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スサノヲの冒険 第17回

  • 鎌田東二
  • 6月16日
  • 読了時間: 26分

更新日:6月17日

鎌田東二

スサノヲ最期のジャンピングジャックフラッシュ


 「スサノヲの子分」と名乗って生きてきたこの半世紀。最近、この「スサノヲの子分」の周辺に驚くべき渦潮が巻いて押し寄せている。

 というのは、「ぼくも『スサノヲの子分』です」とみずから名乗る人物(芳賀ヒカル・神社チャンネル主宰)と出会い、10回の対話を重ねて本を出すことになったからである。

 またこのニューフェイスである「スサノヲの子分」の芳賀ヒカルさんのそれこそまた弟分の年齢(当年四十二歳)の九州大学附属病院心療内科医(九州大学大学院医学研究員心身医学・医員)の三澤史明さんが、以下のような決意表明をわざわざお釈迦様の生誕会の日の内(Sent: Tuesday, April 8, 2025 11:55 PM)に送ってくれた。

 

 『日本人の死生観Ⅰ』(作品社、2025年3月20日刊)を拝読しました。

 結論から申し上げますと、僕はこれから『オオクニヌシの出先機関』として明るい世直しを担っていこうと決めました。これまでは、スクナヒコナを本宮、薬師如来をご本尊として漢方薬や温泉をベースに仕事をしてきました。

 両神様仏様は今後ももちろん魂の軸ではありますが、心療内科医として臨床をするうちに、『人と自然の良縁を結ぶ』ことや『人が自然に治癒する機運を読む』こと。そして『熱量やエネルギーで人を賦活化する』『ポテンシャルを最大に開き、バイブスをぶち上げる』ことを自分のスタイルとしてまた役割として立場を決めました。

 それは先生のおっしゃる仏の『成る者、往く者、座る者』(臨床で例えば認知行動療法やマインドフルネス、健康に『成る』治療)だけでは足りないと感じる物です。

 患者の怨念や情念を引き受け鎮魂昇華すること(能、ヒップホップ、カポエイラ)、患者に伝える言葉や自然治癒の機運が来るのを待つこと、自然のエネルギー(山海川、薬草、鉱物、漢方、温泉)を媒介者として伝えること、鬼や狂気や修羅(精神疾患や発達障害とラベリングされているもの)を抑えず無視せず在るものとして認め転換したり適材適所に調整すること、時には荒々しく瑞々しくバイブスやパワーを注力するという神の『在るモノ、来るモノ、立つモノ』のエッセンスがいまの医療者に欠けているモノにして僕のこれからの指針であります。

 僕をバックアップしてエンパワメントしてサポートしていただいたのが『スサノヲの子分』たる鎌田先生の深い思いやりと愛情と暖かさだと改めて強く感じます。それは先生の異端や裏やアンダーグラウンドや排除迫害された者への愛であり共感であり受容承認であり好奇心であると思います。先達として後続を団結=Unityしてモチベートして方向を示すシャーマンであり修験者であり教育者であり詩人であり宗教者であると思います。どのご著書の根底にもそれを共通して感じます。

 『スサノヲの子分』たる先生の後継者を勝手ながら名乗り、『オオクニヌシの出先機関』として未来を開いていこうと決意しました。オオクニヌシ-タケミナカタは諏訪の土着信仰ミシャグジ=三澤(ミジャク)説を提唱する僕三澤にとっても縁深いラインです。

 先生から教えていただいたことがいま心療内科臨床で花開き炸裂し豊かに展開しています。自分の力の発揮する場所をようやく見つけたと実感する毎日です。先生のおかげです。心より御礼申し上げます。ありがとうございます。

 暗いニュースが続く不穏なこの現代世界、日本で暗澹たる気持ちになりますが、勇気と希望とファイトが湧き上がりました。

                 2025年4月8日 花祭(釈尊生誕祭)三澤史明 拝

 

 1975年から教育という分野に関わってきて、12万人以上の若者や社会人に「宗教学」や「比較文明学」や「日本思想史」を講じてきた。何時も授業初めには法螺貝を奉奏しながら。

 そんな中、おのが身心魂を身代わり担保として、「オオクニヌシの出先機関」になってくれるという教え子(と言えるだろうか?)が出てきてくれたこと、教員名利に尽きる。有難くも、感謝しかない。

 三澤史明さんは、初めて会った時、「三澤リゾートをつくりたい!」というビジョンを熱くかつ極めてロジカルに語ってくれた。それを聴いて、彼のビジョンは将来必ず実現すると強く思った。2017年、8年ほど前、「世阿弥研究会」でのことだ。「三澤リゾート」を今風に言えば、「MISAWAインクルーシブトリートメントセンター」であろうか。

 2009年より私は所属していた京都大学こころの未来研究センター鎌田研究室が主宰する「世阿弥研究会」を月1回開催していたが、その後、2011年より「身心変容技法研究会」を作って、世界中の身心変容技法や神秘主義や神秘思想を比較研究し始め、研究報告を兼ねた3冊の本も出した。

 

 『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』サンガ、2017年10月1日刊

 『身心変容技法シリーズ② 身心変容のワザ~技法と伝承 身心と心の状態を変容させる技法と伝承の諸相』サンガ、2018年2月24日刊

 『身心変容技法シリーズ③ 身心変容と医療/表現~近代と伝統 先端科学と古代シャーマニズムを結ぶ身体と心の全体性』日本能率協会マネジメントセンター、2021年3月23日刊


 この野心的で壮大な研究計画を持つ身心変容技法研究会にも熱心に参加してくれ、2019年10月には同志社大学で次の発表をしてくれた。これらは「科研費基盤研究A」として行っていたが、その中で次の発表を引き受けてくれた。


第76回身心変容技法研究会 

日時:2019年10月22日(火・祝日)13時~17時 

場所:同志社大学 

発表①三澤史明(滋賀医科大学医学部四回生/東京大学公共政策大学院修士課程修了、統合医学・観光政策)「アメリカン・グレートジャーニー~未来医療の可能性を探る旅」

 

 三澤史明さんは慶應義塾大学法学部を卒業後、東京大学公共政策大学院で離島地域をフィールドに観光政策の研究をし、修士課程修了後、電通でテレビ営業に従事していたが、本当にやりたいことに向き合うため退社して滋賀医科大学医学部を再受験。その頃、「世阿弥研究会」に入会。卒業後は九州大学附属病院心療内科医として勤務している。

 三澤さんは、慶應義塾大学時代に、大学を休学し1年間バックパッカーとして世界を歩いた経験から、日本の良さと観光のインパクトに気づき、日本を良くしたいという強い思いを持ち始め、「観光の力で地域を盛り上げ、地方から日本を良くする」をテーマに観光研究に没頭。その根底には「観光を通じて人を癒す」という理念がある。 

 また彼の趣味のヒップホップミュージックやスケートボードのカルチャー、カポエイラなどのボディムーブメントのレッスン、思想哲学、実践、空間、身体感覚、コミュニティなどが人の救いや癒しになるのではないかという洞察に基づく実践と研究をし、「ヒップホップとオープンダイアローグ」というテーマについて臨床を通して考察してきた。

 2019年夏には、米国に3ヶ月の短期留学をし、主に統合医療やスピリチュアルケアについて見聞を広めて来た。以来、広く大きな観点から生命を考え、人を癒し、良き人生を生きていただくための未来医療を志している。この「アメリカン・グレートジャーニー~未来医療の可能性を探る旅」を踏まえて、2019年10月22日に同志社大学で研究発表してくれたのである。

 

 私は『日本人の死生観Ⅰ 霊性の思想史』の最後の文章である「あとがき――出雲系死生観」を「憂国忌」(2024年11月25日)の日の比叡山登拝後(東山修験道九四六https://youtu.be/dm6Lg9GWiok)に書いた。そして改めて、三島由紀夫の『文化防衛論』(新潮社、1969年)で提起された日本文化論と天皇論について考えた。

 私は、1967年高校2年の夏に三島由紀夫の『葉隠入門 武士道は生きている 』日本人の知恵(カッパ・ビブリア、光文社新書、1967年1月1日、後に文春文庫・新潮文庫)を読んだ。当時、剣道部に所属しており、ノーテンキにも「剣の道」を究めたいと思っていた。段位はのちに三段まで進んだ。『葉隠入門』は、三島流行動主義思想(陽明学)と行動への覚悟を迫る書だった。「素戔嗚門流」の気概がみなぎっていた。

 だがその「気概」は空回りしているように見えた。表面的には派手で、目を引くキャッチ―なフレーズがあちこちに散見し飽きることはないが、名人が湛えるような静かな意志の鎮静と受肉は感じられなかった。この「素戔嗚門流三島派」は私が入門を乞うようなスクール(道場、門)ではなかったのだ。

三島由紀夫の「範紋」(手本)は、よく言われるように、ルース・ベネディクトの『菊と刀』である。

 

  菊―天皇―歌―みやび―にぎみたま(和魂):文芸・芸能

  刀―武士―戦―あらぶり―あらみたま(荒魂):武道武術・兵法

 

 この象徴的二項対立を弁証法的かつ統合・統治(ガバナンス)論的に融合解消したのが「文武両道」の原像と讃えられる日本武尊(ヤマトタケルノミコト)である。

 ヤマトタケルにおいて、荒魂と和魂、武道(剣)と歌道(歌)が統合される。そして、「あづま(吾が妻・東国)」と熊襲(西国)が父第十二代景行天皇の下、ヤマトタケルのはたらきで制圧統一される。そのヤマトタケルに「刀」(後に天皇の資格を証しするレガリアとなり「草薙の剣」と呼ばれるようになる)を授けたのは、ヤマトタケルの「オナリ神」(政治・政務・ガバナンスを担当する男兄弟を守護する役割を担う霊力を持つ姉妹に対する民間信仰)とも言えるヤマトヒメである。

 ヤマトヒメは、大和朝廷(纏向遺跡・景行天皇陵・箸墓・ホケノ山古墳)のある三輪山西南麓の倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)の檜原の地から近畿一円を廻り、言わば、大和朝廷の祭祀権を近隣諸国の豪族たちに承諾させ、その権威を天照大神の神威・霊威を込めた「三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)」に託し、特にその中の「草薙の剣(原称:天の叢雲の剣)」をヤマトタケルに授与し、ヤマトタケルはその強力な霊威を背景に、東国の統治を成し遂げた。その東国支配の軍事力の拠点がタケミカヅチを祭神とする鹿島神宮とフツヌシを祭神とする香取神宮である。両神宮の祭神は日本を護る軍神として今日に至るまで篤く尊崇されている。

 このヤマトヒメ-ヤマトタケルのペア人神力によって古代のガバナンスが成立したと『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』は伝えている。

 特に、『常陸国風土記』や『豊後国風土記』には注目すべき吟味が必要ななまなましい土蜘蛛伝承が満載で、古典研究として気が抜けない。

 まず第一に、天下(あまくだ)る神「普都大神(ふつのおほかみ)」の伝承。「古老」曰く、天地初めの「草木言問ひし時」に「普都大神(ふつのおほかみ)」という天降る神がいた。大神は「葦原の中つ国」を巡り、「まつろはぬ(服従しない)」山河の「荒ぶる神」を平定し終えて天に帰ろうとした。その時身に付けていた武器と玉をすべて捨てて白雲に乗って天に帰っていった。

 第二に、「まつろはむ国つ神や民」である土蜘蛛・国栖・佐伯氏の伝承。ちなみに、空海はこの常陸佐伯氏の末裔「佐伯眞魚(さえきのまお)」である。ここ(空海)にも脈々と素戔嗚門流が届いている。「古老」曰く、昔「国巣」がいて、名を「山の佐伯・野の佐伯」と名乗っていた。これは「ツチクモ(土蜘蛛・都知久母)」とも「ヤツカハギ(八束脛・夜都賀波岐)」とも呼ばれる土着の先住民を呼ぶ名であった。佐伯とは「騒ぐ者」(何を言っているかわからない者))、「さえぎる者」、天皇に従わなかった「まつろわぬ者たち」を指す。

 この「まつろはぬ」佐伯は、日本各地にあちこちに穴を掘ってつくった「石窟」や「土窟」(つちむろ)に居住していた。人が来ると土窟に入って隠れ、去ると外に出て活動した。彼らの活動は、いかにも荒ぶれていて、狼の性と梟の情を持ち、鼠のように窺い、狗のように盗むという荒くれ。近隣の住民と交流することもなかったので、「茨棘(うばら)」を仕掛けて黒坂命が殺害した。これがのちに「いばらき」の地名となった。

 第三に、『常陸国風土記』に見える、倭武天皇が海辺を巡幸した際、乗浜に到ると海苔がたくさん干してあったので、これによりこの地を「能理波麻之村(のりはまのむら)」と名付けたという「倭武天皇」(やまとたけのすめらみこ)伝承。『古事記』にも『日本書紀』にも各国風土記にもヤマトタケル「天皇」という表記はない。しかし、なぜか、『常陸国風土記』にだけはヤマトタケル「天皇」と讃えられているのである。

 加えて、第四に、「ヤト(夜刀)の神」伝承。古老曰く、「石村玉穗宮大八洲所馭天皇(継体天皇)」の世に箭括氏の「麻多智(またち)」という勇者がいて、新田を開発し、朝廷に献上したが、その時、蛇であるヤトの神が群れの総勢を率いて妨害したため新田開発ができなくなった。ヤトの神は蛇のようだが、頭に角がある。また、家族を率いて難を免れようとする際に、一人でも夜刀神を見てしまうと、その家は滅び、子孫も絶えてしまうという。郡の野原にたくさん棲んでいる。

 これにマタチは大いに怒り、鎧兜を身に着けて自ら鉾を取り、ヤトの神を打ち殺して追い払った。そして、山の入口の堀に境界を示す柱を立て、「これより上は神の土地とすることを許す。だが、これより下は人が田を作る場所である。今後は私が神主になって永遠に敬い祀ろう。願わくば祟らずに恨まないで欲しい」とマタチはヤトの神に告げた。それから社殿を設けて神主になった。それからまた田を作り始め、マタチの子孫は代々神主を受け継いで、今に至る。

 その後、難波長柄豊前大宮天皇(孝徳天皇)の御世に、壬生連麿が初めてその谷を占有し、池に堤を築かせた時、夜刀神が池のほとりの椎の木に昇って集まり、時が経っても去ろうとしなかった。そこで麿は大声で「この池を修造し、お前たちに誓わせ、民を活かそうとしているのだ。何処の天津神・国津神が従わないというのか」と叫ぶと、すぐに労役の民に「目に見える様々な物や魚・虫の類は、憚り恐れることなく悉く打ち殺せ」と命じた。すると、ヤトの神たちは逃げ隠れてしまった。

 その池は、「椎井(しひのゐ)」と呼ばれている。池の西には椎の木があり、そこから清い泉が湧き出している。この井から名を取って池の名とした。すなわち、向かいは香島の陸之駅道である。

 郡より南に7里いったところに男高里(をたかのさと)がある。古に佐伯の小高(ヲタカ)という者が住んでおり、この者に因んで名付けられた。国宰の当麻(タギマ)の大夫の時に池を築き、今も道の東にある。池の西の山には、猪・猿がたくさん棲んでおり、草木も密生している。南には鯨岡(くぢらをか)がある。上古に海の鯨が腹ばいになってやって来て、ここに横たわった。ここには栗家池(くりやのいけ)がある。その栗が大きかったので、池名とした。北には香取神子之社がある。

 麻生里(あさふのさと)。古に沢の水際に麻がたくさん生えていた。また、竹は太く、長さは1竹(約3m)余りであった。里の周りには山があり、そこには 椎・栗・槻・櫟 が生えており、猪・猿が棲んでいる。また、その野では力強い馬が出る。飛鳥浄御原大宮臨軒天皇(天武天皇)の御世に、同じ郡の大生里(おほふのさと)の建部の袁許呂(ヲコロ)は、この野で馬を得て朝廷に献上した。いわゆる行方の馬である。別の説では茨城の里馬といわれるが、これは間違いである。

 第五に、国栖(くず)のヤサカシ・ヤツクシ伝承。彼らは首長となり、穴を掘って砦を造り、住んだ。そして、官軍を狙って隙を窺おうと、身を伏せて守りを固めていた。建借間命が兵を遣わせて追いやると、賊はにわかに逃げ帰り、砦の戸を堅固に閉ざした。そこで建借間命は大きな計略を思いつき、決死の覚悟を持つ兵を選んで山の曲がり角に伏せ隠しておき、それから賊を滅ぼすために造った兵器を備えさせた。それから渚を飾り、舟を連ねてイカダを編み、雲のような天蓋を翻し、虹のような旗を張った。そして、天之鳥琴(あめのとりごと)・天之鳥笛(あめのとりぶえ)の音を潮の波音と共に響かせ、杵を鳴らして唄を歌い、それを7日7夜続けて遊び楽しみ舞い踊った。その時、賊の仲間が盛んな音楽を聞くと、男女ともに皆で家から出てきて、(建借間命の葬儀だと思って)浜に並んで歓び笑った。

 そこで、建借間命は騎兵を走らせて砦を閉鎖させて、賊を背後から襲撃し、一族を悉く捕らえると、一時に焼き滅してしまった。この時に「痛殺(いたくころす)」と言ったので伊多之郷(いたくのさと)と呼ばれるようになった。また「臨斬(ふつにきる)」と言ったので布都奈之村(ふつなのむら)と呼ばれるようになった。また「安殺(やすくきる)」と言ったので今は安伐之里(やすきりのさと)といわれている。また「吉殺(えくさく)」と言ったので今は吉前之邑(えさきのむら)といわれている。

 板来の南の海には州がある。ここの周囲は3、4里ばかりである。春になると香島・行方の二郡から男女が皆でやって来て、州で白貝や様々な貝類を拾う。

 第六に、日本武尊伝承。この郡から東北15里のところに当麻郷(たぎまのさと)がある。

「古老」が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が巡行の際に郷を通り過ぎたが、ここには佐伯がおり、名を鳥日子(トリヒコ)と言った。この者はヤマトタケルに逆らったので殺された。それから屋形野の仮宮に行幸した際に車駕の通る道が狭く、地面も凸凹していた。この悪路(あしきみち)から名を取って当麻という。土地の言葉では悪路のことを「多支多支斯(たぎたぎし)」という。ここの野は痩せているが、紫は生えている。ここには香島・香取の2神の子之社がある。その周囲の山野には、櫟・柞・栗・柴があちこちに生えて林を成しており、猪・猿・狼がたくさん住んでいる。

 第七に、 国栖(キツヒコ・キツヒメ)伝承。ここより南に藝都郡(きつのさと)があって国栖の寸津毗古(キツヒコ)と寸津毗賣(キツヒメ)が住んでいた。寸津毗古(キツヒコ)は行幸した時に命令に背き、無礼な振る舞いをした。そこでヤマトタケルは剣を抜いて直ちに斬り殺した。

 これに寸津毗賣は恐れ愁いて、白旗を掲げながら道に出迎えて拝礼した。ヤマトタケルは哀れんで恵みを与え、放免して家に帰してやった。また、ヤマトタケルが乗輿(みこし)に乗って小抜野の仮宮に行幸した際、寸津毗賣は姉妹を率いて誠に心を尽くし、雨風も避けることなく朝夕に仕えた。

 ヤマトタケルは、その真心のこもった礼儀正しさを愛でて慈しんだ。この慇懃惠慈(ねもころうるはしみ)ということに由来して、この野は宇流波斯之小野(うるはしのをの)と呼ばれるようになった。

 その南には田里(たのさと)がある。息長足日売皇后(神功皇后)の御世に この土地には古津比古(コツヒト)という人が居た。この人は3度 韓国に遣わされたが、その功労を重んじられて田を賜ったので このように名付けられた。また、ここには波耶武之野(はやむのの)がある。倭武天皇(ヤマトタケル)がこの野に宿って弓弭を修理させたので この名が付いた。弓弭が波耶武(はやむ)あるいは波聚武(はずむ)と訛ったものと思われる。野の北には海辺があり、そこには香島の神子の社がある。土は痩せているが、櫟・柞・楡・斗が1、2ヵ所に生えている。

 これより南には相鹿(あふか)・大生里(おほふのさと)がある。古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が相鹿丘前宮(あふかのをかざきのみや)に座していた。その時、膳炊屋舍(御供を調理する舎)を浦の浜に構えて、小舟を並べて橋を編み、御在所に通わせた。この大炊(おほひ)から名を取って大生之村(おほふのむら)と名付けた。また、倭武天皇(ヤマトタケル)の后である大橘比売命(オホタチバナヒメ)が大和から降ってきて、この地で天皇と逢った。これによって安布賀之邑(あふかのむら)と呼ばれるようになった。

 第八に、『常陸国風土記』の「香島郡」のくだりには、「香島郡」として、東は大海、南は下総、常陸との堺には安是湖、西は流海、北は那賀、香島の堺には阿多可奈湖がある、と記載され、「古老曰く」として、難波長柄豐前大朝馭宇天皇(孝徳天皇)の御世の己酉の年、大乙上の中臣□子(鎌子といわれる)・大乙下・中臣部兎子(なかとみべのうのこ)らが惣領の高向大夫に申し出て、下総国の海上国造の領内である軽野より南の1つの里と、那珂国造の領内である寒田より北の5つの里を割いて、別に神郡を置いた。そこにあった天之大神社(鹿島神宮)、坂戸社・沼尾社の3社を合わせて香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)と総称するので、これに以って郡に名付けられた。土地の言葉に「霰(あられ)ふる香島の国」というものがある。

 のちに常陸国一宮と尊崇される「香島神宮」の由来については、次のように記述される。

澄んだものと濁ったものが混じり合い、天地の初めよりも前に、諸祖天神(土地の言葉で女神祖を賀味留弥[カミルミ]・男神祖を賀味留岐[カミルキ]という)が八百万の神々を高天原に集めた時、諸々の祖神たちに「今、我が孫が統治すべきなのは豊葦原水穂之国である」と告げた。そこで高天原から降りて来た大神の名を香島天之大神という。天にある時は日香島之宮(ひのかしまのみや)と名付け、地にある時は豊香嶋之宮(とよかしまのみや)と名付ける。土地の人が言うには、豊葦原水穂之国の統治を委任しようと詔した時に「荒ぶる神ら、また、石根・木立・草の葉までは言葉を話して、昼は蝿のようにうるさく、夜は火が輝く国であった。ここを平定する大御神である」と言い、天降らせて皇孫に仕えさせたという。

 第九に、「伊福部岳」のくだりには、次のようにある。

 ――昔、兄と妹が同じ日に田を作ったが、遅い時間に田植えをすると伊福部神(いふきべのかみ)の災いを被るといわれていたのに、妹は遅い時間に田植えをした。その時に妹は雷鳴に撃たれて死んだので、兄は大いに嘆き恨んで、妹の仇を討とうと思ったが、その居場所が分からなかった。

 その時、一羽の雌雉が飛んできて肩に止まった。そこで、兄は績麻を取って雉の尾に麻糸を括り付けると、雉は伊福部岳まで飛んでいった。兄が麻糸を追って進むと、やがて雷神の住処である石屋に辿り着き、そこで寝ていた雷神を斬ろうと太刀を抜くと、雷神は恐怖して「助けてくれるならば貴方に従い、100年の後に至るまで貴方の子孫に雷の被害がないようにしよう」と助けを乞うた。兄はこれを聞いて許してやることにし、また雉に助けてもらったことを感謝して「もし、雉に危害を加えたら病に冒されて生涯不幸になるべし」と誓った。そのため、この土地に住むものは、雉を食うことはない。

 

 日本列島の統治をめぐって、起承転結のような段階的転回があった。

① 国生み・神生み(イザナギ・イザナミ)

② 国作り(スサノヲ・大国主)

③ 国譲り(大国主-出雲大社・杵築大社・タケミカヅチ-鹿島【香島】神宮・タケミナカタ―諏訪大社)

④  国治め(神武天皇・崇神天皇・景行天皇・ヤマトタケル―伊勢神宮・樫原宮・大神神社)

 そうした列島統治の過程で「日本文化」が醸成されて来た。その根幹を成すのは、神話伝承、聖地・神社、祭礼・祭祀である。これ自体は、縄文時代から基本的に変わらない。

ところで、三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、日本文化は「オリジナルとコピーの弁別」を持たないと主張した。たとえば、伊勢の神宮の式年造営では、すべての社殿を新たに造り替えて、20年毎に東西に式年遷宮と称して東西の水平移動をくりかえす。この時移されたコピーに「オリジナルの生命」が宿り、「コピー自体がオリジナルになる」という。これは天照大神と各代天皇との関係と同じで、その天皇の移し替えの儀式が「大嘗祭」であるとする。

 また、日本の国民文化は「再帰性・全体性・主体性」の三特性を持つとする。

そして、「文化防衛」するとは、思想や政治形態ではなく、日本文化で、「守る」という行為が「生命の連続性を守るための献身的な自己放棄」となるという。それは、「主体と客体の合一」で、そこでは、「創造することが守ること」であり、「守ることが革新」であり、「〈生み〉〈成る〉こと」であるという。

 横尾忠則と稲葉俊郎は、「芸術と礼節の交点に霊性が宿る」という言葉を三島由紀夫が死をかけて示した遺言だと受け取ったという。さらに、稲場は、三島由紀夫の遺言は、横尾忠則という最高の仲介者を経て、50年の時で熟成された上で、この世との通路を得たとも述べている。 

 このような日本海スサノヲ~大国主連合国の心と魂をまずは「スサノヲの子分」である鎌田東二が神道神学的に位置づけ直す必要がある。そして、それを未来の日本再生、第三の「岩戸開き」、すなわち「新(真)まほろば国作り」に結びつけるには、『古事記』や『日本書紀』や『先代旧事本紀』に記されてきた「天つ神」と「国つ神」の再結合・再構築、「神合わせ・国合わせ」が不可欠の条件となる。

 そしてその基幹に、愛といのちの讃歌の歌心と出雲三種の神器の「命主」の息吹が、また、能登の真脇遺跡(ウッドサークル)や青森の三内丸山遺跡(巨木建立)のスピリチュアリティ(霊性・深い精神性)が甦らなければならない。

 そのような息吹の生成を取り戻してこそ、長谷川敏彦・鎌田東二対談集『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く――医療と宗教のパラダイムシフト』(集英社、2024年12月13

日刊)の中で示している多死時代の未来社会モデルが実現可能となり、J・W・T・メーソンが『神道神話の精神』(高橋ゆかり新訳、鎌田東二監修・解説、作品社、2025年1月29日刊、原著1939年)で次のように指摘していることも可能となる。

 

『日本書紀』が伝えるオオクニヌシに与えられた最高の栄誉は、タカミムスビノカミがオオクニヌシに述べた次の言葉に包括されている。「夫(●そ)れ汝が治(●しら)す顕露(●あらは)の事は、是吾孫(●すめみま)治すべし。汝は以て神事(●かみのこと)を治すべし(あなたが治めている現世のことは、皇孫がいたしましょう。あなたは幽界の神事を受け持ってください)」

 ここに、出雲遠征の霊的な意味の神道的極致がある。オオクニヌシは以前に、自己の個性を神霊として認識した。また、自然界そのものの神霊も認識していた。オオクニヌシに神事を治めるよう任じたことで、天は、個性と結びついた神霊の普遍性をオオクニヌシが神性の究極的な理解として捉えたことを認めたのである。オオクニヌシの任務は、個性化しながらも普遍的全体を理解する地上の神霊に関わることであった。しかし、オオクニヌシが神事を治めることは、こうした神道の信条を人々に強いる権能があることを意味したのではない。なぜなら、天そのものがオオクニヌシにそれを強制することができなかったからである。普遍性と個性という神道の意味を自己の内で認識することは、自然発生的に起こらなければならない。

 オオクニヌシを神事の統治者としたことは、自然界と自己の神性、および普遍的霊性を理解した最初の人間であることを称えるものである。そして、オオクニヌシが理解したことは、ほかのすべての人も同様に理解することができる。この意味での統治というのは、オオクニヌシが個人の霊性と、普遍的神霊の一体性に対する個人の責任を認識したことを人々が想起し、導きを受けることである。

 タカミムスビノカミが個性と統合を一人格の中に体現する天上における神道の代表であるとすれば、オオクニヌシは同じ原理の地上における代表である。オオクニヌシのために建てられた神社〔出雲大社〕は、この二重の意味を有する。それは個性的な努力と同時に、個々の存在が普遍的神霊の一部であることも象徴している。出雲大社は伊勢神宮とは異なる。伊勢神宮が天照大神を通じて、すべての個人とすべての力が結びついた全体性を象徴するのに対し、出雲大社は、地上において各個人は自己でありながら、その個性は普遍的全体性の中に融合していることを思い起こさせる場所である。(205―206頁)

 

 メーソンは、伊勢神宮―天照大神を「普遍的全体性」、出雲大社―大国主神を「個性そのもの」とし、この「個人の創造的活動」がムスビの発展性を続けていく必要があるとして、神道が「普遍性」と「個性」の「調和」をはかっていることを熱く論じている。

 『古事記』と『日本書紀』は共に、デフォルトとして、天つ神と国つ神、天上世界と地上世界の二元性・両極性を設定している。それによって、それが対立や分断に向かうのか、統合や調和や補完に向かうのかのタスク(課題)を与えていた。そのタスクを大国主は二人のわが子に“Yes”(兄コトシロヌシ)と“No”(弟タケミナカタ)の両極で示し、常陸国一宮・鹿島神宮の建御雷神(●たけみかづちのかみ)と信濃国一宮・諏訪大社の建御名方神(●たけみなかたのかみ)との一騎打ちで解の方向性を覚悟し、みずからは中道的和解(顕幽/顕露―神事棲み分け的補完)という形で紛争解決・課題解決のひとまずの答えを出した。

 

 だが、この「課題解決」が、今日に至る日本史において先行事例として参照され、第二の国譲りとしての大政奉還や江戸城無血開城、第三の国譲りとしてのポツダム宣言受諾=無条件降伏―昭和天皇のいわゆる「人間宣言」や日本国憲法や日米安保条約や日米地位協定にまで影響を及ぼし、負のスパイラルを生み出しているとするならば、ここで明確に接続と再結合を、つまり死と再生をやり直さなければならないであろう。

 「スサノヲの子分」たる私が背負ってきたのは、この「啼きいさちる神スサノヲ」のデフォルト設定とワンダリング(流浪)の行方を矛盾なき明晰(道理)と修復的正義と和解に接続する「神道神学的命題」を提示することにほかならない。それこそが「スサノヲの冒険~八岐大蛇退治」の道行きの成就となるであろう。

 

 日本海沿いに点在する出雲系神社をつないでおこう。

 ①出雲大社・命主社

 ②美保神社 大国主神の息子事代主神を祀る

 ③白兎神社

 ④乙見社 大国主神の娘の下照姫を祀る

 ⑤出雲大神宮

 ⑥出雲姫神社 三穂津姫命

 ⑦三井神社 八上姫を祀る

 ⑧気多大社 大国主神を祀る

 ⑨須須神社 大国主神の娘御州州姫を祀る

 ⑩岩木山神社 顕国魂神(大国主神の別称)

 

 

 

奥能登鎮魂25首

奥能登は 島の髄なり むまれてしむで 生まれて死んで 珠洲は鈴鳴り

脳髄に 打ち込まれたる 木柱の 星座見上げて 真脇和つなぎ

沖能登は 玄の玄なり イルカ星 点じて消えて 三密遊戯世(さんみつゆげゆ)へ

椿讃 出雲路ゆえの 幽(かく)れ里 出湯入湯に 湯醒め裸生(らしょう)ぞ

紋紋と いのちばらまく をろち舞 月夜をぬけて さちはこびつぐ

とほしべに めがみ たちゆく ひげだいこ やぶれかぶれの 大彦舞もと

幾山河 巻きに巻いての 晒しっ馘(くび) 血糊り袴の 意気軒高よ

男鹿女鹿(おがめじか) 濡れ行灯(あんどん) に 手を添えて 子連れの妣(はは)は 朧なりけり

とてもなく 行方悲鳴の 仏具店 孫の手を借り 阿弥陀仏 仏

添え軸の きざはしさやげり 冷えたる能 この世の涯(はて)を 踏み外し跳ぶ

赤杭を 打つ手ひろげて 風を容れ 大文字(だいもん)送り火 赤龍狼煙(せきりゅうのろし)

祈願花 手折りて終に 捧げ往く 瑠璃光寺浄土の 七色の鳶

どの御位牌を遺します? 仏壇トリアージ いつ果てるなく 黄泉路常世路

吾はもう 諸国一見 すら見えぬ蛾 メコンラプラタ ガンガーエニセイ

遠野なる 地平も霞む 奥山の 森に埋もる いにしへごころ

飛び銀河 遍路往来 花入水 いのちからがら 踏み越えこえて

あらたまに 燃え比叡 山立つ山河(さんが) あおみどろ 巫女の緋袴 くれない天女

流星は 諸行無常と 翔(か)けにけり 恐山ゆ比叡まで イタコ巡礼

語りとは 語り得ぬもの 招くわざ カルデラ噴火 イタコ憑霊

ガンならば往け 日輪の島へすぐ 時逆巻きて 身を隠す前に

外れた顎をはずしたまま 電車に飛び乗って有楽町へ行った

無数の始祖鳥は行方不明なれども 行く先も不明

ふところに夢精卵入れしまま抱き入水 安徳徳子の風車(かざぐるま)

ハルマゲドン 内臓垂れ流しつつ その日始祖鳥は 飛ぶ空をせつなく探す

 

 

三島由紀夫に捧ぐ

不二に立つ 茜天神 咲く花の 匂ふは おのが直霊(なほひ)なりけり

天籟裂け 地籟も割れて 人雷燃ゆ 火も水も皆 荒魂(あらたま)尽くし

 

 

鎌田東行、佐藤西行に捧げる10首

花祭り 鬼さえ鬼と 知らずとて まだ見ぬ君の 天の乳房か

いのちはてて 超えてゆくらむ 奥山を 照らせ今宵の 不死の新月

身も心も 尽き果ててなほ 息消沈 秋の気配に 立ち惑ひける

仏には仏の道の巡り花 神には神の魂寄りの歌

願うても願うてもうち砕かれて 木端微塵の流星の人よ

捨つるべき 何ごとのあるや 花時雨 道なき道に 拾う神あり

 

 

花折立待津軽鎮魂16首

「諸国一見の修験者」として京都・花折峠から津軽海峡(恐山・岩木山・立待岬)まで鎮魂供養の旅を続けて函館山の麓で佐藤泰志の霊と再会す。

 

花と散る 身も心もたましいも 立待の海に 沈みて浮かぶ

斬り合いの 言葉を捨てて 虚空(そら)を翔ぶ 花折峠は 今日も吹雪か

新古今 西行定家 後鳥羽院 言霊坂をともに 転びまろびつ

海峡ぞ 下北津軽の 晒し首 啄木修司に 御詠歌捧ぐ

恐山 行方不明の たま拾い 重波(しきなみ)跨ぐ 海遍路

差し違え 同行二人の 三密路(さんみつろ) 荒魂高鳴り 悉皆成仏

 

荒海を 割れたる胸に 刺し入れて 自力を離れ 遠岬往く

 

魂求(たままぎ)の 紺碧紅玉 宇曾利湖を 過ぎて ひといき極楽浜

都から 遠く離れて 顕幽(けんゆう)の 堺を越えて 星砕け散る

海峡を 越え逝く 幽霊船(たまぶね)に 吾は身を投ぐ 彼岸花とも

ひるめしは まだかはだかで うみにいる とこよはてなし かっぷくのはら

たまきはる いのちかがやく 春の海 生死(しょうじ)の道の 行方知らずも

 

ひのもとは あめつちかみひと やほよろづ

    いのちのうみに うかぶまほろば

  ふとまにの みかがみきよく ながれつく

    よしのまほろば てんかはしみづ

  うつせみの なくそよこそ くしびなれ

    かみむすひたけび ほしとちるらむ

とこしへの とこよのとこを とことこと 

ひたすらあゆみて とこわかのゆめ

 

<了> 


参考文献

長谷川敏彦・鎌田東二対談集『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く――医療と宗教のパラダイムシフト』(集英社、2024年12月13日刊)

正津勉『裏日本的――くらい・つらい・おもい・みたい』(作品社、2023年5月20日刊)

J・W・T・メーソン『新訳 神道神話の精神』(高橋ゆかり新訳、鎌田東二監修・解説、作品社、2025年1月29日刊)

日本臨床宗教師会編『スピリチュアルケア――インターフェイスな臨床宗教師』(作品社、2025年3月15日刊)

江原啓之・鎌田東二対談集『未来が視えない! どうしてこんなに通じ合わないんだろう?』(集英社、2025年3月25日刊)

 


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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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