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島々の精神史 第6回

全裸の島


辻 信行


 全裸の島、と聞いてなにを想起されるだろうか? 往年の映画ファンなら、新藤兼人監督の『裸の島』(1960年公開)を思い出されるかもしれない。瀬戸内海の宿禰島でロケがおこなわれ、孤島で自給自足しながら生活している設定の一家を、セリフを排したモノクロの力強い映像で描いている。第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを獲得した名作である。


 離島の民俗や宗教に関心のある方なら、沖ノ島のことを彷彿されるかもしれない。福岡県宗像市の沖合約60kmに位置するこの島は、宗像大社沖津宮を擁し、島全体がご神体となっている。普段は一般の立ち入りが禁じられているものの、年に一度、5月27日の現地大祭のときだけ、抽選で選ばれた約250人の男性が入島を許される。ただし、裸になって禊をしなければならない。


 宗教哲学者の鎌田東二先生は、2010年、沖ノ島に渡島した。鎌田先生はフンドシ一丁で禊をするのには慣れているが、全裸になっておこなうのは非日常だったようだ。禊をしてスッポンポンでホラ貝を吹いていると、参拝団のおじさんから、「ホラ貝さん、一枚写真撮らせて」と頼まれた。一枚だけならと応じたところ、われもわれもと、参拝団のおじさんたちが寄ってきて、さながら全裸写真の撮影大会が始まりそうになった。「わたしは見世物ではありません!」と厳しく言い放ち、事なきを得たらしい。


 しかしながら、「鎌田東二の全裸ホラ貝写真」は、少なくとも最初のおじさんによって1枚は撮影されたわけである。当時、京都大学教授であった鎌田先生が、いまや世界遺産となった沖ノ島でフルチンでホラ貝を吹いている写真であるから、大変なプレミアものであるだろう(一連の出来事については、鎌田東二「シンとトニーのムーンサルトレター 第63信」に詳しい)。


 さて、前置きが長くなってしまったが、これから書こうとしているのは、宿禰島でも沖ノ島のことでもない。とにかくこの島、というか、この地域に行くことについて逡巡しているうちに、14年も経ってしまった。そこに行くと心が丸裸にされるような気がして、なにか毅然とした覚悟のようなものを求められる気がしていたのだ。


 大学1年生のときに履修した「倫理学」の講義で、細谷孝先生から水俣の話を聞いた。それがきっかけで水俣に興味を持ったが、知れば知るほど気が重くなった。細谷先生は熊本県外で水俣病事件にテーマを絞った大学の正規授業を初めて開講した人である(中央大学の総合講座「MINAMATA」)。いまから思えば、聴講だけでもしておけば良かったと悔やまれる。


 しかし、NPO法人東京自由大学に関わるようになって、ふたたび目の前に水俣があらわれた。自由大を設立した前出の鎌田東二先生は、年々、石牟礼道子への傾倒を深め、ついに念願かなって最晩年の本人と対談が実現した。このときの文字起こしデータを、わざわざぼくに送ってきてくれた。また、自由大は石牟礼道子の追悼シンポジウムをおこない、そこには一般財団法人水俣病センター相思社の遠藤邦夫さんや、水俣病資料館語り部の会の吉永理巳子さんを水俣からお招きした。


 だんだん水俣に行くモチベーションが高まってきたところでコロナ禍が始まり、ふたたび保留になったが、とうとう2022年11月、機が熟した(一緒に行ったうちの一人、写真家の岡庭璃子さんが「なぎさ」で水俣について書いてくれているので、ぜひそちらもお読みください )。ここでは水俣の対岸・御所浦島でのことを少しばかり綴ってみたい。


 相思社常務理事の永野三智さんにお会いして水俣病歴史考証館で解説していただいた後、水俣港から船に乗って御所浦島に渡ることにした。水俣から定期航路(海上タクシー)でもっとも行きやすい島であり、水俣を対岸から見つめてみたかったのだ。


 事前に永野さんが送ってくれた水俣と御所浦島の海の写真は対照的だった。水俣は青く澄んで静謐だが、御所浦島は緑が深く波が立ってにぎやかだ。永野さんによると、それは人の性格にも通じているように感じるという。40分ほどで御所浦島に着き、まずは腹ごしらえをすることにした。港からほど近い食堂に入り、メニューを眺める。水俣に来てから、魚の食事が続いていた。そろそろもう一つの名物、水俣チャンポンを食べてみようという気になった(御所浦島は天草市だけれども……)。オーダーした後で、食堂のおばちゃんが話しかけてくれた。


 「あんた、どこから来たの?」

 「東京から来ました」

 「そう。観光かい?」

 「そんなとこですね。午前中は相思社の考証館を見学してました」

 「水俣病のことを勉強してるわけ?」

 「まぁ、ちょっとだけ……」

 「あんた、水俣病の勉強してるのに、なんで魚食べないの?」

 

 これには困った。「チャンポンが食べたかったから……」などと小声でモゴモゴ言ったものの、果たしてなんと答えるべきだったろうか。「魚の食事が続いて飽きちゃって」とか、「魚の定食はちょっと時間かかりますよね」といった率直な理由を言えるような雰囲気ではなかった。店主夫妻がこちらを見つめる目には、きわめて鋭い意思がこもっていた。「ここの魚を食べてもいまはメチル水銀の影響がないことを学んだばかりなのに、なぜ魚を食べることを避けるのか?」と。


 「それは誤解ですよ」と言いたいところである。水俣に滞在中、ぼくはコノシロの刺身にせよ太刀魚の天ぷらにせよ、さまざまな魚料理を積極的に食べるようにしていた。しかし胸に手を当てて考えてみると、ここでの「積極的」というのは、「消極的」と紙一重であるかもしれない。つまり自らをなんとか奮い立たせて食べていただけで、無意識の領域ではどことなく避けようとする気持ちがあったのではないか。それを御所浦島の食堂で、ものの見事に見抜かれてしまったと考えるのは、必ずしも深読みではないだろう。「お前は何を学んだのか? お前は学んだことをどう行動に移すのか?」という問いを突き付けられているように感じた。


 なんとなく気まずい雰囲気のままチャンポンを食べ終え、食堂を出て御所浦島の烏峠に登る。対岸の水俣、そして近隣の美しい多島海の風景は、見渡す限り、かつて水俣病の被害にあった地域である。そしていまや恐竜の化石で知られるようになった御所浦島であるものの、この島で採掘された土砂は、沖縄・辺野古の米軍基地建設の埋め立てに使われている。


 水俣病事件の被害地域から見えてくる日本の姿、人間の姿、この世の姿というものがある。それは必ずしも絶望ばかりではないものの、御所浦島では自らの心が丸裸にされ、その卑小さをまざまざと見せつけられることとなった。業深き人間が招いた水俣病事件に向き合うとき、見えてくるのは業深き人間としての自分そのものである。水俣病の患者として加害側と闘う緒方正人さんが、あるとき言い放った「チッソは私であった」という言葉が、ざらついた気持ちと共に思い起こされる。自分もまた、悪業の限りを尽くせる人間の一味であり、そこから改悛して立ち直ろうとする人間性をも有しているのではないか。


 石牟礼道子は言っている。「ここは、選ばれた聖地であり荒野である。(...)生きている聖地には毒と血がながされる。(...)そして人は、おのが中身に見合った外貌をつけ秘蹟の地にあらわれる」。(石牟礼道子「現代の荒野から」)


 ぼくがふたたびこの地を訪れるとき、そこにどのような自分自身を見出すこととなるのだろうか。


御所浦島の烏峠より

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