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スサノヲの冒険 第4回

鎌田東二


スサノヲと出口王仁三郎と大本の歌祭り



     待った。ただひたすら兄の下山を待ち続けた。まるでそれが、わたしの人生の唯一の目的の

    ように。 今となっては、そう、いうべきだろう。(「1 まだ若い廃墟」冒頭部)


     この別荘地の下の、両側を木立にせばめられた道を抜ければ、太陽がいっきに彼の車を照ら

    すだろう。そうだ。何も隠してはならないんだ。それはもう、じきだ。(「9 しずかな若

    者」 佐藤泰志の未完成の小説『海炭市叙景』より)

【『佐藤泰志作品集』15頁、170頁、クレイン、2007年】


スサノヲと出口王仁三郎


 京都盆地の境をなす保津峡の長いトンネルを抜けて亀岡盆地に入ると、全面真っ白い霧に包まれていた。出発地点の京都駅周辺の快晴とのあまりの違いに驚いた。亀岡の秋は丹波霧が下りてくるとは聞いていたが、これほどとは思いもかけなかった。ぎょっとして、同席していた慶應義塾大学名誉教授の医師加藤眞三さんと思わず顔を見合わせた。

 私たちは雲一つない晴天の京都を出て、午前7時32分発のJR特急きのさき1号城崎温泉行で綾部に向かったのである。今日は綾部にある大本の長生殿で、「開教130年 開祖大祭」が開かれるのである。加藤さんは親の代からの信仰二世の信徒として、私は神仏習合諸宗協働フリーランス神主&神道ソングライター&吟遊詩人で大本研究もしてきた外部招待者として式典に参列するのだ。

 加藤眞三さんのお父さんは名古屋大学医学部出身のとても優秀で人柄のよい医師であったようで、大本四代出口聖子教主の主治医で、何かあると徳島県小松島市の医院から亀岡の教主邸まで駆けつけていたという。それくらい大本教主から絶大な信頼を寄せられていたのだ。その加藤眞三さんのコーディネートで、亀岡の大本本部天恩郷みろく会館3階ホールで第4回いのちの研究会「ケアとうたとアート」を行なったのが、ついこの前の10月9日のことだった。そのこともあって、今回の「開教130年 開祖大祭」への参列につながった(1)


 大本教租の一人出口王仁三郎(本名:上田喜三郎/1871‐1948)の出身地である亀岡は大本の宣教の拠点地とされ、「天恩郷」と呼ばれている。それに対して、これから向かう綾部は大本開祖の出口なおの住まいしていたところで「梅松苑」と呼ばれ、立教の地でもある。現在は、宣教のセンターが亀岡、祭祀のセンターが綾部とされている。

 私たちは8時38分に綾部に到着し、出迎えてくれた山田歌総務部長さんの案内で、奥津城に向かった。そこには、開祖出口なおと聖師出口王仁三郎と二代教主出口すみ(出口王仁三郎夫人)と三代教主出口直日(王仁三郎とすみの長女)と夫出口日出麿の開祖一族5名の奥津城(墓)があるのだ。紅葉に彩られた物静かな朝の奥津城の前で、加藤眞三さんの天津祝詞奏上と神号奉称の後、わが三種の神器である石笛・横笛・法螺貝を奉奏した。

 午前10時からは、長生殿で「開教130年 開祖大祭」が始まった。今回の祭典は、長生殿完成30年と新穀感謝祭と秋季祖霊大祭と秋季万霊大祭も兼ねている。

 私は30年前、長生殿の完成記念の祭典にも招待されて参列していた。私の隣には京都大学名誉教授の高名な歴史学者の上田正昭氏と能楽研究者として知られた中村保雄氏と古裂會社長の森川潤一氏がいた。確か、前日に森川さんのお宅に泊めてもらい、当日彼の車で綾部までやって来たのだった。森川さんにはずいぶんお世話になったが、当時、奈良県吉野郡天川村坪ノ内鎮座の天河大辨財天社の擁する文化機関の財団法人天河文化財団が設立されたばかりで、森川さんもわたしも評議員だったかで関与していたので、共に天河支援の活動をしていたのだった。そのような天川縁もあって一緒に大本綾部の長生殿竣工祭に参列したのだった。

 この時、長生殿での祭典が終わった後、能舞台で出口聖子四代教主がシテとなって「西王母」が奉納演舞されるのを観賞した。そして、大本に保持されてきた日本文化の高度さと精度に改めて感銘を深くしたのであった。それから30年。大本に流れ込み、保持されてきた日本の霊的奔流は凄まじくも尊いものがあると思っているが、そこにスサノヲの冒険的霊性が溶け入っている。


 私はスサノヲは日本における「翁童神」の原像であり、破壊しつつ創造し遊楽する翁童身体を持つ神格であると捉えてきた。また、スサノヲは啼き悲しむ神であり、同時に笑い破壊する神であり、二度も追放された貴種流離する敗者の神であるがゆえに、その痛みと悲しみを元に怪物退治と歌の創造に転位し身心変容することができたと捉えてきた。

 このスサノヲの文化創造神としてのはたらきを近代に継承し再活用したのが、大本教祖の出口王仁三郎である。出口王仁三郎は「芸術は宗教の母」と主張し、自分たちの宗教芸術運動を「スサノヲの道」と称した。出口王仁三郎は、その意味では、近代におけるスサノヲ的翁童身体の体現者であり、トリックスターであったのだ。


 長生殿が竣工になるほぼ10年前の1983年、私は『現代思想』にスサノヲ的エロス論を発表した。「神話的創造力と魂の変容―出口王仁三郎と折口信夫をめぐって」(『現代思想』1983年10月号、青土社)と題して。その論考を冒頭に収めたのが、私の最初の論著となる『神界のフィールドワーク-霊学と民俗学の生成』(創林社、1985年)である。そして、第2作目の論著『翁童論―子どもと老人の精神誌』(新曜社、1988年)の最後に収めた論考が長文の「スサノヲ論」で、その後も折に触れてスサノヲ論を書き継ぎ、10年ほど前に出した『歌と宗教-歌うこと、そして祈ること』(ポプラ新書、2014年)にも、スサノヲの神話の再解釈に基づくわが「スサノヲの道」を示した。


 その「スサノヲの道」を進んでいるうちに、本年5月に第四詩集『絶体絶命』(土曜美術社出版販売、2022年5月30日刊)を出し、その冒頭を「Ⅰ 大国主」とした。そこでは、スサノヲの子孫(『日本書紀』本文では実子)の大国主叙事詩を展開し、さらに、来年2月に出す第五詩集『開』(土曜美術社出版販売、2023年2月2日刊予定)の「第4章 開放譚」の副題を「スサノヲの叫び」とし、なぜスサノヲが歌を詠うまでに至ったのかについて書いたので、「スサノヲの道」は、私の中ではいわば<スサノヲ詩集>という形で今まさにジャストナウ展開中のオンザロードなのである。その詩篇は、「すべては妣の死から始まった/いのちの女神 イザナミの妣の死から」という詩句から始まる。


 こうして、我が人生の歩みも「スサノヲの道」の途上であると言えるが、そこに出口王仁三郎が先駆者の一人として道を歩み示していてくれることも事実であった。


出口王仁三郎におけるスサノヲぶりと「スサノヲの道」


 出口王仁三郎のスサノヲぶりは、その言霊論と言霊実践としての詠歌や芸術活動として具現された。王仁三郎は「スサノヲの道」を敷衍して、この大宇宙にはアオウエイの五大父音が鳴り響き、そこから七十五声の音響が発出交響していくという言霊論と「芸術は宗教の母」であるという芸術宗教論を展開した(2)

 その実践の根幹に、スサノヲという「瑞の御魂」こそが世界の罪を償う御魂であるという贖罪論的スサノヲ神学があり、またすべての宗教は根が一つであるという「万教同根」を命題とする超宗教観があった。近代日本の激動期に、「世の建て替え立て直し」のビジョンを掲げて世直し運動に邁進したスサノヲぶりの大冒険は、詠歌と心の浄化という観点からも、国家と宗教という祭政関係論という観点からも、大変興味深い事例として日本近代史を攪乱している。

 出口王仁三郎は大本の宗教運動の初期から自己の立場と霊性の淵源をスサノヲに重ねていた。王仁三郎は「悪神」とされ、父にも姉にも追われて終に高天原を追放されたスサノヲと自分を次のように重ね描く。

 「速素戔鳴尊は、天津罪、国津罪を残らず我身に引き受けて、世界の人の罪を償い玉う瑞の御霊魂なれば、天地の在らん限りの罪咎を、我身に引き受けて、涙を流して足の爪迄抜かれ、血潮を流し玉いて、世界の罪人、我々の遠つ御親の罪に代り玉いし御方なる事を忘る可らず。今の世の神道者は、悟り浅くして、直に速素戔鳴尊を悪く見做すは、誠に恐れ多き事共なり。/斯の如く天地の罪人の救い主なれば、再び此の天が下に降り在して、瑞の御霊なる茂頴(注―王仁三郎のこと)の身を宮と成して、遍く世界を救わんとなし玉える也」(「御霊魂のことわけ」『出口王仁三郎著作集』第一巻所収、読売新聞社)

 王仁三郎は、スサノヲがすべての「罪」をわが身に引き受けて「世界の人の罪」を償う「瑞の御霊魂」にして「天地の罪人の救い主」である神と解釈し、その「瑞霊」が王仁三郎の身体を「宮」として世界救済の神業を行なうと捉えている。つまり、自己の霊性をスサノヲと重ね合わせ、自分をスサノヲの霊の「宮」としているのである。

 かつて私は、前掲「神話的創造力と魂の変容―出口王仁三郎と折口信夫をめぐって」(『現代思想』1983年10月号、青土社)の中で、出口王仁三郎だけでなく、折口信夫もスサノヲの贖罪性に焦点を当てつつ、自己と重合していることを指摘した。

 敗戦後の昭和22年(1947)、折口信夫は「贖罪」「すさのを」「天つ恋―すさのを断章」と題する三篇の詩を発表した。それらは何れも、贖罪者として追放され流浪するマレビトとしてのスサノヲに托して敗戦の悲傷と哀切を歌ったものであるが、それはまさに自己の立ち位置の表明でもあった。このような贖罪性と孤独と悲傷がスサノヲ特性として出口王仁三郎と折口信夫に共通の理解だったことは強調されていいポイントだ。

 なぜならそれが、詠歌という言霊実践や芸能芸術の表現に直結していくからである。その機序を出口王仁三郎も折口信夫も直覚していたのだ。

 二人はまた独創的な歌詠み(歌人)でもあった。がゆえに、もちろん、歌の濫觴がスサノヲにあることをともに重要視していた。高天原を追放されたスサノヲは出雲の地に降り立ち、そこで八俣大蛇を退治して国つ神の娘・櫛稲田姫と結婚し、その時の心境を歌ったのが、

  八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を

という短歌であるということは繰り返し述べてきた。

 そこで、出口王仁三郎はスサノヲを「言霊の神」とし、「そもそも芸術の祖神は素戔鳴大神さまであるから、心中この大神を念ずるとき、絵画といわず、陶器といわず、詩歌といわずあらゆるものに独創が湧く」(「絵について」『出口王仁三郎著作集』第三巻)と「芸術の祖神」であることを主張した。

そして、三十一文字は言霊の結晶であり、どんな歌にもその底に「淡い恋心が流れていなければならない」と述べ、生涯に十万余首の歌を詠んだ。また、王仁三郎は「百鏡(ももかがみ)」と題したカルタ集を作っているが、それは「瑞月師肖像御百態入 瑞能神歌一人百首かるた」とも別称され、自ら百の衣装を身にまとって百変化した写真の上に自作の短歌百首を印刷したコスプレ集であり、「百人一首」をパロディにして換骨奪胎した「一人百首」のパフォーミングアーツでもある。

 すでに、何度か示したが、『古事記』におけるスサノヲノミコトは二度追放されている。一度目は父イザナギノミコトによって、二度目は姉天照大御神によって。

スサノヲの化身を自覚自称した出口王仁三郎も官憲により二度弾圧されている。一度目は大正10年(1921)の第一次大本事件で新聞紙法違反と不敬罪によって、二度目は昭和10年(1935)の第二次大本事件で治安維持法違反と不敬罪によって。どちらも追放され、弾圧されることにより、自らの霊性を深化させ、成就していった。そのスサノヲ~王仁三郎の霊的冒険を歌謡論との接続点から考えてみる。


「芸術は宗教の母」―出口王仁三郎の芸術論


 一般に、あらゆる芸能や芸術の源は宗教であると考えられている。折口信夫は国文学の発生点に「呪言」があり、それを発する者を「まれびと」と考えた。そのような観点からすれば、芸能・芸術の根源には呪術-宗教があるということになる。このような芸術の宗教起源論的な考え方は一般に広く受け入れられている。

 それに対して、出口王仁三郎は「芸術は宗教の母」であると説く。だが、この場合の「芸術」とは、人間の芸術的創造力以前の、その根底を成す大自然の宇宙的創造力を指している。たとえば、出口王仁三郎は『月鏡』で次のように述べている。

 「わたしはかつて、芸術は宗教の母なりと謂ったことがある。しかしその芸術というのは、今日の社会に行わるるごときものをいったのではない。造化の偉大なる力によって造られたる、天地間の森羅万象を含む神の大芸術をいうのである。(中略)明光社(注―現「楽天社」)を設けて、歌道を奨励し、大衆芸術たる冠句を高調し、絵を描き文字を書き、楽焼をなし、時に高座に上って浄瑠璃を語り、ぼんおどり音頭をさえ自らとっておるのである。神の真の芸術を斯の上に樹立することが、わたしの大いなる仕事の一つである。」


 「天地間の森羅万象を含む神の大芸術」は、この世の具体に引き寄せると「明光社」という芸術結社の芸術運動となる。それは、まさに芸術芸能マンダラとも言える、何でもありの「森羅万象」芸術運動であった。たとえば、娯楽性を伴った、短歌、冠句、絵画、書、陶芸、浄瑠璃、盆踊り音頭、演劇、映画という大衆芸術・芸能活動であり、それは実に大らかな笑いと活力に満ち溢れたものであった。まさしく何でもござれの破天荒な包容力と、貪欲とも一徹ともいえる創造力の全面展開で、それを読み、見る者を爆笑させ、解放させるエネルギーに満ち満ちていた。

 また同書の別の箇所には、「わたしが、宗教が芸術を生むのではなく芸術が宗教の母であると喝破したのは、今の人のいう芸術のことではないのである。造化の芸術をさして言うたのである。日月を師とする造化の芸術の謂いである。現代人の言うている芸術ならば、宗教は芸術の母なりという言葉が適している」と記している。


 出口王仁三郎の芸術論は、このような「天地森羅万象を含む神の大芸術」に発するものだ。そこでは、最高最大の芸術家は、「神」である。出口王仁三郎は、芸術の核心と根底を人間的創造力を超える「自然の造化力」とした。これは古代日本人の「むすび(産霊)」の信仰の延長線上にある捉え方であろう。

 このような「芸術は宗教の母」論とともに、出口王仁三郎は芸術と宗教は親子兄弟姉妹のようなものだとも、その相即性を述べている。

 『霊界物語』第六十五巻「総説」に次のようにある。

 「芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者である。ゆゑに吾々は左手を芸術に曳かせ、右手を宗教に委ねて、人生の逆旅を楽しく幸多く、辿り行かしめむと欲するのである。矛盾多く憂患繁き人生の旅路をして、さながら鳥謳ひ花笑ふ楽園の観あらしむるものは、実にこの美しき姉妹、即ち芸術と宗教の好伴侶を有するがゆゑである。もしもこの二つのものがなかつたならば、いかに淋しく味気なき憂き世なるか、想像出来がたきものであらうと思ふ。人生に離れ難き趣味を抱かしむるものは、ただこの二つの姉妹の存在するがゆゑである。」


 ① 芸術は「美の門より、人間を天国に導かむとするもの」

 ② 宗教は「真と善との門より、人間を神の御許に到らしめむとする」


 芸術と宗教の違いは入り口(門)の違いである。芸術は「美の門」から「天国」に至り、宗教は「真と善との門」から「神の御許」に至る。その違いはあるが、両者はともに究極には「神の御許=天国」に至る点では行き着く先は同じだ。それらはともに「人生の導師」であり、右手と左手、あるいは親子兄弟姉妹夫婦のように相互補完的に成立する、と王仁三郎は指摘する。

 このような出口王仁三郎の芸術論にしたがえば、芸術は、「自然美=形体美」を介して「天国」の「風光」を偲ばせるもので、その「極致」は「自然美の賞翫悦楽により、現実界の制縛を脱離して、恍として吾を忘るるの一境にある」。出口王仁三郎によれば、芸術の妙味は自然美と忘我にある。自然の美しさに恍惚となって我を忘れる。大自然のむすびの力が人間の固定観念を木っ端微塵にして、神秘不可思議の境に導き入れて、宇宙大の解放へと導く。芸術はそのようなはたらきと力を持つ。


 それに対して、宗教は、「霊性内観の一種神秘的なる洞察力によりて、直ちに人をして神の生命に接触せしむるもの」だ。そしてその「極地」は、「永遠無窮に神と共に活き、神と共に動かむと欲する、霊的活動の向上発展」にして「精神美=人格美」の完成にある。つまり、無媒介的に直接「神智、霊覚、交感、孚応」によって「霊界の真相を捕捉せしめむとする」のが「宗教本来の面目である」と主張するのである。

 要するに、究極的自己本来の内観と自覚を通して永遠に至るということ。

 芸術が外的感覚、身体的感覚を通しての妙境=天国への旅であるとすれば、宗教は内的霊性的自覚による永遠の覚知への参入である。芸術は外界から、宗教は内界からの身心変容。

 だがそれらは、究極において、別々のものではなく、「永遠無窮」の中で融合する。

 こうして、「真の芸術なるものは生命あり、活力あり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ」とされ、「造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、何れも皆神の芸術的産物である。この大芸術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。瑞月(注―王仁三郎のこと)が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与へて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめんとするの微意より出でたものである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書(『霊界物語』)を出版するに至つたのである」と結論付けられるのである。


 とすれば、ここには芸術と宗教の究極的一致が説かれていることになる。それは、真善美の統合的一致の究境であり、神聖遊戯の実演としての「世の立て替え立て直し」、それがとりもなおさず「地上天国」建設であり、「世の立て替え立て直し」であるということになる。

 この『霊界物語』は、第一次大本事件直後の大正10年(1921)10月18日から口述筆記が開始された全81巻83冊の一大叙事詩とも大河小説とも漫談物語ともいえる膨大な口述書である。この中に出口王仁三郎の宗教体験と宗教思想と現実の出来事はすべて投入されている。


出口王仁三郎による「八雲立つ」の歌の解釈と大本「歌祭り」


 スサノヲが「八雲立つ」の歌を通して歌った道がここまで延びている。出口王仁三郎は昭和10年(1935)10月31日、64歳の時に、亀岡の明光殿で第1回目の「歌祭り」を行なっている。これは、スサノヲの「八雲立つ」の歌を「御神歌」とするもので、これを皮切りに各支部で歌祭りを行なう予定であった。実際、11月17日には、大本の北陸別院で最初の地方の歌祭りが開催されている。

 だが、その年の12月8日、第二次大本事件が起こり、出口王仁三郎は巡教先の出雲で、治安維持法違反、不敬罪の容疑で検挙され、皇道大本は徹底的な弾圧を受けた。これが本稿で言う「二度目の追放」に当たる。出口王仁三郎は「歌祭り」における講演の中で、これまで祝婚歌とされてきた「八雲立つ」の歌を、「八重垣」という境界撤廃の宣言の歌と解釈している。何処の国にもたくさんの障壁と黒雲が立ち上っている。その国々や人々を分断し対立を生む八重垣の障壁を取り払い、世を立て替え立て直して開放し、神人和楽の世界平和の世の中を作っていこう、という解釈を示したのである。


大本歌祭「八雲神歌」

 出口王仁三郎は、「歌祭り」の講演で次のように述べている。


 <歌祭りということについて一言申しあげます。日本の和歌の道、すなわち敷島の道のはじまりとい

 うのは、素盞嗚尊が出雲の簸の川の川上で八岐の大蛇を退治されて、ほっと一息おつきなされた。そ 

 の時に、お祝いとして詠まれた歌が、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」の歌

 であります。

  このお歌の意味は、言霊によって解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」

 のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国

 には八重垣が築かれ、そして八雲が立ち昇っている。「八雲」というのは、「いやくも」ということ

 である――。それで、この「いやくも」をすっかりはらわなければならぬし、また、この垣もはらわ

 ねばならぬ。

  今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持ってゆこうと思えば、「税関」という

 八重垣ができている。「つまごみに」というのは、――日本の国は「秀妻の国」というのである――

 日本の国もまたいっしょになって八重垣をつくっているということであって、これは世界万民が一つ

 になって、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣はとりはらわれないのであり、「八

 雲」をはらい、「八重垣」をとりはらって、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。

 これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになっているその神 

 さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣」という意味になり、外から悪魔がは

 いれない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫

 雲がたなびいている意味にもなるし、また、真っ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味

 にもなるのであります。

  それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだのこつているのであり

 ます。内外をとわず悪い、「その八重垣を」今度はとりはらわねばならぬということをのこして、

 「を」の字でおさまっているのであります。

  そこで、仁徳天皇の御宇までの古典を調べますと、「歌垣に立つ」ということが、時々みあたるの

 であります。「何々の皇子歌垣に立たせ給うて詠い給わく……」とある。「歌垣」というのは、歌を 

 書いて、それを垣にしてあるもので、今日のこれ(歌垣を示され)がそれであります。それで歌祭り 

 というのは、この歌垣を中心として、自分の村々で年にいっぺんずつ行なったのであります。そうし

 て、平素からの村人間の怨み、妬み、または一家のもめごと、夫婦喧嘩とか、そうした村内における 

 今までのいざこざを、この歌祭りによって、神さまの御心をなごめるとともに、村人の心もちをも和

 め、いっさいの罪悪をはらうてしまう、つまり八重雲をはらうてしまうという平和な祭りでありま

 す。(中略)

  私は、古典のなかに「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞い

 ても判らなかったのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三

 歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平翁という国学者があったのであります。その人

 に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういうぐあいにして祭り、また、こういう歴史があるものだと

 聞かされたのであります。

  その後いっぺん、どうかして歌祭りをしたいと思っておりましたが、本日ここにめでたく行なうこ

 とができました。(後略)>

  (『明光』No. 112、昭和10年12月号、出口栄二編『出口王仁三郎著作集』第三巻愛と美といの

   ち、200‐203頁、読売新聞社、1973年)


 ここで出口王仁三郎は「八重垣」について二重の解釈を示している。一つは障壁となる取り払うべき八重垣で、もう一つは築くべき神さま中心の八重垣であるとする。障害となる体主霊従の八重垣を取り除き、真の神聖なる霊主体従の八重垣=瑞垣を作るのだと主張する。それが歌祭りの主意であると。

 だが、その第1回目の歌祭りをして1ヶ月余、出口王仁三郎と大本は徹底的な弾圧と破壊により、その神殿施設はすべて取り除かれた。大本の神八重垣の構築は大きな挫折を経験することになったのである。


 これに先立つ昭和8年(1933)11月10日に建立された島根県の「八雲山(やくもやま)歌碑」には、次の三首の歌が刻まれている。


  千早ぶる神の聖跡(みあと)をしたひつつ 八雲の山に吾きつるかも

  八雲立つ出雲の歌の生まれたる 須賀の皇居(みやい)の八重垣の跡

  大山(だいせん)はみそらに霞み海は光(て)る 出雲の国は錦の秋なり


 スサノヲの道も、スサノヲの歌祭りも、未だ終わってはいないのである(3)




(1)綾部での大本「開教130年 開祖大祭」の模様の一部は、以下の動画を参照されたい。動画リンク:

   https://youtu.be/ViI3feGb7nA ファイル名:大本綾部「開教130年 開祖大祭」参拝記(32分)。また、大本亀岡

天恩郷での加藤眞三氏らとの「第4回いのちの研究会 ケアとうたとアート」については、次の動画を参照され

たい。ファイル名:第4回いのちの研究会「ケアとうたとアート」記録動画(約3時間)2022年10月9日 動画リ

(2)出口王仁三郎の言霊論や、その背景については、鎌田東二『言霊の思想』(青土社、2017年)を参照されたい。

(3)飛躍しているかにみえるが、「スサノヲの冒険」は、現代では、作家の中上健次や佐藤泰志にまでつながってい

ると思う。参照:https://moonsault.net/?p=5606


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