鎌田東二
「顕神の夢」とスサノヲ表現 出口王仁三郎(1871‐1948)は自身をスサノヲの「化身」である「瑞霊(みづのみたま)」と自覚していた。王仁三郎がスサノヲを「言霊の神」とし、「そもそも芸術の祖神は素戔鳴大神さまであるから、心中この大神を念ずるとき、絵画といわず、陶器といわず、詩歌といわずあらゆるものに独創が湧く」(「絵について」『出口王仁三郎著作集』第3巻)と「芸術の祖神」であると主張していたことは本連載の第4回目に記した(1)。 大本でもっとも多く繰り返し唱えられる祈りの聖句である「惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはへませ)」について、創作ではあるが、出口王仁三郎の孫の出口和明は『大地の母』第7巻(283‐284頁、あいぜん出版、1994年)の中で次のように出口王仁三郎の発言として描写している。 〈どんな時でも「惟神霊幸倍坐世」を忘れたらあかんで、惟神霊幸倍ませと念じる心は、神様の御心のままに神霊の幸福をたまわりませという意味や。 大事なのは惟神、つまり、神様の御心のままにということ。人としての最善をつくした上で、あとはどうなろうと神にお任せするという安らかな態度が、神に向かう人としてのまことや。己を無にすることも知らず、がむしゃらに利欲を願うても無駄。 神様はその者の召使やない! 心だにまことの道にかないなば祈らずとても神や守らん。という古歌を引き合いに出して、己の無信仰を弁護する者がおる。 一面の真理やが、他面では大変な思い上がりや、心がまことの道にかなうようになるために、まず人は祈る。神に心を振り向ける。『おれは自力で立派にやる。祈る必要はさらになし』というは、なるほど強くて頼もし気に見えるが、神に日々生かされていることを知らぬ者の云うこと。 神床に向かって正座し、型通りの祝詞を奏上する。そこまでいかんでも嬉しい時に手を合わせてみい。悲しい時にもや。道歩きながら、転びながらでも良いのや。 惟神霊幸倍坐世という余裕がなかったら、惟神でも、神霊(かんたま)でも、神(かん)でもええ。 その一念さえ通ったら、神様は守ってくれはる。〉 大本信徒連合会の出口孝樹によると、この祈りの聖句の「惟神霊幸倍坐世」は、大正時代の大本の祈願詞集である『善言美詞』には出て来るとのことであった。私が確認できたところでのもっとも古い初出は、第一次大本事件後の大正10年10月18日から口述が始まった『霊界物語』第1巻「霊主体従子の巻 第1篇幽界の探険現界の苦行」の最後に、「これが自分の万有に対する、慈悲心の発芽であつて、有難き大神業に奉仕するの基礎的実習であつた。アゝ惟神霊幸倍坐世。」とある箇所であった(大正10年11月30日初版、昭和34年7月28日普及版、昭和42年校訂版、大本教典刊行会編、天声社刊、19頁)。 そこでは、この祈句は「万有に対する慈悲心の発芽」の表現と意味づけられている。現在の大本信徒連合会のHPには、〈『「神様のみ心のままに霊の善くなるようお救いください」という意味の祈りの言葉です」〉と説明されている。 そのスサノヲ化身出口王仁三郎の描いた「巌上観音」などの掛軸が、今、川崎市岡本太郎美術館に展示されているが、これは「惟神霊幸倍坐世」の精神性を絵に表現したものであると言える(2)。 縁あってわたしが監修を務めることになったこの「顕神の夢」展は、2023年4月29日(土)から川崎市岡本太郎美術館で始まっている。この「巌上観音」像の掛軸は、5つのゾーンに分けた展示の第一ゾーン「見神者たち」の冒頭部分に展示されている。 今号では、この「顕神の夢」展に「顕神」したスサノヲの「像」(作品)を取り上げていきたい。 筆頭展示は、出口なお開祖の「お筆先」、その次が出口王仁三郎聖師の「巌上観音」の掛軸(観音はスサノヲの変容体でもある)、その隣が王仁三郎の書「おほもとすめおみかみ」、その向かいに、耀盌「瑞雲」(「瑞雲」は「瑞霊」であるスサノヲ=出口王仁三郎を象徴し、「雲」は「八雲立つ出雲」を象徴しているとも解釈可能である)が展示されている。 続いて、大本に在籍したことのある岡本天明(1897‐1963)、そして、「神理研究会」創立者で、雑誌「さすら」を主宰していた金井南龍(1917‐1989)と続く。岡本天明は、大正9年(1920)年に皇道大本の大幹部の浅野和三郎が社長を務める大正日日新聞社(第一次大本事件のあった大正10年1月13日に社主だった出口王仁三郎が社長に交替)に入社し、大正14年(1925)には皇道大本が発行する機関紙の「人類愛善新聞」の創刊時に編集長に就任している。 その岡本天明の「三貴神像」(1948年頃制作)が一点展示されている。「三貴神」とは、イザナミの禊から成った天照大御神(左目から化成)、月読命(右目から化成)、須佐之男命(鼻から化生)の『古事記』に言う「三貴子(みはしらのうづのみこ)」であるが、中央に大きく描かれているのはスサノヲである。が、このスサノヲは特に『日本書紀』の冒頭に登場して来る最初の神の「国常立大神」で、しかも、特に「素鳴大神(すさなるのおおかみ)」とされる。『日月神示』と呼ばれた自動書記を世に出した岡本天明は、1948年頃にわずか30分で、この「三貴神像」を画いたという。「三貴神」とは、日月と地球で、もちろん、日=太陽は天照大神、月は月読大神、そして地球が「国常立大神=素鳴大神」、つまり、スサノヲであるということになる。 また、金井南龍の作品は、「高千穂と山王龍」「妣の国」(いずれも1969年制作)、「富士諏訪木曽御嶽のウケヒ」(1986年制作)の三点で、その中の「妣の国」には妣の国を遥拝するスサノヲたちの後ろ姿が描かれている。ちなみに、幼児のスサノヲは黄色い上着と赤い吊りズボンを身に纏っている。その幼き「三貴子」の後ろ姿の中でも、ひときわ目立っているのがスサノヲで、遥拝場の一番前に出ていることもそうであるが、赤い吊りズボンがいっそう哀感をそそる。 さて、同ゾーン(「見神者たち」)の中の三輪洸旗(1961‐)の画の中に「スサノヲ顕現」(2008年制作)がある。この作品には全体がほぼ真っ黒なので、不鮮明で不透明な幽冥感が漂っている。それは幽玄でもあるが幽冥でもあり、くぐもっている。兆しのような。画面真ん中にうっすらとうかびあがってくるモノ。それを三輪は「スサノヲ」とした。 図録『顕神の夢――幻視の表現者』(顕神の夢展実行委員会、2023年4月28日刊)の巻末に置かれた江尻潔の長編解説論文「顕神の夢」には、三輪が岡本天明の「三貴神像」を見た夜にこの絵を制作したことを次のように記している。「彼(三輪洸旗―引用者注)が岡本天明の《三貴神像》を見た晩、制作準備のためシナベニヤに施した下塗りがおのずと「スサノヲ」の姿になったという。《三貴神像》の「素鳴大神」同様、赤子を抱いている。すでに十四年を経ているが、いまだに顕現し続けているという」
岡本天明にも、三輪洸旗にも、スサノヲが「顕神」した。わたしは、三輪洸旗の「スサノヲ顕現」を見た時に、スサノヲが「始祖鳥」に跨っているように視えた。その下にいるのは、岡本天明の「三貴神像」では、龍である。だから、三輪洸旗の「スサノヲ顕現」のそれも、スサノヲが跨っているのは龍である、ということもできる。 しかし、画像が持つ形態というモノはスペクタクルな多面体でもある。それを「始祖鳥」だと視る者がいても、それを100%否定する根拠はない。むしろ、多様な見方や解釈を許すことによってその絵はより豊穣なものとなる。芸術の力とはそのような鵺のような、キメラのような、スペクタクルな多面体を蔵するところにあるのでないか。 さらに、第四ゾーンの「神・仏・魔を描く」の中に、三宅一樹(1973‐)の彫刻「スサノオ」(2014年制作)が展示されている。その隣に展示されている掛軸のような彫刻作品「那智の多氣」(2018年制作)にわたしは魅せられたが、三宅はこの数年さまざまな神像群を制作し続けている。その最初期の神像の「顕現・顕神」がスサノヲであった。 三宅から直接聞いた話では、確か、八幡神社の神木で落雷か何かで倒れていたものをいただいてきて、それを見つめているうちに、そこに「神像」、神の貌が浮かび上がり、それを夢中で掘り進めると、このような形になり、それを彼は「スサノオ」と名付けたのである。まさにそのプロセスは「顕神の夢」そのものである。 最後の第五ゾーンの「越境者たち」の中に、26歳で瀬戸内の海で溺れて夭折した中園孔二(1989‐2015)の「無題」の作品が六点展示されている。その内の二点をわたしは、4月29日に行なわれたオープニング鼎談において、鼎談者の二人である企画立案者の土方明司川崎市岡本太郎美術館館長と江尻潔足利市立美術館学芸次長の前で、あえて「緑のスサノヲ」と「カグツチ」(いずれも2012年制作)と名付けた。 赤黒く浮遊しているような不気味な妖怪じみた人体は、首が切断されていて、頭部が頭骸骨のように見える。胴体の方はふっくらとしていて幼児のようでもある。また、どこか、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。なので、「カグツチ」という名付けは、それほど的外れではないと思っている。 が、問題は、「緑のスサノヲ」である。出口王仁三郎の赤と緑の耀盌「瑞雲」がここで、赤=八岐大蛇=カグツチと緑=スサノヲに顕神分化した。冒頭に「耀盌」があり、最後の末尾に「カグツチ=ヤマタノオロチ」と「緑のスサノヲ」がいる。それらは共鳴し合い、呼応し合っている。この「顕神の夢」展で、スサノヲがそうであったように、啼きいさちり、呼び交わし合っている。それらは、哀しみと喜びのない混じった混合表象である。中園孔二の「緑のスサノヲ」は啼いている。啼きいさちッている。 何を啼いているのか? それはこの地球の、この世の苦悩ゆえであろう。それらの苦悩の根源に何があるのか? それを見つめながら啼いている。まさにそれは、岡本天明の「素鳴大神」の「鳴」であり、「神成=雷」である。スサノヲの啼きいさちる声は雷鳴となって地上に落下する。 それは、「天鳴直咒」、である。それを「天命直受」するのが画家であり、詩人であり、芸術家である。わたしはスサノヲのその「天鳴直咒」を『悲嘆とケアの神話論―須佐之男・大国主』(春秋社、2023年5月3日刊)として取り次いだ。「顕神の夢」展の作家たちがおのおの独自の「顕神=見神」を表現したように。このわが「遺言」を読んでいただきたい。その冒頭は、本連載先号(第5号)のエッセイ「スサノヲとディオニュソス」で、その次に「開放譚~スサノヲの雄叫び」などの神話詩が続く。冒頭の構成は次の通りである。
序章 須佐之男のおらび スサノヲとディオニュソス
第一章 日本神話詩
開放譚~スサノヲの雄叫び
大国主~なぜこれほどの重荷を背負わ
なければならないのか?
流浪譚~ヤマトタケルの悲しみ
国生国滅譚~イザナミの呪い
ちなみに、この『悲嘆とケアの神話論』の表紙の画は、同「顕神の夢」展に出品されている横尾龍彦の作品「枯木龍吟」である。
同展第三ゾーン「内的光を求めて」には、その横尾龍彦東京自由大学初代学長の「枯木龍吟」「龍との闘い」(いずれも1988年制作)「無題」(1989‐1991年頃制作)の三点(鎌田所蔵)が出品されている。
この「枯木龍吟」はスサノヲが啼きいさちった後に訪れる「嗄れ(涸れ)」を表現しているとも見える。また、「龍との闘い」は、スサノヲとヤマタノオロチの闘いそのものである。「無題」もまた、「龍との闘い」の延長のように見える。横尾「龍」彦という画家は、生涯、「龍」と向き合い続けたと言える。
横尾龍彦は、その「龍との闘い」を通して、次のような言葉を遺している。東京自由大学初代学長のメッセージとして、心して受け止めたい(3)。
〈ノヴァーリスは「芸術とは人間の低次の自我の枠を超えて、宇宙の創造的諸力と結びつくための手段である」と書いている。ある種の現代芸術は、はっきりと自らのシャーマン性を意識している。それは高次の霊能力を受容することによって人類のVisionを形成すること、そして副次的には、芸術に参加するものに心理的治療をもたらすことである。
画家にとっては、言語による思考からは、実は表現衝動は生れない。言語による推理と分析によって、美を客観化すればするほど、表現は遠のく。気韻は自然に何処からか現れて宿るのである。そのため特殊な自己超越法を身つけなければ作品は生まれない。それは一種の霊的濃密空間へ没入する技術である。(…)芸術を深く探求しようとすれば、事物の奥深く隠されているものを言語化しなければならない。その世界において芸術は限りなく宗教に近づいていく。
幻視する能力というものは内的必然性に従って出現するものであって、日常の視界に何処にでも顕在化するものではない。それは外界に可視的形状をもって対象化されるのではなく、内観する秘儀とも言うべき秘められた世界なのである。内観する視力は同時に内なる小宇宙から共鳴する大宇宙への眼眩む天界曼陀羅に見とれることになる。幻視家にとっての不可視の世界は実在している世界であり、この物質世界が肉眼に映るように心の内奥に映像しているのである。
ここではっきりと区別されなければならないのは幻視することと空想することの相違である。幻視とは不可視の実在を見ることであり、空想は概念的虚像を見ることである。前者は霊的進化に寄与し、後者は知的遊戯に寄与する。
精霊たちよ、聖なる存在者よ、私を通して流れよ、発光せよ。
(いずれも『横尾龍彦1980-1998』「断章」より、春秋社、1998年刊)>
横尾龍彦は、「龍」を通して「顕神の夢」を視た。その中には、スサノヲやヤマタノオロチと連動するイメージや表象やビジョンがあった。「龍動」する横尾の中にスサノヲもヤマタノオロチもいた。ヤマタノオロチはこの世のあらゆる災い(苦悩・苦難・悪・暴力・残虐)を象徴する。スサノヲは、おのれの中にヤマタノオロチが生息していることをはっきりと感じ取っていた。がゆえに、自分で自分を退治した。浄化した。昇華したのである。自分の中の「魔」と向き合って。
横尾龍彦も、生涯、「神」と「魔」に向き合いながら、初期の瞑想画・幻想画から後期の独自の「龍画」に転換した。その闘いの中から見い出した神剣「天叢雲剣」、すなわち「草薙剣」をわたしたちもスサノヲとともに一振り、二振り、三振りしてみよう。そのような「神剣」の顕現を今、必要としているのである。
注
(1)出口王仁三郎は、「藝術は宗教を生むのであるから、宗教の親である。長い間子の研究やつたから、これからは親の研究をやるのぢや。」「私は絵を描くにしても、岩なんかを書いて居ると、上から落ちて来るやうな気がするので、左手で押しあげて居るようにしてかく。」(いずれも、出口王仁三郎『水鏡』1928年、あいぜん出版)、「詩を作らうと思ふ心が詩を殺し、画を描かうと思ふ心が画を殺すものである。無作の詩人と無筆の画人こそ真に詩人であり、画伯である。海の声、山の姿も神ながらにして詩となり画となるのが本物である。」(出口王仁三郎『月鏡』1930年、あいぜん出版)、「藝術と宗教とは、兄弟姉妹のごとく、親子のごとく、夫婦のごときもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。」(出口王仁三郎「総説」『霊界物語』第65巻)と述べている。
また、展示されている出口なおのお筆先の言葉は以下の通りである。
うしとらのこんじん (艮の金神)
のこらずのこんじん (残らずの金神)
りう五(も)んのをとひめさま (龍宮(門)の乙姫さま)
ゆわのかみさま (岩の神さま)
あめのかみさま (雨の神さま)
かぜのかみさま (風の神さま)
あれのかみさま (荒れの神さま)
じしんのかみさま (地震の神さま)
(2)「顕神の夢」展の5つの展示ゾーンと主要出品者は以下の通りである。
●見神者たち(神的なものとダイレクトな「交流」があり、制作した人たち)出口王仁三郎、出口なお、岡本天明、金井南龍、宮川隆、三輪洸旗
●幻視の表現者(宗教的なビジョンあるいは幻視・幻覚を制作のモチベーションとした作家たち)村山槐多、関根正二、河野通勢、萬鉄五郎、古賀春江、高橋忠彌、三輪田俊助、芥川麟太郎、内田あぐり、藤山ハン、齋藤隆、庄司朝美、八島正明、花沢忍 ●内的光を求めて(心に浮かんだ「幻」の素材である内的な光をそのまま表出した作家たち)横尾龍彦、藤白尊、上田葉介、黒須信雄、橋本倫、石塚雅子 ●神・仏・魔を描く(既存の神仏に依拠した作品のほか、独自のビジョンによって感得した神仏の姿。得体のしれない「魔」も表現される)円空、橋本平八、高島野十郎、藤井達吉、秦テルオ、長安右衛門、平野杏子、牧島如鳩、佐藤溪、八島正明、石野守一、真島直子、吉原航平、若林奮、黒川弘毅、佐々木誠、三宅一樹 ●越境者たち(既存の世界を越境して常人とは別の視点からこの「世界」を改めて見直した作家たち)宮沢賢治、草間彌生、岡本太郎、横尾忠則、馬場まり子、赤木仁、舟越直木、中園孔二、OJUN 【開催予定館】 川崎市岡本太郎美術館 2023年4月29日(土・祝)~6月25日(日) 足利市立美術館 2023年7月2日(日)~8月17日(木) 久留米市美術館 2023年8月26日(土)~10月15日(日) 町立久万美術館 2023年10月21日(土)~12月24日(日) 碧南市藤井達吉現代美術館 2024年1月5日(金)~2月25日(日) 【助成】地域創造 【監修】鎌田東二(京都大学名誉教授・天理大学客員教授) 【各開催館担当者】 川崎市岡本太郎美術館 館長 土方明司 学芸員 佐藤玲子、喜多春月 足利市立美術館 次長 江尻 潔 久留米市美術館 副館長 森山秀子 学芸員 原口花恵 町立久万美術館 館長 高木貞重 学芸員 中島小巻、本田李璃子 碧南市藤井達吉現代美術館 館長 木本文平 学芸員 大長悠子、中島未紗 また、同展図録の巻頭エッセイとして、以下の短文を寄稿した。 「顕神の夢」という「顕幽出入」の時代 鎌田東二 図録原稿 「顕神の夢」展、画期的なネーミングであると思っている。 かつて、公立美術館でこのような名称を持つ、あるいはこれに近いタイトルの展覧会が開かれたことがあるだろうか? そのすべてを承知しているわけではないが、おそらくこれに近い展覧会名はないのではないかと思う。 「霊性」をテーマとする先行の展覧会として二〇一四・一五年開催の「スサノヲの到来 いのち、いかり、いのり」展(足利市立美術館、DIC川村記念美術館、北海道立函館美術館、山寺芭蕉記念館、渋谷区立松濤美術館)、二〇二〇・二一年開催の「デビュー50周年記念 諸星大二郎 異界への扉」展(北海道立近代美術館、イルフ童画館、北九州市漫画ミュージアム、三鷹市美術ギャラリー、足利市立美術館)が思い浮かぶが、本展はそれ以上に独創的でラディカルでパワーアップしていると言えると思う。先行二展に関り、本展の監修を務めた者として、まずこの点を強調しておきたい。 しかし、古典を紐解けば、「顕神の夢」に近い言葉は、日本最古の不思議なテキストである『古事記』(七一二年編纂)と二番目に古い正史の『日本書紀』(七二〇年編纂)に出てくるのである。 まず、太安万侶が書いたとされる『古事記』序文の冒頭にこうある。
「臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、氣象未だ效れず。名も無く爲も無し。誰かその形を知らむ。然れども、乾坤初めて分れて、參神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二靈群品の祖となりき。所以に、幽顯に出入して……(以下略)」(倉野憲司校注、岩波古典文学大系本)
問題の箇所は、「顕幽に出入」するという部分である。ここには、「顕」の世界と「幽」の世界に分かれていて、その両方を行き来することができるという世界観がある。それが前提となってこの語が意味を持つ。分かりやすく言えば、「顕」はこの世で(『古事記』の場合では「葦原中国」)、「幽」はあの世(「黄泉国」)である。つまり、この世とあの世、葦原中国と黄泉国とを往来できるという世界観だ。 もちろん、『古事記』も『日本書紀』も『万葉集』も、当時はひらがなもカタカナもなかったのですべて漢字で表記されているが、その部分の漢字表記は「出入幽顯」である。その「出入」を誰がしたかと言えば、国生みの原母伊邪那美命と原父伊邪那岐命である。 イザナミは、火の神カグツチを産んでみほと(女陰)が焼かれ衰弱して「神避」り、黄泉国に身罷ったと『古事記』は記す。その後を追いかけて夫イザナギが黄泉国に趣く。そして、一緒にこの世=葦原中国に戻って、さらに神生み・国作りをしようと、黄泉国に身罷った妻に呼びかけるのだが、「見るな」のタブーを破ったイザナギは妻の体の変容に耐えきれず、穢れたものを見てしまって逃げ帰り、「黄泉比良坂」(『日本書紀』には「黄泉平坂」)を「千引の岩」、すなわち千人がかりで引くほどの大岩で塞いで、「顕幽出入」をできなくした。これが「顕幽出入」から「顕幽分断」への大きな変化である(1)。 つまり、日本の原初の神々は、最初は、「顕幽」に自由に出入りできていた。しかし、それが大岩で塞がれた。そのために出入りが困難になった。そこで、「顕幽出入」するようなことは特別のこととなり、巫女やシャーマンや霊能者など特殊な能力を持つ人たちだけの独占行為や経験となってしまった。とまあ、そのようなことになるだろう。 ではもう一つの古典、『日本書紀』にはどう出ているか。ここでは「顕露」と「幽事」が対比的に用いられている。いわゆる「国譲り」の記事の中で、天孫は「顕露事」を、大己貴神(大国主神)は「神事・幽事」を治めるという分治論が示されているのである。『日本書紀』神代下第九段第二の「一書曰」に次のようにある 。 〈二神(経津ふつ主ぬしの神かみと武たけ甕みか槌づちの神かみ)、出雲の五十田狭いたさの小汀おはまに降くだり到いたりて、大己貴神に問ひて曰はく、「汝、此の国を以ちて天神あまつかみに奉らむや以い不なや」とのたまふ。対へて曰さく、「疑はくは、汝二神、是吾が処に来ませるには非じ。故、許すべからず」とまをす。是に経津主神、還かえり昇りのぼり報告かえりこともうす。時に高皇産たかみむす霊ひのみ尊こと、乃ち二神を還遣かえしつかわし、大己貴神に勅みことのりして曰はく、「今者もし汝が所もうす言ことを聞くに、深く其の理有り。故、更に条々をちをちにして勅せむ。夫れ汝が治らす顕露之事あらわなること、是吾が孫治しらすべし。汝は以ちて神事かくれたることを治らすべし。又汝が住むべき天日あまのひ隅宮すみのみやは、今し供造つくらむ。即ち千尋ちひろの𣑥たく縄なわを以ちて、結びて百八十ももやそ紐むすびとし、其の造宮みやつくりの制は、柱は高く太く、板は広く厚くせむ。又田みた供つ佃くらむ。又汝が往来かよひて海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋と天鳥船も供造らむ。又天安河にも打橋を造らむ。又百八十縫ももやそぬひの白楯を供造らむ又汝が祭祀まつりを主つかさどらむ者は、天穂日命是なり」とのたまふ。是に大己貴神報こたへて曰さく、「天神の勅みこと教のり、如か此く慇懃ねもごろなり。敢へて命に従はざらむや。吾が治らす顕露事は、皇孫治らしたまふべし。吾は退さりて幽かくれた事ることを治らさむ」とまをす。乃ち岐ふなとの神かみを二神に薦めて曰さく、「是、我に代わりて従へ奉るべし。吾は此より避去さりなむ」とまおし、即ち躬に瑞の八坂瓊にを被とりかけて長とこしえに隠りましき。〉(日本古典文学全集本、岩波書店) 要するに、天皇家の祖先はこの世=葦原中国=顕露事を、大己貴神=大国主神はあの世=神事=幽事を治めようという条件を国譲りの交渉条件として出したということになる。 こうして、出雲系の大国主神があの世を治める「幽世の神」となる。平田篤胤は『霊能御柱』の中で、「大倭心を太ク高く固メまく欲するには、その霊の行方の安定を知ることなも先なりける」と記し、(『新修平田篤胤全集』第七巻、名著出版、一九七七年)と述べ、死生観的な探究と確信が無いと大和心や大和魂の真の鎮まりと安定はないと考えた。 そして、そうした探究のまとめとして、かつて「スサノヲの到来」展で展示されたことのある『古道大元顕幽分属図』に、最上段に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の「造化三神」、第二段に伊邪那岐命・伊邪那美命の「国生み・神生み」の原父母神、第三段に天照大御神・須佐之男神の「三貴子」中の対立する二神、第四段に豊受大神・皇美麻命・大国主命を置き、皇美麻命(天孫・天皇)が「顕露事」を治め、大国主命が「幽冥事」を治めることを明記し、最下段の第五段に人草万物(人間と万物)を位置づけたのである。 とすれば、「顕幽出入」は、原初日本の世界観への再出入ということになるだろう。 このことを考えると、「顕幽の夢」展の第一ゾーン「見神者たち」で、出口なおの「筆先」と出口王仁三郎の書画や耀盌から展示が始まることが、日本の思想史の中で必然的な意味を持っていることがよく分かる。 つまり、出口なおも出口王仁三郎も、「顕幽分断・顕幽分治」された世界を「顕幽出入」し、「幽顕一如」(それを出口王仁三郎は「霊主体従」と表現した)に世直ししようとしたからだ。じっさい、出口なおと出口王仁三郎は、明治三十四年七月一日(旧五月十六日)に出雲から「火」をいただいてくる「火の御用」という神業を行なっている。そしてその二ヶ月前には、天橋立の元伊勢籠神社に趣き、水をいただく「水の御用」を行なった。このような「火水」(これを「カミ」と訓ませる説がある)の御用により、この世界の陰陽を和合させ、分断され、分治されてきた元伊勢的伝統(水=豊葦原の瑞穂の国【葦原中国】の尊称)と出雲的伝統(火継神事)とを統合し、「霊主体従」や「幽冥一如」の「世の立て替え立て直し」の運動を展開していったのである。 もちろん、これは大本という近代日本に大きく展開した一宗教運動の表現なのだが、日本史をつぶさに見ていけば、「顕幽出入」の歴史の積み重ねであることがよく分かる。 たとえば、聖徳太子の建てたという法隆寺の「夢殿」。役行者小角が開いたとされる修験道の修行。空海が請来した密教の曼荼羅の世界観。恵心僧都源信の『往生要集』、法然や親鸞や一遍の開いた日本浄土教思想とその実践。吉田兼倶の提唱した唯一宗源神道などなど(2)。 平田篤胤以前に大活躍した「顕幽出入」者は五万といるのである。もちろん、本展で出品されている宗教家や画家や詩人たちも、その時々の「顕幽出入」者である。そして何より、本展提案者で総論を担当した江尻潔足利市立美術館学芸員も詩人で「顕幽出入」者の一人である。そのような「出入」の経験とまなざしがなければ、「スサノヲの到来」展以降のこのような系列の展覧会がさらにパワーアップする形でダイナミックに展開することはできなかった。その点でも、本展は日本展覧会史上特異でありながら、もっとも伝統的な内容となっていると言えるのである。 さて、二〇二二年十二月三十一日未明に起きた山形県鶴岡市の山崩れの惨事には、多くの人が震撼するとともに、これからの時代の日常に対する不穏で不気味な感触を持ったのではないだろうか。亡くなった方々を篤く葬り悼むのは当然であるが、同時に、さまざまな危機に対する対処と備えを怠ってはならないだろう。 現在、今日の危機は構造的に連動している。まず何よりも、環境危機。気候変動による自然災害の多発や激甚化はこれまでとはまったく異なる規模と頻度になっている。また、それと関連して起こってくる食料やエネルギーの危機。そして、電力不足やサプライチェーンの分断がもたらす経済危機や政治危機。ウクライナ戦争や各地の紛争の激化と収束の見えない対立と分断の連鎖。さらには文化危機や教育危機。居場所も生き甲斐も見失い、いじめや差別の拡大の中で自己肯定感が持てず苦しんでいる子どもたちが直面している家庭危機や健康危機。そして、旧統一教会問題が突きつけた宗教(教団)や宗教活動に対する不信感と警戒感がもたらした宗教危機などなど。構造的なカタストロフィックな大危機の中にある。 そうした「危機」を打開し、突破していくためにも、心や魂の扉を開き、霊性の奥底を覗き込み、もう一度「顕幽出入」の往来を遊びながら、世界開顕の夢と希望と可能性を望み見る必要があるのである。本展は、そのための素材と叡智をたっぷりと秘匿し、あなたを根底から賦活するだろう。 注 (1)このイザナギとイザナミの黄泉平坂での絶縁については、拙著『悲嘆とケアの神話論』(春秋社、二〇二三年)を参照していただきたい。
(2)この点については、拙著『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(ともに角川選書、二〇〇九年、二〇一二年)を参照していただきたい。 (3)「NPO法人東京自由大学」の旧HPに次のコラム記事を掲載しているので参照していただきたい。 http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/koramu.htm#1
東京自由大学 コラム#1 「宇宙的協奏としての横尾龍彦の瞑想絵画」 鎌田東二 瞑想画家としての横尾龍彦が提唱するのは、「水が描く、風が描く、土が描く」という世界と技法である。人間が描くのではない。私が描くのではない。そこでは、描く主体は私ではなく、水であり、風であり、土である。 それでは、どのようにして、水が、風が、土が、描くのか。水や風や土と私が同調し、その道具となることを通してである。水や風や土が私のイメージの道具となるのではない。その反対に、私がそれらの道具となり媒体となるのである。私が水や風や土の意志と波動とエネルギーを変換する回路となるのだ。 そのような横尾龍彦の描法は、その名のとおり、「龍画」である。それは、龍が風に乗って空を翔け、水の中をめぐるような、波動の流れと一体となる「流画」である。気息やヴァイブレーションの流動に身をゆだね、分子の波動が微細に変化し変容していくことを映し出す気配の錬金術師・横尾龍彦。 その描法には異界からの風が吹き渡っている。異次元界からの魂風が。それは、神秘不可思議なそよぎでもあるが、大変明晰な合理と直観が一如となった流動でもある。無意識・無差別・無分別界からの風のメッセージ。無の宇宙の中に清々と風のそよぎが立ち現れてくる。その風の起源は何処であるか、定かではないが、確かに存在する。 宮沢賢治の童話に「龍と詩人」という作品がある。詩人は瞑想状態の中で、龍の歌う歌を聴いて、それを詩に書く。詩人スールダッタのその詩法は、こう表現される。「風が歌い、雲が応じ、波が鳴らすその歌をただちに歌うスールダッタ。星がそうなろうと思い、陸地がそういう形を取ろうと覚悟する。明日の世界に叶うべきまことと美との模型を作り、やがては世界をこれに叶わしむる預言者、設計者スールダッタ」と。 この「風が歌い、雲が応じ、波が鳴らす」世界とは、「水が描く、風が描く、土が描く」世界と同じではないか。「風が歌い、雲が応じ、波が鳴ら」す波動や声を、「月明かりや林や鉄道線路」から採って来たという宮沢賢治の詩法と、「水が描く、風が描く、土が描く」という横尾龍彦の画法とは、同じような瞑想的描法ではないか。そこには、宇宙そのものの律動に耳を澄ますコズミック・パーセプションがある。 宮沢賢治は『農民藝術概論綱要』の中で、「神秘主義は常に起こってくる」と予言し、「職業芸術家は一度滅びねばならぬ。誰人も皆芸術家たる感受をなせ」と歌った水が描く時、風が描く時、土が描く時、「職業芸術家は一度滅びる」であろう。その時、誰もが「芸術家たる感受」の受信装置となるであろう。横尾龍彦が誘おうとするのは、そのような万人芸術家の道、いや万象芸術家の道である。 横尾龍彦は宣言する。「水に描いてもらう、風に描いてもらう、土に描いてもらう、そして、死者達に描いてもらう。自然の奥に潜む真理の声に描いてもらう」と。 その「声」の感受者となろう。その「声」の回路となろう。その「声」の媒体となろう。 このような「声」の媒体(メディア=霊媒)であるということの意味において、横尾龍彦の芸術は、シャーマンのワザオギと近似する。そして、その「声」は多様多元な宇宙からの音信を奏で、変奏する。そこでは、横尾龍彦の芸術は、宇宙的協奏を奏でるシャーマンの歌声であり、その律動の響きそのものなのである。
横尾龍彦画伯の作品
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