top of page

スサノヲの冒険 第6回

鎌田東二


スサノヲと琴と出雲の吟遊歌文化



「琴坂と号(なづ)くる所以(ゆゑ)は、大帯此古(おほたらしひこ)の天皇のみ世、出雲の国人、此の坂にいこ息ひき。一の老父(おきな)ありて、女子(むすめ)と倶に坂本の田を作れりき。ここに、出雲人、其の女を感けしめむと欲ひて、乃ち琴を弾きて聞かしめき。故、琴坂と号く」『播磨国風土記』揖保郡琴坂

(琴坂とよぶわけは、大帯比古天皇(景行天皇)のみ世に、出雲の国の人がこの坂で一と休みした。そのときひとりの老人がいてその女子(むすめ)と一緒に坂本の田を作っていた。そこで出雲の人は、この女を感動させて心をひこうと思って、琴をひいて聞かせた。だから琴坂とよぶ。)吉野裕訳『風土記』98頁、平凡社ライブラリー、2000年。



はじめに~吟遊詩人の精神史的系譜


 先号で、昔から「スサノヲの子分」を自称していたことを述べた。スサノヲの子分であるからこそ、「神道ソングライター」として歌を歌っており、ファーストアルバム『この星アルバム『絶体絶命』(2022年リリース)も出してきたとも述べた。そして、3枚目は、八岐大蛇の到来ではないが、絶体絶命の危機にある現状を何とか突破したいという祈りと願いを込めて『絶体絶命』とタイトリングした。なので、わが活動のすべてはスサノヲから始まっており、その延長線上にある。そのスサノヲに端を発して生まれたのが出雲の吟遊歌文化である、というのが私の出雲論の核心である。

 もちろん、私はその出雲の吟遊歌文化の延長線上に位置するが、それに加えて、世界史的文脈の中で「巡遊」しつつ「歌」を歌っていく人びとのことを「吟遊詩人」と一般化し、自身もその中での「吟遊詩人の精神史的な系譜」に連なるものと考えている。その大きな流れは次のようなものである。

0,世界史的祖型~母集団から逸脱し、流浪しながら、歌い、語り、癒しのワザを行なうトリッキーな人びとが出現し、広がっていった。

1,(古典的テキストで確かめられる限りの)日本的原型~古代出雲文化の琴を抱いた巡遊詩人~その民俗を基盤にスサノヲも大国主もある

2,中世的変容~西行法師のような旅する隠遁者の詩人・歌人たちと敗者鎮魂と怨霊封じを祈念する無常を詠い『平家物語』を語り継ぐ盲目の琵琶法師たち

3,近世的変容~西行を慕いつつ、パックストクガワーナの平和元禄にみちのく「奥の細道」を吟行した松尾芭蕉や俳諧人たち

4,近代的変容~自由律俳句の先鋭尾崎放哉や種田山頭火たち

5,現代的変容~神田に生れ屋久島に死んだ山尾三省や鎌田東二ら

 当然の如く、ここに挙げた者たちだけでなく、数多くの「吟遊詩人」がこの日本列島を流離ったのであるが、『男はつらいよ』の「フーテンの寅さん」も、そうした「吟遊詩人」の末裔で、わが同志である。私は「フーテンの寅さん」へのリスペクトを込めて、「フーテンの東さん(とーさん)」と自称したい。


1,スサノヲ原有の「天詔琴」


 スサノヲが「八雲立つ」の歌を歌ったことが、本邦初演の歌文化の発露であることはすでに述べてきた通りであるが、そのスサノヲが「天詔琴」の原所有者であることの神話学的意味を小論で追及したい。

 琵琶法師が琵琶を抱いて吟遊するように、吟遊詩人は吟遊するための声を誘発する聖なる楽器を必要とする。スサノヲの場合、それは琴であった。それも、特別に、「天詔琴(あめののりこと)」(「天瓊琴(あめのぬこと)」と解する説もあるが、私は言霊を発する聖具としての「天詔琴」であるという解釈を取る)と呼ばれた。

 『古事記』においてのみ、日本の和歌の濫觴とされるスサノヲノミコトが聖なる琴の原所有者であるという伝承が語られていることには大変深い意味がある。それは『古事記』が本質的にモノガタリであり、そのモノガタリ性を苦心して中国から伝来した漢字に落とし込もうと苦心していることの一端を示している。『日本書紀』には、スサノヲの「八雲立つ」の歌は記載されているが、「天詔琴」のことは一切出てこないし、歌の数も極めて少ない。

 「根(ね)の国」(これを「音(ね)の国」と捉えることもできる)のヌシであるスサノヲは、自身の神力を象徴する三つの神聖道具を持っている。①生太刀、②生弓矢、③天詔琴の三つ、である。

 前二者、すなわち、刀と弓矢の二つは、スサノヲの武の力を象徴するものだ。対して、琴は、スサノヲの歌の力、言靈の力の発動を象徴する。「文武両道」という言い方になぞらえれば、「文」を象徴するのが天詔琴で、「武」を象徴するのが生太刀・生弓矢である。刀と弓矢という武力=男性性と琴という文化力=女性性の両方をスサノヲは所有しているのだ。「天詔琴」は、その名のとおり、「天の言葉を詔ることを導く神聖なる琴」を意味する。言霊の誘発剤が琴なのである。

 「生太刀・生弓矢・天詔琴」は、国を護り、治め、導くための出雲系三種の神器であった。その出雲系三種の神器がオホナムヂ、すなわち大国主神に委譲される。ここが、スサノヲ―大国主と継承される出雲系権力と権威とカリスマのもう一つのポイントとなる。

 先に述べたように、天詔琴はもともとスサノヲの所有であった。だが、兄神たちに二度殺害され、三度目の殺害の危険が迫った。おまえはここにいたら「八十神」たちに殺されてしまうと、母神たちは「木国の大屋毘古神の御所」に逃がした。大屋毘古神はスサノヲの子神の一神である。

 が、そこにも「八十神」たちがしつこく追いかけてきて、矢を構えてオホナムヂを出せと迫ったので、母神たちはこっそりとオホナムヂを「木の俣」から逃がして、「須佐能男命の坐します根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神、議りたまひなむ」と、母神や祖神たちがオホナムヂをスサノヲのいる「根の堅州国」に差し向けた。

 こうして、オホナムヂは「根の堅州国」に赴くのだが、そこでスサノヲによる四つの試練が待ち構えていた。それをスサノヲの娘のスセリビメとネズミの援けを借りて切り抜け、ついに、スセリビメとともに、スサノヲの持つ「生太刀・生弓矢・天詔琴」を奪って逃走したのである。スサノヲはそれに気づいて追走したが、途中で追跡をあきらめ、オホナムヂを認め、祝福する。

 こうして、出雲系三種の神器はオホナムヂの神に委譲されることになる。そして、その神聖楽器「天詔琴」を含む神器の委譲に際して、スサノヲはオホナムヂにこれより「大国主神」と名乗れと命名し、その統治権の正当性と祝福を与えている。

 こうして、オホナムヂ=大国主神は、スサノヲノミコトの神性と神力を象徴する「生太刀・生弓矢・天詔琴」という三種の神器を継承し、スサノヲの娘のスセリヒメを正妻とすることによって、スサノヲの威力を継承した正当な後継者と認定されたわけである。

 そこのところを『古事記』を引用しつつ具体的に言えば、「八十神」(兄弟神)に迫害されて根の国を訪問して来たオホナムヂに対してスサノヲはさまざまな試練を課し、最後に「生太刀・生弓矢・天詔琴」を持ってスセリビメと逃亡するオホナムヂに向かって、「其の汝が持てる生太刀・生弓矢をも以ちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、亦た河の瀬に追ひ撥(はら)ひて、意礼(おれ)大國主神と為(な)り、亦た宇都志國玉神と為(な)りて、其の我が女(むすめ)須世理毘売を嫡妻(むかひめ)と為(し)て、宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理(ふとしり)、高天の原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て居れ。是の奴(やつこ)」と指示と祝福とを与えたと記している。つまり、刀と弓矢で兄神たちを懲らしめ、制圧し、琴を以って祭祀を修めたということだ。祭政の祭を琴によって、政を太刀と弓矢によって執り行ったということである。それが「国主」の神、「国玉」神のガバナンスの中核である、ということだ。


 興味深いことに、出雲神話には、「琴」に関わる伝承が多い。たとえば、オホナムヂの神(ヤチホコの神)とその妃のヌナカハヒメと正妻スセリヒメとの間に取り交わされた歌謡五首のうち、四首まで、最後が、「許登能 加多理碁登母 許遠婆」、すなわち、「ことのかたりごともこをば」という不思議な終句となっている。

 その「こと」が、「言」でもあり、「琴」でもあるという説をかつて山上伊豆母は主張していた。私も『古事記ワンダーランド』(角川選書、2012年)などで、その説の延長線上でこの「ことのかたりをもこをば」の終句を持つ出雲系の歌を捉えた。

 このオホナムヂとヌナカハヒメとスセリビメとの間で交わされた五首は、『古事記』の中で、特に「神語(かむがたり)」と呼ばれている。同じ「ことのかたりごともこをば」という終句を持つ同形式の歌謡三首が、『古事記』下巻の雄略天皇の歌の終句として歌われているが、それは、特に「天語歌(あまがたりうた)」と呼ばれている。これら、「神語(かみがたり)」と「天語歌(あまがたりうた)」は、ともに「琴」によって降ろされてきた神聖歌謡ということになるのである。


2,琴と吟遊


 この『古事記』に記載された出雲系三種の神器と出雲の神々の歌文化と、『風土記』に記載された出雲系琴文化の記述を総合すると、出雲系吟遊詩人の原像が浮かび上がってくる。

 まず、『出雲国風土記』飯石郡の条りには、「琴引山、郡家の正南卅五里二百歩なり。高さ三百丈、周り一十一里なり。古老の伝へていへらく、此の山の峯に窟あり。裏に天の下造らしし大神の御琴あり。長さ七尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸なり。又、石神あり。高さ二丈、周り四丈なり。故、琴引山といふ」と記載されている。「琴引山」の山頂に洞窟があって、そこに長さ七尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸の巨大な石造物の琴があり、大国主神=天の下造らしし大神の「御琴」と呼ばれているというのだ。またそこには高さ二丈の「石神」があるというが、その「石神」は「琴引=琴弾」者の大国主神を表しているのであろう。この出雲の「琴引(琴弾)」伝承を忘れてはならない。

 さらに、『播磨国風土記』にも出雲系の琴伝承が記載されている。揖保郡琴坂の条りに、「琴坂」という地名伝承が記されているのだが、そこに、「出雲の国人」という琴弾者が出て来るのだ。

 「琴坂と号(なづ)くる所以(ゆゑ)は、大帯此古(おほたらしひこ)の天皇のみ世、出雲の国人、此の坂にいこ息ひき。一の老父(おきな)ありて、女子(むすめ)と倶に坂本の田を作れりき。ここに、出雲人、其の女を感けしめむと欲ひて、乃ち琴を弾きて聞かしめき。故、琴坂と号く」

 小論の文脈において看過できないところが、「出雲人」が土地の女性に恋心を訴えかける際に「琴を弾きて」聞かせたとある点である。つまり、恋の思いを伝える時に、歌とともに奏でる楽器として琴が用いられているのである。そして、そのような由来があるために、この地を「琴坂」と名づけるに至ったというのだ。ここでも、琴は恋の言霊を載せるための媒体となっている。

 ギターの代わりに、琴を抱いて愛の歌を歌う。まさに、オルフェウスが竪琴をもって詩を朗唱するように、出雲人は琴を爪弾いて歌を歌い、恋の相手を感動せしめ、ねんごろの仲となる。

 また同じ『播磨国風土記』餝磨郡の条りには、「昔、大汝命(オホナムチ)のみ子、火明、心行甚強し。ここを以ちて、父の神、患へまして、れ棄てむと欲しましき。乃ち、因達の神山に到り、其の子を遣りて水を汲ましめ、未だ還らぬ以前に、即て発船して遁れ去りたまひき。ここに、火明命、水を汲み還り来て、船の発で去くを見て、即ち大きにる。りて波風を起して、其の船に追ひ迫(せ)まりき。ここに、父の神の船、進み行くこと能はずして、遂に打ち破られき。この所以に、其処を船丘と号け、波丘と号く。琴落ちし処は、即ち琴神丘と号け、箱落ちし処は、即ち箱丘と号け……」とある。

 これまたたいへん面白くもあり、不思議な伝承である。オホナムヂの子どものホアカリノミコトがあまりに乱暴なので、捨てて逃げようとしたところ、ホアカリが怒って追いかけてきて、そのために暴風状態となり、オホナムヂの船は破壊された。そこで、その辺りを「船丘」とか「波丘」とかと名づけ、オホナムヂとともにあった「琴」が落ちたところを「琴神丘」と名づけたというのである。なぜここで、「琴」が落ちたところにのみ「琴神丘」と「神」の名が入っているのだろうか。それだけ「琴」が神聖視されたことの証左であろう。


 『記号と言霊』(青弓社、1990年)や『言霊の思想』(青土社、2017年)などで言霊について論究しながら、1998年より「神道ソングライター」として歌い続けてきた私は必然的に言霊を引き出す媒体としての琴に関心を持つようになった。本居宣長は『古事記伝』において、「そもそも意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相称へるものにして、上つ代は、意も事も言も上つ代、後の代は、意も事も言も後の代、漢国は、意も事も言も漢国なる(中略)この記は、いささかもさかしらを加えずて、古へより言ひ伝へるままにて記されたれば、その意も言も事も相称へて、皆上つ代の実なり」と主張した。

 つまり、心と事柄と言葉との関係は、現実(事)は心を通して言葉となり、言葉は心(意)を通して現実(事)となる、というインタラクティブな相関関係を持っているということである。「こころ(心・意)」と「こと(事)」の接点を「ことのは(言・事の端)」、すなわち「ことば(言葉)」が繋ぎ止め、結ぶのだ。そしてその言の葉としての言葉を用いて心と事とを結ぶものが「モノガタリ」であり、「モノガタリ」として物語たらしめる聖楽器が琴なのである。

 この「モノガタリ」の呪的作法である「ワザヲギ」は、魂を招く作法であり、折口信夫の言う「精霊」の目を覚まして活動させる技法でもある。そこに、言語精霊を呼び出す技法として琴弾のワザがあった。つまり、神聖言語=神託・託宣を引き出す(弾き出す)モノとして琴が用いられ、「言」(観念あるいはこころ)と「事」(現実)とは「琴」弾きのワザによって媒介され結びつけられた。

 その関係性を表現した伝承が、神功皇后の神懸り(『日本書紀』では「帰神」)条りである。神功皇后は夫の仲哀天皇の弾く琴の音に導かれてトランス状態に入り、神懸りし、託宣を述べる(『日本書紀』では武内宿禰が琴弾となる)。その託宣を建内宿禰(武内宿禰)が「サニハ」(『古事記』では「沙庭」、『日本書紀』では「審神者」)し、神託の真偽判断と価値判断を行なった。その神懸りの儀礼において、「琴」は神託という「言」すなわち神聖言語を降ろすための媒体楽器として用いられている。こうして、「言」(観念世界)は「琴」(媒体)によって「事」(現実世界)に連動する。ここにおいて、琴弾という楽器演奏と神懸りはきわめて重要な聖なるワザ=「ワザヲギ」となるのである。


おわりに~敗者鎮魂者としての吟遊詩人


 さて、それでは、なぜ出雲人が吟遊文化のルーツとなるのか? 端的に言えば、そこが敗者の地、敗残の地、あの世との境となるからである。これについては、近刊予定の『悲嘆とケアの神話論―須佐之男・大国主』(春秋社、2023年4月29日刊予定)をぜひ読んでいただきたいが、出雲系の神々はみな敗れ、隠れていった<隠神系>の神々である。

 その始祖は、母神イザナミ。黄泉の国に隠れた。次に、スサノヲ。根の堅州国に隠れた。次に、大国主。杵築大社に隠れた。みな凄まじい負のエネルギーと呪力を持ち、荒魂とも祟り神ともなる「ちはやふる神々」の典型である。

 そうした、負の呪力を持つ神々こそが、歌を通して、負を聖に浄化させることができる。だが、『平家物語』を語る盲目の琵琶法師たちが、一つは盲目という身体的な負のスティグマを負い、もう一つは壇ノ浦で一族郎党が滅亡するという凄まじい敗北の負の怨念をため込んだ末裔として語り伝えたように、出雲もまた敗北・敗残の流浪の民としての悲しみのうたびととなって巡遊し、吟遊して回るのである。

 そのような敗者鎮魂の出雲人の巡遊と吟遊の歌文化がある。間違いなく、「スサノヲの子分」たる私もそのような敗者鎮魂のうたびとの系譜の末裔に連なるものである。そして、「絶体絶命」の今、その絶滅の危機から次なる「開」に向けての敗者鎮魂といのちの帰趨の行く末を歌い、奏で、語り継ぐのである。

bottom of page