◆読者のみなさまへ
始まりのメッセージ
「文明交流」から生まれた
永遠の宝としての神話と造形表象の探求
みなさん、こんにちは。
今日から始まる「ケルト神話のキャラクターたち-癒しの秘術」に、ようこそ!
📗「ケルト文化」&「ユーロ=アジア生命表象」研究者の筆者です。
2800年以上前に遡る、ヨーロッパの「古層」を今日に伝える、「ケルト」の叡知を、みなさんと共にサーフする連載。各回ここに蘇る、神話・伝説、歴史、芸術、現代のアニメまでに躍動する、ケルトの主人公たちと共に、「死からの再生」の奇跡を生む、「癒しの秘術」への旅を始めたいと思います。
📗「ケルト世界」を知るために、これまで筆者が探訪した地域は、西は「アイルランド」から、東は、この刻々もたくさんの人々が祖国を追われ命を落とす戦場と化してしまった「ウクライナ」までにわたっています。
なぜ「アイルランドからウクライナまで」なのか、といえば、「ヨーロッパの古層」である「ケルト」は、ヨーロッパから見て遥か東方にみえて実はすぐ隣接する、黒海の北岸や東岸に続く、「ユーラシア草原(ステップ)文化」から、数多くの神話や造形表現を受け容れてきたからです。
最もよく知られている、その「東西交流」は「アーサー王伝説」。アーサーが、人生の最後の闘いで負傷し瀕死の状況のなかで、「名剣エクスカリバー」を「自然界=湖の乙女に返却する」という結末。
これは黒海とカスピ海の間のコーカサス(カフカス)のオセット人の神話にも比較できるものです(鶴岡真弓「アーサー王伝説:石から抜かれた剣」:『ケルトの想像力』青土社、第5章)(図1:ビアズリー「 いかにベディヴィア卿は名剣エクスカリバーを水中に投げ込んだか」1894年)。
「ウクライナ」の地は、「黒土」の沃野で知られ、ユーラシア草原文化の要にあります。そこは「インド=ヨーロッパ語族」の故郷といわれ、先史においても、アジアとヨーロッパをつないでいました。
ケルト民族も、草原文明の雄であるスキタイ民族も、インド=ヨーロッパ語族の一員でした(図2:「クルガン仮説によるインド・ヨーロッパ語族の拡大例」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC)。
それは東西の文明が、対立していたのではなく、先史時代から豊かに「交流」し合い、お互いを育んでいった数千年の歴史を示しています。
いいかえれば「神話・伝説」や、美術・工芸などの「造形表象」も、私たち人間の行き交いと共に、「旅をしてきた」のです。「移動する」、「移動させる」人々がいなければ、それはいまここには、存在しない宝物である。そして何よりもそれらは、知られざる異境から「到来したもの」であるからこそ、「希望の物語」となってきたのでした。
📗かつて平和なとき、西ヨーロッパのケルト文化探訪につながる旅において、私は日本から人々を引率し、ウクライナも探訪しました。キーウ(キエフ)の「ウクライナ歴史文化財博物館」を案内して、ケルトとスキタイ美術に共通するの黄金の「トルク(首環)」の前で解説させて頂いた時空が蘇ります。
「トルク(首環)」とは、神々や英雄が身に着け、身体を流れる生気を護る「生命循環の御符」でした。キーウにあるこれらの黄金の宝物が戦禍で失われてしまうなら、人類がそれ取り戻すまでに更なる2800年以上の時を必要とするのです。
1日でも早く、平和が戻ることを祈りつつ、みなさんと共に連載の旅を始めたいと思います。宜しくお願い申し上げます。
鶴岡真弓
ケルト神話のキャラクターたち
癒しの秘術
➊
「ボグランド」の秘密
ムーア監督「ケルト・アニメ三部作」から
アイルランド修道院の外の「泥炭地」へ
鶴岡真弓
1.アニメ『ブレンダンとケルズの秘密』 受難を乗り越えた修道院
◆侵攻から生き残った「世界一の写本」
時は1200年前の初期中世。アイルランド北東部の修道院。
ブリテン諸島のケルト・キリスト教の修道院は、スカンジナヴィアから攻めて来るヴァイキングの侵攻に脅かされていた。
沿岸部も川岸もそして内陸まで「北の脅威」に晒され、スコットランドのアイオナでは数十名の修道僧が命を落としたと年代記は伝える。祈りと学芸のセンターとして大陸からも学僧が訪れてきたケルト・キリスト教の修道院は「要塞」となり、焼け出された人々の避難所ともなっていた。
しかし「ケルズの修道院」も、遂に猛火に包まれ破壊されていくのであった 。主人公の少年修道士の父も母も、度かさなる侵攻で亡くなっていた(図❶:猛火に包まれる修道院:『ブレンダンとケルズの秘密』より:配給:チャイルドフィルム/ミラクルヴォイス:「予告編」動画→下記「★1」参照のこと)。
しかしこの受難を、瀕死の人々を、キリスト教の神も、その陰になって森に生きていた異教ケルトの八百万の神々も、決して見捨てなかった。
その証に、猛火から救い出された一冊の聖書写本があった。
それは今日「世界で最も美しい写本」と呼ばれ、1200年前から受け継がれてきた、アイルランドの至宝『ケルズの書』である(図❷:ミーハン『ケルズの書』鶴岡真弓訳、創元社https://www.sogensha.co.jp/feature/celt.html)。
ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館に保存・展示されている『ケルズの書』は、世界中から「巡礼」の人々が訪れるほど有名な宝物である。それを「歴史/ヒストリー」から、万人に親しめるアニメ作品の「物語/ストーリー」に開き、更にそれを「普遍的な人類史の希望」のメッセージとして、世界に送り出したのは、アイルランドのトム・ムーア監督(1977年生)率いるアニメ制作集団「カートゥーン・サルーン」であった。
その作品こそ「ケルト・アニメ三部作」の記念碑的第一作として知られる『ブレンダンとケルズの秘密』(2009年)である(★1:動画「予告編」配給:チャイルドフィルムhttp://secretofkells.com/)。
◆「ケルト・アニメ三部作」の気骨
「世界一美しい聖書(福音書)写本」を戦火から救い出し遂に完成させる修道士を主人公とするこの物語は、いきなり第82回アカデミー長編アニメ映画賞にノミネートされた。
続く第二作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(2014年)と、第三作の『ウルフウォーカー』(2020年:動画「予告編」配給:チャイルドフィルムhttps://child-film.com/wolfwalkers/)がリリースされ、次々にワールドワイドなヒットを飛ばし、ジャンルを超えてファンからクリエーターまでに感動を与え今日に至っている(図❸『ブレンダンとケルズの秘密』ポスター:配給:チャイルドフィルム/ミラクルヴォイス)。
図❸ 配給:チャイルドフィルム/ミラクルヴォイス
日本の宮崎駿を敬愛するムーア監督率いる「カートゥーン・サルーン」の強みは、なんといっても、アイルランドに伝わる「ケルト文化」を、深く精確に、目と耳の歓びとして躍動させることにある。この三部作が「ケルト民話三部作」とも呼ばれるゆえんだ。
アニメといえど、実は『ブレンダンとケルズの秘密』は、ファンタジーではない。アイルランド北東部に今もある修道院に起こった受難の史実である。
主人公「少年僧ブレンダン」は、『ケルズの書』のマタイ福音書の中の、最も神々しい「キリストの頭文字」をケルト渦巻文様で表現した実在する「写字僧A」がモデルなのである。
アイルランドの受難はその後12世紀から20世紀半ばにわたるアングロ=サクソン人(イギリス)の支配によって、より厳しいものとなっていった。
3作目の『ウルフウォーカー』にはっきりと描かれたとおりだ。が、その被支配の歴史は、しかし、人々に生き貫く叡知とパワーを与えていったのだった。
アイルランドの伝統文化である「ケルト」は、古代の大陸時代からそれを経験し生き貫いてきた「前史」をもっていたからである。
国や土地や伝統文化とは、ただ何もせずとも自然に伝わっていくものではありえず、どんな困難にあっても諦めず離さず、そのバトンを、苗を、受け継ごうとする人間たち、人々による行動と再創造があって初めて生き延びることができる有機体なのだ。
「ケルト・アニメ三部作」は、中世以来800年にもわたる被支配にも負けず、文化伝統を守り抜いた地の、共同体の、「瀕死からの復活」をアニメーションという芸術ジャンルでは初めて描き出したのである。
◆修道院から森へ走る少年修道士
その文化伝統においてアイルランドの強みは、日本もそうだが、大宗教(仏教やキリスト教)が入ってくる以前に、既に数千年の積み上げがある、先史から堆積された文明文化の「古層」が豊かに記憶されていることにある。それがここでは「ケルト」の文化文明であることはいうまでもない。
たとえばアイルランド人なら誰でも身についているように、ムーア監督自身、少年の頃から、ケルト・キリスト教の歴史と、実際の修道院、その遺跡や宝物そして「聖人伝」までに親しんできただろう。
『ブレンダンとケルズの秘密』の舞台「ケルズ修道院」こそは、初期中世の5―6世紀にキリスト教へと共同体を導いた聖コルンバ(521- 597年:「コルム・キレ =教会の鳩」の意)ゆかりの聖地であった。今も石積みが温かいテクスチャーを醸し出す「聖コルンバの家」が残っており、アニメの石積みの表現もそこからインスピレーションを受けているだろう。
のみならずムーア監督は、この実在した最高の聖人コルンバの面影を『ブレンダンとケルズの秘密』の登場キャラクターの「布陣」において、こまやかに表現した。
『ケルズの書』の文字や装飾は、どのように書き描いたら最高に輝くものとなるのか、その秘術を伝授する老修道士エイダン。彼は『ケルズの書』を完成させるための「マジック・クリスタル」をヴァイキングの侵攻から守り続けてきたのだった。それから何よりも孤児となったブレンダンを厳しく育ててくれた叔父である当修道院長の佇まいにも、「祈りの人」コルンバの姿が二重写しになっている。
しかしムーア監督作品には複数の視点が常にあり、聖コルンバという存在をキリスト教文化の側からだけ捉えるのではなく、この「聖人」が、実はアイルランドの「ドルイドの家系」であったことも知っているだろう。一神教がこの島に入る前にあったケルトのアニミズムの自然観・死生観がコルンバの祈りと哲学の土台にあったことを、主人公の少年僧ブレンダンが体現しているようにみえる。
そうでなければ、ブレンダンの無謀な冒険そのものが構想され得ないし、そもそも修道院の壁いっぱいに、『ケルズの書』に描かれたドラゴンのような「動物文様」がアニメイトするシーンは表現され得ないからである。
その由緒あるケルズ修道院は、ヴァイキングの攻撃から人々と宝物を守るために要塞のような石造りになっている。しかしそれゆえに「やんちゃ」な少年ブレンダンは、その高い石壁を乗り越えて、「森」に行きたくて仕方がないのだ。そうしてある日、掟を破り、アイルランドの緑をいっそう濃くしている謎の森をめがけて、走り出すのだ。
表向きの理由は、写本を仕上げるために、オークの樹にだけ育つという幻の「黒インク原料=没食子(もっしょくし)」を求めに行くためだ(それはブナ科ナラ属の若枝の付け根に寄生する、インクタマバチが生じさせる虫こぶから採れ、古来インクの材料となってきた:前掲ポスターのシーンがそれである)。
しかしブレンダンの冒険は、この目的のためだけではなく、「森」は「異教ケルト」の「記憶」を遺す場所だと直観していたふしがある。
彼はまだ知らないけれど「森の奥の暗がり」には恐ろしい声と眼差しを閉じ込めた太古の石塚がある。そこにいるのは「魔物」なのか。それとも「追放された神々と精霊」なのか。
果たして、森に踏み込むと、そこに「門番」のように立ちはだかる「白き者」が現れ、ブレンダンと最初のバトルを繰り広げる。
さて、私たちは、今、ムーア監督に誘(いざな)われ、中世アイルランドに降り立った。そしてこの瞬間に、私たちは、ブレンダンから渡された、クリスタルのバトンを握らされ、知られざる「ケルトの奥へ」とジャンプすることになったのである。
案内役は、森の門番の「白き者」には及ばないが、筆者のアバターである「私」である。が、「私」は、ひとつの個体ではなく、ケルトの全史を往還する、複数でできあがっている。
2.絶海の孤島、修道院、そしてボグランドへ
◆「地の果て」に行く理由
日本から西へ1万km、ヨーロッパ文明の「古層」、ケルト文化を今日に伝える島国アイルランドに、今、みなさんはいる。
そこは日本でいえば北海道よりも少し大きいほどの8万4420 k㎡の島で、北東部は未だ「イギリス領」だが、南は1920年代に自治領=自由国となり、20世紀半ばに完全に独立したアイルランド共和国である。
アイルランドに降り立つということは、まず海風の歓迎を受けることだ。
アングロ=アイリッシュの作家ジョン・ミリントン・シングの紀行小説『アラン島』(1907年)の冒頭部のように。あるいはそれが霊感源となった、フラハティ監督による世界初のドキュメンタリー映画「アランの男」(1934年https://www.youtube.com/watch?v=NDwCAfS0I0s)の大西洋の大波に翻弄されるように、である(図❹:フラハティ―監督「Man of Aran」DVD表紙より)。
はたまた、首都ダブリンの空港に着くのがクリスマスの頃ならば、ジョイスの『死者たち』のエンディングの、あのしんしんと「全土に降りしきる雪」の洗礼を受けるように、である。
「私」がアイルランドに最初に住んだのは、40年以上前。謎の渦を巻きながら無限の反転を繰り返す「ケルト渦巻文様」の「造形の強度」に魅せられて、古代・中世・近現代までの時空に広がる「ケルト世界」を旅することとなった。
しかし、いまここで案内人を勝手に買って出る「私」は、予告のとおり1人の個体ではなく、ケルトの「秘数数3」にあやかり、トリアード(三重一体)のアバターとして現れる。
ある時はダブリン大学トリニティ・カレッジで学ぶ孤独な留学生(Avatar1)。またあるときは40代の芸術表象論を講じる京都の大学教師(Avatar2)。はたまたあるときは、アイルランド人にとって聖母マリアと同格に崇敬される聖ブリギッドを拝み続けてきた88歳のキルデア修道院の尼僧(Avatar3)でもある。
「私」が、留学中もその後もこのエメラルドの島に通い続けてきたのは、既述の圧倒的な「渦巻文様」の魔術性ゆえであるが、そこはなによりも「地上の果て」であったからである。
日本から1万km離れた「ヨーロッパの西の極み」、即ち(筆者の造語でいうところの)「<ユーロ=アジア世界>の果て」にある。
地球上で「極みの場所」はいくつもあるが、このケルトの島国は、地理上の果てである以上に、歴史の地政学と地勢学において「果て」とならざるを得ない困難を幾度も経験してきた国であった。
◆「いのちの果て」からの出発
アイルランドの国の色、ナショナル・カラーの「緑色」(三色国旗の一色)は、この島国の全土を覆う瑞々しい自然の恵みである。と同時に、100種類以上あるというグラデーションに揺れるグリーンには、それを踏みしめてきたアイリッシュ・ケルトの人々の抱いた「死生観」と「自然観」が出色している。
ここにヨーロッパ大陸からケルト語を話す人々が渡ってきたのは、今から2600-2300年前である(図❺:今日の「島のケルト」文化圏地図:緑色=アイルランド、青=スコットランド、赤=ウェールズ、黄色=コーンウォール、ベージュ=マン島、黒=ブルターニュhttps://en.wikipedia.org/wiki/File:Map_of_Celtic_Nations-flag_shades.svg)。
彼らが上陸したこの島の西の縁は、大西洋の荒浪に洗われる「崖っぷち」であり、数十万年かけて造形された荒々しい「モハーの崖」が奈落のように海に堕ちていく光景をみせていた。
その西の地方から、更に、アメリカ大陸に渡っていった近代の「アイルランド人移民」は「大飢饉」から生き延びようとした人々だった。19世紀の世界史に残る「ジャガイモ飢饉」(1845 - 49年)によって、大西洋を越えてアメリカ大陸に渡った人々は、小舟に身を託し、新天地をめざした。が、その船の多くは「棺桶船」と呼ばれた。
移民を送り出す歌は、「アメリカン・ウェイク」と呼ばれた。「ウェイクwake」には「目覚め」と同時に「通夜」の意味がある。彼らの船の多くはアトランティックの波に呑み込まれたのである。
アイルランドの被支配の歴史は、「いのちの果ての風景」として自然をも独特の形に造形してきた。強風の只中に立つ樹木をその風の形のままに変形させてしまうほどに厳しいものであった(図❻:風になびく樹木https://en.wikipedia.org/wiki/File:Windblown_trees,_Humphrey_Head_-_geograph.org.uk_-_48659.jpg)。
しかしだからこそ、この島国の中世から近代までを貫いた「歴史の果ての風景」が、筆者には人間を癒す不思議な力があると思えた。自分自身を含む、「闇から光」への手がかりがあるのではないかと、若い「私」には確信のように直観されたのだ。
その崖っぷちが、「私」を「根源から」癒してくれる「約束の地」(「ブレンダンの航海記」の主人公が目指した場所)であると思えた。その直観はこれを書いている40年後の「私」にも変わりなく信じられるのである。
「ケルト神話」に、「癒しの秘術」が秘められている。とすればそれはおそらく「トリスタンとイゾルデ」の騎士トリスタンのように、ケルトの思想には、予め人生は「喪失」と「死」と「負傷」から始まるという、「終わりからの始まり」の想像力があるからである。
「ケルト的思考」は、ゆえに奇跡を起す。そう思えるのは筆者だけではないだろう。
世界の「地理上の果て」であること、歴史においてもそこは中心ではなく、「周縁=エッジ」であったこと。その強い自覚が、神話という「叡知」となって輝き出すのである。
以上を踏まえたうえで、私たちは、アイルランド島に点在する、ブレンダンたち修道士が生きた、石造りの修道院への巡礼と研究の旅に出発するのである。
◆ケルト・キリスト修道士:絶海の孤島と巡礼の道
アイルランド中部のダロウから、北東部のケルズ、中部のクロンマックノイズから、アラン諸島のイニシ・モアまで、初期中世の修道院の探訪をかわきりに、ヨーロッパ最大の古墳のあるボイン渓谷から、大西洋の絶海の孤島の隠修士の聖地に至る地は、「私」が歩いてきた道程であった(図❼:絶海の孤島「スケリグ島」撮影=鶴岡真弓)。
図❼ ©Mayumi Tsuruoka
そのなかで「密かな我がテラス」とでもいえる場所のひとつは、大西洋からそそり立つ絶海の孤島「スケリグ・ヴィヒール」、その頂上近くの隠修士がこもった石室(ヴィーハイヴ・ハッチ)を一望できる「最も天国に近い」岩の上である。かつまた、眼下の荒浪を行く「トリスタンとイゾルデ」が運命の媚薬を飲み干した船が漂う、「ケルト海」を遠望する屹立する岩である。
吹きすさぶ崖に、巣をつくるパフィンの羽毛の震えは、この聖なる島にも起きた災難を思い出させる。ここで隠修士たちは祈りと学芸だけを営んでいたわけではなく、武器を取る戦う人ともならねば、ならなかった。
『イニスファーレン年代記』には823年にヴァイキングの侵攻が記録されている。ムーア監督が『ブレンダンとケルズの秘密』に描いた「ヴァイキング=ノースメン」の修道院への侵攻は、このスケリグ・ヴィヒールにも及んだのであった。命を落とした隠修士の「墓標」が1200年後の今日も海を睨んで立っているのである。
しかし一方で、この「果て」の島国には悲劇だけがあったわけではない。
アイルランドの本島には、晴れた日は、ふかふかの緑の絨毯が揺り籠のように、巡礼の魂を包み込む穏やかな聖地もある。
それはこの国で最も長い川、水色の船浮かぶシャノン川の岸辺。ケルト十字のかたちをした光が天から降り注いでいるクロンマックノイズ修道院である。この名は「ノースの息子たちの牧場」に由来し、創設は544年に聖人キアランによるものでとても古い(図❽:クロンマックノイズ修道院:撮影=鶴岡真弓)。
図❽ ©Mayumi Tsuruoka
境内には初期キリスト教時代の石板に線刻されたケルト十字が無数に並んでいた。それは奉納物でもあり、ここが当時から最も著名な巡礼地の一つであった証である。
この修道院の聖なる景色は、わが国では龍村仁監督のドキュメンタリー映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第1番」でも紹介された(https://www.youtube.com/watch?v=urx26ZmrLjs)。
縁あって案内役として出演したのは、アイルランドの歌姫エンヤと「私」であった。ケルト十字架の後ろに隠れては現れる、その不肖「私」は、拙い処女作『ケルト/装飾的思考』(筑摩書房)を書いた30代後半の研究者としてそこに帰ってきたのであった(図❾『ケルト/装飾的思考』)。
クロンマックノイズ修道院。ここも中世から近代までに平和ばかりがあったわけではなかった。
「名物」である林立する「ケルト十字架」と共に、石の「円塔/ラウンド・タワー」が岸辺に立っている。この歴史建造物こそ、ヴァイキングの襲撃の度に、修道士が聖書写本や聖具を抱えて避難した塔だった。
ところで「私」はフィールドワークを兼ねる巡礼を続けていたある夏の終わり、ブレンダン少年僧のように、この岸辺の修道院の敷地を出て、ミッドランドの自然を探索しようと、歩き出した。
何キロ、いや、何日歩いたのだろう。ある午後、ひとりのノーベル賞作家の名作(後述)に記されたイメージを借りれば、「ドラゴンの息が立ち昇る場所」に迷い込んだ。
それがアイルランド最大の「ボグランド」だった。
3.ボグランドの秘密
◆泥炭の恵み
アイルランドやスコットランドなどブリテン諸島のケルト文化圏には、他の北ヨーロッパの地域にも増して、「ボグランド」といわれる大小の「泥炭地」が横たわっている。それは実はこの緑の島に生きている太古の沼地、湿地。限りなく黒に近い「ジオ(geo=地球・土地・地下)」なのである。
日本語では「沼地」や「湿原」とも訳される酸性の泥炭。それは計り知れない時間に、土と草木(植物)、動物などの生と死が堆積し、水を含み、固まって広がる土壌だ。
「私」が踏み込んだのは、アイルランド最大のボグランドはアイルランド島の中央に広がる広大な高層湿原、「アレン泥炭地」だったのだ。
それは958k㎡に及ぶアイルランド最大のボグランド。リフィー川とシャノン川に挟まれ、前出のクロンマックノイズ修道院があるオファーリー、ミーズ、キルデア、ラウス、ウェストミーズなど複数の県(カウンティ)に広がっている(図❿:アレン泥炭地https://en.wikipedia.org/wiki/Bog_of_Allen)。
新石器時代に遡る遺跡が点在する、東部のボイン渓谷を造形してきたボイン川の源流を抱いている「土色の巨人」がこのボグランドなのだ。
ボグランド(略して「ボグ」)から採れる「ピート」(「ターフ」)は、あの琥珀色の飲み物、特にスコットランド名産のモルト・ウイスキー造りに欠かせない神秘的なマテリアルとしてまず有名だろう。麦芽をピートで燻(いぶ)し、ウイスキーにスモーキーな香りを与えるのである。
しかしボグから採れる泥炭は、それ以前に一般の人々の命を支えるライフラインの天然の燃料であった。
自然の恵みの泥炭がなければ、冬を越せない固形燃料であり、部屋を暖め、オーヴンにも、くべて、静かに燃える「土色の塊」に命が護られてきた。
父親と息子たちは、ケルト暦の「万霊節/サウィン」をルーツとするハロウィンの季節までに1年で最後のボグに入り、大きな羊羹のように直方体に切り取って納屋に運び備蓄した。それはアイルランドやスコットランドなど「島のケルト」の風物詩であり、ポール・ヘンリー(1876-1958)の絵の抒情がそれを証明している(図⓫:ポール・ヘンリー「ロバに乗る泥炭採りの少年」アイルランド国立絵画館蔵)。
友人ピーターの家の台所では母親のテレサさんが「聖人暦」が張ってあるキッチンで、バケツからその塊りを取り出しては、つぎ足して、火箸で加減をみながら、「今日の聖人」の話をしてくれたものだった。
ハロウィンの干しブドウがたっぷり入った供養のお菓子「バーンブラック」を焼くのも泥炭だった。クリスマスの翌日の「聖ステファノの日」のケルトの祭「ミソザザイの鳥の日」や、2月1日の春の始まりの「聖ブリギッドの祝日」にも暖炉にはターフがたっぷりと重ねられ燃えていた。
太陽の色はまだ薄い、春待つ季節は、特にそれは、視覚以上に「嗅覚」に深く浸入してくる。
「泥炭の薫り」は、異邦人の私にさえ、この島国に積み重ねられた、「見えない記憶」を呼び起こすようであった。なにか困難なことが押し寄せる度、それが人の「悲しみを燻(いぶ)して忘却させる」力があったのではないか。つまり限りなく深い土色の泥炭には、何か隠された秘密があると思えたのである。
そう、本題は、ここからなのだ。
「ボグランド/泥炭地」は、この国の歴史を歩んできた人々にとって、単なる炭化した野や沼ではなかったということである。
人間を暖め、琥珀の命の水を創造する自然の恵みを生む「ボグランド」は、ある深いメタファーをはらんできたのだった。
◆犠牲の埋葬地か、聖所か
「ボグランド」とは、人々にとって「記憶の場所」であった。
ダブリンのアイルランド国立博物館を訪ねてみれば、それがわかる。
ポール・ヘンリーの絵が回顧させる風物や風景よりもずっと古い、異邦人の「私」も嗅いだ「燻された過去」としての「根源」に遡る時間がそこに貌(かお)を出す。
博物館のガラスケースの中に、私たちは、何千年もの間、地下世界に生き、いにしえのままの姿で過去から蘇った、「ケルト時代の人々」に出会う。
2003年、クロンマックノイズ修道院のあるオファーリー県のデインジアン北方、クロウハン・ヒルから発掘された「オールド・クロウハン・マン」。それは鉄器時代、紀元前362年から前175年頃に亡くなった20代前半の若者と推測されている。
180cmの長身で、工芸的な革製の腕輪もしていた。その美的な出で立ちと体躯から、良い食べ物を食べることもできた階級の人間であるらしい。しかしあるアクシデントで断頭され、そこにそのまま埋葬されていたと推察されている。
考古学者や気候の統計学から、この若き王族は不幸にも、天候不順がもたらした飢饉の責任を取り、共同体の儀礼で犠牲とされたと。
発見された場所は、「ボグランド」であった。
この2400年前の人はケルトの鉄器時代に属している。人間ではなく、黄金の宝物が、まとまってボグから発見されるのも、ケルトの考古学的遺物の特徴なのだ。
国立博物館蔵の「黄金の宝物」の中に、明らかに実用に供するものではない、黄金の舟の模型や装身具がある。
更にまた「大陸のケルト」時代のものでは、デンマークから、知る人ぞ知る「ゴネストロップの大釜」(デンマーク国立博物館蔵、前1世紀)という、他に類例のない「豊饒のシンボル」としての大釜が「泥炭地」から発見された。
北方ヨーロッパの考古学において、他に比べるものがない豪華な銀99%の貴金属でつくられており、これも豊饒儀礼の祈りの場で用いられて埋納されたものと考えられている。
このように先史ケルトの特徴的な出土物の多くが、泥炭の下から発掘されていること、それは「ボグランド/泥炭地」が、「聖なる場所」であったという推測をもたらす。
実際、神話と民間伝承の両方で、その言い伝えは生きてきた。
いいかえると「ボグランド/泥炭地」は、古層の文化を引き継いできた人々にとって、単なる炭化した土壌ではなく、「記憶の宝庫」、より精確には、「秘密の埋納地」あるいは「記憶の埋葬地」でもあったのではないか。
では、それは、なぜだろうか。
もし「ボグ/泥炭地」が、死を以って綯(つぐな)う者や、その犠牲の贖罪によって、共同体が「新生」し、世界が救済されるという信心が具現される場所、つまり「聖所」であった、とすれば、それは、いにしえの人々の(そして今の難所を生きる私たちの)「いかなる観念と思い」が、背後にあったのであろうか、ということである。
◆秘密としての記憶
ここで、口を開く時を待っていた、「私」の第三のアバターが、ささやき始めるのである。
「ボグ」「泥炭地」は「沼地」でもある。それは21世紀の個人がハマる趣味の水溜まりなどを遥かに超える、厳かで、手ごわい、「見えざる場所」であり、そこには「巨大なもの」が隠され沈められていると。
私たち自身も含めた人類の知られざる「記憶」と「秘密」が沈められている場所。
だから長靴を履いていても、枝につかまっていても、ボグには入っては、ならない。枯れ枝や葉に覆われているがそれは、底なしの沼である。二度と上がってこれないこともある「魔の場所」でもあるからだと。
ようやく、ここに至り、私たちは、はからずも、アイルランドの「ボグランド」の風景に重なる、ブリテン本島の西の地域、ケルト文化圏のウェールズの地の神話・伝説、その初期中世を描こうとした、現代のノーベル賞作家の想念と、重要な交点をもつことになる。
「川や沼地には冷たい 霧が立ち込め、 当時まだこの土地に残っていた鬼たちの隠れ潜む場所にな
っていた。」
「姿は霧で見えなくても異形の者の荒々しい息遣いはいたるところから聞こえてきたはずだから。」
(カズオ・イシグロ 『忘れられた巨人』土屋政雄訳、早川書房、2015年)
この描写には、さきほど漸く口を開いた最高齢の尼僧であるアバターが話したケルト的「地勢」の魅惑と謎、その伝承のヴィジョンに響きあうものがある。
カズオ・イシグロは、日本出自であるゆえに、このヨーロッパ北西のブリテン諸島のいにしえに埋もれた何ものかを、嗅ぎ分ける嗅覚を、もとより授けられ、そこに降り立った作家であるといえる。
彼が住むブリテン本島、イギリスの風土と複雑な歴史への彼の鋭い嗅覚は、時代は違えど、正にトム・ムーア監督が躍動させた、中世の少年僧ブレンダンが、森の奥に直観し対峙する仕方に、限りなく近似している。
ブレンダンが森に迷い込んで、出会った、「白い妖精」は、森への侵入をかたくなに拒み、彼を追い返そうとしたのには大きな理由があった。
白い妖精は、無限の時間の中で、オークの森を護り抜いてきたが、更なる奥に潜む「石塚」は、数千年を生きて「隠れている巨人」の吐く霧で黒く覆われていた。その地下はボグランドにつながっているにちがいない(図⓬:渦巻文様の巨石、ニューグレンジ古墳、撮影=鶴岡真弓)。
図⓬ ©Mayumi Tsuruoka
◆ハシバミの問い
アイルランドのボグランド。それはカズオ・イシグロがみつめたウェールズの故地と同様に、運命としての歴史が生んだ「善悪の彼岸」を破壊あるいは修復しようとする「巨竜たちの闘い」の古層をはらんでいる。そしてその地層は、現代の私たちの明るい闇を照らし出す。
果たして、私たち現代人こそは、すべてを手にできる歴史の最先端にいると思い込んできたが、はからずもその異形の生きものを自在に飼いならし、魔物に育ててきた当事者なのではないだろうか。
争い・侵攻・殺戮を止めない人類史において、その無力を一掃できる、最高の叡知から最も遠い所に来てしまったのが、私たちではないか。
「歴史」とは「現在」とは「未来」とはなにか。答えることは難しい。
ただしひとつの希望が、「ケルト神話」に残されている。
この瞬間にも、アイルランドの「ボグランド」、湿地、沼に、降り注ぐものがある。
それは、ブレンダン少年のような利発で冒険好きの「フィンの少年時代」という神話に語られてきた「ハシバミの実」のことである。
世界が出来たとき、最初にその樹が生まれ、聖樹となった。ハシバミの実は「知恵の実」であった。その実を食べるのが鮭であり、「知恵の鮭」にフィンは出会うのだ。
即ちドルイドのもとで修業していた少年フィンは、その実を食べた鮭を調理中、火傷し、指を口に含んで、知恵を得た(図⓭:アイルランドの切手よりhttp://explore.blarney.com/salmon-of-knowledge/ Image Source: writingsinrhyme.com)。
その「知恵」は未来への知恵である。と同時に、「記憶」という叡知であった。
今こそ、私たちが、「忘れられた巨人」の埋まる「ボグ」の地層に戻り、その実に詰まった叡知を探す旅に出発することを、アイルランドの「果て」から吹く「ケルトの風」が促している。
🔴図版出典:参考文献
『ブレンダンとケルズの秘密』配給:チャイルドフィルム/ミラクルヴォイス
バーナード・ミーハン『ケルズの書』鶴岡真弓訳、創元社
鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』筑摩書房・ちくま学芸文庫
鶴岡真弓・松村一男『図説ケルトの歴史』河出書房新社
鶴岡真弓『ケルトの想像力:歴史・神話・芸術』青土社
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