top of page

スサノヲの冒険 第16回

鎌田東二

冬の星座 出雲魂


春の夜明け

 

「はよ起き! 父ちゃんが死んだんじょ。」

 ふるえるような、はりさけるような母の声で目が覚めた。

どんな夢を見ていたのか、なにもおぼえていない。そのあとのことも、いっさい記憶がない。

 一九六六年三月十七日、交通事故で突然父が死んだ。私の高校受験の合格発表がある前日のことだった。父は私が合格するかどうか心配していたようだった。

 だが、合格の知らせも聞かずに、前日の朝、突然死んだのだった。

 

 翌日の徳島新聞朝刊に、父の死と私の合格発表が同時に載った。

 私の記事は、一行。合格高校名と合格者名の記事。

 父の記事は、三行。小見出しがあった。「酔って、転んで、死ぬ。」

 その日の深夜、父は仕事先でご馳走になり、その後立ち寄った桑野町の食事処でさらに酒杯を重ね、そのあとオートバイで家に帰ろうとして、桑野川の橋の近くのカーブのところで、曲がり切れずにか、対向車に目がくらんでか、事故原因は不明であったが、転倒して道路下に落ちたのだった。

 目撃者がいたのか、そのあと通り過ぎた人がいたのか、救急車で徳島大学附属病院に運ばれたが、途中で息を引き取った。徳島市蔵本町にある徳島大学附属病院での死亡確認は三月十七日午前三時三十五分。

 その間、私たち父の四人の子どもたちは、そのようなことが起こっているとはつゆ知らず、それぞれの寝床で熟睡していた。

 それが、朝まだき、甲高い母の震えるような声で突然眠りを破られたのだった。

 振り返って思い起こすと、母も動顛していて、何をどうしていいのか、よくわからなかったのだろう。

 

 青天の霹靂という言葉があるが、予想外の出来事だったことは間違いない。

 母を襲った衝撃がどのようなものであったか、そのときも、いまも、まったくわからない。

 印象としては、気丈にふるまう母の姿はある。しかし、どのような表情をしていたかとか、どのような仕草をしていたかとか、兄や姉の表情がどうだったかとか、一切記憶がない。

 記憶があるのは、父の葬儀が終わって一週間ほど経ったころ、弟が家の前の田んぼの畦道でボーっと座っている姿だけだった。

 

 だが、誰が死のうが生きようが、日々の日常は淡々といとなまれ、過ぎてゆく。

 

 四月になって、私は高校一年生となり、入学式に出席した。その瞬間、あえて選択した高校を間違ったと思ったのだった。

 後から考えると、その誤った選択の父なき高校生活の三年間が今の私を作ったといえる。母の苦労や兄弟たちの失意をよそに、私はふしぎな高揚感と絶望と道なき道の戸惑いの中にあった。

 私の前にレールも道もなかった。見えなかった。どこから来て何処へ行くのか。

 自由であったが、どうしていいか、わからなかった。

 

 二年後の一九六八年四月、九州の青島への一人自転車の旅から帰ってきて、私は口から火山弾を吐き出すようにして詩を書き始めた。

 言葉は私の口中から反吐のようにどろどろと出てきて、止むことがなかった。

 

 それが今もつづいている。

 

 私の地殻変動は、父の死から始まっている。

 

 その父が、戦争トラウマを抱えていたことを子どものころから薄々とは感じていたが、二年前にステージⅣの大腸がんが発覚してはっきりとわかるようになった。

 父・田中義美は、大正九年(一九二〇)三月三日、徳島県那賀郡桑野村大字桑野字大谷四十二番地で生まれた。父・田中嘉吉、母・田中リキの六男末っ子として。

 母リキは、乳飲み子の義美を抱いたまま、ある朝死んでいた。父義美は、生後三ヶ月で冷たくなった母親に抱かれたままある朝目覚めたのだった。当然、そのことの記憶はないはずだ。

 義美は、桑野尋常小学校に入学し、卒業後、桑野尋常高等小学校に進んだ。当時珍しいバスケット部に入り、活躍した。背が高く(一メートル七十三センチ)、シュート力もあった。五歳年下の下級生だった母鎌田フミヨは上級生の田中義美のその姿をあこがれをもって見上げていたという。

 

 が、家が貧しく、旧制富岡中学校に進学することができなかった。バスケット部の親友の樫原君は富岡中学に行き、卒業後、徳島師範学校(現徳島大学教育学部)に進学して小学校の教諭となった。

 父に強い向学心と進学希望があったことは、その後の彼の軌跡をたどると見えてくる。

 はっきりとした証拠写真が私の手元にある。写真の表は、陸軍軍帽をかぶり、首と両手に近い裾にふかふかのあたたかそうな毛皮の越冬服の上着を着こんで腕組みをしている鎌田義美。その裏には、かなり達筆の細字筆書きで、

  昭和十五年十二月

  宇都宮陸飛校

     名取飛行場

      二十一才














とある。

 鎌田義美は、大正九年(一九二〇)三月三日生まれである。であれば、「昭和十五年(一九四〇)十二月」は、満二十歳、数えで二十一歳。鎌田義美が属していた「宇都宮陸飛校」は、正式名称は「宇都宮陸軍飛行学校」で、昭和十五年十月一日 に「宇都宮陸軍飛行場」に開設された飛行機操縦を行なう少年飛行兵や将校や下士官に対して飛行機の基本操縦教育を訓練した「日本陸軍軍学校」の一つである。その分教所が、仙台陸軍飛行場、名取陸軍飛行場、磐城陸軍飛行場、那須野陸軍飛行場、金丸原陸軍飛行場、前橋陸軍飛行場、下館陸軍飛行場、古河陸軍飛行場の八つの飛行場であった。

 この年、昭和十五年九月十三日に、「勅令第五七七号 宇都宮陸軍飛行学校令」が当時の内閣より発せられている。

 

宇都宮陸軍飛行学校令 宇都宮陸軍飛行学校ハ飛行機操縦ニ從事スル少年飛行兵及少年飛行兵ト為スベキ生徒ヲ教育スル所トス 生徒ハ東京陸軍航空学校ヲ卒業シタル者ヲ以テ之ニ充テ飛行機操縦ニ從事スル少年飛行兵タルニ必要ナル学術ヲ修習セシム通常毎年二囘入校セシメ其ノ修学期間ハ概ネ一年トス 陸軍大臣ハ臨時ニ兵科(憲兵ヲ除ク)将校以下ヲ召集シ必要ノ修学ヲ為サシムルコトヲ得 生徒ノ教育綱領ハ陸軍航空総監之ヲ定ム 生徒ノ教育ノ實施ハ教則ニ依ル其ノ教則ハ前条ノ教育綱領ニ基キ陸軍航空総監ノ認可ヲ受ケ校長之ヲ定ム 少年飛行兵、生徒及第三条ノ規定ニ依リ召集シタ

 

 こうして、徳島県那賀郡桑野町の鎌田義美は、「東京陸軍航空学校ヲ卒業シタル者」の一人として、「飛行機操縦ニ從事スル少年飛行兵及少年飛行兵ト為スベキ生徒ヲ教育スル所」に、「飛行機操縦ニ從事スル少年飛行兵タルニ必要ナル学術ヲ修習」するために、急ぎ書類を作成して送り、「陸軍航空総監ノ認可ヲ受ケ」、志願して、宮城県名取の陸軍飛行学校に入り、一年間の学習と訓練の後、正式の航空兵となり、満州に渡り、ロシアに近い満州帝国黒龍江省のハルビン(明治四十二年【一九〇九】枢密院議長の伊藤博文はハルビン駅前で安重根に暗殺されている)に配属された。

 ちなみに、同年に陸軍航空総監部が定めた同校の教育内容は次のようなもので、けっこう専門的で高度なものである。

 

操縦候補生教育

堅固な志操と高潔な品性を陶冶することにより幹部となるにふさわしい人格を養成し、かつ戦時飛行機の操縦に従事する初級将校に必要な基礎の学識技能を与えることを目的とする。

術科:一般教育・操縦術・空中航法・機関工術・航空用具の取扱・内務および諸勤務。

学科:作戦要務令・航空兵操典・軍制学・地形学・空中航法学・航空法規・気象学・軍陣衛生学・その他。

 

八十三条下士官候補者教育

軍人としての徳性を涵養し航空兵科初級下士官に必要な学術を修得させるとともに、戦時飛行機の操縦に従事する下士官に必要な基礎の能力を備えさせることを目的とする。

術科:一般教育・操縦術・空中航法・機関工術・航空用具の取扱。

学科:作戦要務令・航空兵操典・地形学・空中航法学・航空法規・気象学・軍陣衛生学・その他。

内務および諸勤務

 

 この学習と訓練を受けて、「少年兵」として満洲帝国に派遣され、満州での知能テストで最優秀となり、満鉄の総裁に呼ばれて褒められたという。

 

 そのことを姉は父から聞いて覚えているらしい。そのことを最近知って、父は姉の前でそのようなことを語っていたのか、と不思議な気持ちがした。

 

 というのも、三人の息子たちの前では、酒に酔うと、まっぱだかになって、「わしの人生は余生だ。同期の戦友はみな死んだ。特攻隊で。わしと、もう一人、肺尖カタルになって陸軍病院に入り、除隊した。もう一人の生き残った戦友は、戦後、民間旅客機のパイロットになったが、墜落事故で死んだ。残った同期は、わしだけじゃ。」

 と、泣くように、嘆き叫ぶように言い放って、朗々と何曲も軍歌を歌いつづけるのだった。その「儀式」がひとしきり終わるまで、私たち息子三人は正座したまま畳の上に座らされているのだった。

 

 ある朝起きると、家の庭の木がすべて斬られていた。軍刀をもってよく手入れしていた父が何を思ったのか、怒りにかられてか、悲しみにつきうごかされてか、庭木を全部斬りはらってしまったのだった。誰もそれを止めるものはいなかった。脳溢血で寝たきりの祖父も乳がんの義祖母も母もだれも、止めることはできなかった。

 

 「酔って、転んで、死ぬ。」と三行で徳島新聞に死亡記事を書かれた父は、死の間際何を思っていただろう。死んで逝った戦友たちのところに逝けることに安堵のこころもちがあっただろうか。

 

 最近、父の死を、それとして受け止めることができるようになった。

 これまでは、みじめとまでは思わないが、つらい死だっただろうと思っていた。

 しかし、まんざらそうでもないかもしれないと考えるようになった。

 じつは、父は、いつも早くおれも死にたいと思っていたのではないだろうか。つねに、自分も早く死ぬべきだ、と思っていた。そうにちがいない、と確信するようになった。

 

 戦友に対する自責の念、そして、自己処罰の念慮に常に引き戻されていたのではないか。自殺はできない。しかし、事故死であれば。

 父はオートバイに乗っていた。元優秀な航空兵だったようだから、運転技術には自信があったはずだ。オートバイに乗っている姿は颯爽としていた。いくらか長身で体格もよく子どものころは女子児童のあこがれの美少年であったことは、残されている写真からもうかがえる。

 父は、航空兵として、特攻隊の一員として知覧の飛行場から飛び立つことを当然と考えていただろう。

 

 だが彼は知覧から飛び立った特攻隊員の一員にはなれず、靖国神社に英霊として祀られることもなかった。戦友たちは、ほぼ全員靖国の英霊となっている。

 おれの余生はなんだったのか。父の胸裏と脳裏に常に甦る戦友たちとの日々。そのときの甘酸っぱくも苦いような切ないような感情。取り戻すことのできない十代の終わりの日々。戦争のさ中ではあったが、精一杯生きて、精一杯死んだ。

 その戦友たちに比べて、戦後のおれはのんべんだらりと子どもたち四人を得て、このようなふがいない日々を過ごしている。

 彼はどうしようもない自己処罰感に日々苛まれていたのではないだろうか。酒を飲むと、それが一挙に吐き出された。その「反吐」を受け止めたのは、三人の息子たち、中でも二男の鎌田東二、私だった。

 

 父が死んで、私は一切悲しむことはなかった。一滴の涙も出なかった。

 そうではなく、むしろ、開放感があった。おれは自由だ。父を喪ったが、自分は自由である、という開放感があった。それは、おそらく、兄にも、弟にも、姉にもなかった感情であり感覚だっただろう。

 反抗期となり、父に向って反撃の拳を振り上げたとたん、父が不在となった。そんな感じもあった。

 それは、哀しみではなく、開放ではあったが、しかし、自分はどこへ行けばよいのか、まったくわからない無道の渦中にあった。

 

 父の死から始まるわが家のてんやわんやについても、父の葬儀のことについても、まったく記憶がない。思い出せない。

 私は十四歳の終わり。あと三日すれば三月二十日になり、十五歳になるはずだった。

 こうして、私の十五歳は、不幸ではないが、無道無策で始まった。

 

 

夏の行方

 

 その夏がどんな夏だったか、いまとなってはほとんど思い出せない。

 ただ一つのことを除いては。

 

 その夏、七月の中頃、我が家が徳島県下で一軒だけ集中豪雨により、裏山の土砂崩れに呑み込まれ、全壊してしまった。

 右隣の家とは五メートルも離れていない。左隣の家とは、小さな畑を挟んで十メートルの距離。

 だが、奇妙なことに、両隣にはまったく何の影響もなく、我が家だけがピンポイントで全壊したのだ。午後七時ごろのことだった。

 

 家の中には、母が一人で、兄(長男)と姉(長女)の帰りを待っていた。

 阿南市富岡町にある電電公社に勤めていた姉の帰り、豪雨だったこともあり、桑野駅まで兄が車で迎えに行っていた。

 突然、ゴーっという物凄い音とともに地響きがした。

 母は、咄嗟に、動物のように、一目散に家の中から土砂降りの雨の中、外に飛び出た。そして、庭に出て、後ろを振り返った。

 見る見るうちに、わが家の母屋が土砂に呑み込まれ、押し流されてきた。身の安全をはかりながら、その仔細を見つめていた。

 その時の母の気持ちがどのようなものであったか、訊く機会は何度もあったはずなのに、一度も訊いたことはない。

 

 ほどなくして兄が姉を助手席に乗せて家に戻ってきた。そこに、土砂降りの中、ずぶぬれになりながら呆然と突っ立っている母と土砂に呑み込まれた我が家を兄と姉は目撃することになった。

 その時の兄と姉の気持ちについても、一度も訊いたことがない。

 

 何十年もの生活を重ねてきた自分たちのにおいのしみついた家を喪失した彼らが、その時、どのような思いでいたのか、一度も訊いたことがないし、想像力をはたらかせたこともない。

 そうなのか。そうだったのか。そうなるのか。

 そのことを知って、ただ、そのように感じただけだった。

 そして、もう金輪際母に無心することはできないと覚悟した。

 

  フーテン気質のぬけない能天気な学生だった私が社会的な意味で自立したのはこの時だったと思う。一九七二年七月のことだった。

 

 

秋の気配

 

 父は春死んだ。

 が、祖父母は秋に死んだ。

 秋の気配は、私にはつねに祖父母の死とともにある。

 

 明治二十一(一八八八)年十月二十四日生まれの祖父鎌田藤七(のちに東助と改名)は、昭和三十八年十月二十六日、秋のある日、この世を去った。行年七十六歳だった。藤七は「七番目の子ども」ではなく、父鎌田辨蔵、母クスノの長男として生まれた。

 祖父とは「いんきゃ(隠居)」で小学生の六年間を祖母とともに三人で過ごした。

 その秋の気配は忘れられない。墓地に向かう行列もおぼえている。何本かの旗を先頭に行列がつづき、菩提寺の万福寺の住職の後に棺桶と親族が従う。

 気だるく、物憂い、何もやることのない奇妙な倦怠感の中にあった。

 葬儀に緊張していたという記憶はない。大工の棟梁であった祖父は県南地域では名工としてよく知られていた。宮大工もできるほどの腕前で、見事な設計図も描いた。時代が時代なら、地方の名建築家と名を馳せたであろう。今でも、桑野町に帰ると、「藤七はんの孫なんけ~」と言われることがある。

 新しいもの好きで、桑野町で最初に自転車を買って乗った人ということでも知られていた。進取の気もあったのだろう。

 

 祖父について私が知っているは事柄の多くは他人の評価で、私自身が知っているのは日常の中の脳溢血で右半身不随の状態で言葉もしゃべることのできない祖父の姿だけだった。数年間も共に過ごしていると、いつの間にか祖父が何を感じているか、何をしてほしいか、わかるようになる。

 おむつを替えてほしいのだなとか、尿瓶に排尿したいのだな、とか。ブザーで母屋にいる母を呼ぶ祖父の表情の中には早く何とかしてほしいという気持ちがにじんでいた。

 

 祖母は乳がんで医療拒否していたので、本当は血のつながっていない母が毎朝夕消毒をするだけだった。

 今となっては、祖父母の介護、そして、夫の突然死、四人の子どもたちの養育、母に降りかかってきた災難ともいえる苦労の数々が少しはわかるようになった。そして、母に対する感謝と敬意がいや増しに増してきた。

 

 人生を楽しむというゆとりは彼女にはなかった。

 

 私は祖父母と一緒に暮らしながら、自分の方が祖父母よりもおとなであるように思うことがしばしばあった。祖父母が自分より小さな子どもに見えることがたびたびだった。

 のちに、私は『翁童論――子どもと老人の精神誌』(新曜社、一九八八年)という本を書いたが、その論の根底にあった実感は、子どもである私がじつは老人で、老人である祖父母がじつは子どもであった、というその頃の私の直覚であった。それを理論化し、事例を引いて跡付けただけのものだった。

 

 私の中で、子どもと老人の境目はふたしかであり、明確な境界はない。いつでも反転し逆転しうるコインの裏表のようなものにすぎなかった。祖父母は私にそのことを教えてくれた。だから、『翁童論』は祖父母との共著である。

 

 祖母鎌田納は、明治三十一(一八九八)年九月十五日に県南の漁師町の椿泊で父阿利音吉と母フサの四女として生まれ、昭和四十五年(一九七〇)九月十五日に、誕生日と同じ日に身罷った。行年七十二歳。納は秋の人、であった。

 

 春生まれの私は春になると「たまあくがるる」気分になり、矢も楯もたまらず旅に出たくなるが、秋になると愁いと切なさに浸される。それは祖父母の気配と気分が私に乗り移ってくるからだ。

 

 祖母は、漁師町に生まれた。家は網元と聞いていたが、その分家筋の貧しい漁師だったのかもしれない。でなければ、徳島に芸者に出ることなどなかっただろう。

 彼女は美しい人だった。おそらく、徳島の新町や富田町で美人芸者として売れっ子だった時期があるのではないか。誇り高い彼女のふるまいを思い出すたびにそのようにおもう。

 つねに火鉢を囲んでキセル煙草を吸い、『マーガレット』や『りぼん』や『少女フレンド』や『花と夢』などの少女漫画を読み、三味線を弾く毎日だった。寝たきりの夫の世話も家事手伝いも一切しない。そして必ず自分用の特別な湯飲み茶わんにたっぷりと日本酒を注いで晩酌にした。

 自分の世界と流儀を何ひとつ壊すことのない人だった。子どもの私には、父母は夫婦のおとなであったが、祖父母は夫婦であるとも、おとなであるともおもえなかった。むしろ、私以上に子どもに見えた。私は祖父母の保護者のような気持ちにしばしばなった。祖父母を年長者とは思えなかったのだ。

 そして、中学生になるまで、祖母の布団で一緒に眠った。右隣は少し高さのある藁布団に横たわっている祖父がいた。祖父と祖母の間、三本川になって私たちは夜を過ごしたのだった。

 

 どのような子どもでも、病人とともに八年もともに生活したら、どこか憂愁を身に着けてしまうのではないだろうか。そしてその憂愁はいつも秋の気配をともなっている。

 祖父は、十月二十四日に生まれて、十月二十六日に死んだ。

 祖母は、九月十五日に生まれて、同じ九月十五日に死んだ。

 

 私も祖父母に倣って、春に生まれて春に死にたい。三月二十日生まれの私は、いつも生まれた日と同じ、三月二十日に死にたいと思っている。

 

 その祖母が、一度だけ真剣な面持ちで、病気で寝込んでいる私の隣に来て、緊張した強い言葉でこう言ったことがある。

 「うちは、おまはんのほんまのばあちゃんじょ。」

 本当の血のつながりのある祖母が、おまえの本当の祖母であるなどとあえていうものだろうか?

 それから、祖母が祖父の五度目の妻であることを知るまでに、それほど時間はかからなかった。

 が、その「事実」を知った後も、私は鎌田納が本当の祖母だと思う気持ちは変わることはなかった。私に一番影響を与えたのは、この祖母だったから。血がつながろうがつながらなかろうが関係ない。もっと深いチ(霊)のつながりがあることを私はこの祖母を通して知ったから。

 

 

冬ざれの島

 

 一年半も経たないうちに、この冬ざれの島にふたたび訪れることになるとは。

 

 一九七一年四月十一日、上野から初乗り料金の切符を買って、夜行の急行と鈍行を乗り継いで、朝七時過ぎに新潟駅に着き、そのまま駅員に切符を渡して改札を通り抜けようとして、後ろから「お客さん、切符が違いますよ!」と声をかけられたのか、ぐっと襟首を掴まれたのか、記憶は定かではないが、要するに、新潟駅でキセル乗車がばれて、駅員につかまってしまったのだった。

 友人の中島和秀は、周到に東北一周の割引周遊券を購入して持っていたので、駅員につかまっている私を横目に悠然と改札を通過していった。

 ちょっと心配そうな表情もしているが、この事態を楽しんでいるようにも見えた。

しょうがない。なるようになれ、だ。

 

 それから、小一時間、こってりと、新潟駅の鉄道公安室でしぼられた。解放されたのは一時間後だが、今後に響く重要な出来事があった。

それは、新潟駅から徳島県阿南市桑野町の桑野駅まで電話が行き、母親が駅に呼び出され、そこで罰金料金を払わされたという事態があったことだ。

 これにより、何よりも世間体を大事にしてきた母親にさらなる心配と苦労をかけることになった。というのも、この事態の出来によって、桑野町全体というのは大げさだが、地元の多くの人に「鎌田フミヨさんの二男のトウジくんがキセル乗車して新潟駅でつかまったんやと。」と一気に噂が広がったからだ。そのために、母親はいろんな人から「トウジさん、元気でやってますかあ~。」とか、とぼけたような、あいまいな挨拶をされることとなり、気苦労することになった。

 

 だが、そんなことは、どこ吹く風。まったく気にせず、中島和秀と私は佐渡を一周し、秋田県男鹿半島から、青森県下北半島まで足を伸ばし、性懲りもなくさらなるキセル乗車の流浪の旅をつづけたのだった。

 自分がどんなことをしているのか、それがどのような影響を周りに与えるかなど、まったくひとかけらも考えることがないほど幼稚だった。

 

 そんな自分が、ほぼ一年半後に今度はある女子学生にキセル乗車をさせて、いっしょに佐渡まで来た。一九七三年二月のことだった。

 なぜ佐渡に行ったのか、今となってはその「犯行動機」は判然としない。世間知らずの女子学生が初乗り料金で渡した上野駅発行の切符はそのまま何も咎められることもなく改札口を通過した。上野から長岡まで急行、長岡から始発の列車に乗って、新潟駅で下車。

 そのまま駅前のソバ屋で熱いそばを食べてから新潟汽船だったかで佐渡に渡り、外海府に行ったのだった。

 

 猛烈な風。獰猛に砕け散る冬の荒波。飛び込んだ瞬間に藻屑となって錐揉みされるような、あらゆるいのちの聲を掻き消す怒涛の海。

その海を前にして、どんな声もなかった。

 

 これから先、何をしようという思いもなかった。

 ただ、ひたすら冬の海を見つめていた。それだけを仕事にしているかのように。

 

【付記】

 その世間知らずの女子学生(山岸左紀子)は現在半世紀以上生活を共にしている配偶者である。彼女とは、このとき、佐渡から大阪経由で隠岐の島まで、島渡りの逃避行をつづけた。どれほど周りを心配させれば気がすむのか、私の無鉄砲はとどまることがなかった。

 

 

祟り

 

 母を支配していた感情は「祟り」と世間体だった。

 

 自分が鎌田家を引き継ぎ、小学生の時にあこがれの君であった美少年が戦地から帰ってきて、仲介者があったのだろう、昭和二十三(一九四八)年一月二十七日に、母鎌田フミヨは田中義美と結婚した(婚姻届けは同年七月三日)。

 母は戦後まもなく北海道の叔父の家に身を寄せていた。が、旧制富岡中学を優秀な成績で卒業した鎌田一族の期待の星で国鉄桑野駅に勤めていた兄が肺結核で急死したため、急ぎ郷里に帰り、家を継ぐことになったのだ。そして、小学生の時にひそかにあこがれていた上級生と結婚した。

 母にとっては、それは思いがけない展開であり、喜びもともなうものであっただろう。

 結婚してまもなく昭和二十三(一九四八)年一月二十一日に長男吉仁が生まれ、翌昭和二十四年七月二十日に長女モト子が生まれ、そして年子で昭和二十六年三月二十日に二男東二が生まれた。末っ子の三男功三は昭和二十八年二月二日に生まれた。

 たいへんではあったが、つづけざまに四人の子を産んだころの母が、生涯でもっとも幸せな時期だった。何といっても、あこがれの君の子を四人も授かったのだから。

 

 私はしかし生まれた時から母を苦しめる運命にあった。

 ご丁寧にもへその緒を三巻き首に巻いて産道を出ようとするたびに、へその緒が自分の首を絞めて苦しいので、すぐに引っ込み、また陣痛促進剤で産み出そうとして力んで顔を出しても、またもや自縄自縛、自分のへその緒で自分の首をしめてまた子宮内に引っ込む。それを繰り返したため、母体も胎児も共にきわめて危うい事態となり、ようやくにして産婆が取り上げたとき、母は疲れ切り、私は顔だけでなく全身鬱血のチアノーゼで紫色。一言も泣きもしなかった。

 ふつうの赤ちゃんなら上げるはずの「おギャー!」という声は私の口から発せられることはなかった。「ふにゅ~」とか「ふにゃ~」とかいったか細い吐息のような息もたえだえの状態。それが、私のこの世へのデビューだったという。

 このことは、ことあるごとに、母からくりかえし言われてきた。たぶん、おまえには苦労させられたよ、今もね、ということを言いたかったのだろう。

 

 そのとおり。吾ら四人きょうだいの中で、母を困らせ、心配をかけとおしたのは私一人だった。

 兄も姉も弟もじつにおだやかだが、私はたいへんな癇癪持ちで、とてつもなく激しい不安定な気性。どうにも扱いにこまったにちがいない。

 加えてしかもときどき、「鬼がいる!」とか、「ぼくには山に巣があるんや。」とかと、奇妙なことを口走る。

 

 それは私にとっての心的現実だったが、きわめて良識的な現実主義者で、世間体とか世間並みとか後ろ指をさされないとかを極端に気にする常識人である母には、この鬼っ子のような非常識そのもののわが子には手を焼いただろう。

 

 高校生のころ、あまりに心配した彼女は、橘(桑野町の隣の港町)の霊能があると評判の占い師のところに行って、わが子の未来を占ってもらった。そして、その占いの結果を聞いて、気が休まるどころか、いっそう心配事が募ったのだった。

 占い師は言った。「この子はいい方にいけばよい方で目を出し、かなりなことを成し遂げるが、悪い道に逸れれば悪い方でより悪いやつになる。」

 これを聞いた母はさぞかし困ったことだろう。判じ物のような、禅の公案のような矛盾そのもののような答え。二律背反。残念ながらと言うべきか、幸運にもというべきか、このような両義性に耐えられるだけの感性と頭脳を彼女は持ち合わせていなかった。彼女は単純明快素直を求めていたから。どこから見ても複雑系のひとではなかった。彼女が一番恐れたのは、いつかこの子は悪の道に染まってやくざの親分になるんじゃないか、ということだった。

 

 かあさん、あなたのしんぱいはあたった。ぼくは、ほとんど、「やくざのおやぶん」になっちゃったよ。なぜなら、「スサノヲの子分」だからね。この世の枠から外れっぱなしだからよう。

 場違いで生まれてきたぼくは、場違いで死んでいく。生まれてきた場所を間違えた。ぼくは、「とりかへばや」のような取り換えっ子だったんだよ。鬼の子として、鬼の世界に生まれるべきだった。そうおもうよ、かあさん。

 

 母を支配していたもう一つの感情、それは「たたり」だった。

 

 「たたり」とはなにか? 日本民俗学はそれを神聖なる存在や霊威ある諸存在の立ち現われととらえ、その「たちあらわれ」が「たちあり」→「たたり」→「祟り」となっていって、襲ってくる災難や災害や不幸、もろもろの排除したい破壊や崩壊という意味合いを含むようになっていったと考えた。

 

 母は確かに「祟り」を恐れていた。

それは、まず第一に祖父鎌田藤七が「祟り」で身上をつぶしたから。関東大震災が起こる前、飛ぶ鳥を落とす勢いの大工の棟梁であった祖父は百件近い新築家屋の請負をしていたらしい。県南地方のほぼ全域の建造物を受けた、ということだろう。

 だが、大正十二(一九二三)年九月一日、関東大震災が起こり、みるみるうちに材木が高騰。契約金内で仕事を完成させねばならぬ請負仕事をしていた祖父は、それにより、仕事を仕上げれば仕上げるほど多大な借財を背負うことになったのだった。

 

 その年の正月、祖父は宣言した。「我が家には年末年始の三ヶ日、正味四日間、家の中に酒を置いても飲んでもいけないというしきたりがある。だが、デモクラシーのこの世の中、こんな理不尽な迷信を後生大事に守っていく必要はない。わしは、この家のしきたりを今日からきっぱりと捨てる。」

 こう宣言して、近代主義者の祖父は平安時代の終わりごろから続いてきたという我が家のしきたりを破ったのだった。

 

 そのしきたりの由来はこうである。

 

――慈円が『愚管抄』で「乱世」とも「武者の世」となったとも嘆いた「保元の乱」(一一五六年)で、わが家の先祖鎌田正清は主君源義朝とともに後白河天皇側に付き、勝利を収めた。しかし、その後の処遇に不満を抱いていたという源義朝は、三年後の平治元年(一一五九)、ライバルの平清盛が熊野詣に出かけている間にクーデターを起こし、二条天皇と三種の神器を拉致し政権を奪取したかに見えたが、その知らせを聞いて急ぎ取って返した平清盛との戦いに破れて敗走。次々とわが子(悪源太源義平、源朝長、源頼朝【ただし行方不明】)を失いながら、最期は鎌田正清の妻の父の平(長田)忠致に騙し討ちにあって殺された。その際、源義朝は風呂場で、鎌田正清は酒に酔わされて殺されたという。それが年末から正月にかけての出来事だった。

 そこで、その子孫の鎌田家は、以来、正月に酒を神棚に供えることも、また飲むことも禁じて今日に至った。その禁を破ると考えられない不幸や災難に見舞われる。――

 

 これが、「酒なし正月」の鎌田家の掟となり、それを後生大事に守り続けてきたのだった。それを大正十二年の正月に祖父が破り、その年の九月一日に関東大震災が起こり、わが家が破産の憂き目にあったのだった。

 それは、母が生まれる一年ほど前のことであった。

 

 母鎌田フミヨは、大正十四(一九二五)年一月十日に父藤七、母キクの五女として生まれた。母は家が破産した貧乏のどん底で生まれたのだった。

尋常小学校を出て、しばらくは家の手伝いをしていたが、昭和十九(一九四四)に動員され、呉の軍需工場で働いた。昭和二十(一九四五)年八月六日の朝、鎌田フミヨは広島に投下された原爆投下後の爆発と火を呉から見たという。

 終戦後、いったん郷里の徳島県阿南市桑野町に戻って以前と同様、家の手伝いをしていたが、生活が楽ではなかったのだろう、北海道十勝の叔父(父鎌田藤七の弟鎌田幸重)の家に預けられ、叔父の家の手伝いをしながら、ごくごくつつましい花嫁修業のようなことをしていた。

 しかし、先に述べたように、戦後、兄の鎌田忍が昭和二十二(一九四七)年一月二十八日に肺結核で急死したために、急ぎ郷里に呼び戻され、家を相続することになり、昭和二十二年七月三日、あこがれの君の田中義美と結婚したのである。

 その義美が「酔って、転んで、死ぬ。」ことになった昭和四十六年という年の正月元旦、知り合いの人が、わが家のしきたりのことを知らずに、正月に我が家に酒を持ってきた。母はこのことを大変気にかけた。父はそれほどでもなかった。

 しかし、母の不安は的中することになる。その年の三月十七日の深夜のオートバイ事故で。

 

 昭和四十七年七月に我が家が徳島県下で一軒だけ集中豪雨のため山崩れに呑み込まれて全壊した出来事が起こった年の正月にも、ある人が正月に我が家に酒を持ってきた。母は大慌てで制止したが、遅かった。

 気が気でなかった母の不安は的中した。我が家は家もなく、金もない家となった。

 

 私はこの時に、金輪際無心はできないと悟ったのだが、その後も、ことあるごとに母の脛を齧りつづけたのである。無法者、非人情者、どこにも「ケアのこころ」など一片もない。ただの無法無頼無礼な若者にすぎなかった。

 

 ただし、七十三歳の今に至るまで、正月に神棚に酒を備えたことも飲んだこともない。もっとも今では一年中「酒なし正月」。一滴も酒を飲まない生活がつづいているが。

 

 「たたり」というもののものふかさを私はかんじる。

 

 

冬の星座

 

 母鎌田フミヨは平成十九(二〇〇七)年二月二十六日午後三時三十五分、徳島県阿南市の共栄病院で死んだ。行年八十二歳。死因は膵臓癌。体調が思わしくないので検査したところ、膵臓癌が見つかり、ちょうど一ヶ月後に死去した。

 

 母が死ぬ一週間前、仕事で徳島に行くことになった。一泊二日の滞在予定で、徳島市内のホテルを取ることになっていたが、それを断って、一夜、母の病室に泊まることにした。

 

 近くの阿南市羽ノ浦町には姉家族が住んでいる。姉の車に乗って、共栄病院を訪ねた。妻(旧姓山岸左紀子)も合流して、その夜母と面会してくれ、ほどなくしてその日の内に埼玉県大宮の実家に帰った。

 

 一人だけ残り、一夜を母と過ごした。母のベッドの近くに仮眠できる簡易ベッドを持ち込み、横になった。

 荒い息を吐き、黄疸の症状が出て、苦しそうであったが、朝起きると、逆に私を気遣って言葉をかけてくれた。「忙しい時によう来てくれたの。眠れたけ?」

 

「うん。大丈夫だよ。来れてよかったよ。」

 

 その前の夜、母は、姉や妻や私を前にして、別れの言葉を吐き出すかのように言った。「いよいよじゃ。」

 

 それは、死を覚悟した言葉で、なぜか武士が戦場に出ていく前に言う言葉のような気がした。母はサムライなのか?

 

 晩年の母は、桑野町の山路一一七から光源寺四十三に引っ越して兄家族とともにおだやかに「いんきょ」で暮らしていた。兄家族が住む母屋ではなく、短い橋でつないだ独立した二階建ての家屋だったから、気兼ねせずに自分のペースで生活をいとなめただろう。

 時に畑を耕して作物をつくり、山に行って蜜柑や葡萄などを取ってちょくちょく私たちに送ってくれるのだった。

 そして、周りに何度か言っていたそうだ。「いまがいちばんしあわせじゃ。」

 

 姉と妻と母と私の四人の病室にいた時、私は心の中で「ありがとうね。」と繰り返していたが、姉の前でも妻の前でもなぜか気後れしてしまって直接母に『ありがとうね。ぼくをうんでくれて。』と言うことができなかった。

 

 大学生のある冬の日、母から荷物が届いた。いつものように、お米や野菜やお菓子のほかに、幼い字の鉛筆書きで書かれた手紙と仕送りのお金が入っていた。

 

 その手紙に、つぎの一文があった。

 「人に笑われない、立派な人間になってください。」

 

 そのことばは、私の肺腑をつらぬいた。

 

 しかし、私は同意できなかった。むりだよ、かあさん、おれには。

 そして、覚悟した。

 

「ぼくは、人に笑われるリッパなニンゲンになる!」

 

 以来、そのことばを自分への戒めとして生きてきた。

 

 翌日、仕事を終えて、徳島空港から羽田空港まで飛び、そこから大宮に帰った。東京の夜景が涙ににじんで見えた。飛行機の中で私は「かあさん、ありがとう。ありがとう。ありがとう。」とひたすら呪文のように唱え続けていた。

 

 羽田空港について、姉に電話した。「おかあさんに『ありがとう』と言っといて。」と。

 自分では言うことができず、姉に言わせた卑怯な自分。カマタトージよ、自分で言えよ、それくらい!

 

 だが、言えなかった。

 

 大宮の妻の実家への家路を辿り、櫛引氷川神社に立ち寄り、祈りを捧げた。

 

 見上げると、冬の星座、オリオンの三ツ星が耀いていた。かあさん、ありがとう。ぼくは、かあさんの子でよかったよ。

 

 それからちょうど一週間後、母が死んだ。桑野町の母と兄たちの家で行なわれた葬儀の最後の親族挨拶で、私は叫ぶように何度も泣きながら、「おかあさん、ありがとう。ありがとう。ありがとう!」と叫んでいた。

 最後の最後まで素直でない、世間体をまったく気にしない困らせた息子だったね、かあさん。

 

 

極星

 

 とうさん、はじめて手紙を書くよ。ぼくもね、あと一年半であなたのいる世界に往くとおもうよ。だから、この肉体をもって、この世、現世にあるあいだに、手紙で真実を話しておきます。

 

 とうさん、あなたは、一九六六年三月十七日に死にました。オートバイ事故で。桑野川のほとりの大地橋の手前で。

 

 翌朝の徳島新聞の記事に、あなたの死はこう書かれました。

 

  「酔って、転んで、死ぬ。」

 

 三行。あなたの人生は、徳島新聞の記事、たった三行でまとめられてしまったんですよ。

 ぼくはね、くやしかったよ。そんなもんじゃないよ、父の死は!

 と、ずっと、ずっと思いつづけてきました。

 

 もちろん、徳島新聞にも、それを書いた記者にも、何の恨みもつらみもないけど、父の死はそんな簡単なもんじゃない!

 と、ぼくは大声で叫びたかったんだ。それを読んだとき。

 

 でも、その時、そんな声を上げなかった。上げても、誰もわかっちゃくれない、と思っていたから。

 

 ぼくは泣かなかった。あなたの死が悲しくなかった。辛くなかった。

 ただただ、悔しかったんだ。悔しかったんだ。悔しかったんだよ。

 とうさん、あなたの人生は、「酔って、転んで、死ぬ。」なんてことで、簡単に片づけられるような人生じゃないよ。

 すごい人生をあなたは歩んできた。ぼくは、ずっとそう思っているし、いまもそうおもっています。ほんと、です。うそはつけません。ぼくのたましいのこえだから。

 

 あなたの何が凄いかって? まずそれは、生まれて間もなく、あなたのおかあさんの田中リキ(ぼくにとっては祖母)が、六男の末っ子のあなたを抱いたまま死んでいた、ということから始まります。

 乳飲み子だったあなたには、おそらく、幼なすぎて、母を喪った悲しみの感情はなかったでしょう。

 でもね、本能的に母のぬくもりと乳房を求めて吸いつこうとしたあなたの自然の欲求に、冷たくなった死体で如何なる反応もしなかった母の遺体と向き合ったあなたは、そのとき、ただただ泣くしかなかったでしょう。大声で母を求めて泣いたでしょう。母のぬくもりを、お乳を求めて、泣きに泣いたはずだ。

 そのことをおもうと、ぼくもいつも泣けてくるんです。あなたの生まれながらのかなしみがぼくのむねをいっぱいにして、かなしくてかなしくて、いつも泣いてしまうんですよ。生まれながらにして、こんな哀しみを背負い込んだあなたとともに、ぼくはいっしょに泣くだけ。

 ぼくにできるのは、それしかありません。

 だって、あなたのおかあさんを取り返すことはできないんですから。

 リキさんの名前を何べん呼んでもリキさんは帰ってこないんですから。

 あきらめるほかありません。その運命を、それとして受け入れるほかありません。

 

 あなたの父田中嘉吉(ぼくにとっては祖父)もあなたが子どものころに死んだと聞いています。

 とうさん、末っ子のあなたは、実の父母に育てられず、二十歳年上で桑野村村長を務めた長兄の田中正一(ぼくにとっては伯父)を父代わりにして育ったのでした。

 その話も、あなたからも、母からも、周りの親戚からも何度も聞きました。

 そして、そのことを聞くたびに、何とも言えないあなたの孤独と孤愁をかんじていました。あなたは、とてもかなしかったはずだ。物心ついた頃から。

 でも、どうすることもできませんね、とうさん。

 

 だが、天はあなたに優れた能力を与えた。二十歳頃、満州帝国の日本軍の知能テストで最優秀となり、満鉄総裁に一人呼ばれて褒められた、というのですから。

 ぼくは断言します。あなたは東京帝国大学にも、京都帝国大学にも、大阪帝国大学にも入ることのできるほどの知的能力を持っていた、と。

 でも、あなたの知性がそのような機会を持つことはなかった。

 それをぼくはかなしみます。

 

 兄の田中正一は、桑野村の村長であったとしても、自分の実の子を育てなければなりません。彼は長男を一人大学に進学させました。長男の田中勇(ぼくにとっては従兄)は高知大学に進んで伊予銀行の真面目な銀行員になりました。

 それが当時の子だくさんの家庭でできる精一杯のことであったでしょう。

 でも、あなたは、その田中勇よりずっと年上。たぶん二十歳以上年上だし、戦前のことであったから、如何に優秀で、桑野尋常小学校や桑野尋常高等小学校でよく勉強ができたとしても、あなたに旧制富岡中学に進学できる経済的余裕はなかった。

 教育の機会に恵まれず、進みたかった進路を絶たれたあなたは、次善の策として、日本帝国陸軍に志願兵として入隊し、その中で教育の機会を探したのでした。

 そして陸軍の航空兵になるために、宇都宮陸軍飛行学校に入ります。それがどれほど難しいことであったのか、ぼくにはよくわかりません。

 ですが、あなたは必死で学ぶ機会を求め、何とか、宇都宮陸軍飛行学校に潜り込むことができたのです。そして名取の飛行学校で一年間の座学学習と飛行実地訓練を受けて卒業して満州帝国に渡り、そこで兵役につき、さらなる訓練をうけながら、黒龍江省のハルビンの実戦部隊(陸軍第十四師団)に配属された。そして、伍長、曹長、軍曹と、着実に軍位(階位)を上げていった。

 その途中で、陸軍の知能テストで一番となり、あなたは満鉄総裁に認められ、褒められたということなのでしょう。

 それをあなたの口から直接聞いたことはありません。

 なぜそれをあなたはわたしたち四人きょうだいの中で、姉にだけもらしたのでしょうか? ぼくにも直接言っておいてほしかったな。

 

 それはともかく、あなたは挫折します。病気で。

 肺尖カタルにかかり、陸軍病院で治療を受けました。その時の同病であっただろう同期生?の若者との写真がぼくの手元にあり、その頃のあなたのすがたを確認することができます。

 しかし、最終的に、あなたは軍にとどまることができず、やむなく除隊し、郷里に帰って静かな穏やかな生活に戻ります。

 けれども、あなたの心の中は穏やかでも平安でもなかったでしょう。焦り、虚しさ、向学心、国民として務めを果たしたいという単純な義勇心に張り裂けそうだったでしょう。しかし、二度とそのような道に戻ることはあなたにはなかったのです。

 

 あなたは挫折し、道を失って何をすることもなかった頃に、母鎌田フミヨと結婚することになったのでした。母にとってはそれはとても幸せな喜びに満ちたことだったでしょう。

 けれども、あなたにとっては、どうだったでしょう?

 

 とうさん、あなたから、そのことを聞く機会はありませんでした。

 あなたのよく漏らしていた言葉を何度か母を通して聞きました。

「小さな掘立小屋でもいい、自分の家が欲しい。」

 

 養子であったあなたは、やっぱり、肩身の狭い思いを折に触れて感じていたのでしょうね。よく理解できます。

 でも、そのあなたのささやかな願いが叶えられることはなかった。

 

 ぼくはいつも思っていました。あなたが郷里の阿南市桑野町で生涯を生きていくならば、あなたはまず阿南市の市会議員になって、その実績を踏まえて、徳島県の県議会議員になったらよかった、と。

 親分肌の友人思いで、面倒見がよく、情の厚い、しかも知的能力もしっかりあるあなたにはとても向いた仕事になったでしょう。そして地元に貢献でき、戦友にも少しは責務を果たすことができたでしょう。

 しかし、その前に、無念にも、「酔って、転んで、死」んだ。

 

 ぼくは、くやしいです。あなたの可能性を思うと。

 

 でもね、とうさん、あなたは、あなたが死んで以来、ずっとぼくの中に生きつづけているのですよ。これは、「霊的真実」、です。

 

 でも、これを証明する何物もありません。ただぼくが、そのような意識や自覚をもって何十年も「鎌田東二」をしてきたことは事実です。

 もちろん表向きは鎌田東二で、奥には父鎌田義美がいて、さらにその奥にはさらに何者かがいた、という層構造になっています。

 

 宮沢賢治なら、こう言うでしょう。

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

        (『春と修羅』序)

 

 あなたは死んでぼくの中に住み着いた。「透明な幽霊の複合体」として。

 ぼくは半分が田中・鎌田義美で、半分が鎌田東二、でした。あなたが「酔って、転んで、死」んだ日から。

 ずっとずっとそうおもって、ぼくは七十三歳の今日まで生きてきたんですよ。

 なので、ぼくのやっているすべての行為の半分はあなたの責任ですよ!

 と、ここでちょっとだけ肩の荷を下ろして責任転嫁しておきますね。(笑)

 

 あなたは死んでぼくをつきうごかしてきたのです。

 ぼくはあなたの「遺志」を生きてきたのです。

 間違いありません。あなたの息子がそう言ってるんですから。

 

 でもねえ。このような「霊的真実」は、おなじきょうだいでもよくわからないとおもいますよ。ぼくに一番親しく理解の深い姉でもよくわからないでしょう、この感覚は。

 だからぼくの半分は田中・鎌田義美(義巳)という意味では、間違いなく、あなたが死んで以来、ぼくは二重人格者、です。

 それが、ぼくがあなたが死んでいっさい涙も出ず、悲しくもなかった真の理由です。

 あなたは、死んでいないのですから。ぼくの中で生きつづけてきたのですから。今日の今日まで。

 

 さて、とうさん、いきなりですが、ここから、ほぼ誰にも話したことのない(これまで三人にだけ伝えたが、ドン引きされた)ぼくのもう一つ深い層の「霊的真実」を告白します。

 ぼくももうあと一年半の余命ですから。さ来年の誕生日の三月二十日に死のうと思っている我が身ですから。思いを遺さず、死んで逝きますね。

 

 ぼくの半分がとうさん、あなたであることは、すでにお話ししました。

 では、残る半分のぼくって何なんでしょう?

 そのぼくの「氏素性」をこれから話しますね。たぶん、奇想天外すぎてあなたには理解できない世界になるでしょう。ここからの話は「ものがたり」や「仮説」として受け取ってくれた方が違和感がないとおもいます。

 

 さてぼくの「ぼく」の本体は宇宙からやってきました。スターチャイルド(星童)のように。

でもその「星」がどこの星かはわかりません。オリオンとか、リゲルとか、シリウスとかもわかりません。

 なので、ぼくはそれをとりあえず「オニの星」と呼んできました。「オニ星」から水の惑星地球へ墜落しました。そしてここで「オニ」から「ニンゲン」になったのです。「ニンゲン」として何度か転生し、生まれ変わりを繰り返した。ケルトの聖地セーヌの近くにいたこともありました。韓国の港町釜山にいたことも、モンゴルの草原にいたことも。

 そしてついにこの列島日本に流れ着いたのです。

 くだくだと回り道をせず直截に申せば、じつは、ぼくはヤマトタケルの生まれ変わりです。

 

 誰も信じてくれないけど仕方ありません。

 一九九七年頃からそのように思ってほぼ三十年生きてきました。

 

 ぼくはこれまで「スサノヲの子分」を自称してきましたが、ヤマトタケルこそ「スサノヲの一の子分」だったのです。ですので、暗示的には、一九九七年からずっとそう言いつづけてきた。

 

 だからといって、何も特別のことも、格別なことも、特権もありません。むしろ、それよりも「負債」が大きくなるだけです。なにしろ、ヤマトタケルこそ、剣の力をないがしろにして、国つ神のすがたとちからをあなどり、伊吹山の神の「祟り」を受けて死に至った張本人ですからね。、そして最後は「始祖鳥」ではなく「白鳥」になって西の空に飛んでいき、最後に天(宇宙)に帰っていったのですから。

 

 このような神話と自己とを安易に結び付けることは、傲慢きわまりない、あるいは自意識や特権意識丸出しの愚かしくも危険なふるまいでしょうね。世間体においても、世の常識においても。そうおもうこともしばしばですので、かなり抑制をかけてきましたが、もう最期ですので肚を括って素直に言いました。理解してもらいたいとはまったくおもいません。しかたありません。

 

 ぼくは高校三年生の一九六八年に丸山明宏著『紫の履歴書』を読んで、ほんとうに、ほんとうにしんそこ感動し、矢も楯もたまらず、原稿用紙四十枚ほどの「丸山明宏論」を書きました。一九六八年十二月のことです。

 その丸山明宏が自分は天草四郎時貞の生まれ変わりと自白していました。それもほんとうのことだと思いました。

 そのような丸山(美輪)明宏=天草四郎という複靈の生まれ変わりをずっと信じてきました。

 そして、あるときにはっきりと自分はヤマトタケルの生まれ変わりだと自覚したのです。

 

 一九八六年二月二日、ぼくは天河大辨財天社の特殊神事「鬼の宿」に参列しました。そこで「木の花会」主宰の霊能者の露木幸枝さんと会い、翌日から行動を共にすることになりました。それは露木さんが亡くなるまでつづきました。たぶん、二年間くらい。

 一九八六年三月、当時名古屋大学文学部哲学科助教授で、占星術師で、特にプラトンなどの神秘主義研究者で、神秘家でもあった大沼忠弘さんと三人で、岩手県の岩手山や花巻の宮沢賢治のお墓などをめぐりました。その時のことは、鎌田東二・松澤正博対談集『魂のネットワーキング――日本精神史の深域』(泰流社、一九八六年一月一日刊)の中に書いてあります。そのとき、宮沢賢治の花巻農学校の教え子の照井謹次郎さんにも会ったことも話しています。

 そんなことをいっしょにやってきた露木幸枝さんからも「あなたはヤマトタケルの生まれ変わりです。」と何度も言われました。でもそのころはとんだ戯言だとまったく信じていませんでしたよ。

 けれども、その十年後、猿田彦神社で「おひらきまつり」をやったころ、何度も伊勢に通う中で、一九九七年に伊勢の斎宮跡地に初めて立ったときにはっきりと自覚したのです。ヤマトヒメから天の叢雲のつるぎを手渡されたヤマトタケルだと。

 

 そして、翌一九九八年、喜納昌吉さんからの呼びかけで「神戸からの祈り――満月祭コンサート」を「一九九八年八月八日」に行なった時、連祭「東京おひらきまつり」(平成十【一九九八】年十月十日、鎌倉大仏前で実施)事務局長の大変な役目を背負ってくれたIさんにそのことを話してしまったのでした。

 神戸から東京に帰る新幹線の中で、富士山のふもとを通過している時に。

 たぶん、Iさんがぼくに強い違和感を感じ、この人とはもう付き合いきれないと思ったのはその時だったのではないでしょうか? その後、あれほど親しく家族ぐるみの付き合いをしていたIさん夫妻とどんどん疎遠になっていったから。

 今となっては、しようがないよなあ~、と思うだけですが、むつかしいですね。こういうことを話すとどんな波紋や反応や反感が広がっていくかというのは。常識の、目に見える現実の枠外のじつに不確かな証明不能証拠不十分すぎる情報ですから。

 

 なのでね、とうさん、あなたも息子からこんなことを今さら言われても戸惑うばかりかもしれません。ごめんなさい。ぼくも後がないので、この際はっきり言っておきます。

 

 ぼくが一九八四年四月四日、初めて天河大辨財天社に行ったたった一つの理由は、霊能者太田千寿さんに降りてきた三島由紀夫の「霊界通信」を審神者(さにわ)するためでした。

 三島由紀夫は霊界から強く強く訴えていました。「日本を『まほろば』にしてくれ!」と。それが唯一の日本再生の道だ、と。

 そのメッセージをぼくは四十年生きてきました。ぼくは三島文学は嫌いですが(ただし『金閣寺』だけはとても好きです。)、この「まほろばメッセージ」は三島からの「霊的真実」と受け止めてこの四十年生きてきました。

 ではどうやったら日本を「まほろば」の国にできるのか? 一つの答えは日本を「芸術立国」、歌の国、詩の国、美の国、アートの国にすることです。

 

 こうして、神道ソングライターとしてのファーストアルバム『この星の光に魅かれて』(二〇〇一年リリース)のラスト第十五番目の曲は「やまとはくにのまほろば」、となりました。

 

  やまとはくにのまほろば たたなづく青垣 やまごもれるやまとし うるはし

 

 を二回繰り返し、ぼくのギター伴奏だけで素朴に歌っています。

 さらにぼくは、たぶん無謀にも、『神道とは何か――自然の霊性を感じて生きる』(PHP新書、二〇〇〇年)の「あとがき」で、ヤマトタケルのこの「国偲びの歌」を国歌にすべきだと主張していますが、賛成してくれた人は一人もいません。みな反対、でした。

 ともかく、ぼくが「霊的真実」(『古事記』も「霊的真実」の書だと思っています)だとおもってきたことは、ほぼ一〇〇%の人に受け入れられることはありません。

 

 三島由紀夫に戻ります。

 

 三島由紀夫は、自分はヤマトタケルの生まれ変わりだと思っていたに違いありません。丸山明宏、美輪明宏さんからそう言われたこともあったんじゃないかしら。

 

 三島はヤマトタケルの生まれ変わりという自覚を持っていたからこそ、あの衝撃作『英靈の聲』を書けたのです。

 この問題作の中で、三島は繰り返し昭和天皇に呪詛を投げつけ(戦前であれば間違いなく「不敬罪」で逮捕されましたね)、激しく激しく弾劾します。

 

  などてすめろぎは ひととなりたまひし

 

 それは、ヤマトタケルが父景行天皇に放った恨みと哀しみと思慕の思いの混合体と同じ感情です。

 ヤマトタケルは父を問い詰めた。しかし、父を思慕してもいた。この哀しいアンビバレンツ。

 三島は昭和天皇を父として思慕した。しかし、昭和天皇に冷たく突き放された。二二六事件の青年将校たちや特攻隊の少年兵たちと同じように。

 

 だからこそ、その「父」を激しく弾劾したのです。最後は自衛隊の市ヶ谷駐屯地まで行って。檄文を撒き散らして。誰にも理解されず。それどころか、非難轟轟の中で腹を切った。

 

 ヤマトタケル三島由紀夫よ! あなたの無念をぼくは受け継いだよ、しっかりと。

 しかし、あなたの道とぼくの道はちがう。ぼくが求めているのは、父への弾劾ではありません。父との和解であり、和恩(恩に和む)、です。

 なぜなら、わが父田中・鎌田義美(義巳)はぼくの中で半身となって、十四歳の終わりから六十年も息子のぼくとともに生きつづけてきたのですから。

 

 もう一人、ヤマトタケルの生まれ変わりを知っています。梅原猛、です。

 

 三島由紀夫は大正十四(一九二五)年一月十四日に東京四谷に生まれました。母鎌田フミヨが生まれて四日後のことです。

 そのおよそ二ヶ月後の大正十四年三月二十日に梅原猛は仙台に生まれました。梅原猛と三島由紀夫は同級生で、ともにヤマトタケルの生まれ変わりでした。ちなみにぼくはその梅原猛と誕生日が同じです。ついでに血液型も。B型。

 

 三島由紀夫は『文化防衛論』でヤマトタケルを論じ、日本文化の原型的存在と位置づけています。文武両道の。幼少期祖母に溺愛された虚弱児童であった三島由紀夫は剣道五段を持っていたようですが、実力は初段にも達していないと言われています。

 とうさん、あなたは剣道三段。祖父鎌田藤七・東助は剣道五段錬士。そして兄もぼくも剣道三段でした。ぼくは結構強かったんですよ。中学一年の時に阿南市の新人戦で準優勝をしたくらいには。でも、そのあと、生意気だと剣道部の主将に桑野中学校裏の桑野川沿いの神社に呼び出されて殴られたので、殴り返したら、即退部となりました。

 短気でしたねえ、若い頃のぼくは。

 

 ぼくは三島由紀夫の剣道の腕前はまったく信用しないけど、彼がヤマトタケルの生まれ変わりであったことは確信しています。そして同様に、梅原猛も。

 梅原猛には、市川猿之助の当たり役スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』(新潮社、一九八六年)があります。

 晩年梅原猛は「人類の哲学」を主張し、アニミズムや「山川草木悉皆成仏」思想を称揚しましたが、それこそ梅原猛の「まほろば」論でした。

 二人とも、ヤマトタケルの生まれ変わりとして、まほろばメッセージをつらぬこうとしたのです。彼らなりに。

 ぼくもそうなんですよ。その意味では、先行する同学年生三島由紀夫と梅原猛二人の衣鉢を受け継いでいると言えます。

 

 でもね、彼らにはこわいこわい「オニ」がいません。深淵で不可解な「オニ星」がありません。中世の殺人鬼や古代の怨霊はいても。「オニ」は排外者、異星者だったのです。

 

 じつに長い手紙となりました。もうこれ以上話しておきたいことは残っていません。

 

 とうさん、ありがとう。六十年間もぼくとともにいてくれて。

 

 今日はあなたとの別れの日になります。今日からぼくは鎌田義美+鎌田東二ではなく、鎌田東二・鎌田東二、「ぼくのぼく」を生きていきます。死ぬまで。そしてそのあとも。

 

 言い残したことはありません。とうさん、全部言っちゃったよ。あとは肉体の死までたんたんと生きてできることをするだけ。

 それがぼくの『文化防衛論』ならぬ『文化創造論』であり、「災害学・災害社会支援者研修センター」の最期の仕事です。

 

 これまでどこか自分の元星の「極星」を探して生きてきたけど、それは夜空の星でもよだかの星でもありませんでした。

 いやちょっとだけ、「よだかの星」に近いかな?

 

 じつは、よくよくその根っこをひもといてみれば、ひとりひとり、ひとつひとつ、それぞれがみな「極星」だったのです。灯台下暗し。

 

 それが『この星の光に魅かれて』この水の惑星にやってきたオニっ子・カマタトージの結論、「ぼくのまほろば」論、です。

 

 

犬神                  

 

 白馬に跨ったその人は異様におそろしかった。上から厳しい視線でまなざされると、震えあがるようなこわさがあった。

 

 後年、宗教哲学や民俗学を専攻するようになって、友人たちが「憑き物」論や「異人」論などの刺激的な話題作をつぎつぎと出した。

 

 だが、それらを読んでも、いっかなこころはうごかなかった。おもしろくなく、ふしぎでもなく、解明にもなっていないとおもわれた。そこにあったのは、流行の理論にのっとった著者の学術的に見える解釈と理論化にすぎなかった。そこには、「憑き物」や「異人」の神秘も威厳も畏怖もなかった。

落胆した私は民俗学や人類学に対する興味を失いかけた。

 

 というのも、わが家は犬神憑きの金藤と呼ばれる家と親戚だったので、「犬神筋」のことを子どものころから聞いて知っていたし、そこにおける畏怖と神秘をまざまざと感じたことがあったからだ。

 金藤が神社の当屋を担う独自の資格と伝承と呪法を持っていることも聞いて知っていた。その金藤の当主は大柄な赤ら顔の太った人だった。

 普段は温厚そうに、祭りや法事や集会の折にはニコニコと陽気な笑みを絶やさなかったように記憶するが、しかし、祭りの当日、特別の白馬を仕立てて跨って、こちらを見通す眼差しは錐のように鋭く深く深遠なものを感じさせた。

 生半可な他者を絶対受け付けない厳しさと排他性。絶対隔絶。

そんな深遠な距離を感じさせる眼差しと威厳のある振舞いで我々を睥睨し、突き放していた。

 犬神筋が不思議な呪法を心得ている、という怖れを伴う噂はみなの知るところだった。が、それを詮索する者は誰もいなかった。近づけば、「祟り」や「触り」があり、神罰が下ると思っていたからだ。

 迷信と片付けるなら、それで終わりかもしれないが、不思議なことが五万とあり、多種多様に起こる我らの世界であってみれば、そのマジカルなカリスマ的ヌミノーゼ(畏怖と魅惑)は絶対的な支配力を持って人びとを行動制限させた。遠慮というか、奉るというか、近づきすぎない(「触らぬ神に祟りなし」)というか。

 

 白馬の人は、蒼穹を背景に、どこまでも雪をいただいたヒマラヤの絶対孤峰のような孤高の威厳を発し、他を圧していた。

 

 その姿をちらちらと垣間見ながら、私はその呪力を知りたい、身に付けたい、盗みたい、としんそこおもったものだ。それを身に付けると、天下無敵になるような気がした。じっさい、身に付けたところで、なんてことはないだろうが。

 しかし、子どもの私には「神秘」であり、その神秘のリアリティ、実在のプレゼンスは圧倒的だった。

 

 けれども、自称民俗学者たちの書いた「憑き物」論や「異人」論や「マージナル」理論には、その畏怖し魅惑するヌミノーゼ的神秘をいっさい感じることがなかった。ぼくが知りたいのは、そんな中途半端で大雑把な分類や整理や理論的解釈や説明ではないんだよ。ぼくが知りたいのは「神秘」の出処、その根源、由緒、起こり、なんだよ。

 

 だが、書かれた書物にその手がかりはなかった。

こうして、「犬神筋」の問いは、私の中で、何一つ解決するものも、深化するものもなかった。

 

*            *         *

 

 四十歳になってまもなくのある日、法要で徳島県阿南市桑野町の郷里に戻った。これを絶好の機会と、二十一番札所の鶴林寺から二十二番番札所の太龍寺まで、山の遍路路一人で歩くことにした。

 阿南市羽ノ浦町に住む姉に車で鶴林寺まで送ってもらい、一緒に参拝した。般若心経と真言を唱え、石笛と龍笛と法螺貝のわが三種の神器を奉奏し、ご詠歌を詠った。

 そして、姉に作ってもらったおにぎり一個をリュックに入れて、出発した、

 

 秋も深まった山中は紅葉と黄葉と緑でハレーションを起こすかのような眩暈的な道行きを用意してくれた。

 その風景が異様に鮮やかで、美しく、吸い込まれるように足早になって、ときどき、実際に走るように歩いていた。

 だいぶ歩いたと思ったが、時計を見ると時間はそれほど経っていない。一時間もかからないで峠を越えた。

 ふと横を見ると、谷があって、水のせせらぎが聴こえた。

 

 冷たい谷川の水で顔でも洗おうと細い谷道をけっこう下りた。そして、清らかな谷川の河原に屈んで水を汲もうとした時、目の前数メートルのところに、私と同じように谷川に足を入れて水を汲もうとしている男の後ろ姿が見えた。

 こんなところに人がいたんだ。お遍路さんだろうか?

 

 よく見ると、腰に獣皮の腰巻のようなものを巻いていた。修験者なのか? とふと思った瞬間、その男が振り返った。

 

 それを見て動顛した私は思わず、よろけそうになり、谷川で両足を踏ん張った。

 

 その顔は犬、頭髪はザンバラ、首には不思議なエナメルのような襟のようなものをきっちりと付けていて鋭く反射する光沢を放っていた。

 その犬の眼は金色で、こちらを見ている眼付は威厳に満ち、「近づくな! 危ないぞ! 気を付けろ!」と警告を発しているように思えた。

 私はその眼に釘付けになりながら、後ずさりして河原に戻り、崖の山道を走って駆け上がり、いっさんに進行方向に向かって走りに走った。

 

 走っているうちに、自分はどこを走っているか、どこに向かっているかもわからなくなった。おれは、弘法大師空海が修業した太龍寺に行くんだ、と心の中で言い聞かせたが、その道が太龍寺に通じる道かどうかもわからなかった。

 

 やみくもに、そこにある道を走っていたのだ。何時間走りつづけたか、とっぷりと日が暮れていた。

 

 その夜、山中で、私はもう一度、洞窟の中で犬顔男と出会うことになるのだが、そして、そのひとというべきか、いぬというべきか、いふというべきか、その人・犬・畏怖の混然となった存在から巻物一巻を授かった。

 

 だが、その内容を今後三十三年絶対に人に漏らしてはいけない、と固く警告された。漏らせば命はない、と。

 

 けれども、今、三十三年が経ち、私は七十三歳となり、「主治医に余命二年」と宣告された、脳に複数の多発性転移を持つステージⅣのがん患者で、毎日京都大学附属病院で全脳放射線照射の治療を受けている身となった。

 

 死ぬ前に、その内容を公開する決意をした。

 

 

犬神星傳

 

 犬の人は、蠟燭を点した洞窟の中で巻物を披き、朗々とした声で唱えた。

「神道に書籍(しょじゃく)無し。天地をもって書籍とし、日月をもって証明となす。」

 

「それ神道は、天地未だ分かれざる時、日月星辰未だ顕れず、木火土金水の五行も未だ備はらず、ゆえに虚空界の相尽き、善悪の法量渉らず、寂然無為円満虚無霊性を以って神道の玄旨と為す。

 円満虚無霊性は国常立ちの尊の名なり。かの円満虚無霊性は、一切の衆生の色心不二の妙体を顕す。それ神道は混沌の始めを守り、万法の当体を悟る。仏法は万法の当体を守り、本来の理を悟る。

 それ神道は、円満虚無霊性を守り、生死の二法に渉らず。ゆえに、神道の二字を釈きて、神は神に超ゆる神なり、道は道を超ゆる道なり。それ神は神を超ゆる神にして道は自性の神光なり。

 ただ円満虚無霊性を神と云ひ、言語道断の道を道と云ふ。これすなはち神道の眼目なり。」

 

 繰り返し朗唱される言葉、「書籍」と「円満虚無霊性」が脳裏に残った。

 蠟燭の灯がゆらゆらとゆらぎ、犬の人のシルエットが影絵のように洞内にたゆたった。

 落ち着いてきた私は、これらの言葉が吉田神道の創始者の『神代上下抄』やその先祖の卜部兼友の『神道秘録』の中の一節であることを思い出した。 犬の人は、吉田(卜部)神道と関係があるのだろうか? どのような?

 不審に思いながらも、つぎの言葉を待った。

 

「心は即ち神明の舎、形は天地と同根たり。」

 

 これも、吉田兼俱の『神道大意』の中の一節であることはすぐわかった。じつは、私は恩師に命じられて、「大元」思想という神道思想の系譜を神社本庁関連の神道神学や神道倫理の研究会で発表させられたことがあるのだが、その時に搔き集めてきて読んだ資料の一節にこの言葉があり、たいへん印象に残っていたのだ。

 

 私の恩師は、戦後「神道神学」を最初に提唱し打ち建てた國學院大學教授で、京都府大江山町の元伊勢皇大神社内宮の宮司を務めていた。この人に主査をお願いし、宗教学者の戸田義雄元國學院大學教授に副査をお願いして、私は言霊思想を核とする「宗教言語の研究」と題する修士論文を書き上げ、その後博士課程に進んだが、母校では私の言霊研究は評判が悪く、『言霊思想の比較宗教学的研究』と題して、二〇〇〇年、四十九歳の時に、筑波大学に学位請求論文(博士論文)を提出し、「博士(文学)」の学位を得た。少し前までは「文学博士」という称号だったものだ。

 

 自分の知識の中で、犬の人の言っていることが理解されてきて、次第に落ち着いて、その人の様子を観察することができた。

 確かに、髪はザンバラ髪、腰に獣皮を巻いているから、修験者に間違いなかった。徳島県内には剣山と呼ばれる四国山脈の真ん中より少し東側に、西の石鎚山と並び称される修験の山があるので、修験者が遍路道を歩いていても、山中の谷川で水を飲んでいてもおかしくはなかったのだ。

 修験道では、山岳跋渉の際の座具ともなるこの獣皮のことを「引敷(ひっしき)」と呼ぶ。奈良県吉野山中の天河大辨財天社でよく吉野熊野修験者のそんな姿や山伏問答の儀礼を毎年のように見てきたので、落ち着いてその人の様子を見れば、滑稽なほど普通の修験者に見えたのだった。

 驚愕して、動顛し、山中をひた走りに走って逃走する必要などなかったのだ。

 私は後から追いかけてきたその人に声をかけられて、太龍寺の近くの洞窟に招き入れられたのだった。

 

 だが、その後につづく言葉に私は驚愕と畏怖を感じてしまったのだった。

 その人は言った。

 

「わしはおまえを子どものころからずっと見守ってきた。おまえは熱に浮かされたように、よく『鬼がいる!』とか『鬼が見える!』とか『怖い!』とかと泣き叫んで、両親をてこずらせていたのう。」

 

 笑いながら、その人は言った。

 なぜこの男は、わが家の者しか知らないはずのこのことを知っているのだろうか?

 

 「おまえの父も母も、そんなおまえを心配しとった。この子はちょっとおかしいんじゃないか、と。

 たしかに、へその緒を三巻き首に巻いて生まれてきたからのう。脳に損傷があってもおかしくはない。おまえの脳は傷ついているのかもしれん。

 だがのう。

 それゆえに、おまえには違う世界の、異次元のモノを観たり、聴いたりする能力が芽生えたのじゃ。まったく、『捨てる神あれば、拾う神あり』じゃのう。」

 

 さらに不審感を強めながら、つぎのことばを黙って待っていた。

 

「これから言うことは、他言無用じゃ。絶対、他人に言うてはならん。巻物も絶対見せてはいかん。それは、おまえだけのものとして、しまっておけ。三十三年間は。

 わかるな、その意味が。」

 

 「三十三」が観音菩薩の化身の数であることは『法華経』観世音菩薩普門品第二十五を読んで知っていた私は頷いた。

 この人は私が観音様を深く尊崇してきたことを知っているのだろうか?

 

 よく聴け! 三十三年後、世界は滅びる。人類は絶滅する。

 一挙にではないが、大破局が訪れる。

 その時、おまえは観音菩薩の使いとしてなすべき使命がある。一人でも多くの人といのちを救い、生きる活力を与えるのだ。

 

 西暦二〇二五年、「五六七(みろく)」の「み・五」の年の暮れに世界は大破局に見舞われる。その前に備えをするのだ。破局はまず世界規模の災害となって表れる。ハリケーン、サイクロン、台風、氷河の溶解、大洪水、大地震、土砂崩れ、大崩落、大噴火の同時多発で世界中が大混乱する。大戦争と地域紛争が各地で起こり、人々は疑心暗鬼になり、混乱の極みに陥る。

 まさに、日本神話の「天岩戸籠り(隠れ)」となった時に、よろずの「わざわい」がつぎからつぎへと出てきて、神々がパニックとなったものがたりの二の舞じゃ。

 

 この原因を作ったのは、『古事記』では、スサノヲとされるが、これからこの子孫が、天剣のシリウス剣と、人剣のプロキオン剣と、地剣のペテルギウス剣の三種のつるぎを見出して、その混乱を鎮めねばならん。

 おまえは共にその手伝いをするのじゃ。

 おまえの生まれ育った阿波の国は、じつは古代の邪馬台国じゃった。そこに三種の剣が隠されているのじゃ。

 剣山の三方向にな。

 東の天剣は伊島に、西の地剣は土柱に、人剣は日和佐に。

 おまえはそれを探し出して、シリウスとプロキオンとベテルギウスのエネルギーとメッセージを受け取らねばならん。

 それを受け取れなければ、おまえはおまえの使命を果たすことはできん。これまでの苦労も水の泡じゃ。

 まあ、阿波の男じゃけん、泡のように消えてもしょうがないがのう。

 

 その人は、何がそんなにおかしいのかと思うほど激しく呵々大笑して、忽然と消えた。

 

 呆気にとられたのは、洞内に一人取り残された私である。

 

 なに?

 なに?

 なんだったんだ、いまのは?

 

 私がシリウスやらプロキオンやらベテルギウスやらの剣を探さなければならないって?

 

 理解を拒む混乱と無秩序の中で、私の思考回路は停止した。

 

 最初は、神道や仏教や修験道を研究し、滝行や山岳跋渉などのいくらかの修業も重ねてきた私に理解できる文脈だった。

 だが、最後の方は、どのような根拠で、どのようなメッセージの文脈で告げられているのかが見えなかった。そして、私に与えられた使命なるものも。

 

 私は自分でも統合失調症かと疑うほど、支離滅裂なところがある。放っておくと、自然のままにしておくと、私の思考にも行動にもまったく論理も理性もなくなる。

 子どものころから、そうだった。

 それがある時突然の「オニがいる!」とか、「ぼくにはスがあるんじゃ!」という叫びになった。

 それを自分なりに解釈し散らしながらこの年までなんとかやってきたが、元の木阿弥に引き戻されたような気がした。

 私は自分を信じたことがない。自分がいつもどこか疑わしいと感じてきた。ずれているのだ、すべてが。

 私には母があれほど気にした「世間」や「世間体」というものがまったく見えない。感じられない。

 私の前にあるのは、ただ「宇宙」だけだった。子どものころから。

 そして、そこからやってきた、というおもいだけが強烈にあった。

 

 私は「宇宙」からやってきた。それが私の処女作『水神傳說』(泰流社、一九八四年一月一日刊)となった。これは創作であり、自己の出自を虚実皮膜に描いたものだと自負してきた。

だがそれも含めて、一切合切、何が何だかわからなくなった。

 孔子は『論語』の中で、「四十にして惑わず」と言っている。私の四十は、「不惑」どころか、「不明」であり「不審」であり「不通」であり「不義」であり「負債」で始まった。

どうしてよいかわからず、宇宙の中で独り児の孤独なぼっち。見捨てられたような、投げ出されたような。

 道は見えず、目の前には暗黒しかなかった。

 

 金の布地で麗々しく仕立てられていた巻物の題字は、『天元地元人元犬神星傳』と達筆の筆書きで書かれていた。

 呆然とその題字を眺めながら、どこへいくのだ? おれはおかしいぞ、おかしいぞ、おかしいぞ、凍り付くような不安に襲われた。

 

 

「スサノヲの子分」として

 

 この二年ほど、ということは、ステージⅣの大腸がん(上行結腸癌)の手術をして以来、自分の神道研究の最後の段階になって、ようやっと「神道神学者」を名乗るフンギリがついた。これまで、「ガン遊詩人」とか、「神道ソングライター」とか、「神仏習合諸宗協働フリーランス神主」とか、「現代の縁の行者」とかといろいろ自称してきた。そのいずれも間違いではないが、しかし、ちょっと世間体からずれた、ずっこけた色を出していた。

 しかし、「神道神学」を名乗るには、それなりの決意と勇気がいる。

 

 というのも、わが恩師、修士論文の主査である小野祖教が日本史上最初に「神道神学者」を名乗った人物だからである。小野祖教は哲学科出身の最後の弟子である鎌田東二に「神道神学」の後継者であることを願っていた。そのことを幾度か聞いたが、わたしは國學院大學とか神社本庁によってオーソライズされるような「神道神学」を担っていくつもりはまったくなかった。

 昭和50年(1975)4月1日、わたしは國學院大學文学部哲学科を卒業後、國學院大學大学院文学研究科神道学専攻修士課程に入学した。主査は、神道神学者の小野祖教、副査は宗教学者の戸田義雄。小野祖教には「神道神学」の名を関した著書『神社神道神学入門』(神社新報社、昭和26年(1951)8月5日刊)があり、これは長年階位検定試験の参考書に指定された。

 わたしは哲学科4年の時にたまたま覗いた戸田義雄の「世界宗教史」と「宗教学」のあまりの面白さとそのキャラクターのとてつもない不思議さに強い魅力とインスピレーションを感じて大学院に進んだのだった。

 そして、入学前の3月20日前後、つまりわたしの24歳の誕生日の前後に、一人で出雲大社と京都府綾部の大本のみろく殿を参拝し、神前でいつも持参していた雅楽の龍笛を奉奏して、「これから国つ神の神道を生涯かけて探究していきます」と誓ったのである。

 その意味で、わたしの神道研究は「出雲の神」と「大本の神」への誓いからスタートしたことになる。

 

 それからちょうど50年、半世紀が経った。この間、著しく体調を崩し、手術前には65キロあった体重が51キロに減った。「余命1年」持つかどうかも危うくなった。そのような事態に直面して、ガッ~と火が付くものがあった。燃え盛るものがあった。

 それが、「スサノヲの子分」としての「おたけび」だった。その「雄叫び」はわたしに「いづもごころといづもだましい」の復活を命じた。

 そこで、たいへんラフであるが、「国つ神」の「神道神学」の鎌田東二の結論として、「いづもごころといづもだましい」の復活と「やまとごころ・やまとだましい」との統合・再結合、すなわち、「国譲り」から「国合わせ」と「国祈り」の道、これが「新(真)まほろばの道」であることを示しておく。

 

 1,イザナミの悲しみと死に場所(弔い場)比婆山(『古事記』、熊野有馬村(『日本書紀』)

 2,妣を恋い慕って「啼きいさちるスサノヲ」の思慕の向かう先「根の国・底の国・妣の国」

 3,大国主の事蹟

①因幡国の八上姫への求婚の成功と因幡の白兎の救出と治療~治療神・医療神としてのオホナムヂ

②高志(越)国の奴奈川姫(ぬなかわひめ)への求婚(『古事記』『出雲国風土記』高志国(現在の福井県から新潟県)出雲国のヤチホコが沼河比売に求婚。『出雲国風土記』では「天の下造らしし大神」(大国主)が「奴奈宜波比売」と結婚して「御穂須々美命」を生んだとある。ミホススミは美保に鎮座。ヌナカハヒメを祭る神社は糸魚川流域に多い。当地は縄文時代からの「翡翠」の名産地で、列島各地に運ばれた。『万葉集』巻13-3247には、「沼名川の底なる玉求めて得し玉かも拾ひて得し玉かもあたらしき君が老ゆらく惜しも」(沼名河之底奈流玉求而得之玉可毛拾而得之玉可毛安多良思吉君之老落惜毛)とあり、その翡翠の「玉」の神秘と霊力・呪力が詠われている。

 

 わたしが考える「神道神学」の根本問題は、

①起~国生み神話~イザナミ神話

②承~国作り神話~スサノヲ―大国主神話

③転~国譲り神話~大国主―建御雷神話

④結~天孫降臨・国治め神話~邇邇芸命—猿田彦大神―ナガスネヒコ―八咫烏神話

と展開していくストーリーの中での大転換となる「国譲り」と呼ばれてきた神話構造とその神学的意味・命題 ・思想性の問題である。

 それをここでは、「いづもごころといづもだましい」の再発掘・再布置化と位置づけ、「やまとごころ・やまとだましい」と対置している。

「やまとごころ」の探究は、本居宣長の、

 

  敷島のやまとごころを人問はば 朝日ににほふ山桜花

 

として歌われ、王朝的な雅と繊細と美的感性の「もののあはれをしる」として位置付けられてきた。

 

 だが、それに対して、「いづもごころ・いづもだましい」とは何か?

 もちろんその最初の「出雲心」の発露はスサノヲの次の歌にある。

 

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 

 つまり、これは愛の讃歌であり、土地褒め祝婚歌でもある。

 これを「歌と恋」として位置付けておく。

 それに関連して、スサノヲの所有せる「出雲三種の神器」(①生太刀、②生弓矢、③天詔琴)がスサノヲから大国主に委譲される。

 「生太刀・生弓矢」は、殺害の武器が再生の祭具・呪具となっている点に注意したい。いわゆる「活人剣」の思想の淵源は「いづもごころといづもだましい」に帰着するということである。そして、それなしに連合的・友愛的・祝婚的連合国作りはできなかったということである。

 こうして、大国主の子沢山、『古事記』では180神の御子神が、『日本書紀』では181神の御子神の存在が記されている。この御子神の多さは、国作りが求婚であり、愛の歌の交換・交歓であったことを余すところなく示すものだ。

 つまり、「国作り」とは端的に「縁結び」、愛の「八重垣」作りなのである。そして、そのような愛といのちの讃歌を生み出す祭具が、歌の言霊を呼び込んでくる神聖祭具「天詔琴」である。

 

 このようにして、詩人正津勉が『裏日本的』(作品社、2022年)と悲憤をもって訴求した日本海国作りとは、大国主・沼奈河姫翡翠連合ネットワークであり、縄文時代からの文化的連合を保持しており、その象徴的な神社が延喜式内社の「命主神社」である。

 このネットワークは、出雲大社を中心に、能登半島の入り口に当たる石川県白山市の能登国一宮の「氣多大社」に「大己貴神(オホナムチ)、能登半島の最北の珠洲市に鎮座する「須須神社」には「高倉彦神」(たかくらひこのかみ)と山伏山山頂の奥宮に祀られている「美穂須須美命」(みほすすみのみこと)が祀られている。「みほすすみ」とは、言うまでもなく、『出雲国風土記』に、「天の下造らしし大神」(大国主)が「奴奈宜波比売」と結婚して「御穂須々美命」を生んだと記載される出雲国美穂(美保)に鎮座する「ミホススミ」と同神であり、出雲神族ということになる。

 

 また、青森県津軽半島の付け根にある津軽国一宮岩木山神社の祭神は「顕国魂神(うつしくにたまのかみ)」、つまり、スサノヲが授与した大国主神の神名の一つである。

 

 この大国主連合が、京都府亀岡市亀山城跡(かつて明智光秀が城主であった)大本の宣教センター天恩郷のある亀岡の丹後国一宮「出雲大神宮」や大本の隠退神「艮の金神」ときっちりと切り結んでいる。

 

 このような日本海スサノヲ~大国主連合国の心と魂を、まずは「スサノヲの子分」である鎌田東二が神道神学的に位置付け直す必要がある。そして、それを未来の日本再生、第三の「岩戸開き」、すなわち「新(真)まほろば国作り」に結び付けるには、『古事記』や『日本書紀』や『先代旧事本紀』に記されてきた「天つ神」と「国つ神」の再結合・再構築、「神合わせ・国合わせ」が不可欠の条件となる。そして、その基幹に、愛と命の讃歌の歌心と出雲三種の神器の「命主」の息吹が甦らなければならない。そのような息吹の生成を取り戻してこそ、長谷川敏彦・鎌田東二対談集『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く――医療と宗教のパラダイムシフト』(集英社、2024年12月20日刊)で提唱していることが可能となり、J・W・T メーソンが『神道神話の精神』(高橋ゆかり新訳、鎌田東二監修・解説、作品社、2025年1月26日刊)で次のように指摘していることも可能となる。

 

『日本書紀』が伝えるオオクニヌシに与えられた最高の栄誉は、タカミムスビノカミがオオクニヌシに述べた次の言葉に包括されている。「夫れ汝が治す顕露(あらは)の事は、是吾孫(すめみま)治すべし。汝は以て神事(かみごと)を治すべし」。

 ここに、出雲遠征の霊的意味の神道的極地がある。オオクニヌシは以前に、自己の個性を神霊として認識した。また、自然界そのものの神霊も認識していた。オオクニヌシに神事を治めるよう任じたことで、天は、個性と結びついた神霊の普遍性をオオクニヌシが神性の究極的な理解として捉えたことを認めたのである。オオクニヌシの任務は、個性化しながらも普遍的全体を理解する地上の神霊に関わることであった。しかし、オオクニヌシが神事を治めることは、こうした神道の信条を人々に強いる権能があることを意味したのではない。なぜなら、天そのものがオオクニヌシにそれを強制することができなかったからである。普遍性と個性という神道の意味を自己の内で認識することは、自然発生的に起こらなければならない。

 オオクニヌシを神事の統治者としたことは、自然界と自己の神性、および普遍的霊性を理解した最初の人間であることを称えるものである。そして、オオクニヌシが理解したことは、ほかのすべての人もどうように理解することができる。この意味での統治というのは、オオクニヌシが個人の霊性と、普遍的神性の一体性に対する個人の責任を認識したことを人々が想起し、導きを受けることである。

 タカミムスビノカミが個性と統合を一人格の中に体現する天上における神道の代表であるとすれば、オオクニヌシは地上における代表である。オオクニヌシのために建てられた神社(出雲大社は、この二重の意味を有する。それは個性的な努力と同時に、個々の存在が普遍的霊性の一部であることも象徴している。出雲大社は伊勢神宮とは異なる。伊勢神宮が天照大神を通じて、すべての個人とすべての力が結びついた全体性を象徴するのに対し、出雲大社は、地上において各個人は自己でありながら、その個性は全体的の中に融合していることを思い起こさせる場所である(201‐202頁)。

 

 メーソンは、伊勢神宮―天照大神を普遍的全体性とし、大国主神を「個性そのもの」とし、この「個人の創造的活動がムスビの発展性を続けていく必要がある」として、神道が「普遍性」と「個性」の「調和」をはかっていることを熱く論じている。

『古事記』と『日本書紀』はともに、デフォルトとして、天つ神と国つ神、天上世界と地上世界の二元性・両極性を設定している。それによって、それが対立や分断に向かうのか、統合や調和や補完に向かうかのタスクを与えていた。そのタスク(課題)を大国主は二人の我が子に「Yes」(兄コトシロヌシ)と「No」(弟タケミナカタ)の両極で示し、常陸国一宮の建御雷=鹿島神宮の神と諏訪国一宮の建御名方神との一騎打ちで解の方向性を覚悟し、みずからは中道的和解(顕幽/顕露―神事棲み分け的補完)という形で紛争解決・課題解決のひとまずの答えを出した。

 

 さてこの「課題解決」が、今日に至る日本史において課題解決の先行事例として参照され、第二の国譲りとして大政奉還や江戸城無血開城、第三の国譲りとしてのポツダム宣言受諾=無条件降伏―昭和天皇のいわゆる「人間宣言」や日本国憲法や日米安保条約や日米地位協定にまで影響を及ぼし、負のスパイラルを生み出しているとするならば、ここで明確に接続と再結合を、つまり死と再生をやり直さなければならないであろう。「スサノヲの子分」たるわたしが背負ってきたのは、この「啼きいさちる神スサノヲ」のデフォルト設定とワンダリング(流浪)の行方を矛盾なき明晰(道理)と修復的正義と和解に接続する「神道神学的命題」を提示することにほかならない。それこそが、「スサノヲの冒険~八岐大蛇退治」の成就となるであろう。

 

 

参考文献

長谷川敏彦・鎌田東二対談集『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く――医療と宗教のパラダイムシフト』(集英社、2024年12月20日刊)

正津勉『裏日本的』(作品社、2022年)

J・W・T メーソンが『神道神話の精神』(高橋ゆかり新訳、鎌田東二監修・解説、作品社、2025年1月26日刊)

日本臨床宗教師会編『スピリチュアルケア――インターフェイスな臨床宗教師』(作品社、2025年3月15日刊)

鎌田東二『日本人の死生観Ⅰ 霊性の思想史』『日本人の死生観Ⅱ 霊性の個人史』(作品社、2025年3月20日刊)

江原啓之・鎌田東二対談集『未来が視えない! どうしてこんなに通じ合わないんだろう?』(集英社、2025年3月25日刊)

Commenti


I commenti sono stati disattivati.

背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

© 2022 なぎさ created with Wix.com

bottom of page