中村昇
「死者になる」ということ
土方巽は、われわれの共同体における既成の身体、そしてその身体の動きを批判的に見て、舞踏を確立していった。言ってみれば、有用性の連関(「~のために」)によって成りたっている「世界内存在」(ハイデガー)というあり方を根柢から切り崩そうとしたと言ってもいいだろう。人間(ハイデガーのいう「現存在」)が、周りに自分に必要なものを配置し、それぞれの「世界」をつくっているのを、こなごなにしようとしたと言えるだろう。
コーヒーを飲むために、コップをつかもうとし、コップをつかむために、手を効率的に動かす。こういった一連の意味や目的の連鎖を破壊することこそ、舞踏の第一歩だと言えるのだ。「手ぼけ」(コップが、あたかも未知の生物や物体であるかのように、コップに触れることを忌避し、そのまわりを、ためらいつつさまよい、固まる手の動き)や「般若」(引き裂かれる顔面)は、意味や目的を放擲した「生(なま)の」身体そのもの(Ding an sich)の現出なのだから。
さて、今回は、笠井叡という舞踏家の土方についての興味深い言及を導きの糸にして、土方の「風だるま」という講演を見ていきたい。そして、土方の暗黒舞踏の最終定義「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」への接近を試みたい。
笠井は、『カラダと生命—超時代ダンス論』(書肆山田、2016年)のなかで、土方の略歴を少し紹介したあとで、つぎのように言う。
特に思い入れが深かったのはジャン・ジュネです。どうしてそのような作家たちの作品を取り上げたのかと言いますと、踊りが新しい美学を持つとするならば、その踊りの美しさは社会的な美ではなく、犯罪的なものと結びついた美でなければならないと考えたからです。土方巽が一番やりたかったことは、ダンスを犯罪性と結びつけることなのです。(292頁)
これは、今回冒頭で述べた社会(共同体)のなかの身体や身体の動きに対する批判というのと結びつくだろう。反社会的な行為である「犯罪」に共同体の内部には存在しない舞踏が潜んでいる可能性を考えるのは、自然なことだろう。「犯罪」には、既成の社会とは異なった身体や、その動きがあるというわけだ。
つづけて笠井は、つぎのように言う。
刑務所は法に触れた人間が集まるところです。反社会的なるものがそこにはある。踊りの美しさが反社会的な犯罪性と結びつくとき、刑務所の中にこそ、舞踊の新しい美学がある。(同書、292頁)
「美学」とまで言えるかどうかわからないが、刑務所のなかには、刑務所の外の世界における「世界内存在」(ここでは、「社会内存在」とでも言いかえられるもの)とは異なった動きをしている可能性もあるだろう。
しかし、更に笠井は、話を進める。「刑務所内存在」である人たちよりも、さらに、社会からより遠くにいる人たち。つまり、共同体(シャバ)より、さらに奥深い領域に存在する人たちを指摘する。
それは、「死刑囚」という存在者だ。
「今までのどんな歴史の中にも、どんな舞踊史の中にも現れなかった最高の歩行は、刑務所の中にある。それは死刑囚の歩行だ。第一級の歩行は死刑囚の歩行である。」—死に追いやられる人間が歩いていくとき、みずから喜んで断頭台に行くのではなく、死に向って歩かされていく死刑囚の歩行の中には、最高の生命の燃焼がある、と。(292頁)
社会から強制的に切り離された存在のなかでも、さらに突出して、並みの「刑務所内存在」よりも、もっと外側にいる人たち。それが、「死刑囚」だというのである。つまり、既成の「世界内存在」から(刑務所と死刑という)二重の意味で切りはなされ、われわれ生命をもつ人間の最終地点(死刑によって殺される)に否応なく連れていかれる存在が「死刑囚」ということになる。
しかも、断頭台に向かう死刑囚(もうすぐにも死ぬ人)は、通常の「世界内存在」(シャバにいる人たち)と、いずれはシャバに復帰する「刑務所内存在」、そしてまだ死刑執行日が近づいてはいない死刑囚という三つの存在からも断絶されていることになるだろう。唯一無二の地点に孤絶して歩いている、ということになる。
その「歩行」が、他のいずれの存在ともまったく異なる様相を呈するのは当然だ。傍から見れば、断頭台に行くための歩行にはちがいない。しかし、いまだ生命を宿す死刑囚の身体は、そこへ行くための歩行をしたいわけではない。そこに行かないための意識が、その(意識のなかでは逆向きの)歩行を重く覆っているにちがいないからだ。
このとき、身体は、どのような動きをするのか。
舞踏の最初の稽古は、「歩行」だった。天界と地界の狭間を、硫酸を湛えた皿を頭にのせて歩く。何の目的も何の意味もない棒の平行移動のように歩く。既述したように、この歩行は、舞踏の入り口であると同時に、舞踏そのものの表現かもしれないものだった。この「歩行」という舞踏の最終完成型は、この「死刑囚の歩行」のなかにその本質があるのかもしれない。
笠井は、つぎのようにまとめる。
なぜそれが最高の歩行かと言うと、それは死刑囚は歩かされているからです。それはすべての身体の能動性が完全に奪われている歩行です。死刑囚の歩行や動きは、生きているのではなくて、ただ死へと生かされている。死ぬのではなくて、死なされている。しかし、この「最高に高められた受動性」の中にこそ、新しい踊りの出発がある。——そういうことを、土方巽は直感したのです。(同書、292-293頁)
われわれ「世界内存在」の身体や精神は、何かのために動き、何かのために意識をそちらに向けている。仕事のために電車に乗り、生きるためにお金を稼ぎ、健康のためにジョギングをする。こうしたすべての「~のために」が消滅した場所に死刑囚はいる。しかも、最期は、自らの存在(生命)を消すために、死刑台に向かって歩いていく。
笠井が言うように、「死なされている」のだ。この「死なされている」というのは、社会に馴致させられた身体や世界の有用性のなかに押し込められた存在(世界内存在)を否定的にとらえ、自らの独自の舞踏世界をつくりあげた土方巽の本質をあらわすにふさわしい動詞だと言えるかもしれない。
このことは、舞踏の定義「命がけで突っ立った死体」にも通底するだろう。死刑囚は断頭台で確実に死ぬ。そこに向かっている途次、死刑囚はすでに死んでいるとも言えるかもしれない。なぜなら、その「死なされている」という身体(死体に最も近い身体)で歩行せざるを得ないからだ。つまり、本来は生きるための身体が、死ぬためだけの歩行をしなければならないからだ。ようするに、生命と死との根源的矛盾のただなかにいることになるのではないか。この状態を「死体として、命がけで突っ立っている」と言えなくもないだろう。
さて、土方自身の講演に移っていきたい。この講演は、『現代詩手帖』昭和60(1985)年5月号に掲載されたものである。当時、土方は、もうすでに踊ってはいなかった。死の一年前だ。
まずは、土方自らが、講演当日、風邪をひいていると語りはじめる。そこから東北に特徴的な「風だるま」という現象について説明していく。「風邪」から「風」へ、話柄は自然に移行する。
大風が吹いて、そこに雪も混ざる時もある、ともかくすさまじい風が吹きまくる。そうしますと畷(なわて)(あぜ道―中村註)を、風に巻かれて私の家の玄関の前に(あっちでは戸口に立つって言うんですが)、東北の人は風を着て、風だるまになって戸口に立つ。その風だるまが座敷の中へあがってくる、もうそれだけで舞踏なんだ。(『土方巽全集Ⅱ』110頁)
風に巻かれて人があがってくる。人なのか風なのかわからない「もの」がおとずれる。これが「風だるま」だ。われわれの生活や生存には、ほとんど役に立たないし、それ以前にまるで意味をなさない「風と人間との融合体」が「風だるま」なのである。
「風」ははっきりと特定できる形をもたない。形や色をもったものが、隙間なくひしめきあっているこの世界で、決まった形も位置ももたず、方向さへも曖昧な存在なのだ。人なのか、風なのかさえよくわからない。ただ「吹く」だけの存在だ。無定形無方向の存在以前とでも言えるようなものなのである。そういう風と人が一体になるとき、それを土方は、舞踏だと言う。形があり、方向が決まり(~のために、~に向かって)、意味のある関係性の連鎖の中で生きる存在たちとは一線を画す、異質の存在者だということができるだろう。いわば、おのれの死へ向かう死刑囚と存在の身分としては近いと言えるかもしれない。
さらに「風だるま」について、土方は続ける。
風だけ入って来る時もありますよ、風だけの風だるまですね。そうすると私なんかガランとした座敷続きの蕎麦屋で生まれて、兄貴達は皆兵達(兵隊か?—中村註)に行って私一人座っていたもんだから、恐いんですね。表口からそういうのの下駄の音が聞こえたり、人っ気が無いのに風だるまの気配が家の中に入って来ると、さとられないように家の中を逃げました。(中略)風に巻かれて運ばれて来た風だるま。風だるまは長い畷を、自分の身を焼き焼き風に巻かれて私の家へ届いた。ああ、いいもの見たな。私はそう思ってるわけです。(同書、113頁)
形のない風だるまが、人と一緒にならずに、ただ風だけでやってくることもある。しかし、この風だるまに、ただの風にすぎないのに、私は恐怖を覚え逃げまどう。われわれの有用性の連関においては、ほんの少しも意味をもたない「風だるま」に、私は逃げまどうのだ。こうした存在のありよう(何ものでもない無形のものにかき乱される)に、土方は、舞踏の本質を感じる(「ああ、いいもの見たな」)のである。
あるいは、雨について、つぎのように思い出を語る。
しかしよく雨が降ってくるんですよ。それで私も縁側に座ってキャベツ畑にジャージャーっと降る雨を見てるわけですね、その縁側が重要ですよ。すると雨ってのはどこから始まってどこで終わるのか、始まりも終りもないような雨が持っている時間の中に、まわりの空間も混っちゃって時間も空間も見さかいがない。そうしてキャベツが腐るように、私も芯から腐ってしまうんじゃないだろうか。そこでは、日本舞踊でよく言う「間」がありますね、その「間」も腐っちゃう。「間腐れ」って言うんですよ。間腐れになっちゃう、ああ、これは大変だ。(同書、117頁)
今度は、液体の無形性がテーマだ。縁側から見るキャベツ畑に雨が降り続ける。キャベツという固体の群れに、雨という持続する液体が降りそそぎつづける。すると、何もかもが不分明に不明瞭になり、崩れ溶け液状化していく。時間のなかに空間が入り、時空の見境がなくなり、「間」という時間の空白にまで魔の手はおよび、あらゆる<もの>も<こと>も森羅万象、「腐る」という動詞が支配する状態になる。時空も私も、ことごとく「腐って」いき、主観も客体も時空も場所もあらゆる領域が腐りつづける。
もちろん、この「腐る」という動詞は、「生きる」や「意味」や「目的」といった動詞や名詞と対峙している。はっきりと境界線のある、秩序が支配する「固体的な」世界とは、まったく異なる次元をかたちづくっているのだ。そして、これら対峙する「固体的な」領域を侵犯し、そこへととめどなく侵入し、最終的には、それらの領域(形があり、境界がはっきりしている領域)をも溶かし腐らせていく。
形のない気体である「風だるま」と同様、視覚にはかろうじて捉えられる液体の「雨」も、恐るべき力で、われわれの世界を溶かし腐らせる。つまり、死の領域へと、世界全体を時々刻々移行させていくのである。
ここにもまた土方の舞踏の本質が垣間見えると言えるだろう。あるいは、つぎのような面白いことも言う。
蚕を飼っているんですね、あっちでは蚕を飼っている。蚕ってのは葉っぱを噛む音がジャリジャリジャリジャリと際限ないわけだ。それでその音を聞きながら昼寝をしている男が歯ぎしりをするわけ、ギリギリギリと。あっちはジャリジャリジャリ、するとそれがつながってくる。蚕が葉を噛む音と昼寝をしてる男の歯ぎしりの音がつながって聞こえて来る。そして昼寝から目が覚めて、浴衣がすっかりもう青ざめて立ち上がってギリギリギリと言いながら、蚕のジャリジャリジャリっていう音のところへ入っていく。つながっているんです。そういうふうになって、そんなになったらもう全然、踊りの稽古なんかいらないんじゃないか、まあそういうふうなことを考えている。(同書、119頁)
まったく何の関連もない、蚕の葉を噛むジャリジャリジャリという音と、男の歯ぎしりのギリギリギリとがつながっていく。ここでも音という、視覚に形で訴えることのできないもの(無形のもの)の無用性の連関(ジャリジャリジャリとギリギリギリ)を指摘し、それらが舞踏だと言っているのだ。それにここでは、「葉っぱ」と「歯」のつながりも透けて見えるだろう。「葉」と「歯」も、音(ハ)でつながっている。これらの意味のない無用な関連性に着目する(そのなかで生きる)だけで、「踊りの稽古なんかいらない」と土方は言うのだ。われわれの日々の暮らしに、舞踏はたゆたっているということだろう。
形のないもの(風だるま、雨、音)が形あるもの(私)に恐怖を与え、世界を腐らせていくことこそが、舞踏だと言っているようである。無形の無用性の連関に目を向け、そこに寄りそうこと。これが踊るということであり、暗黒舞踏だということになるだろう。
さて、このジャリジャリジャリとギリギリギリの話の直後に、「死」が唐突にでてくる。例の土方の身体に住んでいる「死んだ姉」も再び登場する。
こう言う。
こういうことは私の身体のなかで死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい、死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい、ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくたってあっちが私を知っているからね。(同書、119-120頁)
ジャリジャリジャリとギリギリギリとのかかわりのような無形で無用の連関や、直前の段落全体で言っていた「隣近所のおばはんだとかお母さんだとか、親爺だとかもちろん家族の身振立居振舞」(同書、118頁)を、自分の身体のなかで、もう一回「死なせてみたい」と土方は言う。どういうことだろうか。
もちろん、隣近所のおばさんやお母さんや親爺は、死んでいるわけではない。ただ、社会的な有用性の文脈では、何の意味もない動きや振舞いを日々しているのだろう。それは、ジャリジャリジャリとギリギリギリのシンフォニーと同じことだ。つまり、通常の社会では「死んでいる」事柄ばかりだ。そうした些細で微小な細部の「身振立居振舞」を、自分のなかで何度も繰り返し「死なせる」ことこそが、土方の舞踏だということになるだろう。無意味なことを無意味なまま無意味につづける。「死んだ人」を何度も「死なせる」。これが、暗黒舞踏の「骨」だということになるのかもしれない。
無用な動き(死んだ身振り)をもう一度繰り返す(「死んだ人をまるで死んでいる様に、もう一回やらせてみたい」)ことが舞踏だと土方は言う。しかも形のない無用な世界(死の世界)の方が、こちらのことを知っているのだとも言う。これもとても面白い視点だ。
有用性の連関のなかで、「~のために」あくせく生きているわれわれを、死の世界からじっと見つめているというわけだ。死んだ人たち(無形で無用な人たち)が、じっとこちら(有用なことをしていると勘違いしている者ども)を凝視しているというのだ。「なんて意味のないことをしているのか」とでも思いながら。
ここで姉が登場する。
私はよく言うんですが、私は私の身体の中に、一人の姉を住まわせているんです。(中略)そして(姉が—中村註)こう言うんですね。「お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやってるけれど、表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。」といってそっと消えてゆく。(同書、120頁)
私たちは、身体を使って舞踏をする。「踊りながら消えることもできるんですよ」と言っていた土方だって、自らの肉体をもっている。物質に拘束されている。土方も、形をもつ身体を使い、もともとは有用性の連関のなかで育成された動き(「身体図式」)を基礎にして(もちろん、それを粉々にこわしながら)踊っているのだ。
表現というのは、そもそも形や動きが必要なのである。舞踏の造型とは、そういう必然性からは、逃れられない。だからこそ、土方のなかの姉は、その造型を裏切りつづけなければならない(何か表現しないことによってあらわれてくる)と警告するのである。
どんなに器官なき身体を目指そうが、どれほど死体に近接しようが、われわれには形があり、眼にはその形の動きが映る。形と色にあふれた世界にわれわれは生きているからだ。だからこそ、それらの裏面である死の領域(形のない気体や音や液体的なものがある領域)につねに触れつづけなければならないと土方は言うのだ。「死んだ人をまるで死んでいる様に、もう一回やらせ」なければならないと言うのである。
土方は、結論を言う。
だから教師なんですね、死者は私の舞踏教師なんです。死んだ人を大事にしなくちゃいけませんよ。遅かれ早かれ遠い日か近い日に、私たちもいつか召されてゆくわけだから、その時あわてないように、生きてる間にものすごいレッスンをしなくてはならない。死者を身近に寄せて、それと暮らさなきゃならない。(同書、120頁)
死者になるために、死者に身を寄せて、死者に舞踏のレッスンを受ける。形をもち生きながら、形のない死者になる。これが、「命がけで突っ立った死体」ということなのかもしれない。
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