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奥歯からオペラが聞こえる 第23回

  • 中村昇
  • 4 日前
  • 読了時間: 13分

中村昇

<卵>=「器官なき身体」


 これまでにも、しばしば「器官なき身体」という語がでてきた。今回は、この語について、少しじっくり考えてみよう。この語は、もともとアントナン・アルトーが使った語だ。その語を、ドゥルーズ=ガタリが、鋳なおして、とてつもなく豊饒な概念にした。その新しく創造されたともいえる、ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」について見てみよう。

 ドゥルーズとガタリは、二人で書いたにもかかわらず、そもそも書物というのは、誰かがその人の手で書けるものではないという。

 ドゥルーズ=ガタリは、つぎのように言う。『千のプラトー』の冒頭だ。


われわれは『アンチ・オイディプス』を二人で書いた。二人それぞれが数人であったから、それだけでもう多数になっていたわけだ。そこでいちばん手近なものからいちばん遠くにあるものまで、なんでも手あたりしだいに利用した。(中略)われわれはもはやわれわれ自身ではない。それぞれが自分なりの同志と知り合うことになる。われわれは援助され、吸いこまれ、多数化されたのである。(『千のプラトー』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ、宇野邦一他訳、河出書房新社、1994年、15頁、地の文との兼ね合いなどにより、一部文言を改変した)


 土方巽のなかに、姉が本当に住んでいるように、土方自身がそのまま「私の少年」であるように、主体や自己や私は、ぽつんと一人で佇んでいるのではなく、切り刻まれ増殖し、多数の「われわれ」になり、「もろもろ」になってうごめく。どこにも統一された「もの」や「こと」などなく、何もかもが、多数の関係群によって、多くの背後霊たちによって流動し、生成変化していく。

 本を書くというのも、同じことだ。一人で書いているとしても、さまざまな思想や言葉や記憶や印象が、そこに侵入してくる。侵入してくるというより、最初から、そういうものとして「一人」は存在している。思考は、始原から乗っ取られ、複数の他者たちが、その人の大脳を経由して表舞台に登場してくるだけ。他者という多様体だけが、思考し書いている、とも言えるだろう。

だから、


本とはそのようなアレンジメントであり、そのようなものとして、何ものにも帰属しえない。それは一個の多様体なのだ―とはいえ<多>が、もはや何にも帰属しえないとき、つまり実詞の身分にまで高められるとき、何をもたらすか、まだわかっていない。機械状アレンジメントは地層の方へ向けられており、地層はこのアレンジメントをおそらく一種の有機体に、あるいは意味作用を行なう一個の全体に、あるいは一個の主体に帰属しうるひとつの限定にしてしまう。しかしこのアレンジメントはまた器官なき身体の方へも向けられており、こちらはたえず有機体を解体し、意味作用のない微粒子群、つまり純粋な強度を通わせ循環させ、それらの主体には強度の痕跡としての一個の名だけを残す。一冊の本の器官なき身体とは何か?(同書、15-16頁)


 本というアレンジメント(agencement)は、多様体であり、その方向は、二つあるという。地層を形成し、有機体になり、意味作用をおこなう全体、つまり主体になるという方向。しかし同時に、有機体を破砕し、意味を微粒子に解体し、強度の流れだけを現出させる方向もある。つまり、「器官なき身体」への道だ。

 それでは、あらためて「器官なき身体」とは、何か。

 ドゥルーズ=ガタリは、樹木的なあり方(ツリー)と地下茎的なあり方(リゾーム)とを分ける。地層を形成し、有機体になり、有意味な全体(主体)となる方向と「器官なき身体」への方向とに分けるのだ。


樹木はすでに世界のイマージュである、あるいは根は世界としての樹木のイマージュである。それは、有機的、意味作用的、主体的な(これは本の諸地層である)美しき内面性としての、古典的な本である。(中略)イマージュとしての<樹木>または<根>は、<一>が二になり、ついで二が四になる……という法則をたえず発展させる。二元的論理は根としての樹木の精神的現実をなす。(同書、17頁)


 樹木としての本は、二元的論理を根とし、全体としての高い統一性を目指し、垂直に屹立しようとする。いくつもの層をなし、ヒエラルキーを形成し、二元的論理を根柢にして、高層樹木群をかたちづくるのだ。

 しかし、リゾームはちがう。


地下の茎としてのリゾームは根や側根から絶対的に区別される。球根や塊茎はリゾームである。根ないし側根をもつ植物も、まったく別の観点からリゾーム状でありうる(中略)動物でさえ、その群れをなす状態においてはリゾームであって、ねずみはまさにリゾームである。また巣穴がそうだ、住居、食料貯蔵、移動、非難、切断といったあらゆる機能によって。リゾームそのものが四方八方に分岐したその表面の拡張から、球根や塊茎としての凝結まで実にさまざまな形をしている。(同書、19頁)


 リゾームは、あらゆる方向に分岐しつづけ、さまざまな球根や塊茎を形成していく。つねにカオス的に無数に無限に生成変化していくのだ。

 つぎのようにも言う。


リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合されうるし、接合されるべきものである。これは一つの点、一つの秩序を固定する樹木ないし根とはたいへん違うところだ。(同書、19頁)


 これは、多様性そのものであり、いかなる統一もそこにはない。そして、この多様性は、他のさまざまな点とつぎつぎと接合していく。多様体は、その微細な関係を、さらに複雑にしつづけるのである。そして、そこには二元的論理などは一切なく、無秩序に乱雑に関係性は入り乱れている。


多様体はリゾーム状であり、樹木上の擬似多様体を告発する。客体において軸の役目を果たす統一性はなく、主体において分割される統一性もない。たとえ客体において中断し、主体のなかに「回帰する」ことを目指すだけのものであっても、とにかく統一性はない。多様体には主体もなければ客体もなく、たださまざまな限定や、大きさや、次元があるだけで、そうしたものはこの多様体が性質を変えないかぎり成長しえないのだ。(同書、20頁)


 蟻のカオス的集合や、蜜蜂と蘭との関係など、さまざまな動物や植物の生成変化は、複雑で多様なリゾームをなしている。


蟻を相手にしていると際限がないのは、それが動物的リゾームを形作っていて、その大部分が破壊されてもたえず再形成されるからである。(同書、22頁)

蜜蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしているのである。(同書、22頁)


 リゾームは、モデル化したり、系統樹をつくったりはできない。予想もつかない、そのつどそのつどのカオス的変容をしつづける多様体なのである。まったく手に負えない暴れつづける流れそのものだと言えるだろう。


一つのリゾームは構造的または生成的な、いかなるモデルにも依存しない。リゾームは生成軸とか深層構造といった観念とはおよそ無縁である。(同書、24頁)


 構造もなく見取り図もない生成変化、これがリゾームなのだ。このようなリゾーム状のあり方をしているのが、「器官なき身体」なのである。そして、ドゥルーズ=ガタリによれば、「器官なき身体」こそ、われわれの真のあり方であり、世界の存在そのものの様態だと言えるだろう。


人は問う、「器官なき身体」とはいったい何なのかと―だが、虫けらのように地を匍い、盲人のように手探りし、砂漠の旅人や大草原の遊牧民や、狂人のようにさまようとき、人はもう器官なき身体の上にいる。その上でこそ、われわれは眠り、夜を明かし、戦い、戦いに勝ち、戦いに敗れる。(同書、173頁)


 虫けらや盲人や砂漠の民や狂人のようにふるまうとき、それこそ器官なき身体の振舞いだとドゥルーズ=ガタリは言う。しかし、器官なき身体は、「到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近しつづけるだけ、それは一つの極限」(同書、173頁)なのである。われわれ身体の一つの極限、つまりは「命がけで突っ立った死体」とでも言えるものなのだ。死体という極限に向かいつづける、器官をもたない身体なのである。

 あるいは、つぎのような言いかたもする。


見るための眼、呼吸するための肺、飲みこむための口、話すための舌、考えるための脳、肛門、喉頭、頭、足を、もはや耐えがたいものと感ずることは、なぜそんなに悲惨で危険なことなのか。なぜ、さか立ちで歩き、骨のくぼみで歌い、皮膚で見、腹で呼吸しないのか。(同書、174頁)


 「~のため」などというあり方とは絶縁した身体器官、有用性などとは金輪際関係をもたないオルガンどもの振舞いこそ、「器官なき身体」の世界だというわけだろう。これは、まさに土方巽の圏域だと言えるのではないか。

 そして、ドゥルーズ=ガタリは、この「器官なき身体」を「卵」だと言う。


物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体(オルガニスム)の成長以前、器官(オルガヌ)の組織(オルガニザシオン)以前、また地層の形成以前の満ちた卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるものであり、副次的形態にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能するからだ。(同書、177頁)


 「器官なき身体」は「卵」なのだ。有機体の器官になる前の渦巻くエネルギー状態。「力学的な傾向」や「運動学的な動きや移行」の渾沌としたカオスこそ、<卵>であり、それはとりもなおさず「器官なき身体」なのである。

 だからこそ、「器官なき身体」の定義(必要十分条件)は、ドゥルーズ=ガタリによれば、つぎのようなものになる。


器官なき身体は卵である。卵はしかし退行を示すものではない。それどころか、卵はまさに現在であり、人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境としてかかえている。卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない。生産の原理としての強度ゼロである。(中略)つまり卵は、いつもこの強度的現実を示していて決して未分化ではなく、このなかでは物や器官が、ただ勾配や移動や、近傍域によってのみ区別されるのだ。卵は器官なき身体である。(同書、188頁)


 さて、このような「器官なき身体=卵」は、『病める舞姫』に登場するのだろうか。いやいや、その前に「卵」と言えば、この詩を引用しないわけにはいかないだろう。



神も不在の時

いきているものの影もなく

死の臭いものぼらぬ

深い虚脱の夏の正午

密集した圏内から

雲のごときものを引き裂き

粘質のものを氾濫させ

森閑とした場所に

うまれたものがある

ひとつの生を暗示したものがある

塵と光りにみがかれた

一個の卵が大地を占めている


(『吉岡実詩集』現代詩文庫14、思潮社、12頁)


 まさに、この詩には、ドゥルーズ=ガタリの言う「器官なき身体=卵」が充溢していると言えるだろう。

 神は有機的世界や統一的全体や垂直軸の象徴であり、その不在はまさに、「器官なき身体」のカオスである。だからといって、死や無が支配しているわけでもない。なぜなら、器官なき身体とは卵だからである。「いきている」こともなく「死の臭い」もない、純粋な傾向性だけのエネルギーが満ちているだけだから。「密集した圏内から雲のごとき」エネルギーを「引き裂き」、卵白という「粘質のものを氾濫させ」、潜在状態(「森閑とした場所」)で、卵は「うまれた」。「ひとつの生(器官なき身体)を暗示したもの」でありながら、それは、大地を占める「一個の卵」にすぎない。つまり、一つの極限にすぎないのだ。

 そして、詩人・吉岡実を、土方巽も、また「卵」で讃える。

 土方は、つぎのように言う。


比類のない凄惨な眼球によって詩刑に処せられるものは、剥製にされた光りの間に置かれる音楽や絵の器であり、身ぐるみ剥がれる万象の姿態から、その始まり、その羞恥にまで及んでいる。蒸留される幻もここでは硬く艶やかである。一挙の超越が切り結ぶ実像がここに置かれて、一切の狼藉は跡かたもない言葉の輝く卵である。(同書、裏表紙)


 やはり吉岡は、<卵>という未分化のエネルギーに敏感に反応し、そのカオスをそのまま造型しようとした詩人だったと言えるだろう。そして、その詩人に、深く共感し、吉岡実の可能性の中心を射抜き、「卵」という概念によって讃迎したのが、「器官なき身体=土方巽」だったのだ。

 ところで、『病める舞姫』には、「卵」は、登場しているのだろうか。二か所だけ、顔をだしている。


彼女の口の大きな不気味さから目をそらして、自分を見ていない目玉を感じながら、剃らないために残っている顔の産毛に安心したりしている。魂はそういうところに隠れていて、どんな頭の中の目玉でもすぐ見えるようにはできていないのだろう。だがいつになったら自然な状態で茹で卵の皮を丹念に剥けるように振る舞える男になれるのか。(『病める舞姫』14-15頁)


 顔の産毛に、魂が隠れているから、頭の中の目玉では決して見ることはできない。頭の中と目玉とは、それぞれ器官としては別々なのに分岐せず融合した状態で、産毛のなかに隠れている魂を発見できないと言っている。でも、問題は、魂や顔の産毛ではなく、茹で卵の皮(殻ではなく)を丹念に丁寧に剥けるようになれるかということだという。あるいは、正確に言うと、「丹念に剥けるように振る舞える男」になれるかということだという。ちゃんと「丹念に剥ける」ことは、さほど問題ではないのかもしれない。

 あのどこまでも薄く、すぐに目の前から消えてしまう皮を丹念に剥くことがとてつもなく困難な作業であることを知りながら、そのように振る舞えることを目指しているのだ。この卵は、もしかしたら「器官なき身体」と言えるのかもしれない。「器官なき身体」が悪しき有機体へと、つまり「器官ある身体」へと変容することのないように、卵を卵のまま、潜在エネルギーを顕在化させることなく、丹念に剥いていかなければならないというのだから。白くほかほかの卵が、その「男」によって生成変化しつづけられるのかどうかの瀬戸際なのだ。

 二つ目の卵は、「私の少年」と一緒に登場する。


未発達の霊の働きによってか、空中で燃えている無花果の砂糖漬、その壺のせいでか。私の向こう側で嵌め込まれたような動物になって、私の少年は私を不審そうに覗き返しているようだ。この竹製の蛇のまわりに私が死んだ直後に眺めるであろうと思われる花も咲いているが、気味の悪い斑点のついた小さな卵も足許に転がっている。誰も彼を助けてくれることのできないという不思議な話が棲んでいる処に、その少年と卵は不思議な声使いの人影を待っているかのようだ。(同書、116頁)


 何の話をしているのか皆目わからない。発達途上でなくとも霊の働きは玄妙であるのに、なぜ「未発達」なのか。そして、そのことが、どのようにしてわかるのか。「未発達」であることも、「霊の働き」であることも。無花果の砂糖漬が燃えている、しかもそれが入っている壺が空中に浮かびながら燃えているのだ。何という面妖な。

 「私の向こう側で」という副詞句は、いったい、どこにかかっているのか。「嵌め込まれた」にかかるのか「覗き返している」にかかるのか。私の向こう側に、動物や何もかもを嵌め込むような空間があるのか、これも中空に浮かんでいるのか。「私の少年」は、私と分裂して、しかも「動物」に生成変化しているのだろうか。

 「私が死んだ直後に眺めるであろうと思われる花」というからには、私は、おのれが死ぬ場所を予想できているのだろうか。それは、どのようにしてなのか。そのような花につつまれ、竹製の蛇といっしょに、小さな卵が転がっているのだ。あらゆる事態が中途半端で(未発達、空中、燃える、向こう側、竹製)、どこにも固定点や定点のない卵状態(有機体未満の「器官なき身体」)があるということだろう。

 「誰も彼を助けてくれることのできない」と言うときの「彼」は、「私の少年」なのか「卵」なのか。「不思議な話が棲んでいる処」というのは、どういうところなのだろうか。アパートに、いろいろな種類の話がひしめきあって住んでいるのか。それとも、「不思議な話」だけが住む大邸宅なのだろうか。

 さらにとどめを刺すのが、「声使いの人影」だ。これは、何者なのか。しかも、この「人影」は、いまだに現れず、少年と卵によって待たれているのだ。このあとも、「人影」は現われず、正体不明のまま消えていく。何もかもが渦をつくり、不定形で、気体状態で、凝固することなく延々とつづいていく。

 これこそ「卵=器官なき身体」状態と言えるのではないか。われわれは、恒常的に何物にも何者にもなることはできない。有機体以前・無機物以上の途上存在だということになるだろう。この世界では、何もかもが途中からはじまり、道半ばですべては終わるのだから。

 ようするに、われわれは、生成変化している無数の<卵>なのだ。

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