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スサノヲの冒険 第3回

鎌田東二



歌謡霊統論から見たスサノヲとヤマトタケルと一休宗純



狂風、徧界、曾て蔵せず、吹起す狂雲、狂更に狂。

誰か識る、雲収まり風定まる処、海東の初日、扶桑に上る。

(狂風が世界のすみずみまで、吹きつづけて、全く収まる気配もなく、さらに狂雲を吹きあげて、いよいよ狂気が加わってきました。/(狂気のもとは和尚にあるので)雲がおさまって風がおち、東海にさしのぼる初日が、扶桑を照す景色を、いったい誰が見知っているでしょう。)

【一休宗純『狂雲集』112,柳田聖山訳,64頁,中公クラシックス,2001年】


 一休は一球毎に一狂する。末世・末法においては、「狂」は「救」の「教(経)」となる。その「興」の立ち上り、流れるままの境涯を往く。一休は、しかし、その名とは異なり、一瞬たりとて休憩することなく、全狂を歩きつづけ、この世の涯まで往き切った(生き切った?)。

 これまで、私は「現代大中世論」というスパイラル史観を提唱してきたが(1)、この間のコロナ・パンデミックや大洪水被害や安倍晋三元首相殺害事件などを見ていると、現代が一休が生きた戦国時代前の状況に非常に似ているように思われてならない。現代の危機は、次のような「絶体絶命」の様相を示していると思う。

  ① 環境危機~自然災害の多発・激甚化

  ② 食料・エネルギー的危機~気象異常による作物の不作・輸出入制限と飢餓の拡大

  ③ 経済危機~コロナパンデミック、ウクライナ侵攻による不安定化

  ④ 政治危機~ウクライナ戦争や各地の紛争と対立と分断

  ⑤ 文化危機~アーティストの困窮,芸術施設の運営の困難,助成金の目減り

  ⑥ 教育危機~いじめ・いきがい・いごこち、自己肯定感の不足

  ⑦ 家庭危機~孤独・孤立・分離・分裂・無関心・虐待・家庭内暴力

  ⑧ 健康危機~コロナ禍により十分なアウトドア活動や交流ができないことによる健康不安と抑鬱

  ⑨ 宗教危機~宗教(教団)ないし宗教活動に対する不信感と警戒感の醸成

 政治不信、宗教不信、報道不信、さまざまなレベルで、これまでの体制の欠陥と修復不可能なほどの劣化を見せつけられている。

 「むすひ」と「修理固成」が『古事記』に秘められた二大メッセージだと考えているが、この大危機の中で、「くらげなす漂へる島」であるこの日本は、どのような「むすひ」の生成力と「修理固成」のリノベーション・リフォーム・イノベーションを編み出すことができるだろうか?

 一休であれば、まず「狂え、狂え、狂いぬけ!」と檄を飛ばすだろうか? まさしく、「狂風、徧界、曾て蔵せず、吹起す狂雲、狂更に狂。/誰か識る、雲収まり風定まる処、海東の初日、扶桑に上る。」の日々である。現代に一休宗純が生きていたら、この世相を横目に、「遊戯三昧(ゆげざんまい)」しつつ、『大狂雲集』『続族狂雲集』『激狂雲集』などを続々と刊行することであろう。


 さて、歌謡論から見たスサノヲの系譜は、同時に霊統論から見たスサノヲの系譜にもなる。そして、スサノヲの絶唱は、そのままヤマトタケルの「国偲びの歌」にも「弥勒下生を約す。」(『狂雲集』558)にもつながっている(2)


 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を (スサノヲ)

 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし (ヤマトタケル)


 どちらも国誉め的な要素を持っている。「いづも」と「やまと」の土地誉めの要素を。そして、どちらも「垣」に囲まれた平安の地である。御殿を囲む人工的な垣と、集落を囲む山々の自然の垣。出雲は「八雲立つ」地で、倭(大和)は「まほろば」(本当に素晴らしい麗しいところ)の地である。

 両者の軌跡も歌も、愛の不在ないし喪失と深く結びついている。スサノヲの場合、母の喪失と父と姉の無理解。ヤマトタケルの場合、父の無理解。ちなみに、『古事記』には、ヤマトタケルの母は、吉備臣の祖の若建吉備津日古の娘の伊那毘能大郎女で、5人の同母兄弟がいるとある。順番に、櫛角別王、大碓命、小碓命(またの名を「倭男具那命」、後のヤマトタケル)、倭根子命、神櫛王の5皇子である。

 これがしかし、『日本書紀』になると、だいぶ記述が異なるのだ。第12代景行天皇は、播磨の稲日大郎女を皇后として、2人の皇子を生んだ。兄が大碓皇子で、弟が「小碓尊」。だが、この兄弟は双子であった。『日本書紀』の記述を見てみる。


   二年の春三月の丙寅の朔戊辰に、播磨稲日大郎女を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第 

  一をば大碓皇子と曰す。第二をば小碓尊と曰す。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にして双

  に生れませり。天皇異びたまひて、則ち碓に誥びたまひき。故因りて、其の二の王を号けて、大

  碓・小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男。亦は日本武尊と曰す。幼くして雄略しき気有

  します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。(『日本書紀』(二)巻第

  七、60頁、坂本太郎他校注、岩波書店、1994年)


この『日本書紀』では、景行天皇についての記述は大変詳しく長文である。『古事記』とも大きく食い違っているところがある。

 まず、景行紀では「垂仁天皇99年春2月」に垂仁天皇が崩御したとされるが、しかし、その直前の垂仁紀には「99年秋7月1日崩御」とある(同56頁)。これは細かな違いのようであるが、国家公文書としては問題の箇所である。記述の信頼性を損なわせるからである。

 景行天皇は、元年(垂仁天皇99年)秋7月11日に即位する。そして、先に引用した2年3月3日、稲日大郎姫を皇后として、双子の兄弟として、第一子大碓皇子、第二子小碓尊を生んだ。小碓尊はまたの名を「日本童男(やまとおぐな)・日本武尊(やまとたけるのみこと)」と言った。その皇子は、「幼(わか)くして雄略しき気有します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。」とある。

 そもそも天皇にもならなかった一人の皇子に対して、このような細かく詳しい記述はこの箇所を除いて他にはない。また、このようなヤマトタケルについての具体的な特徴の記述は、『古事記』にすらない。この点、『日本書紀』におけるヤマトタケルについての記述は、実に異例であり、異様とも言える。

 『古事記』との大きな違いは、第一に、『古事記』では父景行天皇がヤマトタケルに対して冷たく当たったというような記載があるのに対して、『日本書紀』ではそのような記述はまったくなく、むしろ、その反対に父として偉大な息子を信頼し、征西・東征を任せたことが記述されている点だ。第二に、冒頭で示したヤマトタケルの「国偲びの歌」は『日本書紀』では景行天皇が歌ったことになっている点だ。この違いは大きく、要注意箇所である。ともあれ、長文になるが、ここに至る景行紀の記述の概要をトレースしておく。


 景行天皇は、即位後4年2月11日、美濃の「容姿端麗」の弟媛を訪ねるが、弟媛は拒否し、姉・八坂入媛を推薦したので妃とし、間に七男六女が生まれた。その第一子が稚足彦天皇で、後に第12代景行天皇の後を継いで、第13代成務天皇となった。その後、11月に美濃から都に戻り、巻向に日代宮を造営した。だが、ここから景行12年までの8年間の記録はない。

 12年秋7月、熊襲が背いて貢物を献上しなかったので、景行天皇は九州にみずから征圧に向かった。そして、大和の都に戻ったのが、19年秋9月20日である。その帰還の途次の9月5日、周防(周芳)の国(山口県)の娑麼(さば)に着き、首長の神夏磯媛(かむなつそひめ)の降伏と助言により、鼻垂(はなたり)、耳垂(みみたり)、麻剥(あさはぎ)、土折猪折(つちおりいおり)の4人の「悪しき賊者」がいるので、討ち取った。神夏磯媛は、磯津山の榊を抜き、上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊を掛けて降伏帰順を誓った。10月、碩田(おおきた)の国(大分県)の速見村に着き、首長の速津媛の服従帰順を受け、大きな「鼠の石窟(いわや)」に2人の「土蜘蛛」(青と白)が住んでおり、また禰疑野に3人の土蜘蛛(打猿と八田と国麻侶)が住んでいて「皇命」に従わないので、討ち取った。


 12月5日、「熊襲」を討つ相談をする。「襲国」に厚鹿丈(あつかや)と迮鹿文(さかや)の2人(「熊襲の八十梟帥(やそたける)」)の容姿端麗で気性のよい娘、市乾鹿文(いちふかや)(姉)と市鹿文(いちかや)(妹)をだまして味方につけて、「クマソタケル」を殺害し、姉娘も殺し、妹を火の国の国造に賜った。13年5月には、襲の国を平定し、美人の御刀媛(みはかしひめ)を妃とし、日向国の国造の先祖となる豊国別皇子を生んだ。

 『古事記』では、この「クマソタケル」を殺したのはヤマトタケルとされる。そして、その勇敢な英雄的行為により、敵であった「クマソタケル」から、「西の方に吾二人(クマソタケル兄弟)を除きて、建(たけ)く強き人無し。然るに大倭国に、吾二人に益(まさ)りて建き男は坐しけり。ここをもちて吾御名を献らむ。今より後は、倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(たた)ふべし。」と、「クマソタケル」殺害後、「クマソタケル」から直接その勇敢さを称えられ、名前を授与献上されたのであった。そのことについて、景行天皇27年12月の『日本書紀』には、「ヤマトタケル」という名の由来はこの「クマソタケル」からではなく、もう一人の「クマソノタケル」である「カワカミノタケル(川上梟帥)」からの献上名だと記されている。

 こうして、景行天皇17年3月12日、子湯県(こゆのあがた)(宮崎県児湯県)に遊び、東方を望んで「日向」と国の名を名付け、野中の大石に上って、景行天皇自身が都を偲んで歌を詠んだ。その歌の中の2首目に「国邦歌(くにしのびのうた)」があるのだ。


  愛(は)しきよし 我家(わぎへ)の方(かた)ゆ 雲居立ち来(く)

  倭は 国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し

  命の 全(まそ)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 白橿(しらかし)が枝を 

  髻華(うず)に挿せ 此の子

 

 これら3首の歌は、「国邦歌」とされる。言うまでもなく、『古事記』ではこの「国偲びの歌」はヤマトタケルの望郷の絶唱であり、「まほろば」と歌う『古事記』にたいして、『日本書紀』では「まほらま」と歌い、少し異なっているが、歌の意味は同じである。このあたりの記述の『古事記』と『日本書紀』の食い違いは大きい。


 その後の18年3月、筑紫の国夷守(宮崎県小林)に着き、諸県君泉媛が帰順する。4月3日、熊県(熊本県球磨郡)に着き、土地の熊津彦兄弟(兄熊・弟熊)を討ち取る。4月11日、葦北の小島に水がなかったので、「天神地祇」に祈ると「寒水」が湧き出たので、島の名を「水島」と呼ぶようになった。5月1日、火の国の地名伝承。暗くて岸に着けなかった時、遥かに「火の光」が見えたので、その方角に進み岸に着くことができたので、「火の国」と呼ぶようになった。6月3日、玉杵名邑(たまきなのむら)(熊本県玉名郡)に行き、土地の土蜘蛛津(つ)頬(らら)を殺した。16日に阿蘇国に着き、誰かいるか尋ねると、「二の神」阿蘇都彦と阿蘇都媛が人となって出てきたので、この国を「阿蘇」と名付けた。

 7月4日、筑紫の後国の三毛(福岡県三池)に着くと長さ970丈の大木が倒れていた。時の人が次の歌を詠んだ。

 

  朝霜の 御木(みけ)のさ小橋(をばし) 群臣(まへつきみ) い渡(わた)らすも 御木のさ小橋


 天皇が何の樹かと訊ねると、これは「歴木(くぬぎ)で、朝日が射すと杵島山(きしまのやま)を隠し、夕日が射すと阿蘇山を隠すほどの高さだった」と言ったので、天皇はこの国を「御木の国」と名付けたというのである。

 7月7日、八女県(やめのあがた)(福岡県八女郡)に着くと、山の峰が何重にも重なって美しかった。水沼県主猿大海がこの山の中に「八女津媛」という女神がおられると言ったので、「八女の国」と名付けられた。

 こうして、景行天皇19年9月20日、景行天皇は日向から大和に帰還したのである。

 その後、20年春2月4日、五百野皇女を遣わして、天照大神を祭らせた。ということは、五百野皇女は初代斎宮とされる倭姫の次の第2代目の斎宮ということになる。

 こののち、25年2月12日、武内宿祢を北陸と東国に遣わし、地形や人民の様子を視察させた。さらに、27年2月12日、武内宿祢が東国から帰って来て奏上し、「東国に日高見国があり、その国の男女は髪を椎のように結い、体に入れ墨を施していて勇敢である。蝦夷と呼ばれているが、土地が超えていて広いので征圧すべきだ」と進言した。


 同年8月、熊襲が再度反乱を起こし、辺境を侵したので、10月13日、この時初めて16歳の「日本武尊」を派遣する。そこで、ヤマトタケルは、美濃の国の弓の名人の弟彦公を連れて、熊襲の地に向かった。12月、熊襲の国に到着した「日本武尊」は、童女に変装し、宴会の席で、熊襲魁帥(たける)(取石鹿文(とろしかや)・川上梟帥(かわかみのたける)を討ち取り、先に記したように、「日本武皇子(やまとたけるのみこ)」の名を献上された。このところは、『古事記』の記述と類似している。帰途の途中、ヤマトタケルは「悪神(あらぶるかみ)」を殺した。

 この3年後の28年2月1日、大和に帰還したヤマトタケルは、熊襲を平定したことを父景行天皇に奏上した。すると、天皇は日本武尊の「功(いさお)」を「美(ほ)め」、特に「愛(めぐ)み」たもうたとある。このところも、『古事記』と大きく異なる記述である。

 『古事記』では父・景行天皇に怖れられ、疎んじられ、ヤマトタケルはそれを深く悲しんだ。この点、『古事記』のスサノヲノミコトとの共通点があることは先号でも指摘した通りである。


 40年6月、東国の蝦夷が反乱を起こしたので、7月16日、日本武尊に「斧鉞」(征伐の大将のしるし、宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳、講談社学術文庫、1988年には、「征夷の将軍」と訳されている)を授けて、「東国の暴神」と蝦夷の乱を鎮めるために東国に派遣した。「東夷」は「識性暴強」で、山には「邪神」がいて、野には「姦鬼」がいる。その「東夷」の中でも「蝦夷」が特に強力である。

 それを討つことができるのは、「日本武尊」、お前しかいないと父は最大級の讃美を伴う言葉を以て、次のように、蝦夷東征を命じるのである。


  今朕察汝為人也、身体長大、容姿端正。力能扛鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝。即知之、形則

  我子、実則神人、実是天愍朕不叡、且国不平、令経綸天業、不絶宗廟乎。亦是天下則汝天下也。是

  位則汝位也。願深謀遠慮、探姦伺変、示之以威、懐之以徳、不煩兵甲、自令臣隷、即巧言而調暴 

  神、振武以攘姦鬼。

  今朕、汝を察るに、為人、身体長く大きにして、容貌端正し。力能く鼎を扛ぐ。猛きこと雷電の如

  し。向かう所に前無く、攻める所必ず勝つ。即ち知りぬ、形は我が子、実は神人にますことを。実 

  に是、天の、朕が不叡くして、且国の不平れたるを愍びたまひて、天業を経綸へしめたまひ、宗廟  

  を絶えずあらしめたまふか。亦是の天下は汝の天下なり。是の位は汝の位なり。願はくは深く謀り

  遠く慮りて、姦しきを探り変くを伺ひて、示すに威を以てし、懐くるに徳を以てして、兵甲を煩さ 

  ずして自づから臣隷はしめよ。則ち言を巧みて暴ぶる神を調へ、武を振ひて姦しき鬼を攘へ。(同

  上、479頁、92頁)


 つまり、「形則我子、実則神人」、おまえは、形は我が子であるが、真実は神人だ、と言い、この「天下」はおまえの天下である、だから、おまえが「深謀遠慮」をもって、徳をもってなつかせ、兵を使わずにおのずと従うようにし、言葉を巧みに用いて東国の「暴神・姦鬼」を鎮め、それができない時は武力で打ち払うのだ、と父景行天皇は命じて、吉備武彦と大伴武日連を従わせたのである。

 この箇所は、特に重要で注意する必要のあるところだ。景行天皇は息子の日本武尊に、「身体長大、容姿端正、力能扛鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝」で、「形則我子、実則神人」と言って、最大の讃美をしているからである。これもまた異様な記述であると言ってよい。「形は我が子であるが、真実は神人だ」と実の父が実の息子に言うとは!

 ここで、当然のことだが、疑問が生じる。なぜ『古事記』はヤマトタケルを父から疎まれているように描き、『日本書紀』は父から称えられているように描いたのか、というこの大きな違いへの疑問である。別の言い方をすると、『古事記』には、ほとんどまったくと言っていいほど、第12代景行天皇の子を思う気持ちなどは表現されておらず、むしろ、非常に冷酷なほどに我が子を懼れ、突き放しているかに見えるのはなぜか、という疑問である。さらに言い方を変えると、この『古事記』におけるヤマトタケル贔屓はどこから生まれてくるのか、という疑問である。

 先取りして、結論的な解釈を述べておくと、ヤマトタケル物語は、スサノヲ物語の変奏だから、ということになる。つまり、スサノヲの霊統を引く者がヤマトタケルなのである。そしてそれは、日本型貴種流離譚の典型的な表現となっており、源義経に対するいわゆる「判官贔屓」にも直接つながっている物語系である。その流れは、さらに遠く「頓智坊主」として愛されることになる一休宗純にまで及ぶ。一休はスサノヲのアバター(アヴァターラ:権現)である。


 さて、景行天皇即位40年10月2日、日本武尊は東国に向けて出発した。途中、伊勢神宮を参拝した折、倭媛命は「草薙剣」を日本武尊に授けて、注意するように諭した。その後、日本武尊は駿河に行ったが、「賊」に欺かれて火攻めにされた。この時、日本武尊は倭媛命に授けられた火打石を取り出して点火し、向かい火を放って危難を免れた。「一云」、別の伝承では、「叢雲剣」で草を薙ぎ払って難を逃れたので、以後、その剣を「草薙」と云うとある。そして、その地を「焼津」と名づけた。ここは、『古事記』とほぼ同じ伝承であるが、「一云」という注記であることに注意したい。

 この後、相模国に行き、そこから上総(千葉県)へ海を渡ろうとしたが、暴風が吹いて漂流したので、日本武尊につき従ってきた「妾」の「弟橘媛」が身代わりになって海に入り、「海神の心」を鎮め、暴風をおさめた。『古事記』では、ここで、オトタチバナヒメの「さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも」の歌が詠われることになるが、この歌は『古事記』にしか記載されていない。

 ヤマトタケルは、上総から陸奥国に入った。蝦夷の首領の島津神・国津神は、日本武尊を見て、その「容(かお)」が「人倫(ひと)に秀れ」ていると思い、名前を訊くと、「吾は是、現人神の子なり」と告げたので、蝦夷たちは服従した。

 こうして、蝦夷を平定し、「日高見国」から常陸を経て甲斐国に入り、「酒折宮」に滞在する。その際、「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」「日日並べて 夜には九夜 日には十日を」の歌を交わした。さらに、甲斐から北の武蔵・上野を巡り、碓氷坂(峠)に着き、そこで、弟橘媛を思い出して、「吾嬬(あづま)はや」と三度と歎き洩らした。そこで、この碓氷峠より東の国々を「吾嬬国(あずまのくに)」と呼んだ。

 この先、吉備武彦を越の国に派遣し、日本武尊は信濃の国に入る。山は険しく、山の神は「白鹿」となって日本武尊を苦しめたが、「一箇蒜」で、白鹿を弾き、殺した。その後、道に迷ったが、「白狗」により導かれて、美濃の国に出ることができた。そこで、越の国からやってきた吉備武彦と合流した。

 この後、尾張に戻り、尾張氏の娘の宮簀媛を娶って、長く滞在した。その近くの近江の国の「五十葺山(伊吹山)」に「荒神」がいることを聞き、剣を置いたまま歩いて伊吹山に上った。山の神は「大蛇」になって道を塞いだ。山の神は怒り、雹を降らせたので、道に迷い、正気を失ない、病にかかる。伊勢の尾津に移った。剣を忘れて、「尾張に 直(ただ)に向へる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣著(きぬき)せましを 太刀佩(たちは)けましを」(ああ、尾張の国にまっすぐに向き合っている一本松よ、そんなわたしであることよ、もしその一本松が人であり男であるなら、衣を着せてあげるのに、また太刀を身に付けさせてあげるのに、ああ、それもかなわず、無念であることよ。)と歌を歌う。

 ちなみに、『日本書紀』には、「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」の歌以外には、ヤマトタケルの歌は、この一首しかない。『古事記』では、「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」をはじ始め、9首も歌われるのに。ここでも、『古事記』の歌謡性=歌物語性と、『日本書紀』の記録性との好対照が見て取れるが、実は、『日本書紀』では、『古事記』におけるヤマトタケルの歌を父景行天皇が横取りしていることになる。つまり、歌の名手はヤマトタケルではなく、父景行天皇の方だということになっているのだ、『日本書紀』では。

 この正反対とも言える『古事記』と『日本書紀』における歌人ヤマトタケルの扱いの大きな違いをどう考えるか? その答えは、先にも述べたように、女性たちの伝承性が強かった『古事記』は、スサノヲとヤマトタケルの悲哀と詠歌を相関させることによって、より情緒的な、よりドラマティックな物語に仕立て上げているということだ。


 イブキ山の神の怒りに当たって、ヤマトタケルは能褒野に到って病がいっそうひどくなり、捕虜としていた蝦夷を伊勢神宮に献上し、吉備武彦を遣わして、父景行天皇に戦果と現状を報告させた。しかし、終に、この能褒野の地で死去したのである。

 景行天皇はこの報告を聞き、昼夜咽び泣き、胸を打って悲しみ、嘆いた(「昼夜喉咽、泣悲摽擗」)。

 ヤマトタケルは、死後「白鳥」となって、伊勢の国の能褒野の陵から倭国に飛んでいった。白鳥は倭の「琴弾原」にとどまったので、そこに陵を造った。白鳥はそこからさらに河内の「古市邑」に飛んで行って、その地にとどまったので、そこにも陵を造った。この三つの陵を「白鳥陵」と名づけた。それから、終に、白鳥は天に昇っていった。即位43年のことであった。

 このような白鳥伝説が語られるが、おおむねこの伝承は『古事記』も同様である。


 この後、景行天皇即位51年1月7日、景行天皇は「宴」を催したが、皇子の稚足彦尊と武内宿祢は宴に出席しなかったので呼んで理由を尋ねた。その答えが立派だったので、目をかけるようになった。8月4日、稚足彦命と皇太子とし、武内宿祢を「棟梁之臣」に任じた。

 草薙の剣は、今、尾張の国の熱田神宮にある。日本武尊が伊勢神宮に献上した蝦夷を倭姫命が朝廷に献上したので三輪山の辺に置いたが、振る舞いが粗暴だったので、畿外に出し、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五つの国に置いた。その五つの国の佐伯部の先祖がこの蝦夷である(空海はその末裔)。

 日本武尊は、両道入姫皇女を娶って稲依別王と足仲彦天皇(第14代仲哀天皇)と布忍入姫命と稚武王を生んだ。

 52年5月4日、皇后播磨大郎女が亡くなり、7月7日、八坂入媛命を皇后とした。53年8月1日、景行天皇は、日本武尊の平定した国々を巡行する。10月に上総の国に行き、12月に伊勢に入り、「綺宮」に住んだ。54年9月19日、伊勢から倭に戻り、「纏向宮」に居住した55年2月5日、彦狭島王を東山道15国の「都督」に任じた。56年8月、彦狭島王の子・御諸別王に、父の後を継がせて、東国を治めさせた。57年9月、坂手池を造り、堤に竹を植えた。10月に、諸国に田部と屯倉を置いた。58年2月11日、近江の国の志賀の地の「高穴穂宮」に3年住んだ。

 そして、終に、景行天皇は、即位60年11月7日に高穴穂宮にて106歳で崩御したのである。


 じつに長々としたトレースとなったが、分厚い景行天皇紀の記事のあらましは以上のようなものであった。


 この『古事記』と『日本書紀』のヤマトタケルの大きな違いを見ながら、一休宗純のことを想う。ヤマトタケルの父子の関係は、『古事記』と『日本書紀』では大きく異なる。『古事記』はヤマトタケルにのみ焦点を当て、その悲劇性、父の命の理不尽さを強調する。だが、『日本書紀』では父が我が子を「神人」と称えた。

 一休は第100代後小松天皇の長子であった。だが、生まれて間もなくであろう、寺に出された。南朝の血を引く母の子であったから。南北朝という皇位継承をめぐる熾烈な争闘の果てに、南北朝を統合した百代目の天皇の長子が南朝の血を引く皇子であったという最大の分断。後小松帝は、内なる分断を切り捨てることによって、外なる統合を図った。父は子を捨てた。

 この父の葛藤確執と矛盾が、その子に引き継がれないはずはない。そして、宮中を追われた母とも別れ別れになって、寺童として生きるほかない一休の寂しく過酷な運命。

 一休宗純は、生まれながらにして真っ二つに引き裂かれている。生きている限り、逃げ場がない。隠退も隠遁もできない、捨てられた皇子。

 その皇子の中に、スサノヲの血と霊が流れ込む。ヤマトタケルの血と涙が流れ込む。それが、末法の乱世の中で溶けてとろけて、一休の詩となる。『狂雲集』となる。森女との愛欲の歌となる。『狂雲集』の愛の讃歌は、確かに、「煩悩即菩提」「魔仏一如」「善悪の彼岸」を瞬間指し示す至境の詩境である。



(1)鎌田東二『現代神道論―霊性と生態智の探究』春秋社、2011年

(2)『狂雲集』の中に次の詩がある。


弥勒下生を約す。

盲森、夜々、吟身に伴う、被底の鴛鴦、私語新たなり。

新たに約す、慈尊、三会の暁、本居の古仏、万般の春。

(弥勒の出世まで。

来る夜も来る夜も、盲女の森と、歌を寄せあう身となって、掛布団の下のおしどり同士、愛のことばが鮮々しい。/いよいよ新しい誓いとは、弥勒慈尊が(釈迦の救いに漏れた衆生のために)、三番目の説法をくりひろげるまで、本来の居処を変えぬ古仏として、万花の春を歌おうというのである。)

【一休宗純『狂雲集』558,柳田聖山訳,299‐300頁,中公クラシックス,2001年】

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