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ケルト神話のキャラクターたち 癒しの秘術 第2回


アイルランド 死者への「哭(な)き」の哀歌

―被支配を乗り越えた古謡(シャン・ノース)の源へ―


鶴岡真弓



◆はじめに ―「ベルリンの東西」の壁と「アイルランドの南北」の壁

 私たち人類は、現在まで、数えきれないほどの民族や国のあいだに起こった様々な対立の「壁」を越えてきた。30余年前の20世紀末、「東西冷戦」は終わった(はずだった)。

 だが再び冷戦どころか侵略戦争が起こされた。人類は、自由や平和を手にするためには、「永遠に途上にある生きもの」であることを、物言わぬ壁が、今を予言していたのだろうか。


 時計の針を、1989年の晩秋に戻してみよう。そのとき生まれていなかったひとも、このできごとは新世紀への希望として後に教科書でも見、読んだことだろう。

 「東西冷戦」の象徴であったベルリンの壁が遂にハンマーで撤去された。旧東ドイツ政府は、事実上、旅行及び国外移住の大幅な規制緩和と受け取れる政令を11月9日に発表し「東」の人々は怒涛となって自由の「西」に入った。ここに米ロ二大超大国の対立と緊張による20世紀の冷たい戦争はいったん幕を閉じた(図➊ ブランデンブルク門前のベルリンの壁上の人々 https://en.wikipedia.org/wiki/Fall_of_the_Berlin_Wall#/media/File:West_and_East_Germans_at_the_Brandenburg_Gate_in_1989.jpg)。

図➊

 「東西冷戦の壁」は、アイルランドの「南北の壁」の歴史を思い起こさせる。

ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年、冬1月末、私は大西洋を見晴るかすアイルランド北西部の渚に立っていた。

 日本のドキュメンタリー映画『地球交響曲ガイアシンフォニー 第1番』の「アイルランド篇」の撮影に参加するためであった(図❷ エンヤと鶴岡真弓 龍村仁監督作品『地球交響曲ガイアシンフォニー 第1番』 1992年)。

図❷

 東西冷戦の終焉によって、それまでマイノリティーと思われていたヨーロッパの小国アイルランドから、突如、彗星のように「ワールド・ミュージック」の歌姫として現れた、今日誰もが知るミュージシャンのエンヤがその映画に出演し、不肖、私もケルト文化の案内役として共演した。冬のホテルでのインタビューや、渚を歩くシーンは今も忘れられない。 

 しかしここに記すのは、その映画に参加できた神秘的で楽しい思い出だけではない。

 この写真の窓の外に広がっている、アイルランド島北西のエッジ、ドニゴール地方は、大西洋に波洗われる地で、エンヤの生地にして聖地である村グィドーがある。が、そこは地図で俯瞰すると分かるように、イギリス領「北アイルランド」に隣り合ってきた地方であった(図❸ ①アイルランドのドニゴール地方[緑色]と英領北アイルランド[ピンク色]地図  ②ベルファスト「平和の壁」への入り口 2005年 wikipedia)。

      図❸ - ①                       図❸ - ②


 1972年、北アイルランドの第二の都市ロンドンデリーでは、悲惨なる「血の日曜日事件」が起こった。ロンドンデリーからエンヤの生地のグィドーは僅かクルマで1時間ほどである。同じアイルランド人で隣人同士だった、カトリック(アイルランド系、アイルランド・ナショナリスト)のコミュニティと、プロテスタント (アングロ=サクソン系、ユニオニスト)のコミュニティが対立する「北アイルランド紛争」。

 東西冷戦の終焉と期を一にしてアイルランドから世界へと羽搏いた歌姫エンヤは、この闘争が激化する60年代に生まれた。(1997年から2007年には解決に向かうことになるが)陸の「渚」に命の血が流されてきたことを思い起こさせられる。

 北アイルランドには、ベルリンよりも長い「壁」が築かれ、首都ベルファストのを主として総てを合わせると34㎞にも及んだ。壁は「平和の壁(ピース・ライン)」と称されたが、それは抑止の壁だった。ドイツは「東西」、アイルランドは「南北」で壁に阻まれてきた歴史を今日に伝えている。  

 一方が強国となれば、小国は「被支配」に耐える歴史を常としなければならなかった。隣り合う国や民族同士は、交流の豊かな境域の守り手であると同時に、対立の傷をも負ってきた。しかしそこには最後まで手放さなかった「表現」があった。


 連載第2回目の今回は、「強い隣国」によって「被支配」の長い歴史を生き抜き「南北分断」の宿命のなかにも、アイルランド社会が伝えてきた伝統の「歌謡」を通して、なぜこの小さな島国が戦争や飢餓の犠牲となりながらも、「癒しの秘術」を守り続けてきたのかを掘り起こそう。

 アイリッシュ・ケルト文化の魅力は、歴史の壁や境界から、常に両方の姿をみつめ、陸でもあり海でもある、渚のような「揺れの領域」を創造し続けた信仰と哲学に見出せる。一ヶ所に留まるのではなく、二者択一でもなく、AでもなくBでもない、AでもありBでもある境域を漂う音と声と気息の術。

エンヤの祖先たちも謡ってきた、伝統の「古謡」にそれを聴こう。



◆エッジから放たれた「ケルト」

 大西洋の波に洗われるブリテン諸島の西の極み、アイルランドには、「ケルト文化の復興=ケルティック・リヴァイヴァル」がこれまでに2度興った。

 一度目は19世紀末から20世紀へのアイルランドの独立運動に並行したムーヴメントで、スコットランドやウェールズの「島のケルト」文化が再発見された。

 もう1つは冒頭に記した「20世紀の冷戦の終焉」によって1990年前後から音楽・ダンス・デザイン・文学など世界に広まった、現代のケルティック・リヴァイヴァルである。それはスコットランドやウェールズやフランス側のブルターニュにも共振した。

 たとえばこのスコットランドのリヴァイヴァルの画家ダンカンは、イタリア・ルネサンスのフレスコ画の技法に、このようなケルト神話の主題を発表していった。絵画というヴィジュアル・アートに、「口承」でそれを伝えてきた「祖先たちの声と気息」が満ちる傑作を次々に送り出した。

 絵は音楽であり、音楽は詩であり、ケルトの呼吸であることを神話の妖精・精霊のキャラクターを通して表現した(図❹ ダンカン「妖精の騎士たち」 1911年 ダンディー・アート・ギャラリーズ&ミュージアム蔵)。

図❹

 一方、現代のケルティック・リヴァイヴァルの助走は、1980年代後半、音楽のジャンルから始まった。90年代のディケイドの始まりの直前、それまで「周縁」とみなされてきた小国の島国から、世界に向けて踊り出る胎動が始まったのだ。

 エンヤの登場を皮切りに「ワールド・ミュージック」と呼ばれる波が力強く発進し、世界のミュージック・シーンを席巻するほどの、「伝統の力」を知らしめることになったのである。  

 「ワールド・ミュージック」という概念は、早くも1960年代にアメリカ人民族音楽学者ロバート・E・ブラウンがウェズリアン大学(コネチカット州)で、アフリカアジアの演奏家たちを招いて授業をおこなった際の造語にさかのぼる。コネチカット州はニューヨークの大都市圏に接するが、歴史的にネイティヴ・アメリカンも居留し、ヒスパニックやアフリカ系の人々も暮らす文化的風土を背景としている。その後1985年頃、チェコスロヴァキア生まれの民族音楽学者ブルーノ・ネトルが、19世紀に始まるグローバル化と音楽メディアの発展によってヨーロッパの要素を取り入れた「非ヨーロッパ地域の新音楽群」を「ワールド・ミュージック」と定義した(『世界音楽の時代』細川周平訳 勁草書房 1989年ほか参照)。  

 20世紀末においてアジア、アフリカ、オセアニアや、クレオールのカリブなどの音楽の際立ちのなかに、「西洋」の基であるヨーロッパからもその花火が打ち上げられたことが重要なのである。これによって一般には知られざる「ケルト」という民族・歴史・文化に注目が集まった(図❺アルバム『エンヤ/ケルツ』よりhttps://www.discogs.com/fr/release/7174408-Enya-%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%A4-The-Celts-%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%84/image/SW1hZ2U6MTkxMTM0NDI=)。

図❺

 既述したようにエンヤはアイルランド北西部、ドニゴール地方のグィドーの村で1960年代初頭に生まれた。この地方はゲールタハト(公用語のゲール語使用地域)」であり、本名はゲール語でエンヤ・ニ・ブレナン。コンサーティーナ(アコーディオンの一種)を奏でるミュージシャンの父親と、教会のオルガン奏者でもある母という音楽一家に育ち、80年頃から兄弟姉妹たちのグループ「クラナド」に参加、82年にソロとなり、ニッキー&ローマ・ライアンと共に、チーム「エンヤ」の音楽を創り上げていく。

 そのなか、記念碑的なBBC北アイルランド制作の歴史的なドキュメンタリー番組『The Celts(ザ・ケルツ:ケルト人)』(1987年)のサウンドトラックの全編を任された。この映像作品は、運命的にも、BBCの放送史で初となる「ケルトの歴史」をテーマとしたものだった。作家でキャスターのフランク・ディレイニーを案内役に、東はチェコ、西はアイルランドまで、古代の「大陸のケルト」の考古と歴史を皮切りとして、「島のケルト」の人々が辿る現代の移民史までをドキュメンタリー・タッチの映像で描いたものである(ディレイニー『ケルト 生きている神話』鶴岡真弓監修 森野聡子訳 創元社 1993年)。

 2800年前に遡る、大陸時代のケルト鉄器文明の考古学から説き起こされ、オーストリアの世界遺産「ハルシュタット」などのケルトの遺跡が紹介されていく(番組のエピソード1&2は現在YOUTUBEでも視聴可能 https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DAU1dKfMIEUQ&psig=AOvVaw1Tde_tDFaueuSUDdXLDAxz&ust=1656997866329000&source=images&cd=vfe&ved=0CAwQjRxqFwoTCPiK_Ke83vgCFQAAAAAdAAAAABAD)。

 サウンドトラックはエンヤのデビュー・アルバム『エンヤ/ザ・ケルツ』(1987年)としてリリースされ、番組は日本でも『幻の民 ケルト』(NHK)のタイトルで放送された。

 エンヤは続く『ウォーターマーク』(1988年)からのシングル「オリノコ・フロウ」で世界的ヒットを飛ばし、ロックバンドU2に続くアイルランド発のワールドワイドのアーティストとして名声を確立した。カトリックの本山バチカンではヨハネ・パウロ2世臨席のもとクリスマス・ソングも披露した。世界の王室や要人にもファンが多い。


◆「重層」の背景

 ところでエンヤの音楽は、わが国では「癒し系音楽の定番」と呼ばれてきた。それはなぜなのか。ひと言でいえばその楽曲のどれもに、音/声を通して、「複数の真(まこと)」が豊かに暗示されている。それゆえ「単一の真(まこと)」に縛られて生きざるを得ない現代人の心を、包み、癒すのではないだろうか。

 エンヤという音楽家・表現者・歌姫の表現は、ケルトの伝説「トリスタンとイゾルデ」のアイルランドの姫イゾルデが、ドラゴンと一騎打ちをして瀕死となったトリスタンを探し出し、その傷を治したように、さまざまな場所や技を探りながら、人を治癒へと誘(いざな)う。あの「オリノコ・フロウ」の船が無数の島や港を巡り、諦めず航海を続けるように、である。

 即ちエンヤは単数ではなく複数、一層ではなく重層(重奏)、多重、多様な音楽と詩を創造する。折り重ね、混ぜ合わせ、主語に対して無数の述語があり、呪文にも似た反復があり、ゆえに幻想的で、揺り籠のような心地よさを醸し出す。私たちは母胎の羊水や海に漂うように身も心も委(ゆだ)ねることができる。

 ソロデビュー当時のエンヤは、この独自の「重層性」を創り出すため、1980年代当時最高峰の144chのトラック数を誇るデジタルのマルチ・トラック・レコーダーを複数用いたといわれる。ヴォーカルの多重録音。シンセサイザーの駆使によって、少なくとも200回以上の録音を重ねた。エンヤはあたかも目に定かには見えない、複数の糸の色を織りあげる歌姫にして織姫のようである。 

 しかしたんに心地よい雰囲気を醸し出すだけではなかった。『ザ・ケルツ』の第1楽曲のように常に果敢な推進的ピッチが秘められている。探求するのは、まだ見ぬ聖なる泉。神話的存在とヒューマンを結びつける勇気の物語が現れ、宇宙的(コズミック)な大きさを胎動させる音/声が、独特の意匠を確立した。したがってこれは「生演奏・生歌唱」では再現できない質量の音楽であるために、世界的なヒットを飛ばした後も、いわゆるライヴはおこなってこなかった。


◆忘却されたものたちの記憶

 ところでエンヤの楽曲は最先端の機器を用いスタジオで丹念につくられるものであるが、その「音」も「詩」の主題も太古以来の「伝統的なもの」に深く根差していることは誰しもが直観するところである。

 アイルランドの伝統歌、キリスト教の宗教音楽、クラシック音楽がまさに多重に折り重なり、その全体はアイリッシュ・ケルトの文化の伏流水となってきた、太古からの異教的な時空から響く神秘的な物語とリズムを刻む。古代の神話と現代をつないで縦横に構成される。

 それは1世紀以上前に「ケルト文化」に魅せられてブルターニュを旅したドイツの詩人ハイリンヒ・ハイネ(1797-1856)が、巨石のメンヒルを吹き抜ける風のなかに聴き届けた、主人公たち、「忘却されたものたちの記憶」にも響き合う(『流刑の神々』1853年:邦訳『流刑の神々/精霊物語』小沢俊夫訳 岩波文庫 1980年)。

 ハイネが捉えた、一神教によって石に変えられた妖精たちの声を地で行くようなヴォイスでエンヤは人々を魅了する。歌う言語も多様であるのは、アイルランドが中世から20世紀まで被ってきた被支配の歴史ゆえの多様性を、自ずと伝えるからである。アルバムにはケルト語派のゲール語、ウェールズ語、ラテン語、英語、スペイン語、フランス語、日本語などまでが織り込まれている。

 いわばエンヤは(今日まで三位一体で活動してきたニッキー&ローマ・ライアンと共に)、電子的ツールと方法を駆使してまで、「一(いつ)ではない状態」「多重性という現象」を創造しようとした。

 ではなぜエンヤ、そしてそのアイルランドの協働者は、かくも複雑な音づくりができるのかといえば、それは、彼女の祖先たちが隣人の大国の脅威をくぐりぬけ、火を噴く武器ではなく「声」の震え、その「息」、「気息」で表し、抵抗して来た伝統を手放していないからではないだろうか。


◆「シャン・ノース」の気息

 エンヤの「ささやくような歌唱」と、たゆたうような「音/声の揺れ」には、ゲール語で歌われてきた 伝統の「シャン・ノース Sean-nós」という無伴奏の唱法を彷彿とさせるものがある。

 「シャン・ノース」とは「古様式」という意味で、ゲール語で独唱される古謡を指し、アイルランドのほかスコットランドにも伝わってきた。

 アングロ=サクソンからの脅威の下でも護り抜かれた民間の重要な遺産として、謡い手と、それを聴き続けた人々によって保持されてきた。それは歌であり、口承で伝える伝承であり、人々の「息・気息」そのものの表現だったからである。

 20世紀半ばには急激に継承者が減ったが、現代の「ケルティック・リヴァイヴァル」によって巻き返し、「シャン・ノース」は若者の間でも注目されている(たとえば16世紀のシャン・ノースを謡う若者のパフォーマンスがYOUTUBEで発信されている。https://www.youtube.com/watch?v=ewhDvdXBBkA)。

 この古謡の特徴は、初めて聴く人でも即座に分かることだが、ヨーロッパ古典音楽の五線譜の上に書かれるものとは全く別の領域に存在してきた「術」がある。

 陰影漂う謡い手の情感に沿って、音階に繊細な抑揚を与え、震えるような「装飾音」を醸し出す、いわゆる「メリスマ」が特徴である。メリスマは古代ギリシャではホメロスの時代からあったといわれ、インド、イラン、中近東、東ヨーロッパにも類似する唱法があり、それらとの関係も考察されてきた(オコーナー『アイリッシュ・ソウルを求めて』 茂木健 大島豊訳 大栄出版 1993年)。

 さかのぼれば太古、紀元前のケルト文化や芸術は、ユーラシア(ユーロ=アジア)文明の交流において「東方的なもの」を受容してきた。古謡もその根源を辿れば、ユーラシア東西の様式がアイルランドに存在する理由を解明できるかも知れない。

 元々ブリテン島は(後から侵入するアングロ=サクソン人の用いる)英語の島なのではないことは周知の通りである。シャン・ノースはケルト語派の「ゲール語」で謡われる。ケルト語の言語文化を担うケルトの人々は「インド=ヨーロッパ語族」のなかでもユーラシアの草原地帯から「最も西へ」移動し、大西洋に浮かぶアイルランドはその「ゲール文化」を保持してきた。シャン・ノースの古様式は吟遊詩人が活動していた中世の13世紀頃から16世紀頃までの形が辿れる。

 近代になり消えゆくシャン・ノースであったが、19世紀末の「ケルティック・リヴァイヴァル」の文学者たちを魅了した。アラン島へ幾度も旅し紀行小説『アラン島』(1907年)を書いたジョン・ミリントン・シング(1871-1909)もそれをアラン島で聴き、「東洋人」の歌のようだと書いた。アイルランド人の「母語」であるゲール語の語りや歌は、人類の古層にさかのぼる記憶を秘めていることを、リヴァイヴァルの作家たちにも再発見させ感銘を与えたのである。

 しかしその言語と歌の伝統は、茨の道を通ってきた。アイルランドの隣には常に強国イギリス(アングロ=サクソン人のイングランド)があり、長い間の被支配によってゲール文化は息の根を止められていった。15世紀末からのチューダー朝による支配や、17世紀では11年間にも及んだ「クロムウェルによる侵略」で、アイルランドのカトリックの地主は西部の辺境へ追放され、伝統文化は衰退の一途を辿った。古謡や口承の生命線である「母語」のゲール語(ケルト語派:アイルランド・ゲール語)が禁じられ、シャン・ノースもそれからの200年の間に急速に消滅していった。

 しかしそれはイングランドの支配の陰で、コネマラをはじめとする辺境のアイルランド西部や、北部や、南部という「周縁」で息をつなぎ、18世紀後半から19世紀初頭の新古典主義とロマン主義との時代に、アイルランドの神話や伝説や習俗を掘り起こす好古家によって「発掘」されていくことになる。

 いかにもエンヤの故郷のドニゴール地方も、村人がゲール語で話し謡う「ゲールタハト」であった。現代におけるエンヤの魅惑的な音楽の創造も、この土壌なかりせば生まれなかった(図❻ アイルランド・ゲール語使用の3地域 アルスター コナハト マンスターhttps://en.wikipedia.org/wiki/Connacht_Irish#/media/File:Gaeltachtai_le_hainmneacha2.svg

図❻

 ではそれはどのようにして今日に伝わっているのか。

 皮肉なことに、「支配する側」が、「支配される側」の伝統に魅了されていく。その典型のようなできごとが起こったのである。

 アイルランドやスコットランドがイングランドの支配下にますます追い込まれていく19世紀前半までに、支配者側イングランドの上層階級の懐古趣味のニーズに素早く応えた「好古家」によって、その深い井戸が掘り起こされた(図➐ 最後の吟遊詩人と呼ばれたパトリック・バーン1845年 スコットランド国立美術館蔵 https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Byrne_(musician)#/media/File:David_Octavius_Hill_and_Robert_Adamson_-_Patrick_Byrne,_about_1794_-_1863._Irish_Harpist_-_Google_Art_Project.jpg)。

図❼

 支配する強者アングロ=サクソンの王や、現地へ乗り込んで来た軍人や護国卿は、武器によって弱者を制圧したが、それによって干からびていく己の心の渇きは、結局、当の己が奪い葬ろうとしている、弱者の側に秘められてきた古層の泉から、最も甘露な水を与えられるという逆転が起こったのである。


◆発見された「哭(な)き女」の哀歌

 その古謡の泉の発掘者の代表者のひとりが、ドイツのグリム兄弟をも魅了した、『アイルランド南部の妖精伝説と伝承』(1825–28)で有名な、アイルランドの好古家クロフトン・クローカー(1798-1854)である。

 ここで重要なことは、クローカーはたんに古い様式の歌を発見したのではなく、「シャン・ノース」を追うなかで、「死者を悼(いた)む古謡」を掘り起こしたことである。

 アイルランドの南東部のコーク地方で採取した『アイルランド南部の哀歌』(1844年)は、無伴奏で独唱の「シャン・ノース」の淵源に、アイルランド(そしてスコットランドのどの階級でも守られてきた、葬送で謡われる「死者を悼(いた)む哀歌」があったことを示唆した。

 古来どの民族の共同体でも必要とされた歌は、「祝い」のそれと「弔(とむら)い」のそれである。ゲール(語)文化の「シャン・ノース」には、アングロ=サクソンの不在地主によって、作物や家畜の命を育む牧場(まきば)や畑を奪われ、被支配に喘ぎながらも支え合ってきた、アイリッシュたちの「死生観」が、文字通りの通奏低音として流れている。

 好古家クローカーが見出した「哀歌」は、「死者を悼む慟哭=哭(な)き」(英語で「キーニング keening」)と呼ばれるもので女性たちによっておこなわれた。その女性たちはアイルランド・ゲール語で「慟哭(どうこく)する人/哭(な)く人(クィント―ル caointeoir)」と呼ばれた。

 その実際の印象深い光景は、クローカーと同時代のアイルランド生まれのサミュエル・カーター・ホール(1800-89)の『アイルランド:その風景、性格、歴史』(1841)に書かれている。キーニングは「故人の系譜、故人への賛美、遺族の深い哀しみ」を込めて謡われたが、クライマックスでは「哭(な)き女」が体を揺らし、手を握りしめ、天を仰いだ(図❽ アイルランドの「哭き女」 19世紀初頭 ケリー地方 サミュエル・カーター・ホール『アイルランド:その風景、性格、歴史』1841年https://en.wikipedia.org/wiki/Keening#/media/File:Keening_woman,_Hall_1841.png)。

図❽

 葬儀に必ず呼ばれた「哭(な)き女」には、霊の世界とつながる、シャーマン的な能力があったかもしれない。シャン・ノースの本領である声の微細な震えと抑揚は、大元において、このように死者を悼む声、つまり「哭(な)き」から湧きおこった、声にならぬ声であった(図❾ バートン「アラン島の漁師の溺死した息子」1841年アイルランド国立絵画館蔵http://onlinecollection.nationalgallery.ie/objects/9098/the-aran-fishermans-drowned-child

図❾

 キーニングは支配者側に疎(うと)まれても、アイルランドの共同体になくてはならない伝統の鎮魂であり癒しの儀礼であった。19世紀の40年代、アイルランドが大飢饉によって最も「死者」を出した時、その伝統が文化復興の助走として見出されていったことは意味深い。

 この絵画は、19世紀半ば、アイルランドの独立運動と並行する「ケルティック・リヴァイヴァル」に先駆けた画家によって描かれたものである。アラン島の漁師の子どもが死んだ。ここで手を天に振り上げているのは「哭(な)き女」であろうか。更に画中の最も奥の入り口でひとり横顔で表されている放浪民のような面差しの女性もそれであるといわれる。

 この時代、アングロ=サクソンのイングランドでは1851年に世界で最初の万国博覧会がロンドンで開催され、覇権国、大英帝国はアイルランド、スコットランド、ウェールズなどのかつてのケルト系の文明を抑えた連合王国の長であるのみならず、全世界の頂点に立った。このバートンの作品は、大英帝国のラファエル前派の描く中世のロマンティックな騎士物語や宮廷恋愛の主題に対して、被支配のなかに生き残った伝統社会が背負った「死」に光を当てたのである。

 祈り涙する女性たちの声は、大仰な「叫び(クライ)」ではなく、深い「哭(な)き」であった。死者のために懸命に「哭(な)く人」の「うめく力」によって、会葬者は絶望を分かち合い、死者と共に慰められたのである。


◆ドルイドの伝統から「アメリカン・ウェイク」まで

 いいかえれば彼女たちは、共同体のための「バルド(詩人)」として生きていた。謡い手の女性たちは、読み書きはできなくても、国中のコテージからコテージへ放浪しつつ、数えきれないほどの哀歌を覚えていたという。

 前述したとおり18世紀末から19世紀は「バルド」がハープを抱いて謡うイメージが、ケルトのドルイドのイメージとして蘇り、ヨーロッパ中や新大陸でも関心が高まった時である。

 2000年以上前のヨーロッパの古代「ケルト」社会をギリシャ・ローマ人が垣間見て記したドルイドや、ケルトの神話に語られるドルイドの言葉は、ギリシャ・ローマのような石や金属に固定される「書き言葉」ではなく、大気を震わす「話し言葉」であり、「謡う言葉」であった。読まれる文字よりも、聴かれる謡は、共同体で圧倒的なパワーをもっていた。

 アイルランド神話でも、バルドであるドルイドは、王に仕える地位にあり、王のために、「称賛」だけではなく「風刺」を浴びせ、王を鼓舞する職能であった。そのなかに嘆きや悼む謡もあった。

 イングランドの画家ブレイクの描いたハープをかき鳴らす「詩人」は、明らかに古代ケルトのドルイドのイメージである。アイルランドのエンブレムが「ハープ」であるのはバルドとしてのドルイドの「栄光」を、ナショナリズムの下に召喚したものであった。アイルランド神話では、「ハープ」じたいが催眠術をもち、異界へと人間を誘う呪的な楽器であったことを、この徴(しるし)が今日に伝えている(図❿ ①ブレイク「古代のバルドの声」『無垢と経験の歌』より1825年 ②アイリッシュ・ハープ アイルランドの紋章)。











 


    図❿ - ①           図❿ - ②



◆死者を呼ぶ「バンシー」の声

 さて、以上にみてきたように、ケルト文化の島の隣に、世界で最も合理的に産業革命を成した大英帝国があったことは、歴史に大きな陰影を与えた。いいかえれば世界の覇権の中心イングランドから見て、アイルランドは、キリスト教受容以前からの伝統と慣習を持ち続けていた、前近代的な最後の「異界」であった(図⓫ スモール「西部の高地コネマラの聖なる井戸 ゴールウェイへの巡礼者」18世紀後半)。


図⓫

 18世紀、イングランドの画家は、アイルランド西部のコネマラの泉の前で祈る女性の巡礼者たちを描いた。画家スモールはスコットランド生まれで、バーミンガムの「月光協会」という産学をつなぐユニークな交流にも参加し、ブリテン諸島だけでなくインドや中東の主題の絵も多い。彼は、アイルランドの、特にゲール文化が濃厚な西部の辺境で、産業革命期のイングランドとはまったく異なる「景色」と「慣習」、「生き方」を記録した。

 画面左の泉の涌き出る場所に立てられている石には「イエス・キリスト」のイニシャルが刻まれているが、巡礼の女性たちの祈る姿には「慟哭」しているような、ただならぬ哀悼の雰囲気が漂っている。彼女たちは「哭(な)き女」なのではないかとさえ思える。それはロンドンやバーミンガムというイングランドの近代都市の人々が、とうの昔に忘れ去っていた祈りの原型の姿だった。

 アイルランドに生きていたのは、こうした「悼み」と「祈り」を折り重ねてきた身体であるだろう。それは「死(者)を忘れない」共同体の信念そのものだった。

 死者への悼みは、島のケルト文化圏では「バンシー」によって告げられると信じられてきた。

 バンシーは死者が出る家を予言する。即ち、人々の死者へ悼みの心と表現を支えてきたのは、目には見えない、人間ならざるものの「プレゼンス」の強さであったといえる。英語の「プレゼンス」には「存在(プレゼンス)」と同時に、「霊気(プレゼンス)」という、より奥深い意味がある。

 誤解してはいけない。「霊」への親和力が共同体に絶えなかったのは、空想力の豊かさではなく、それを生む母である「リアルな歴史」があったからである。 

 スコットランドはアイルランド同様、アングロ=サクソン人の支配に苦しめられてきたなか、1692年、辺地グレンコー村で、名誉革命に絡むイングランド政府内強硬派およびスコットランド内の親英勢力の手によって、罪なき村民が虐殺される事件が起きた。その前に夥しいバンシーの声がしたという伝承がある。

 この事件によって、国内外からイングランド政府への批判が高まり、名誉革命体制は打撃を受けた。グレンコーはスコットランド・ハイランド南西部の谷で、いわゆる制度の及ばない「化外の民」の村であったが、ハイランドの民は勇猛で、王権の争いや戦闘に駆り出されてきた。ケルト系の民はアングロ=サクソン、イングランドの下に死を賭して翻弄され続けた。

 その「現実」の歴史が、バンシーという死を告げる「霊」を、より「リアルな存在=プレゼンス」としていったのである。

 つまり神話・伝説は、「空想(ファンタジー)」から生まれる物語なのではなく、「現実(リアリティ)」から生まれ、一層それへの実感と記憶によって補強されていく、表象なのである。

 それは空想のフェアリー・テールではなく、「死」をみつめる「霊」が、すぐそばにいる共同体を支える聖なる杭で有り続けた。

 バンシーの姿は、死者のために慟哭して謡う女性の姿と重なるだろう。アイルランドでは南部のケリー地方の哀歌が、バンシーの嘆きに最も近いといわれている(図⓬ 「バンシー」 クローカー『アイルランド南部の妖精の伝説と伝統』 1825年)。


図⓬

 このようにみてくるとき、「シャン・ノース」と、死者を悼む哀歌、キーニングの関係をつなぐひとつの証として、「シャン・ノース」のレパートリーで最も印象的に謡われてきた「ウェイクWake」があることが想起されるだろう。

 英語の「ウェイクWake」には「通夜」と「目覚め」という2つの意味がある。世界史に知られる、19世紀の40年代に起こった「アイルランドの大飢饉」(1845-49)をきっかけに、20世紀まで大量のアメリカへの移民(100万人以上の流失)がおこなわれたアイルランドにとって、「アメリカン・ウェイク」という歌こそ、最も大切に謡われてきたシャン・ノースであった。

  移民となる親類・縁者を送り出すときアイルランドの人々は「別れの水盃」として「アメリカン・ウェイク」というシャン・ノースを餞(はなむけ)に歌った。多くの移民志願者は、飢饉を逃れ大西洋を粗末な船で越え、アメリカに入国できる「エリス島」へ到達しない内に、大海原の藻屑(もくず)と消えていったからである。それは「別れの盃」を交わす覚悟の歌だった。

 20世紀半ばまであったアイルランドの「通夜」に歌われるキーニングの習わしは、その後消えていくことになる(参照:「いかにアイルランドの弔いから哀歌と嘆きの慣習が消えていったか」『アイリッシュ・セントラル』の映像 2016年 https://www.irishcentral.com/roots/history/how-the-keening-tradition-died-out-at-irish-funerals-videos)。


◆名僧ギラルドゥスの聴覚

 ところで、最後に。実は「アイルランドのゲール文化における歌と音楽の伝統の厚さ」が再発見される近代より遥か昔の中世、12世紀に、それに触れた学僧がいたことを記しておかねばならない。

 イギリス本島のウェールズからアイルランドを旅した名僧ギラルドゥス・カンブレンシス(1146頃-1223)は、アイルランドで弔いの場に臨み、その深い印象を記していた(会葬者が2組に分かれて交唱するというところにも立ち会っていたといわれてもいる)。

 12世紀にはアイルランドがキリスト教を受容してから700年も経っていたが、ギラルドゥスが聴いたのは、エリートの聖職者指導のものではなく、民間の精霊信仰を映しゲール語によって謡われたものであったと考えられる。

 アイルランドの音楽や古謡に接したギラルドゥスの「耳」は優れて敏感だった。その証拠に、ギラルドゥスの有名な著作『アイルランド地誌』(邦訳:有光秀行訳 青土社 1996年)に明記されている。

 その書はアイルランドがいかに「奇異な伝統」を残しているかを記した「地誌」として知られ、彼が原始的な「異文化」にいかに驚いたかの部分がよく取り上げられる書である。が、しかし、この優れた学僧は、実はその第11章に、アイルランド人が「楽器(ハープやティンパヌム)」を演奏し、巧みにおいてこの民に比肩する者はいないことも、熱く、微に入って記していたのである。

 アイルランドにはウェールズやイングランドにはない、和声に収まらない音が奏でられていること。のみならず、アイルランド人の演奏には卓越した「速度があり」、「乱れがなく」、「旋律は非常に精緻」であること。「複雑なポリフォニーの中、心地よい速度で、異なるものが一緒になり、不調和のものが調和して、旋律が共鳴し仕上げられること」を漏らさず書き残したのである。

 「異なるもの」を(対立や分離ではなく)、どこまでも絡み合わせ、調和のベクトルを探求するアイルランドの民の音楽は、中世の『ケルズの書』や『ダロウの書』のケルト文様を彷彿とさせる。ギラルゥドゥスはそのケルト文様の美術も旅のなかで目撃しており、やはり「驚異」として記していた。

 そして遂にギラルドゥスは、アイルランド島の弔いの「哭(な)き」の哀歌、キーニングにも出会い、こう記した。

 アイルランド人は(スペイン、ヒスパニアの人々と同様に)「葬儀で哀しみにくれる中、さびしい音楽を奏でる民」であり、「こみあげる悲しさをつのらせるためにか」あるいは「静まった哀しみをさらに弱めるためにか」、歌謡と、楽器と、拍子で、衰弱した体を癒すことができると。

 ギラルドゥスが、通夜や葬送において特別の「哀歌」を捧げる民として、「アイルランド人」と「スペイン人」を挙げているのは興味深いだろう。既に記したとおり、アイルランドの古謡「シャン・ノース」は、いわゆる生粋のヨーロッパ起源のものではなく、インドや中東と比較できる、正に「異なる文化伝統」を孕んでいるといわれている。

 これはアイルランドの国創りと攻防の神話である『侵入の書』(11世紀)に伝わった、スペインからアイルランドに侵入した一族がいることも思い起こさせるだろう。スペインはレコンキスタで国土が奪回されるまでイスラム文化・芸術を受容してきたのみならず、アフリカにも接してきた特異な半島だった。もしその一族がアイルランドに音楽を伝えていたらどのようなものであったかと想像もかき立てられる。

 いずれにしてもアイルランドの古謡や音楽は、ヨーロッパのものでありながら、非ヨーロッパのルーツを記憶していると思わせる要素が散りばめられている。つまりアイルランドの音楽はヨーロッパの西の辺境の島国に孤立していたのではなく、「ユーロ=アジア」スケールの異文化とも繋がっていた(この主題については、またこの連載の別の機会に書くことになるだろう)。


 こうしてギラルドゥスは、その生涯において尊敬した古代ローマ人の博物誌家プリニウスにも負けない探究心で『アイルランド地誌』を完成させ、ヘンリー2世に捧げ、翌年の1188年にオックスフォードで3日間をかけて公表もした(ギラルドゥス自伝『功績』)。アイリッシュ海を隔ててすぐ隣に浮かぶアイルランド島に、人の心の奥底に響く、古謡と神話が生きていることを人々に知らしめた。

 彼は「異なるもの」への差別ではなく、「異なるもの」の発見への歓びを遺した。


 「他所からとり残されたかのような世界の隅のひとつ、最果てのアイルランドの地に思い及んだ。

[中略] 今まで誰も、この地について網羅的に調べてはいなかったのである」。


 「たいへんな苦労をし、砂浜から宝石を選び取り拾い出すようにして」「私はこの書物にまとめた」。「古来あまり知られていないその独自性を明らかにすること」を願い、この『アイルランド地誌』を書いたと。


◆「風」の言葉の秘術

 ギラルゥドゥスがその耳で捉えたもの。この地球上においてヨーロッパの辺境で護られてきたゲール語(ケルト語)は、(アングロ=サクソン人の言葉となる英語という)ゲルマン語派の言語とは異なる音/声を響かせる。

「土/タラフ/talamh、水/イシュケ/uisce、火/ティネ/tine、風/グィー/gaoth」。

 「シャン・ノース」の根源にある「悼(いた)み」は、ゲール語ならではの「地水火風」からいただく音の領域をもち、とりわけそれは「風」が吹き抜けるような音色をもっている。

 その響きは、アイルランドの古謡・詩歌の伝統に、ゆるぎない信心があることを告げている。自然界と祖霊たちのスピリットに、私たち生者の身心が包まれているという畏敬の念である。

 歌は「霊的な存在と人間の接触」を記憶していると告げている。

 いかにもオスカー・ワイルドは19世紀末のケルティック・リヴァイヴァル期に、「ヨーロッパで最初の詩人はドルイド(バルド)であった」といった。この島国が近現代のノーベル文学賞(詩・小説・戯曲等の)受賞最多の国として、今日に至っているのも偶然ではないかも知れない。

 そして20世紀末、東西冷戦の終わりにやってきた現代のケルティック・リヴァイヴァルにおいて彗星のように現れた歌姫エンヤの「ささやく」ような「気息」の歌唱は、「シャン・ノース」の伝統を多くの人々に思い起こさせた。

 だが今、世界を魅了している彼女だけではない。アイルランド・ゲール語の歌の復興者は、北部のドニゴール地方のみならず、西部のコナハト地方(コネマラが中心)、南部のマンスター地方(ケリー、コークなど)といった今日のゲールタハト(ゲール語使用地域)のどこからも輩出されている。古謡の様式の革袋に新しい酒を注ぐ活動は、「母語」復活のムーヴメントにも寄与している。

 1990年、私はエンヤの故郷グィドーで彼女に会いその声に接した27年後の2017年の夏、「シャン・ノース」が最も残る西部のコネマラ地方で、ひとりの若い女性の謡い手に会い聴かせて頂く機会に与った。その女性は日本でも放送されている番組「デ―プ・プラネット」にも登場した歌い手であることを知った。

 若者たちが発信する「シャン・ノース」が、この地球上で東西の1万kmも離れた東洋の日本人にも「懐かしく」感じられるのは、そのかそけき「生命の息」、「ささやき」を、私たちも聴き届けることができるからだろう。それは対岸の文化なのではなく、私たちが日本列島でも紡いできた、風や波の音/楽への逆照射でもあるからだ。


 生者が死者を慰める。だがそれ以上に、死者が生者を鼓舞するという、ケルトの万霊への畏敬が、西の極みの島国で歌われ、きょうも奏でられている。

 そこには、生命を包み鼓舞する、「癒しの秘術」が孕(はら)まれている。






参考:アイルランド 20世紀のケルティック・リヴァイヴァルの音楽・歌・ダンス


◆エンヤ The Celts


◆アラン島出身の歌手によるシャン・ノース


◆アイルランド人のエグザイルと「アメリカン・ウェイク」を表現したリヴァーダンス 1994年





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