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スサノヲの冒険 第9回

鎌田東二

一遍のスサノヲぶり  昨今の自然災害や戦争や事件を知らされるたびに、今こそスサノヲの発動と鎮魂が必要だと思われてならない。大本から出た霊能者・神業者の岡本天明は「日月神示」を世に問うたが、スサノヲは「地球神」と述べている。

 そのことは、2023年10月21日より12月24日のクリスマス・イブまで愛媛県久万町の町立久万(くま)美術館で開かれている「顕神の夢」展の出品作「三貴子像」を見るとよく分かる(https://youtu.be/wc7Nxy9er6M )。

岡本天明作「三貴子像」

(現在、愛媛県久万町の町立久万美術館で開催中の「顕神の夢」展で展示されている。『顕神の夢―幻視の表現者』図録26‐27頁)

 


 岡本天明の「三貴子像」では、高天原―天つ神々の主宰神格である天照大神が真中にいない。アマテラスは向かって右にいて両手で鏡の形の太陽を持っている。対して、向かって左にはツクヨミがいて、両手で三日月形の月を持っている。そして、真中にスサノヲがいて、左手に赤子をのせ、右手で風か何かを招くような仕草をしている。三貴子ともに龍の背にあぐらをかいている。

 岡本天明は、昭和19年(1944)6月10日に千葉県成田市台方に鎮座する天之日津久神社を詣でた時から17年間に及ぶ自動書記を始め、それが『日月神示』としてまとめられるに至った。上掲「三貴子像」は昭和23年(1948)ごろ、帰神中にわずか30分ほどで描いたという(同展企画者江尻潔「顕神の夢」図録338頁)。真ん中のスサノヲは、じつは「国常立大神」で、「素鳴大神(すさなるのおおかみ)」と呼ばれている。

 もし、岡本天明が描いたように、国常立大神=素鳴大神(須佐之男命・素戔嗚尊)が地球神格であり、人類を養育してきたとすれば、今、そのスサノヲは自分が養育してきた我が子の一員である人類をどう評価するであろうか? 地球=スサノヲにダメージを与え続けている人類に何らかの警鐘を与えて当然であろう。すでにそのような警告は何度も繰り返し発せられていたとわたしは受け止めている。

 だが、それによって、大きくは何も変わらぬどころか、いよいよ我欲と競争でほしいままに奪い合いをし、対立と分断を煽り、壊滅的な戦いをつづけていて、とどまることをしらない。

 であれば、しびれを切らした地球神スサノヲが荒ぶりすさぶるのは当然であろう。昨今のクマによる被害の頻発もその一つの徴憑であると思っている(https://youtu.be/SDBrGUl0f9M?si=q8vBu9gUUs9SLto3)。古代より熊は山の神とも森のヌシとも崇められてきたのだから。クマの出没は人間界のふるまいに対するリアクションであるが、自然界からの警告ともメッセージとも受けられる。少なくともそのような見方を否定せずに、クマを「駆除」するという思想から、熊や諸動物に対する畏怖畏敬の念に基づく生態学的連鎖の深遠な仕組みに気づいて、われわれ人間のふるまい、活動、生活のありようをチェックし、再構築する必要がある。それが、イザナギ・イザナミという原父母神に託された「修理固成」のメッセージの再確認であり、再構築であろう。


 そんなことを考えながら、「顕神の夢」展の久万美術館でのオープニング鼎談に臨んだ。そして、そこは、一遍上人が籠って修行した洞窟のある岩屋寺から5キロほどの距離にある。岩屋寺は四国遍路の第45番札所となっている。本尊は不動明王で、現在は真言宗豊山派(総本山は奈良県桜井市の長谷寺)所属である。久万美術館は標高500メートルの久万高原にあるが、そこから数キロの岩屋寺は標高700メートルで古来修験道の修行の地であり、山岳霊場であった。

 岩屋寺のHP(https://shikoku88-iwayaji.com/about.php)には、<弘仁6年(815)、弘法大師が霊地を探してこの地に入山したところ、法華仙人と称する土佐の女性に出会います。大師の修法に深く帰依した仙人は、全山を献上し往生を遂げました。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本堂に安置し、石像は岩窟に秘仏として封じ込め、山全体をご本尊の不動明王としたのです。大師は「山高き 谷の朝霧海に似て 松ふく風を波にたとえむ」と詠じ、寺号を海岸山岩屋寺と名づけました。」>とこの寺の開山のいきさつが説明されている。  ここで、鎌倉時代中期に一遍上人(1239‐1289)が参籠修行したことは、国宝『一遍上人聖絵』に大変印象深く描かれている。そこでは、一遍が、鋭く聳え立つ巌峰の頂上にある岩屋寺の仙人堂に向かって梯子をよじ登ろうとしているところが描かれている。その「仙人堂」は上記の「法華仙人」を記念して建てられたお堂であろう。

 興味深いのは、標高700メートルの山中にもかかわらず、山号が「海岸山」であるところだ。雲海に包まれる様子が海のように見えるために「海岸山」と付けたのだろう。


国宝「一遍上人聖絵」(清浄光寺)岩屋寺













仙人堂に向かって梯子を上っていく一遍



 そこに一遍がやって来たのは、文永8年(1271)かその翌年のことと思われる。一遍智真は延応元年(1239)に伊予の国の道後温泉で生まれた。そこは現在遍照院宝厳寺となっており、一遍上人の誕生寺として知られている。一遍は、その生涯の事蹟により「捨聖(すてひじり)」とも「遊行(ゆぎょう)上人」とも呼ばれるようになるが、もとは河野水軍を率いた豪族河野氏の出自を持つ 。だが、承久の乱(1221年)で京方についたために一族が流罪となり没落。10歳にして母を喪い、天台宗の継教寺において出家し、隨縁を名乗った。建長13年(1251)、13歳で大宰府の聖達(法然の高弟証空の弟子)の下で12年間浄土宗西山義を学んだ。

 25歳になった弘長3年(1263)、父河野通弘の死により還俗して故郷に帰るが、所領争いに巻き込まれ、文永8年、32歳の時に再出家した際に岩屋寺で念仏修行に励んだのである。その後、文永11年(1271)から「遊行」に出て、各地を遍歴しつつ念仏札(「南無阿弥陀仏」の名号を書いた札)を配って歩くが、ある僧に受け取りを断られ、不信の者に念仏札を配るべきかどうか悩んでいる最中の同年の夏、高野山から熊野に向かい、熊野本宮大社証誠殿で参籠した際、熊野権現(家都御子命、須佐之男命)の「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」という夢告を得る。これにより迷いが吹っ切れ、念仏札に「決定往生六十万人」と書き、全国を巡って念仏札を配りつづけ、弘安2年(1279)、信濃の国の佐久の小田切で「踊念仏」を始めたのである。

 この「決定往生六十万人」の「六十万人」とは、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」(六字名号は一遍の法なり。十界の依正は一遍の体なり。万行離念して一遍を証す。人中上々の妙好華なり。『一遍聖絵』第三)の四句の頭の字を取ったもので、また智真を「一遍」に改めたのも、この偈を得てからである。したがって、一遍にとってスサノヲ=熊野権現の夢告と偈頌の感得は決定的な意味を持つ。


熊野権現との出逢い(http://tono202.livedoor.blog/archives/24211779.html)より



 こうして、一遍上人の生涯と軌跡がスサノヲのナラティブと重なってくるのだ。武将の名家に生まれ、幼くして母を亡くして出家し、一旦は還俗して元の侍に戻ったものの、一族の相続の争いに嫌気がさし、再出家して、スサノヲ=熊野権現の夢告によって迷いを断ち切って念仏道に邁進する。その孤高の流浪の旅は、同時代の仏教者の中でも群を抜いて過酷であり苛烈である。確かに、遍歴の最初の頃には、超一、超二という母子を連れていたように見えるが、それとも別れ、あらゆるものを捨てに捨てて「南無阿弥陀仏」の名号一すじに生きた。その徹底した「遊行」遍歴に「妣の国」に向かって流離いの旅をつづけたスサノヲを重ね見る。

 一遍はその語録に次のような言葉を残している。


<興願僧都、念仏の安心を尋ね申されけるに、書きてしめしたまふ御返事。

 夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の様々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に対したる仮初の要文なり。されば念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念仏すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。

 念仏の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏し給ふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、余れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏し給ふべし。南無阿弥陀仏。>(『一遍上人語録』岩波文庫、1985年)


 ここで、一遍は「念仏の行者」の「用心」すなわち心構え=心の使い方を示す。それは、ただただひたすらに南無阿弥陀仏と称えることだけと言うのである。念仏行者は、智慧も、愚癡も、善悪の境界も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れる心も、極楽を願う心も、諸宗の悟りも、すべてのことを捨てて、ただただ念仏を称えるだけだ、と断言するのだ。空也はその境涯を「捨ててこそ」と言ったという。

 さすれば、仏もなく我もなく、道理も理屈もなく、善悪の分別境界もなく、みな浄土である。その時、生きとし生けるすべてのものも、山河草木も、吹く風立つ波の音まで、みな念仏でないものはない。人間だけが阿弥陀如来の本願によって救われるというものでなく、すべてがすでに救われてあるのだ。だから、このようなわが説明説法もみな打ち捨てて、ただ一介の凡夫の「愚なる者の心」に立ち帰ってひたすらに念仏するのである。なむあみだぶつ、なんまんだぶ、と。

 一遍は、「真言」を説いた空海や「題目」を説いた日蓮がその意味の宇宙的豊穣を説くことによってめくるめく実相世界に参入し生命と力とを充填しようと試みるのに対して、その逆に、徹底して意味の捨象と空無化をはかることによって逆説的に絶対の一に到達しようとする。

 そのスピリチュアリティは、


 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


と歌ったスサノヲの「ヤエガキ・シュプレヒコール」にまっすぐに通じている。スサノヲの「八重垣ソング」は、一遍の「なむあみだぶソング」と同質同道である。であればこそ、「信不信を選ばす、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るべし」と夢告したスサノヲ=熊野権現のメッセージはしっかりと一遍のたましいを打ち抜いたのである。一遍は、出家した際の隨縁という法名をある時に智真に変えたが、熊野夢告の後、それをさらに「一遍」に変えた。そこにどのような覚悟があったか? 「一遍」の「法・体・証」の感得体現である。


『一遍上人語録』には次のようにある。


 異議のまちまちなる事は我執の前の事なり。南無阿弥陀仏の名号には義なし。若義によりて往生する事ならば尤此尋は有べし。往生はまたく義によらず名号によるなり。法師が勧る名号を信じたるは往生せじと心にはおもふとも、念仏だに申さば往生すべし。いかなるゑせ義を口にいふとも、心におもふとも、名号は義によらず心によらざる法なれば、称すればかならず往生するぞと信じたるなり。(中略)さのごとく名号もをのれなりと往生の功徳をもちたれば、義にもよらず心にもよらず詞にもよらずとなふれば往生するを、他力不思議の行を信ずるなり。(一遍上人語録)


 ここには名号の「義」に執われずに、名号そのものがみずからに実現することの功徳と力への絶対的な信がある。もはや意味とか義とかは問題ではない。こうして、一遍の境地は次の2首の歌に如実に表わされることになる。


  となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

  となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみた仏 (同上)


 この2首の歌の1首目は、神戸の南禅寺派の宝満寺の法燈国師のもとで一遍が問答した際に歌った歌であるとされるが、これは法燈国師により「未徹在」とその不徹底を指摘される。そこで、さらに一遍が深くその信の境地の究極を歌い直した。それはただ下の句の最後の七音の「声ばかりして」を「なむあみた仏」に言い換えただけの修正である。

 だが、一遍のこの境地は「言語道断心行所滅」(聖徳太子『法華義疏』、世阿弥『九位』など)という禅の境地と共通するものがあるのだ。人間的なはからいを徹底的に捨て去り、意味の対象性や差異性の徹底的な排除を通過することによって、念仏行者自体が「言語道断」を超えた大いなる宇宙的意味(=名号)の体現者となり、その受容器となる。1首目の「南無阿弥陀仏の声ばかりして」という歌ではいまだ声の対象性が残っている。しかし2首目の「南無阿弥陀仏なむあみた仏」の方はただその念仏名号の声のさ中にただただ洗われて「心行所滅」している。そうして初めてひたすらなる「なむあみたぶつ」の名号体験に参入できる。

 こうしてくると、一遍の名号思想は、空海や日蓮の対極に位置するかにみえて、実はその逆説的な徹底化を試みているともいえる。

 一遍は言う。


 又云、念声是一といふ事、念は声の義なり。意念と口称とを混じて一といふにはあらず。本より念と声と一体なり。念声一体といふはすなはち名号なり。(中略)

 又云、称名の外に見仏を求べからず。名号すなはち真実の見仏なり。(中略)

 又云、念仏の下地をつくる事なかれ。総じて行ずる風情も往生せず。声の風情も往生せず、身の振舞も往生せず。心のもちやうも往生せず。ただ南無阿弥陀仏が往生するなり。(同上)


 この何ともはやパラドキシカルな裏返った表現。捨てに捨て、手放しに手放す否定神学の如く、否定表現を積み重ねていって、その最果てに、「ただ南無阿弥陀仏が往生するなり」と突き放すその緊張と弛緩の絶妙の飛躍と拡充。一遍の苛烈な精神が如実に現われているではないか。そしてそれは、スサノヲの「ヤエガキ・シュプレヒコール」を徹底深化した、言葉の、あるいは歌の最果てを示すものではないか。

 泥臭い一遍のドロドロの末なる澄明の極まりに、スサノヲの荒ぶる果ての「我が心、清々し」が響き合うのだ。そのような汚濁の中の澄明を生成する「遊行」が求められているのだ。今こそ。

 そこに、スサノヲぶりのルネサンスとメッセージを読む(1)


 最後に指摘しておきたいのは、「踊るスサノヲ」と「踊る一遍」との共通性である。荒ぶり遍歴するスサノヲは『古事記』にも『日本書紀』にもかなり詳しく記されている。が、そこには、「歌うスサノヲ」はあっても、「踊るスサノヲ」の記述はない。

 だが、『出雲国風土記』大原郡の佐世の郷のくだりには「踊るスサノヲ」が「古老傳云、須佐能袁命、佐世乃木葉頭刺而、踊躍為時、所刺佐世木葉墜地。故云佐世。」と記されている。つまり、古老が伝えて言うには、スサノヲ(須佐能袁)が佐世の木の葉を頭に挿して踊った時、頭に挿していた佐世の木の葉が地面に落ちたから、その地を「させ(刺せ・挿せ=佐世)」と言うようになったということである。想像をたくましくするが、この時、スサノヲは頭に差した木の葉を地面に振り落とすほどに激しく踊ったということではないか。それはそのまま一遍の踊念仏に直結する。スサノヲの荒ぶる狂いは、一遍の踊念仏の狂いにそのまま接続している。そのように、わたしは一遍のスサノヲぶりを解釈する。


踊る一遍














 

(1)梅谷繁樹・竹村牧男・鎌田東二・栗田勇『一遍・日本的なるものをめぐって』(春秋社、1991年)の中で、一遍につながるスサノヲ的貴種流離性について少しく触れているので、関心があったら参照していただきたい。


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