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奥歯からオペラが聞こえる 第2回


中村昇



 回顧的錯覚をつづけよう。


 暗黒舞踏にたどり着くための準備(?)とでもいえるようなものを探っていきたい。いろいろなことを思いだしてしまう、とにかく澱みのようなもの、片隅に忘れ去られているものに対する異常な興味があった。小学校の時は、怪獣と昆虫をのぞけば、やはり何といってもプロレスという底なし沼にはまっていった。私が好きなプロレスラーは、あきらかに「暗黒舞踏家」といってもいい連中だった。


 当時は月刊だった『ゴング』と『プロレス・アンド・ボクシング』(のちの『週プロ』)をむさぼるように読み、金曜八時(日本プロレス)と月曜八時(国際プロレス)は、テレビの前で正座して夢中で試合を見ていた。


 強いレスラーには、まったく興味がない。ゴリラ・モンスーン、クラッシャー・リソワスキー、ボボ・ブラジル、ヘイスタック・カルホーン、ウイルバー・シュナイダー、ドン・レオ・ジョナサンなど、一癖も二癖もある(でも、強いときは、ちゃんと強い)レスラーが好きだった。


 そのなかでも、一番好きなのが、ブルート・バーナード。何とも形容できない爬虫類のような動き、まったく無駄な身体の震動、そして、とても人間のものとは思えない唸り声。毛深い胸や腕を奇妙にくねらせながら、不気味とも滑稽ともいえるようなレスリングをするブルートに、何もかも忘れて見とれていた。「これが、本物の生き物だ」と思っていたのだ。


 ブルート・バーナードとよくタッグを組むスカル・マーフィという異形のレスラーもいた。この二人が、タッグを組むと、とてもこの世のものとは思えない美しさだった。スカル・マーフィは、スキンヘッドで身体中の毛が無い(小さい頃の猩紅熱が原因だと言われていた)別の生き物だった。冷血な生物スカル・マーフィと、地底から甦った狂気の塊ブルート・バーナードが、同じリングで暴れまわるのを陶然と見ていた。わが人生の至福の時だった。


 人が人として特定の共同体で生きていくために失うもろもろを、ブルートは、惜しげもなくわれわれに見せてくれていた。余計なものだけで造形されている人間の(いや存在の)原型だった。それは、約束事などという些事で真の身体を失う前の「器官なき身体」と呼んでもいいだろう。ブルート・バーナードやスカル・マーフィにたいする異常な興味は、あきらかに暗黒舞踏の萌芽と言える。


 中学生になると、親元を離れ一人暮らしが始まる。身体的なものへの関心が続いていた私は、極真会館を創った大山倍達(『空手バカ一代』)や吉川英治の小説の影響で、宮本武蔵という存在にであう。「武蔵本人」になりたいと思い剣道部に入るも、結局やめてしまう。決まった「型」に違和感を覚えたのだ。そして、高校から演劇部に入り、芝居を始める。この頃に黒テントにであったのである。


 “鬱屈”という漢字の佇まいそのままのような心持で日々を暮していた高校生は、上京する。親には大学に行くと言ってはいたが、本当は芝居をやりたかった。どこかの劇団に入ろうと思っていたのだ。この頃、土方巽は、『新劇』に「病める舞姫」を連載していた。シュールレアリズムというフランスで起きた潮流が、極東の地で見事に花開いた傑作だ。ブルトンもアルトーも、『病める舞姫』を読めば(ただ、フランス語に翻訳してしまうと、この傑作の肝は、雲散霧消してしまうだろう)、かなり驚愕したのではないだろうか。当時私も『新劇』をときどき覗いてはいたから、「病める舞姫」という不思議な文章が、土方巽という人によって書きつづられていたのは知っていた。ただ、近寄りがたい印象で熟読はしなかった。


 東京では、高校の頃の後輩の後飯塚僚(のちに山崎春美と一緒に「TACO」をやる男)や予備校で知り合った加藤博さん(私を工作舎に連れて行ってくれた人)と一緒に、いろいろな芝居を見てまわった。そのなかでも、衝撃的だった三つの芝居をふりかえりたい。


 まずは、状況劇場(紅テント)。高校の頃から唐十郎の戯曲は読んでいたから、紅テントの大まかな印象はもっていた。ただ、読むと見るとでは、天と地ほどにちがう。東京でたての私は、後飯塚と一緒に、状況劇場から送られてきた葉書(チケット)を手にして、テントを探した。葉書には、青山墓地の近くの「血皿が池」にテントはあると書いてあった。青山に初めて行き、道行く人に「<血皿が池>というのは、どこですか?」と訊ねるも、誰も知らない。だれかれと訊ねるが、埒が明かない。


 そのうち、それらしいテントが見つかり、ほっとした。あとで冷静になって考えると、「血皿が池」などという地名があるわけがない。唐にまんまと騙されたというわけだ。赤いテントの前で、根津甚八が誰かと話していたので、状況劇場だと確信した。このときの芝居(『ユニコン物語 台東区篇』)が、根津甚八の状況劇場最後の舞台だった。


 この芝居は、根津や唐や李礼仙も凄かったが(とくに唐十郎は、登場しただけで笑ってしまう稀有な存在だった)、何といっても、うちのめされたのは小林薫だった。今でこそ、テレビドラマで落ち着いた渋い役をそつなくこなす名優になっているが、あの当時の小林薫は、狂気そのものだった。臓物のようなものを身体に巻きつけて、テントの天井裏を駆けずり回っていた。とてつもなく恐ろしい存在だった。


 唐も、初期の状況劇場にいた麿赤兒も、みな土方巽の弟子なのだから、紅テントで繰りひろげられたとても荒々しくも雅な芝居は、土方の影響下にあったといっても過言ではないだろう。初めての状況劇場は、とにかくそのエネルギーに圧倒された。


 そして天井桟敷。あの頃天井桟敷は、元麻布にあった。チケットか何かを買いに行ったとき、たまたまサルバドール・タリさんがいた。阿佐ヶ谷でお酒をだすお店をやっているからこないかと誘われた。たしか「どら猫さん」というお店だったと思う。後飯塚と一緒によく呑みに行き、マスターのタリさんと、寺山のことや芝居のことなどいろいろ語り合ったものだ。


 天井桟敷の芝居で、とてつもない衝撃と感動を思えたのは、「奴婢訓」だ。私の今までの観劇体験のなかでも、最も感銘を受けたのは、「奴婢訓」だと思う。あれ以上の舞台は見たことがない。


 晴海の貿易センタービルのだたっぴろい空間で、同時多発的におこなわれた禿頭の男たちや魔女のような女性たちの芝居は、今も悪夢のようにまざまざと思いだせる。J・A・シーザーの禍々しい音、白煙を射抜く虹色の光線。何が起きているのか判然とはしないけれども、<何か>が同時に進行していく。しかも、複雑に奇妙に微細に<何か>が達成されていた。あの空間は、本当に何ものにも代えがたかった。寺山修司は、ひじょうに多彩な天才だが、彼が生みだした多くの作品群のなかでも、私にとっては、「奴婢訓」が群を抜いている。


 そして、早稲田小劇場。夏目坂の近くに住んでいたので、早稲田には、しょっちゅう行っていた。「どらま館」の落成だっただろうか、最前列で白石加代子を見た。これは、もう「純粋な恐怖」としか言いようがない。全盛期の白石加代子の演技を、最前列で見た人しかわからないと思う。すごい迫力と「純粋な恐怖」。あんな役者さんが存在していることは、奇跡だと思う、私は。いや、本当に凄いんです。


 そうこうしているうちに、二十歳の秋がやってきた。いつものように後飯塚と加藤さんと一緒に、神保町の古本屋をめぐった後で、駿河台の坂をのぼっていると、左手に明治大学の大学祭のポスターがあった。そのポスターに「大駱駝艦 天賦典式」と書いてある。画数多いな、と思いながら、面白そうなので、三人で明大の講堂に入っていった。意味のわからない甘いものには目のない蟻のような若者だったのだ。これも最前列だった。


 何が始まるのかも知らずに大人しく三人で待っていると、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「トッカータとフーガ」が大音量で鳴り響き始めた。

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