に沈みそこからまた立ち上がる日常を繰り返してきた古代・中世の人々は、強いのは、生きている者などではなく、「生を超えた時空を飛ぶ死者たち」であると信じたのである。
生者を支え「闇の半年」を生き抜く力をくれる祖霊、死霊は、私たちを脅かす者ではなく、生者を救済する。
その思想と祈りは、古い「ハロウィンのカード」の歌にも籠められてきた。「霊たちはハピーな同朋」という言の葉にも残響しているように、である(図⓭ ハロウィンのカード)。
◆「死から生まれる生」の生命哲学
こうして「闇から光へ」のケルト的な根本思想の種は、この季節の変わり目の否応ない変化に仕込まれていた。
あの世とこの世の大交流によって、「光の半年」が終わりを告げ、「闇の半年」に大反転し、「闇」が戻ってくる。その季節、その夜こそは、生きている人々が、闇に打倒するためではなく、「闇と交わること」で、「死者の霊から、生命力をもらえる夜」となる。人々には「死から生まれる生」という必死の哲学があったのだ。
だから「ハロウィン/サウィン」の主役は、死(者)である。生きている者は仮装によっても「死者たちになりきる」という思いをもったのである。
「闇」と「死」を直結させる、その天然の仕業が、人間に宝物としての生命の哲学を与えた。「死が生を産む」という実感は、少なくとも古代から、ローマのように統一された帝国の皇帝=人間主義の中心からではなく、自然を本位としなければならない辺境・環境から凝視していた人々こそが知っていた。そういえば、私たち日本列島人も、極みに住む者としてそれに近い精神をもっているのかも知れない。
このようなヨーロッパ文化の側面は、大宗教の歴史の陰となって、なかなか歴史の教科書には書かれてこなかった。しかしヨーロッパ自身のなかで、大文字の歴史ではなく、民俗誌のかすれた小文字でしか残っていないか、あるいはまったく書かれなかった歴史ならざる歴史を掘り起こす努力は、なされてきた。
キリスト教の「諸聖人の日」の暦が、「11月1日」に移された背景には、異教時代から祝われてきたケルト文化伝統の「サウィン」の祭りの影響があるという考えは、近代の民俗学・考古学・神話学・言語学などを横断して指摘されてきた。19世紀末、スコットランド出身の社会人類学・民俗学者で『金枝篇』(初版は2巻 1890年)で有名なジェイムズ・フレイザー(1854 – 1941)も、島のケルト伝統のサウィンの祭日が、キリスト教に影響を与えたと考えた
(Rogers, Nicholas, Halloween: From Pagan Ritual to Party Night, Oxford Univ.Press, 2002. Merriam-Webster's encyclopedia of world religions, 1999 .)。
「サウィン」の夜が、畏れ敬われるのは、この自然環境的意味と、人間の死生を支える象徴的意味がクロスするからである。いいかえれば「祈り」の発生には、必死な生の淵にゆらぎ始め、やがてかたちをもち、儀礼化されてもいくが、その動機の根源には人間の命を与え、奪い、また与えるであろう、人間をとりかこむ環境としての「自然」があった。「カレンダー」の語源(インド=ヨーロッパ語)は「叫ぶ」にさかのぼる。この「季節」の嵐が、「暦」という周期的土台「カランドリエ=カレンダー」による、「祈り」と「祭り」を産んだのである。
その必死の淵から湧き上がる、人間の想像力が母胎となって、ケルト文化は「カレンダー・暦という知恵」としての「サウィン」の祭りを産み出した。
ヨーロッパの古層の心性が、ケルトの暦に、あぶり出されている。「ハロウィン」の伝統の根源にある「サウィン」という暦には、この北方ヨーロッパの「季節」の大転換への、きわめて繊細な実感と悟性を母胎にして、死生への想像力と生命哲学が生まれた。それを古代から中世、現代へと伝承してきたのが、とりわけケルト文化であったといえよう。
◆近現代への展開-アイルランド移民とアメリカのカボチャ
こうして古代・中世人だけでなく、私たち近現代人も「暦」とともにさまざまな「死と生をめぐるイメージと思想」を創造してきたことがわかるだろう。
欧米では近代になっても「サウィン」とそこから発した「ハロウィン」の季節のイメージは描かれ続け、産業革命が起ころうと、高度情報化社会になろうと、その勢いは止まっていない(図⓮ ヤン・ヴァン・デ・ヴェルデ「魔女」1626年 クリーヴランド美術館蔵 https://darkartandcraft.com/blogs/news/vintage-halloween)。
19世紀前半、アイルランドの大飢饉をきっかけに北米へと移民した人々は新天地で現代につながる子供たちと大人たちのハロウィンを広める一群となり、ケルト文化圏ではもともとは「カブ」でつくった、死者たちの魂の鬼火にして、かつ、その道を照らす「ジャック・オー・ランタン」は、アメリカにたくさん産する「カボチャ」となって今に至る。だからアメリカの近代の絵には、カボチャを掲げた亡霊の騎士も登場するのであった(図⓯ ジョン・クィドル「イカボッド・クレインを追う首なしの騎士」1858年 https://en.wikipedia.org/wiki/John_Quidor#/media/File:John_Quidor_-_The_Headless_Horseman_Pursuing_Ichabod_Crane_-_Google_Art_Project.jpg)。
同じく北米で広まった、元気よく、仮装した子供たちが、家々を訪ねて「トリック・オア・トリート!=お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ!」と言う慣わしは、もともと、祖先や死者たちが、「私たちを供養すること=トリートすること=おもてなしを、どうぞ忘れないで」というメッセージを引き継いでいる。
「サウィン」から「ハロウィン」へ引き継がれた「仮装」は、近代以前からあり、「死者になりきるため」の仮装(マミング)である。
死者たちに扮した人々がやはり家々を回り、供養の食べ物のもてなし、トリートを受けた。アイルランドの地方の博物館にはその仮装の被り物などが民俗資料として伝わっている(図⓰ サウィンの被り物 20世紀初頭 アイルランド カントリー・ライフ・ミュージアム蔵)。
◆一夜明ければ「新年」
年に1度、必ず回帰するパワフルな祖霊と死者たちの役割は、また「ハロウィン/サウィン」が過ぎた約50日後、北ヨーロッパの「冬至」という「闇=夜が最も長い日」から「陽光の蘇りの日」の祭りの意味に引き継がれている。
「冬至」もキリスト教が世俗の人々の篤い祭日であることに注目し、冬至は「クリスマス」という「神の子(光)であるイエスが誕生する日」に取って代わられたように、「光から闇へ」の絶望ではなく、自然/生命の循環とは、「闇(死)から光(生)へ」と「誕生」や「再生」するという古代人の信心が、どれだけ、人々を支えてきたか。現在の人類全体をも、支えていることを、ケルトの暦は今日に伝えている。
さて、サウィンやハロウィンの起源の地からは遠い異境にいる私たちにもその「再生のチャンスの夜」は来る。
20世紀の作家ジェイムズ・ジョイスの処女短編小説の花束である『ダブリン市民』(1914年)の一篇「土くれ」に倣って、祖先を供養し、子供たちや友人を招くテーブルに並べる「魂のケーキ」のひとつ「バーンブラック」(「斑点のあるパン」の意)を焼いて、待とう。
それは「収穫のシンボル」である「干しブドウ」などドライブルーツをたっぷりと詰め込んだケーキとパンの間のようなお菓子である。幸運の指輪なども中に埋め込んでも楽しい(図⓱ バーンブラック https://www.nhk.or.jp/kamado/recipe/361.html)。
外は暗くても、家々の戸口と窓辺には、ランタンのキャンドルが明るく揺らめいている。「サウィン/ハロウィン」の夜が明ければ、かならずケルトの「新年」がやってくる。それは「古いもの」が「新しいもの」へと必ず再生する時間なのである。
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特別コラム
シェイクピア「真夏の夜の夢」
と
ケルトの「ベルティネ=五月祭」
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◆「ベルティネ」と「ルーナサ」の歓び
さて、こうして私たちは、ヨーロッパにおける「ハロウィン」の根源を辿ってきた。
そして最後に、この暦に潜む「生命」への渇望と安寧への祈りは、同時にこの暦によって、救済されるというケルトの知恵の光をみて、次の「光の半年」につなげよう。
死者たちに、生きる力を授けられ、「闇」を乗り越えた人々は、ケルトの「光」の2つの季節祭、「ベルティネ」と「ルーナサ」にまみえる。
いにしえの人々にとってのみならず、いま昏迷の時代を生きる私たちにとってこそ、力がもらえる、生命が湧き立つ、太陽の季節となる。
黄金の陽光の下、耕地を耕し、家畜を放牧し、成長させることができる「生命の季節」のありがたさを今こそ知ろう。
ケルトの暦で5月1日の「ベルティネ」は、今日の「メイデー=五月祭」の起源である(図① 「ベルティネ」と「ルーナサ」)。
その「夏の第一日」の前夜は、本文の円環のケルトの暦を見れば分かる通り、待ちに待った「ベルティネ」は、「サウィン」と真反対に位置している。「ベルティネ」と「サウィン」は、大自然の厳粛な明/暗、光/闇のコントラストと、相互の隣接を表す「ペア」であることは一目瞭然だろう。
「ベルティネ」と「サウィン」の共通点は「大自然の季節の大きな変わり目」。
「ベルティネ」の場合は、後述する希代の戯曲家が描ききったように「明るい、おちゃめな妖精」が現れ、対して、「サウィン」には「闇から蘇る、死者たち」が回帰する。
「ベルティネ」の前夜もまた、ヨーロッパの人々にとっては「闇から光へ」の大自然の大変化(カラストロフィー)をもたらす、おおいなる反転の魔の時なのだ。
だから文豪ゲーテが『ファウスト』に書いたように、「ベルティネ」はドイツ語圏では「ワルプルギスの夜」とも呼ばれる。大自然の変容と、夏を胎動させる最後の闇の半年の蠢きが反転し、人々を真夏の回帰へと急(せ)かすのだ。ゆえに、20世紀にはディズニーのアニメにもなっている。
特に夏の短い北ヨーロッパの人々には「待ち焦がれる季節の前夜」となってきた。
◆「真夏の夜の夢」のケルト起源
この祝日に霊感を受けた芸術家といえば、シェイクスピアだ。イングランド人だが、ケルト文化の素地に、親しんでいたことはまちがいない(図② ウィリアム・ブレイク「真夏の夜の夢」1786年 大英図書館蔵)。
ご存じ「真夏の夜の夢」という戯曲は、何月何日の物語かといえば、それは6月の「夏至」ではなく「ベルティネの前夜」、即ち「4月30日」なのである。
森の中で太陽の回帰を待つ、生命みなぎる男女のお話なのはそれゆえである。
そこにいたずら小僧のパックを筆頭に、ケルト伝説を思わせる妖精たちが飛び跳ねる。朝が明ければ、真夏の「太陽が回帰してくる」。待ちかねて、高まる時間が進むその舞台は、アテネ郊外の森。エロティックなまでの興奮、歓びを表している。
本論にも書いたスコットランドの社会人学者、フレイザーの『金枝篇』を引くまでもなく、人々は、異教時代から「樹木信仰」をたいせつにしてきた。
ケルトの古代にも、キリスト教中世にも、シェイクスピアの近代にも、「ベルティネ」つまり「メイデー=五月祭」の「前夜」に、人々が森に入り、一夜を明かし、夏の生命のシンボルである「五月の樹」を伐って、朝日と共に村に戻り、日本のお正月の門松のように、戸口や、広場に飾り立てる。それが「メイ・ポール=五月柱」の興りである。
ここにも、大元に、ケルトの暦の「闇から光へ」の「生命循環」の思想があったのである。
◆「ルーナサ」の母胎
「闇の半年」を生き抜いた人々は、5月、6月を迎え、太陽の光の下で麦を成長させ、それを7月末までに刈り取る。いよいよ季節は移り、「8月1日」の「ルーナサ=収穫祭」がやってくる。
「ルーナサ」の語源は、アイルランドのケルト神話で最も輝かしい、ケルト神話のアポロンとも讃えられる青年神ルー(ルーク)から来ている(図③ 「ルーナサ」『ケルト再生の思想』 第4章より)。
ルークが収穫の祭日「ルーナサ」を司る神であるのは、アイルランドの荒れ果てた土地を、開墾したのが、ルークの母親だったからである。
力尽きて亡くなっていった母を、ルーク神は、収穫の8月1日に、追善した。
穀物と耕地の母胎となった母タルティウに感謝した日が、アイルランドの神話と人々の民俗誌によって、今日に伝えられているのである。
さて、今回の紙幅は尽きたようである。
「ルーナサ」についての続きならびに、「4つの季節祭」の全容は、拙著『ケルト 再生の思想』(ちくま新書)に書いています。どうぞ図書館などで参照してみてほしいと思います。
今回は「特別コラム」までお読み頂き、ありがとうございました!
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参考文献
鶴岡真弓『ケルト 再生の思想』ちくま新書
鶴岡真弓 松村一男『図説 ケルトの歴史』河出書房新社
鶴岡真弓『ケルトの想像力』青土社
Ⓒ 鶴岡真弓 Mayumi Tsuruoka
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