鎌田東二
スサノヲとディオニュソス
神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら
神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら
岩陰より滲み出して来る 水を探して 夢を探して
向こう岸に渡る 向こう岸に渡る
夢を開いて 夢よ開けと
あはれあはれ はへ あはれあはれ はへ
神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら
神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら
なけなしの夢が壊れて 行く当てもなく流離う
尽十方未来際 尽十方未来際
夢を開いて 夢よ開けと
天晴れ天晴れ はへ 天晴れ天晴れ はへ
神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら
神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら
祈りの言葉は死に絶えても 朝日の中で甦り咲く
尽十方未来際 尽十方未来際
夢を開いて 夢よ開けと
天晴れ天晴れ はへ 天晴れ天晴れ はへ
神ながらたまちはへませ神ながら
(「神ながらたまちはへませ」『絶体絶命』鎌田東二2022年7月17日リリース1曲目)
はじめに
前回取り上げた出口王仁三郎は自分の霊性をスサノヲと捉えた。そしてスサノヲの霊性のこの今の発現こそ自分に他ならないと自覚し、スサノヲの道を貫いた。
この出口王仁三郎のスサノヲ観の根幹には、「贖罪するスサノヲ」がいる。それが、痛みと悲しみに暮れながら暴れまくり、終には八岐大蛇と対峙する「救済者としてのスサノヲ」となり、そしてその際に「歌うスサノヲ」が顕現し、その後、大国主神に神威を委譲する時に「祝福するスサノヲ」の貌が現れ出る。それらとひっくるめ、束ねて、出口王仁三郎は「歌祭りとしてのスサノヲの道」を提示した。
及ばずながら、私もその道を辿る者である。私の場合は、出口王仁三郎の自覚のように、スサノヲの化身などではなく、何十年も前から(たぶん45年前くらいから)「スサノヲの子分」と自称し、公言してきた。「子分」であるからには、「親分」の言うことを聞かねばならない。紆余曲折の多い我が人生はそのようなスサノヲの「子分」の道の曲折であった。その「子分」であり、大本共感者ではあっても大本信徒ではない私からすると、出口王仁三郎は「スサノヲ組の兄貴分」であり、「スサノヲ組代貸」のような先駆者・先達である。もちろん、「スサノヲ組」の組長であり貸元は、スサノヲ自身である。
そのスサノヲの命により、私も1998年12月12日から「神道ソングライター」となり、早いもので四半世紀、25年が経つ。この「神道ソングライター」の道が出口王仁三郎が実践しようとした「歌祭り」のカマタバージョンである。
私は10歳の時に『古事記』を読み、その後すぐに「ギリシャ神話」を読んで、日本神話とギリシャ神話を貫く共通点・相似性に驚き、興味を抱いてきた。そして、スサノヲの中に、ディオニュソスやポセイドンやヘルメスやペルセウスに重なる神話素を見出してきた。
そこで、今回、ここでは、その中からスサノヲとディオニュソスとの重合性・相似点を中心に検討してみたい。
1,異常出生
まず第一に、スサノヲとディオニュソスの異常出生。
『古事記』の中では、スサノヲは父イザナギの鼻から「化生」した神と記述されるが、幼き頃より八束髭が胸先に垂れるまで母恋しと啼きいさちり、その泣き声で青山を枯れ山とし海の水をすべて干上がらせてしまったほどであった。
だが、スサノヲはイザナミが産んだ子ではない。イザナミが最後に産み落としたのは、火の神カグツチ(火之夜藝速男神、亦名火之炫毘古神、亦名火之迦具土神)にほかならない。
しかし、この火の神は父イザナギに斬り殺されてしまう。そして、その迸った血や体から、石拆神、根拆神、石筒之男神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神(亦名建布都神布都、亦名豐布都神)、闇淤加美神、闇御津羽神、正鹿山上津見神、淤縢山津見神、奧山上津見神、闇山津見神、志藝山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神の併せて18[多宮5] 神が成り出たのである。
このように、カグツチは「殺された神」であるが、しかし、殺害されながらも分身・分魂を化生し、変容を遂げた。
そして、イザナミがみまかった黄泉の国に訪ねていったイザナギが、その黄泉国の穢れに触れて禊をした時に、最後の最後に鼻から化生したのがスサノヲであった。そのことは本連載ですでに何度か記した。左目を洗った時に天照大御神、右目を洗った時に月読命、そして鼻を洗った時に建速須佐之男命が成ったのである。この両目ではなく、その両目真ん中のすぐ下にある「鼻」というのが曲者である。それは、下を向いた三角形の頂点に鼻先が位置するために、両極を統合する役割を持っているかに見えるからである。
カグツチはイザナミがミトノマグハヒによって出産した最後の神。そして、スサノヲはイザナギがミソギによって化生した最後の神。その両神、すなわちカグツチとスサノヲが象徴的に等価となる。
というよりも、スサノヲは殺害されたカグツチの変容した最後の姿なのである。それはケガレと浄化のワザであるミソギとの絶対矛盾的自己同一の化身とも言える。
ギリシャ神話において、ディオニュソスは「二度生まれた者」と呼ばれた。ディオニュソスの母セメレーは人間であるが、ゼウスに横恋慕され、ゼウスの正妻のヘラに嫉妬され、終に悲劇的な焼死を遂げる。
その母セメレーの焼死体の中から取り上げられた(生まれた)のがディオニュソスであった。セメレーはヘラにそそのかされて、ゼウスに懇願する。「もしあなた様が本当にゼウスでおいでならば、あなたがお妃のヘーラーさまをお訪ねになるその時のお姿どおりに、私にも神ながらのお貌を拝ませて下さいませ」と。こう懇願されたゼウスは、「天界に登り、叢雲を呼び疾風に雷霆を伴い、何人も遁れることをえない雷光の戟を手に執った。そして眩くはたたの光輝に天地をよるがす轟音を伴い、カドモスの館、セメレーの房に臨んだ。もとより可死である彼女の肉親は、とうていこの灼熱に堪うべくもなかった」(呉茂一『ギリシア神話』上、岩波文庫、327頁、1979年)
つまり、ゼウスは、人間に化身した姿でなく、神そのものの本体でセメレーの前に現れたために、その神聖エネルギーの雷火でセメレーは焼け死んだのである。
スサノヲの母イザナミは火の神カグツチを産んだために、おのれのミホト(女陰)を焼き、病み衰えて死に、黄泉国に神去った。それに対して、ディオニュソスの母セメレーはヘラに騙され、結果的に夫ゼウスの神火で焼き殺されることになった。そしてその火の中から、ディオニュソスは父ゼウスにより取り出され、腿に縫い込まれて隠し子のように育てられたのである。
この経緯が前掲『ギリシャ神話』には、次のように記述されている。「ゼウスのまことの愛は、彼女の地上の恋には、ついにかないえない激越さ、強さを持っていたのだった。しかしゼウスは、彼女の胎内にあってまだ完成に至らない幼児を取り出し、いうごとくは、自身の腿に縫い込んでおいた。神性を受けている胎児は、天火にあっても死に至らないのであった」(同327頁)
このあたり、たしかに、『古事記』と「ギリシア神話」の具体的な筋立てや文脈は異なる。しかしながら、スサノヲもディオニュソスも、ともにいわゆる「エディプスコンプレックス」的な葛藤の只中で誕生し成長したことは共通している。つまり、父イザナミ・ゼウスに対する強烈な怒りと憎しみと、母イザナミ・セメレーに対する深い愛惜と思慕と愛着に引き裂かれている点で。
この火との関りの異常出生において、スサノヲとディオニュソスは赤い糸(火の糸)で結ばれていると言えるのである。そしてそれは、同時に、母の喪失と、父との確執を内包する事態であり、その異常出生時のトラウマがこの二神を衝き動かしていくダイナモとなる。
2,母への思慕と歌の創出
こうして、母の死がもたらす喪失と思慕の痛みと悲しみが、スサノヲとディオニュソスを刺し貫いている。
そして、第二に、その痛みと悲しみが彼らを狂暴(暴力)と詠歌に導いていく原動力となる。神道的な言い方をすれば、それが荒魂的に発動すれば暴力や狂乱、和魂的に発動すれば詠歌やコロス的叙事詩の詠唱となる。
ともあれ、人間であるセメレーは、オリンポスの最高神ゼウスと交わったために、『神道集』の「熊野縁起」のように、死んでもなおディオニュソスを生んだのである。
だから、半神半人の両義的な神ディオニュソスは、上記のように、大変奇妙な産まれ方をしている神となる。そして、一方のスサノヲは、1度はカグツチとして母イザナミの胎から産まれたが、父イザナギに斬り殺され、もう1度父イザナギの鼻から化生する形で生まれ直した「二度生まれ神」であった。
だとすれば、スサノヲにもディオニュソスにも、母と自分との二重の痛みと悲しみが渦巻いている。そのほぐしようも、ほどきようもない痛みと悲しみが、スサノヲの暴力と詠歌につながり、ディオニュソスの狂乱の秘義と「ディテュランボス」の創出に至るのである。その原初的なトラウマの激烈さ。
しょっぱなに、悲劇的な生(出産)がある。それはしかし、自分だけの所与の問題ではなく、前存在つまり母の痛みや悲しみを不可抗力的かつ不可避的に引き継いでいるということなのである。彼らは、はなから、引き裂かれた二重存在である。
「ディテュランボス」(Διθύραμβος, dithurambos)とは、酒神であるディオニュソスを称える讃歌のことである。それは、数十人の男声合唱のコロスによって歌われたという。悲劇の発生には、ディオニュソスとそれを歌うディテュランボスが深く関与している。ある意味では、ギリシア悲劇の精髄とも言えるソフォクレスの「エディプス王」の物語も、ディオニュソス神話のリメイクと言える側面がある。父母との葛藤と確執と愛着。呪術的な解決と放浪。
悲劇とは、逆らうことのできない運命に逆らうことから生まれる。受容ではなく、拒絶(否定)と再生(再肯定)を求める弁証法的な往還を含んでいる。そこには、引き裂かれたアンビバレントがある。
スサノヲの狂乱が、ヤマタノヲロチの狂暴と重なることは以前指摘した。そして、その狂暴を解放するために酒を飲ませることも、ディオニュソス=バッカスという酒神の姿と二重写しになる。そして、いつ果てるともなく続く放浪と遍歴。
マレビトの痛みと苦悩と創造性。そんな「吟遊」という放浪芸のありようをスサノヲとディオニュソスは体現し、その原型的な表現者ともなっている。八雲神歌において繰り返しが多用されることも、コロスの合唱において常にリフレインが重用されることも、歌うことの韻律と呪術性と解放への希求と結びついている。
スサノヲとディオニュソスはともに殺される神でありつつ殺す神である。彼らは負の感情の渦巻く海に放り出されている。そしてその痛みと悲しみの中から、それを救済するための歌と悲劇を生み出すのである。
歌は悲哀の中から生まれる。どのような喜びの歌の中にも悲哀が宿っている。そんなアンビバレントな緊張と運命的な絡まりがあり、そのようなアンビバレンツをスサノヲとディオニュソスは体現した神なのである。
おわりに
上記の本論と直接的な関係はないとも言えることだが(深層的には大いにあると思っている)、昔から私がもっとも好きな画家はフランス象徴派のギュスターヴ・モローである。なぜかと言うと、これほど神秘的な緑色を出せる画家はいないからだ。また、緑色のみならず、紫色の神秘性も圧倒的だ。
そのギュスターヴ・モローの画に『ゼウスの雷光にうたれるセメレー』と題する神話画がある。
火の光背として描かれたゼウスの雷光に打たれて、血を流しながら倒れ仰いでいる白い裸体のセメ
レー。その周囲に描かれる男神や女神たちは、憂いと驚きの表情を浮かべているように見える。悲嘆、喪失、失意。だが同時に、画面下方中央には目を見開いた女神が光り輝く姿で描かれている。不気味な蒼い空も悲劇的な瞬間を表現しているように見える。
悲劇の誕生、そして悲劇からの誕生。それは悲劇からの解放を求めるが、その動力こそがさらなる次の悲劇を生み出す原因ともなる。そのような悲の連鎖を予言する重苦しい空気と忍耐の中に投げ込まれた未来。
まさにそれこそ、苦悩を運命づけられたスサノヲやディオニュソスが生きる世界そのものの表象ではないだろうか。
「絶体絶命」レコ発ライブで歌うスサノヲの子分
12月18日、東京の碑文谷のライブハウス「APIA40」でのサードアルバム「絶体絶命」レコ発ライブ全動画:https://youtu.be/HF6auvkahpA
サードアルバム『絶体絶命』(Moonsault Project,2022年7月17日リリース)曲順
(◎印、2022年12月18日の碑文谷のライブハウスAPIA40でギターを弾く曲)
1.「神ながらたまちはへませ」
2.「ある日 道の真ん中で」
3. 「南十字星」
4. 「みなさん天気は死にました」 (第三詩集『狂天慟地』より)
5.「フンドシ族ロック+世界フンドシ黙示録」
6.「探すために生きてきた」
7.「犬も歩けば棒に当たる」
8.「北上」
9.「時代」
10.「夢にまで見た君ゆえに」
11.「メコン」 (第三詩集『狂天慟地』より)
◎12.「銀河鉄道の夜」
◎13.「巡礼」
曲順コンセプト
今のウクライナ戦争など、世界情勢や気候変動による激烈な環境破壊のことなどを考え、『絶体絶命』を1曲目「神ながらたまちはへませ」の祈りから入り、最後13曲目「巡礼」の祈りで閉じる。
1=起:「神ながらたまちはへませ」から入り、次に悲しみに暮れる「悲嘆」を歌う「ある日 道の真ん中で」と「南十字星」を歌い、その3曲で、『絶体絶命』の中の悲嘆と祈りを表現する。
2=承:その後、「みなさん 天気は死にました」の詩の朗読で、その悲嘆の背後にある絶体絶命の状況を説明し、その中で物狂い状態で「フンドシ族ロック+世界フンドシ黙示録」を歌い、そこにストレートな「探すために生きてきた」を続け、「犬も歩けば棒に当たる」のロック調3曲を続けるという配列とする。
3=転:その後、東日本大震災の悲劇と悲哀と悲嘆と鎮魂を詠った「北上」で、起承転結の「転」に入り、「時代」と「夢にまで見た君ゆえに」のバラード風の歌でまとめる。
4=結:最後の「結」として、「希望」の垣間見える「メコン」「銀河鉄道の夜」にして、最後は「祈りの言葉さえ知らない祈り」を捧げて終る。
+ライブアンコール曲2曲
1,「なんまいだー節」(2003年リリース『なんまいだー節』収録歌)
2,「弁才天讃歌」(2001年リリース『この星の光に魅かれて』収録歌)
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