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スサノヲの冒険 第2回

鎌田東二



歌謡論から見たスサノヲ~スサノヲとヤマトタケルと雄略天皇と一休宗純



愛念、愛思 胸次を苦しむ、詩文忘却して 一字も無し

    唯だ悟道有りて、道心無し、今日猶お愁う 生死に沈めることを


(愛情に苦しんで、胸がさけるばかり、詩文のことは忘れて、一字もない。/ひたすらに、みちを得ようとあせるだけで、道心がないのである、今日もまだ、自ら生死に沈んで(そのことに気付いて)いる自分が情けない。)【一休宗純『狂雲集』395,柳田聖山訳,213‐214頁,中公クラシックス,2001年】


                (エロスは 胸を苦しめる

詩文は忘却 すっからかん

 ロゴスあれども パトスなし

        まだまだ気になる 生き死にが)富士正晴訳


盲信、夜々、吟身に伴う、被底の鴛鴦、私語新たなり。

     新に約す、慈尊、三会の暁、本居の古仏、万般の春。


(来る日も来る日も、盲女の森と、歌を寄せあう身となって、掛布団の下のおしどり同士、愛のことばが鮮々しい。/いよいよ新しい誓いとは、弥勒慈尊が(釈迦の救いに漏れた衆生のために)、三番目の説法をくりひろげるまで、本来の居処を変えぬ古仏として、万花の春を歌おうというのである。)【同上558、299‐300頁】



 本連載「スサノヲの冒険」の第1回目に次のような文章を書きつけた。


<私はこれまで『古事記ワンダーランド』(角川選書,2012年)などで、『古事記』はオペラ、『日本書紀』はデータベース(あるいはアーカイブ)などと、その特徴を表現してきた。その『古事記』オペラの主題歌を歌っているのがスサノヲだ。スサノヲは『古事記』オペラの花形歌手である。

 しかし、曲数は、たったの1曲。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

     八重垣作る その八重垣を


のみである。

 だが、そのたった1曲が日本文化史を串刺しにする歌謡のトップランナーとなった。そして、その歌の表面的な意味の明るさとしあわせ感に反比例して、この歌の底と奥にはスサノヲの悩ましい情念が解きほぐしがたく絡まっている。この歌は表面的にはハッピーソングであるが、その核心はあらけない哀歌(エレジー、ドイノ)である。

そのスサノヲのパトスとエロスとミュトスが、日本列島に歌声をもたらした。響かせた。日本オペラはスサノヲに始まる。>


 これは従来主張してきたことの繰り返しにすぎないのだが、先月、『教科書で教えない 世界神話の中の「古事記」「日本書紀」入門』(ビジネス社、2022年6月1日刊)という本を出版した。そこでも、『古事記』はオペラ、『日本書紀』はアーカイブ、と日本最古の二書の違いを説明したのだった。たまたまそれを読んだ千代田珈琲インターナショナル株式会社社長の千代田行麿氏が、新国立劇場で『古事記』のオペラを行なうのでぜひ観てほしいと招待され、7月3日の日曜日、新宿区初台にある新国立劇場に出かけたのだった。

 そして、3時間に及ぶオペラ『美しきまほろば~ヤマトタケル』を観た。そして、改めて思ったのだった。ヤマトタケルの中にスサノヲがいる、と。そして雄略天皇の中にも一休宗純の中にもスサノヲがいる、と。

 第2回目は、ちょっと駆け足や勇み足になるかもしれないけれど、スサノヲとヤマトタケルと雄略天皇と一休宗純の歌と暴力、そのエロスとバイオレンスを串刺しにしてみたい。


 スサノヲはなぜ暴発したか? なぜ泣き叫び続けたか? それは母を亡くしたからである。母を喪った悲しみ。それが根幹にあるのだが、しかし、その悲しみの表出が周りに理解されないために、というか、嫌がられたために、そこでいささかねじ曲がってしまったのであった。もしそこで、母を亡くした素直な悲しみの表出が共有されていたならば、スサノヲの悲哀と暴発はある程度で収まっていたことであろう。

 だが、そうはならなかった。

 父イザナギは、妻イザナミ(スサノヲの「妣」とされる)の死と死体を穢れたものとして封印した。イザナミは、その夫の感覚に怒りと恥辱を覚えた。だから、夫の国の人間を1日に1000人も殺すと、物騒な呪言を吐いたのである。「愛しき我が汝夫の命、かく為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。」と、言い放ったのだ。

夫のイザナギは、しかし、「吾はいなしこめしこめききたなき国に到りてありけり。故、吾は御身の禊為む。」と言って、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で「禊祓」をし、その最後の最後で、左目を洗ってアマテラス、右目を洗ってツクヨミ、鼻を洗ってスサノヲを化生したのであった。

 ということは、まっこと残念なことであるが、日本(神話上)の最初の死者であるイザナミは、まっとうに鎮魂されなかったのである。仏教的な表現を使えば、丁重に供養されることはなかったのである。それはちょっと問題ではないか。そのイザナミの恨みを問題にしたのが、精神科医で元ザ・フォーク・クルセダーズのベーシストの北山修であった(『見るなの禁止』岩崎学術出版社、1993年、『日本人の〈原罪〉』講談社現代新書、共著、2009年など)

 だが、実際は、スサノヲだけが母イザナミを鎮魂し、供養したのである(『古事記』は仏教を極力回避しているが)。大人になるまで、「妣の国根の堅州国に罷らん」と「啼(哭)」いていたのだから。これは完全なる哀悼弔意の表現である。

 だが、父イザナギも姉アマテラスも、そのスサノヲの「心」を理解しなかった。理解せずに、無情にも追放したのだ。さぞかし、やるせない思いであったろう。無念であったろう。こんなことなら、誰だって「不良」になるぜ。荒ぶるぞい。暴れてやろうかい。

 まあ、こうなるわな。


 しかし、である。スサノヲは、荒む心を抱えて、咆哮しつつ放浪し、出会った大気津比売神に食べ物を所望するのだが、オホゲツヒメが鼻や口や尻からいろいろな食べ物を取り出して奉ったので、汚らわしいとぶった斬ったのであった。でも、これだと、父イザナギと同類ではないか。父イザナギは妻を喪う原因となった火の神カグツチをぶった斬ったのだから。火の神カグツチは、スサノヲともっとも近しい霊的兄弟である。スサノヲはカグツチと対応する。いずれにせよ、父イザナギは屍体の崩れを穢れたものと見たが、スサノヲは差し出された食べ物を鼻口尻の穴から出る穢れた排泄物として見てしまったのである。

 だが、『古事記』は、あくまでもスサノヲを悪者にはしない(『日本書紀』では素戔嗚尊は「悪神」とも表記されている)。オホゲツヒメの殺害された頭からカイコ、2つの目から稲種、2つの耳から粟、鼻から小豆、女陰から麦、尻から大豆が化育し、出雲系の祖神(親神とも言える)「神産巣日御祖命」がそれらを取って穀物の「種」としたのだから。殺しても、ただでは死なぬ。死は穢れなどではなく、再生するいのちの「たね」となる。そのような太古的メッセージを『古事記』のスサノヲ物語は含ませている。この点は重要なところで、さらなる議論が必要だが、先を急ごう。


 さてさて、このような咆哮と放浪の末に、スサノヲはヤマタノヲロチというモンスター退治に行きついたのだった。そして、ヤマタノヲロチを退治した後に、

<速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、「吾此地に来て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲たち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

ぞ。ここに足名椎神を喚びて、「汝は我が宮の首任れ。」と告りたまひ、また名を負せて、稲田宮主須賀之八耳神と号けたまひき。>(倉野憲司校注『古事記』45‐46頁、岩波文庫、1963年)

と、詠歌した。

 なので、この歌は、回りまわって、めぐり巡って、母イザナミの鎮魂供養の結露であり、結果なのである。「妣」を求めて啼(哭)く声が、心晴れて、清々しさの窮まりに「八雲立つ」の祝婚歌に化生したのだから。なので、このいのちのよろこびのうたは、じつは、死者を悼む心の歌なのである。深層底流はそうである。


  八雲立つ 出雲八重垣 妣籠みに 八重垣放つ その八重垣を


という、「妣」の解放歌、なのである。


 さてそこで、次に、ヤマトタケルの番である。ヤマトタケルの物語に母も妣も登場しない。叔母の伊勢神宮の斎宮であるヤマトヒメは、ヤマトタケルに草薙剣や火打石を授ける重要な女性として出てくるが。

 スサノヲ同様、ヤマトタケル(小碓命)は、父に嫌われた。恐れられ、嫌がられた。その原因は、兄殺しをしたからである。兄の大碓命は、父の命に背き、父に差し出された美しい二人の「嬢子」をわがものとし、別の女性を偽って献上したのだった。そしてそのことを父に隠していた。父の前に出てくることもなかった。そこで天皇は朝夕の食事に出てくるようにと小碓命(ヤマトタケル)に兄への諭しを命じた。この時、小碓命は兄の大碓命が厠に入ったところを捕まえて、手足をもぎ取り引き裂いて殺してしまったのである。

 適度・適切ということを知らないこの過剰すぎる小碓命の暴発を父景行は恐れた。そこで、景行天皇は小碓命に西方の熊襲退治を命じたのであった。


 ここで、『古事記』の修辞として、見逃せない表現がある。それは、イザナギが妻イザナミの死体を目撃した後に使っている言葉、<ここに伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、「吾に辱見せつ。」と言ひて、すなはち黄泉醜女を遣はして追はしめき。>と同様の言葉、<ここに天皇、その御子の建く荒き情を惶みて詔りたまひしく、「西の方に熊曽建二人あり。これ伏はず礼無き人等なり。故、その人等を取れ。」とのりらまひ遣はしき。」との表記である。

 イザナギの「みかしこみて」逃げ帰るさま、景行の「かしこみて」我が子を西方に追いやるさま、自分が逃げるか、子供を追いやるかの違いはあるが、そこに生まれた心は「かしこむ」恐れの感情である。

 イザナミは夫イザナギの愛情に応えようとして黄泉の神と相談していたところ(と考えられる)を目撃され、小碓命は父の言い付けに応えようとして兄の不実を知り、そのあまりのひどさに、兄を引き裂いて殺したのだった。いずれも、その情愛に応えようとして現れ出たものであるが、それが恐怖と嫌悪と忌避の対象となってしまった。そして、その恐れは解消されることなく終わるのであった。そしてそのことが、過酷な、スサノヲの2度の追放にも似た、小碓命への熊襲征討と蝦夷征討の命令になる。こうして、小碓命は西の辺境と東の辺境に追い出されたのである。

 特に、熊襲西征から帰って来て、休む間もなく夷東征に出よと命じられた時に、父に対する恨めしい嘆きの言葉となって漏れ出た。クマソタケルから「ヤマトタケル」という、大和の国随一の勇者であるという聖名を献上された小碓命は、この父の景行天皇の命令に、「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経らねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平けに遣はすらむ。これによりて思惟へば、なほ吾に既に死ねと思ほしめすなり。」と、2度にわたって吾に死ねというのかと口走って嘆いたのであった。そして、実際に、ヤマトタケルは東征の途次、伊吹山の神の威力に中って病死し、最後には白鳥となって大和の上空を飛び、「天に翔りて飛び行で」たのだった。

 ここで、少し先取りする論点も含まれるが、スサノヲとヤマトタケルの相似点を整理しておこう。

① 父の無理解と追放

② 女装や変装やトリッキーな騙しの戦術(オホゲツヒメ・ヤマタノヲロチ、クマソタケル・イヅモタケ

  ルの殺害)

③ 草薙の剣(その発見と活用)

④ 国誉めの歌を歌う(出雲国誉めと大和国誉め)


 雄略天皇と一休宗純のところまで急がねばならぬので、端折りに端折って論述することになるが、結論的に言えば、スサノヲの「八雲立つ」の歌とヤマトタケルの「倭は国のまほろば」の歌とは、生の絶頂と死への絶頂(変な言い方だが)を歌っている。前者は八重垣御殿という愛の宮殿を作ってそこで共に暮らしていくよろこびといのちの弾けるさまを歌い、後者はうるわしの国大和に戻ることのできない悲傷と望郷と憧憬を歌う。そしてどちらも、何重もの「垣」を持つ。出雲の「八重垣」と、大和の「たたなづく(畳み重ねた)青垣」である。雲に取り囲まれ包まれた愛の八重垣御殿、青々とした山々に取り囲まれた麗しの青垣のまほろば。どちらもかけがえのない国誉めを、いのちを込め、こころを込めてうたっている。絶唱である。


 そして、雄略天皇の歌とされる『万葉集』の第一番歌。


「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みふくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも」(籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母)


 スサノヲの八重垣ソングは、「ヤエガキ・シュプレヒコール」とも「ヤエガキ・ラップ」とも言えるほど、「ヤエガキ(八重垣)」が短い三十一文字の中に3度もリフレインされていた。そして、その八重垣のリズムが雲の沸き立つような、騰り踊るような速度とアップテンポをもたらしていた。

 同様に、『万葉集』巻頭歌も、シュプレヒコールであり、ラップであり、大和の国誉め歌である。「こもよ みこもち ふくしもよ みふくしもち」、「いえのらせ、なのらさね、のらめいえをもなをも」、「おしなべて、しきなべて」、「われこそをれ、われこそいませ、われこそは」と、畳みかける。出雲の八重垣のように、大和のたたなづく青垣のように。その何重にも重ねられる重音の数珠つながり。それが『古事記』一番歌と『万葉集』一番歌の共通点である。

 そして、それを歌う者がどうしようもない残虐非道なる暴れ者であった。第21代雄略天皇は、第19代允恭天皇の第五皇子で、母は忍坂大中姫である。兄の安康天皇が眉輪王(父:大草香皇子【仁徳天皇の子】、母:中蒂姫【夫で眉輪王の父大草香皇子が殺害された後、安康天皇の皇后となる】)に殺害された後、異母兄の眉輪王や同母兄の黒彦王や従兄の市辺押磐皇子を殺害して、即位した。

 つまり、今風に言えば、皇位継承権を持つ皇子たちを次から次へと殺害して自分が天皇となったのである。その雄略天皇の残虐ぶりと歌ぶりの両極性は、スサノヲを彷彿させる。『古事記』第一番歌、すなわちスサノヲの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は、『万葉集』第一番歌の「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みふくし持ち」と完璧に対応するのである。いずれも、リフレインが多い恋歌である。スサノヲの歌は成婚・祝婚歌であり、雄略天皇の歌は求婚歌であるという違いはあるが。

 じつは、雄略天皇は、『日本書紀』によれば、父允恭天皇が不倫の逢引きをしている最中に生まれたと記されている。允恭天皇即位7年12月1日、皇后の妹の「容姿絶妙」の衣通郎姫を見初めた允恭は、皇后が大泊瀬天皇(雄略天皇)を出産した時に初めて「藤原」の衣通郎女のところに行ったので、姉の皇后はそれを知って恨み、「産殿」を焼いて自殺しようとし、天皇は平謝りに謝ったのであった。これは、見るなのタブーを犯した夫イザナギや山幸(ホヲリノミコト)とも共通する激烈な禁忌の侵犯にも似た事態であった。雄略は母の悲嘆の中で育った天皇である。この点で、スサノヲとのエディプスコンプレックスにも似た強い共通点があると言える。

 もう1つ、雄略天皇が歌ったリフレイン歌を取り上げておく。112首ある『古事記』の103番歌である。


  水灌ぐ 臣の嬢子 秀罇取らすも 秀罇取り 堅く取らせ 下堅く 弥堅く取らせ 秀罇取らす子


 ここでは、「ほだりとらすも、ほだりとり、とらせ、とらせ、ほだりとらすこ」、「かたく、したがたく、やがたく」が畳みかけられる。その意味内容は、「お嬢さん、立派な酒樽を持ってるね。しっかり持てよ、しっかり強く。お酒樽をね、しっかり強く持つんだよ、お嬢さんよ。」とでも言うべき内容である。しかしこの「ほだり」、つまり、立派な注ぎ口を持つ酒樽が突起した男性性器の隠喩であるという直木孝次郎や谷川健一の指摘がある(大江修編『魂の民俗学―谷川健一の思想』205頁、冨山房インターナショナル、2006年)

 とすれば、この歌は、さしずめ今日では典型的なセクハラソングになるが、しかし、『古事記』の時代の表現は、さまざまな民俗芸能に籠められた素朴なエロティシズムと同様の赤裸々のあてこすりを歌ってひるむことがない。


 これが、時代がだいぶ下って、一休宗純(1394‐1481)になると、屈折しつつも洗練され、洗練されつつも野卑に破壊されることになる。一休はこう漢詩に歌っている。


  我が手、森手に何似、自ら信ず、公は風流の主なるを。

  発病、玉茎の萌ゆるを治す、且らく喜ぶ、我が会裡の衆。

(ボクの手は、森の手にくらべて、どうだろう、ボクには君が、ボクの生命を色っぽくする、聖主である。/病気にかかると、(君の手が)玉茎の芽ぐむのを癒してくれるというので、まずは、ボクの弟子たちの喜ぶこと。)

【一休宗純『狂雲集』552,柳田聖山訳,296頁,中公クラシックス,2001年】


 一休は70歳から亡くなる88歳まで盲目の若き女性森女とともに暮らしたという。一休の漢詩集『狂雲集』には、当時の禅や仏教に対する痛烈な批判とともに、親鸞の肉食妻帯など笑い飛ばしながら、さらにその先の過剰な破戒を突っ走る風狂の禅僧が暴れまくっている。愚者の極みに一瞬聖者が姿を顕すような聖俗の反転する眩暈を垣間見せる。その凄まじさは、「青山」を「枯山」と化してしまったスサノヲの「啼きいさち」にも優るとも劣らないであろう。それどころか、一休宗純はスサノヲの化身かと見紛うほどである。

 実は、一休は、第100代後小松天皇の落とし胤であった。と、推測されている。とすれば、世阿弥とは親戚の南朝系の皇子で、おそらく殺されかけて、5歳で幼児出家したのであろう。なぜなら、出家したならば、命だけは助かったであろうから。

 だが、加藤周一・柳田聖山『日本の禅語録十二 一休』(講談社、1978年)は御落胤説を疑わしいと否定している。柳田聖山『一休―「狂雲集」の世界』(人文書院、1980年)も懐疑的である。柳田聖山訳『一休宗純 狂雲集』(中公クラシックス、2001年)の「年譜」には、柳田は一休の生まれを「応永元年(1394)、正月一日、藤原氏(後小松天皇とも言われる)の庶子として、京都に生まれる。幼名千菊丸」と記している。この否定説や懐疑説の論拠にも慎重な吟味が必要である。この加藤や柳田に先行する市川白玄『一休―乱世に生きた禅者』(NHKブックス、1970年)は、疑問を呈しながらもほぼ肯定的に論じている。水上勉『一休』(中央公論社、1975年)も市川白玄の論究を引きながら御落胤説を肯定している。

 これら先行する一休研究を踏まえて、町田宗鳳『森女と一休』(講談社、2014年)では、一休は南北朝の両統を統合した後小松天皇(北朝第6代)と楠木正成の孫の楠木正澄の三女で後小松帝に仕えた伊予局照子の子とされている。同書には、一休が佐渡に遠流された世阿弥に対する処遇に激しい怒りを表わしたと記されている。町田は一休がしばしば世阿弥の舞台を観に行ったと描くが、実際にこのような事があったかどうかはもちろん不明である。確かに、一休の出生と生涯と行動には数多くの謎がある。

 が、一休宗純が後小松天皇の落胤であることも、彼の母が楠木正成の血を引くことも、その通りではないかと私も考える。町田は同書で、一休が世阿弥の能を観に行き、「得体のしれぬ鵺に人間の心の奥深くに潜む怨念」と「自身が抱え込んでしまっている寂寞の情」を重ね合せて感銘を受けたと記し、加えて、観阿弥・世阿弥親子が楠家の血を引いていることも遠流の背景にあったと推測している。そして、一休が朝廷を通じて幕府に世阿弥佐渡遠流に対する異議を申立て、世阿弥が許されて佐渡から戻った後何度か会って、世阿弥の娘婿の金春禅竹を紹介されたとする。

 一遍にも一休にも「阿弥衆」の名を持つ世阿弥にも、スサノヲから伝わる「和歌」の道と咆哮と放浪が貫通している。その咆哮と放浪に満ちた彼らの心道をつなぐものが、「和歌(謡)」であり、「名号」であり、「詩(漢詩)」であった。

 ここで、急いで、再度、結論めいたことを言えば、スサノヲの道は、スサノヲから、ヤマトタケルや雄略天皇を通過して、一休宗純までのその心の芯を串刺ししているということである。


 観阿弥・世阿弥親子が楠木正成と血縁関係にあることを近年力説したのは梅原猛の『うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009年)であった。これには能研究者の表章が徹底反論し、批判した。それでも梅原は、「上嶋家文書」の「観世福田系図」に「観阿弥の母は楠正遠の娘」と記されていることを重視した。

 この梅原説と絡めると、「楠木正遠-正成-正勝」という楠木正成の血統と、「楠木正遠―正儀―正澄―女―一休」という一休宗純の血統と、「楠木正遠―女―観阿弥―世阿弥」という世阿弥の血統とは、「楠木正遠」という共通の祖先を持つ。南朝の拠点であった天河大辨財天社に40年近く通い続けている私は、世阿弥の長男の元雅が天河社に能面「阿古父尉」を奉納し、その面裏に「心中所願成就」と書き付けたことや、そこで「唐船」を舞ったことも、南朝にゆかりがある証拠だと考えてきたので、世阿弥と楠木氏との血縁関係はあり得たと考えている。

 そして、その南朝伝承にまで、父イザナギと姉アマテラスに追放されたスサノヲの悲哀とエロスとパトスが、怒涛の如く流れ込んでいる。かくて、スサノヲとヤマトタケルと雄略天皇と一休宗純を串刺しして見えてきた詩魂の中の悲哀、そのエロスとパトスの発出が、日本文学史のもっとも過激で奔放な表現を生み出したことを忘れてはならないと今更ながら思うのである。



老婆心、賊の為に梯を過して、

清浄の沙門に女妻を与う。

今夜美人、若し我れを約せば、

枯楊春老いて、更に稊を生ぜん。


(婆の魂胆、泥棒手引き、

青い坊主に、可愛い娘添わす。

今夜その娘が、このわし抱けば、

枯れた柳も、わき芽を出そう。)


【柳田聖山『一休―「狂雲集」の世界』77,81 頁、人文書院、1978年】


三世一身、異号多し、

何人か今日、謑訛を定めん。

娑婆来往、八千度、

馬腹馿腮、又た釈迦。


(同じホトケが、名前を変えた、

こんな牢獄、出るものありや。

惚れて通うて、八千回も、

馬づら、ロバづら、おしゃかさま。)


【同上、118.132頁】



初台の新国立劇場・中劇場で開催された『古事記』を題材にしたオペラ「美しきまほろば~ヤマトタケル」のチラシ


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