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凪のめぐる 第5回

椿の井戸

岡庭璃子



魂は一人ひとつのからだに収まって、その体から抜け出すことはない。

わたしがその人に起きた事実を知ることはできるけれど、わたしがその人になることはできない。

人の痛みは人のもので、自分の痛みは自分のものなのだ。

目の前にいる大切な人が病や偏見で苦しんでいる時にも、その身代わりに痛みを受け取ることはできず、できることといえば、そばで寄り添い続けることだけなのだ。


自分の痛みすら自分のものにならない場合もある。

水俣病*は脳の組織が破壊されていく病である。視野が狭くなり、手指や足先の感覚も無くなっていく。知覚は徐々に失われていくため初期症状を自覚することは難しい。少しずつ人や物にぶつかることが増え、痛みや熱さには鈍感になり、怪我をしてもわからないことさえある。重度の症状になると身体の自由は奪われ、言葉を発することも困難になる。病の影響はわれわれの知覚の脆さの輪郭を浮き上がらせる。水俣病発生当時は、原因が分からず「奇病」と呼ばれた。発病し、目に見える形で症状がでてくると近隣の人からは避けられ、井戸の水すら汲めない差別を受けた。病と同じくらい人々の偏見は痛みを伴う。現在でも水俣では水俣病の話はタブーとされ、未だに水俣病だと公言できない人もいる。


2022年11月某日。東京自由大学の辻信行さんから誘いを受けて水俣へ。多すぎる病院、できたばかりの薬局、時の流れが止まったように錆びついた看板が軒を連ねる商店街の大通り。水俣駅の目の前には、未だ変わりなくチッソ工場が煙を上げ、その景色といえば本や資料の中に紛れ込んだようで、なんだか夢の中にいる心地がした。


翌日、地元の案内人の遠藤邦夫さんに水俣を案内してもらう。湯堂漁港の目の前に広がる不知火海は穏やかな紺碧。海底の湧き水によって海面に描かれる”ゆうひら”に反射する陽気な光。冷水水源の透き通った水面に映る豊かな緑。茂道の棚田の蜜柑は優しいオレンジ色だ。しかし、そうやっていくら言葉にしてみても、描き切れない水俣の風景が理解を超え、わたしの無意識の中にある懐かしさや悲しさに直接話しかけてくる。


『苦海浄土』(石牟礼道子著)に出てくる椿の井戸を見に湯堂漁港の近くの空き地にいく。しかし、井戸がなくなったのか、それとも遠藤さんがその場所を思い違いしているのか、いくら探しても井戸は見つからない。井戸があるはずの場所には土嚢が積まれ、痕跡もない。井戸を探している遠藤さんの後ろ姿を少し遠目に、「そこにあるはずのものがない」という出来事が、わたしの無意識の領域にある記憶や感情を強く意識させた。実際には見たことのない井戸にも関わらず、わたしの記憶の中に、心の中に、はっきりと井戸があったのだ。


誰かの経験した風景やその時の感情に憶いを巡らせると、それらが無意識の中で自分の経験や記憶のように再生されることがある。心の中にだけ存在する空白の土地。わたしに水俣の人々の痛みを知覚することはできないが、記憶の中にある空白の土地の中であれば、その時だけは一緒に息をすることができるような気がした。抜け出せない一つの体に収まる魂もこの椿の井戸がある世界では自由だ。私の悲しみもこの世界の中では自由になり、誰かの痛みと共に解放される。現実には存在しないその土地を彷徨う感覚に私の魂が救われる気がしたのだ。




“ここらあたりは,海の底にも,泉が湧くのである。

今は使わない水の底に,井戸のゴリが,椿の花や,舟釘の形をして累々と沈んでいた。井戸の上の崖から,樹齢も定かならぬ椿の古樹が,うち重なりながら,洗場や,その前の広場をおおっていた。黒々とした葉や,まがりくねってのびている枝は,その根に割れた岩を抱き,年老いた精をはなっていて,その下蔭はいつも涼しく,ひっそりとしていた。井戸も椿も,おのれの歳月のみならず,この村のよわいを語っていた。”


椿の海 —石牟礼道子 著—苦海浄土—わが水俣病より











 

*メチル水銀化合物を含んだ魚介類を人間が摂取することによって脳の中枢神経に疾患をもたらす病。1932年、新日本窒素肥料(株)が水銀を触媒としたアセトアルデヒド工程の稼働を開始。排水に含まれるメチル水銀は、海の中でヘドロとなり、プランクトン、小さい魚、大きい魚へと食物連鎖を通じて高濃度になってゆく。1940年代初頭から原因不明の病気の患者が発生し始め、1956年、新日本窒素肥料(株)水俣工場附属病院が原因不明の病気について保健所へ届けを出す。1962年には胎児性患者16名を水俣病として認定した。1968年には新日本窒素肥料(株)がアセトアルデヒド製造を停止し、政府が水俣病を公害認定する。高度経済成長の中で新日本窒素肥料(株)の非を認め、工場の責任を認めることは日本政府にとっても不都合であり、62年に水俣病が認められているにも関わらず不知火海の漁獲禁止をしなかった背景には当時の日本の行政の怠慢や社会の利益至上主義の影響がある。その後も患者と政府の補助や認定に関する裁判は続き、水俣病の問題は未だ解決には至っていない。また、その影響は水俣市だけでなく、天草市の御所浦島など不知火海一帯に広がっている。2022年においても胎児性水俣病の子供の代(30〜40代)の中で、頭痛やだるさ、体の痺れといった症状に悩まされ、生活に支障をきたす人々がいる。



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