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スサノヲの冒険 第8回

鎌田東二

ドラマチックスサノヲぶり


指先に告ぐ



指先に告ぐ

死期を悟らしめよ


天晴れて 月傾ぶける大文字

庵は朽ちて 草いきれ


天声人語は聞こゆれど

ただひたすらに 開けの明星

のうまくさまんだばだらだん

のうまくさまんだばだらだん


海月の島は今にも沈まんとして

最期の咆哮を上げている


ゆくりなくも おっとり刀で駆けつける

さぶらいたちよ


汝ら騎士のちからもて

この腹裂きて 岩戸を開け

夢の彦星 産み出せよ

夢の姫星 産み出だせ


  友在りて 天声人語を 聞かせれど

    狂天慟地の 只中を往く


              二〇二三年一月十七日五時四十六分

阪神大震災の起こった時間に大文字山を見上げながら記す

               (第七詩集『いのちの帰趨』港の人、2023年7月22日刊))より




 『古事記』の中のスサノヲと『日本書紀』の中のスサノヲと『出雲風土記』の中のスサノヲとはずいぶんその描かれ方も、キャラクターも、位置付けも異なる。

 『古事記』では、スサノヲはキーマン的神として描かれているのは以前指摘した通りである。だが、『日本書紀』では、見放された悪神として描かれる。それも指摘した。

 そして、『出雲風土記』では、周辺神として端役扱いで描かれる。

 この三者三様の描かれ方の中で、共通しているのは、その芸能的な、演劇的な、ドラマチックな振る舞いである。

まるで、神楽を見ているような、能を見ているような、歌舞伎を見ているような、そして近現代に脚色された諸種の演劇を見ているような、そんな芸能やドラマの原点をスサノヲに見ることができる。

 今回は、そのドラマチック「スサノヲぶり」を考えてみる。


 スサノヲぶりの第一点は、「なきぶり」である。

 『古事記』では「啼伊佐知伎(なきいさちき)」と表記されている。八拳須(やつかひげ)が胸先に伸びるまで泣き叫んでいる。その泣き声で、山の樹々は枯れてしまい、海の水は干上がってしまった。そのさまは、「海原を治せ」という父イザナギの命に完全に背いている。というより、海原を治すどころか、海原を大荒れに荒らしまくっている。その「なきぶり」の尋常ではない点。

 スサノヲぶりの第二点は、「おわれぶり」。父に葦原の中国を追放され、姉に高天原を追放される。居場所がない。定住定着できない。休まるところがない。この追放された、というところも、ドラマチックの重要要素である。

 それに関連して、第三点は、赴く神、旅する神であるという、その「あるきぶり」。放浪神スサノヲは、葦原の中国から姉アマテラスの支配する高天原まで歩いていった。その際、「山川・国土」が激しく震動した。「山川悉(ことどと)に動(とよ)み、国土皆震(ゆ)りき。」(『古事記』)

 その凄まじさに驚いたアマテラスは、弟スサノヲが「国」(=高天原)を奪いに来たと思い、武装し、陣取って待ち構えた。が、結局、そこからも追放(「神やらひ」されて、放浪せざるをえなくなる。

 第四点は、「あかしぶり」。つまり、国を奪う野心など、微塵もないと、身の潔白を証明する神事として、互いの「物実(ものざね)」から神々を化生させる「宇気比(うけひ)」を行なったのである。それは、アマテラスとスサノヲそれぞれの霊性を象徴する「八尺(やさか)の勾瓊(まがたま)の五百個(いほつ)の御統(みすまる)の珠(たま)」と「十拳剣(とつかのつるぎ)」を噛み砕いて、息とともに吐き出して、それぞれ五柱の男神たち(その筆頭が、天孫降臨する邇邇芸命の父の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と御柱の女神たち(宗像三女神)であった。この神々を生む神聖なワザの行使もドラマチック重要要素である。じつに、ファンタスティックで、ファンタジー文学の原点がここにある。

 第五点は、その「あばれぶり」。この「うけひ」の神事で、「異心(ことごころ)」がないことも「清明心(きよくあかきこころ)が証明されたと有頂天となり、勝鬨を上げ、その勢いで、田んぼの畦道を毀し、溝を埋め、大嘗殿に糞をして穢し、神に捧げるための神聖な忌服屋(いみはたや)に、「天の斑馬(あめのふちこま)」を逆剥ぎに剥いで投げ入れたので、驚いた天の服織女が機織りの針(梭)で女陰を衝いて死んでしまった。

 そこで、我慢が出来なかったアマテラスは、天の岩屋戸に籠り、世界が真っ暗闇で、諸々の災いが次々と発生する世界最大の危機に見舞われたので、それを修復する(「修理固成」する)ために、岩戸の前で祭りを行なうことにしたのは、有名なエピソードである。これは、「祭り」や「神楽」という日本文化の原点の発生を物語る伝承で、生存危機を脱出する生存戦略と生存哲学を示した最重要神話である。

 第五点は、「だましぶり」。トリッキーな知恵の行使。神話の英雄は、さまざまな騙しの術を持っている。その「騙し(だまし)」は悪いことではなく、知恵の発露と肯定的に表現される。スサノヲは、髭を切られ、手足の爪を抜かれて、高天原を追放され、世界をさ迷う。その時、オホゲツヒメに食べ物を請い、オオゲツヒメが鼻や口や肛門から種々の食べ物を出すのを目撃して殺してしまう。そこから五穀+蚕(頭から蚕、2つの目から稲種、2つの耳から粟、鼻から小豆、女陰から麦、肛門から大豆が成り出たので、出雲系の「命主神(いのちぬしのかみ)=神産巣日御祖命(かみむすひのみおやのみこと)」は、それを取って「種」とし、いのちを養う源の初源としたのである。この点、スサノヲの殺害は、単なる殺しではなく、いのちの変容、という側面を持っている。その後、よく知られたヤマタノヲロチを酒を飲まして騙し、ぐでんぐでんに酔っぱらったところを切り倒して、その尾っぽから、後に三種の神器の第三の神器となる「都牟刈大刀(つむがりのたち)=草薙大刀(くさなぎのたち)」を取り出し、アマテラスに献上するのである。

 この「だましぶり」による騙し討ちによって、スサノヲは罪滅ぼしというか、贖罪をしたことにもなるのだが、これはある意味での「自分殺し」である。荒ぶる神スサノヲのあらぶり・すさびは、2つのかたちに自己変容する。すなわち、自己のいのちのいぶきの生命力がオホゲツヒメの変容の姿の五穀や蚕となり、自己の暴発のあらびがもう一人の自己であるヤマタノヲロチとなって現われ、それを殺して草薙の剣となるのである。

 第六点は、「うたいぶり」。これは、すでに繰り返し説いてきた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に表出され、これまた生命危機、生存危機を救出するものとして表出され、「祭り」や「神楽」と並ぶ日本文化の原型となるワザである。

 そして、最後の第七点は、その「いわいぶり」である。これは、自分の住む「根の堅州国(ねのかたすくに)」にやって来たオホナムヂ(後の大国主神)にさまざまな試練を与えて、その成長を祝福する長老的な、翁的な役割を果たす、スサノヲぶりの最終段階を言う。ここで、スサノヲは最愛の娘須世理毘売を奪って逃走するオホナムヂに告げる。「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟(ままあにおと)をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)となりて、その我が女(むすめ)須世理毘売を嫡妻(むかひめ)として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴。」と、諭しとメッセージと祝福を贈るのである。


 以上、今号は、短文であるが、ドラマチック・スサノヲぶりの特徴を挙げてみた。スサノヲの子分である私は、そのすべての要素を容れて、変容につぐ変容を遂げていきたい。実は「三つ子の魂百まで」で、何一つ変わっていないのだが!


 最後に特筆しておきたいことがある。

 それは、スサノヲ以外に、高天原と葦原中国と根の堅州国の三層世界を旅した神も人も一人もいないということだ。スサノヲだけが、高天原から根の堅州国までをつなぎ、つらぬき、いのちの脈動を与えている。それは、確かに破壊に充ち溢れて居る。だが、その破壊の後に創造と新生と変容がある。その変容のさまこそ、いのちのいぶきとも、荒ぶり=新ぶり、とも言える事態なのである。

 ゆえに、破壊も死も過剰に恐れる必要はない。それは、その先に続く脈動の予兆であり、準備でもあるのだから。

 それだけは、言っておきたい。


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