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スサノヲの冒険 第13回

鎌田東二

平田篤胤のスサノヲ論


 スサノヲという神格をめぐって、国学者がどのような議論を展開したか。その一端を開くスサノヲ論を検討することでこの問題をひもといてみよう。

 

 平田篤胤が自説を明確に主張し始めたのは『霊能真柱』からであると言ってもよいだろう。文化8年(1811)10月以降、36歳の平田篤胤は駿府の門弟柴崎直古の家に寄宿しながら、憑かれたように執筆に集中した。特にその年の12月に成稿した「腹に一つの神代巻をつくる」という覚悟と意気込みをもって書いた『古史成文』と『霊能真柱』がのちのち重要な著作となる。

 そこで平田篤胤は、「没後の門人」である本居宣長門下の一人であるというみずからの位置を十分に自覚しつつ、師説に真っ向から挑む議論を展開した。前者では、「古伝」とはそもそも何であるかを問うた。師本居宣長のように、『古事記』を絶対視していては、いつまで経っても「真の古伝」には到達できない。だから、「古史・古伝」の新たな研究が必要であるというとってもアブナイ議論を展開する。また、後者では、黄泉の国・根の国・常世の国を含む死生観をめぐる挑発的な議論を真正面から展開した。

 

 古典(『古事記』原典)第一主義の本居宣長は、何はさておき、『古事記』に書いてあることを最大限に信奉し、尊重する立場を取ったから、死後世界のことについては、死んだらイザナミのように「黄泉の国」に逝くほかない、悲しいけれども、死の穢れも致し方がないという見解を保持した。

 それに真っ向から挑んだのが平田篤胤である。平田篤胤は反論した。「本居先生、先生は『宇比山踏』などの入門書で、強く、漢心(意)のはからいを捨てて、素直なやまとごころを持つことの大切さを強調しましたよね。しかし、その大倭心を本当にしっかりとしたものとするためには、死んだらどうなるか、死後の安寧についての明確な見解と死生観を確立する必要があると思いますよ。けれども、はっきり言って、本居先生の『古事記伝』(1764‐1798年執筆)にも、『直毘霊』(1771年)にも、そこのところはまったく明確ではありませんね。それでは、大倭心の鎮まりも安定もありませんよ。そこでわたしは、『直毘霊』に対抗して、その問題をまずは『霊能真柱』で明確にさせて、神道における死後の世界の安寧の問題に明確な回答を与えたいのです。」

 とまあ、このような、本居門下生が激怒しそうなポレミックな議論をふっかけたのであった。じつに野心的な、門下生としては傍若無人とも誤解されかねない議論の提示であった。

 

 じつは、ここに平田篤胤のスサノヲと共通する生育史的痛みがあった。幼少期に里子や養子にやられたりして、今でいういじめや幼児虐待のような大変な目に遭ってきた(と思われる)平田篤胤には、「スサノヲの末裔」と言ってもいいような人生経路がある。そのドラマチックな経歴は、物静かでいいところのおぼっちゃま然とした本居宣長とは大違いで、まったく正反対と言える。出自の松阪と秋田も、位置も文化も対極的である。

 

 秋田生まれの平田篤胤には、人が死んだらお山に還るという民間信仰が生きていた。もちろん、本居宣長も、古典研究者、伝承研究者として、そのような風習があることは知っていた。が、ゆえに、自分は死んだら「山室山」に逝くと言って、葬儀のことやお墓のことを事細かに記したのである。

 平田篤胤は、まずその矛盾を突いた。どういうことか?

 本居先生は、死んだら哀しい国、穢れの国、黄泉の国に逝くほかないと言っている。それは哀しいことだから、素直に哀しいと嘆くほかない、と。だがそれは「非説(ひがごとであると篤胤は鋭く突っ込む。

 平田篤胤は、『霊能真柱』のほぼ最後でこう言い放つ。

 

 <師の翁(――引用者注、本居宣長のこと)の「人は死(しぬ)れば、その魂は、善きも悪しきも、みな黄泉国に往く」といはれし説(こと)の、いかに非説(ひがごと)ならじやは。>(『霊の真柱』子安宣邦校注、岩波文庫、1998年、198頁)

 

 そして、次のような、他の門下生ににらみをきかした註を付けて根拠のない反論を封じる先手を打った。

 

 <篤胤は、末とも末なる弟子(おしえご)なるに、畏くも、如此、翁の説(こと)とて、道の為にはえしも譲らで、弁へいふを、さこそや人の憎み云ふらめ。然はあれど、其は、かへりて、翁の御心を心とせざるにこそあれ。もし強(あながち)にも、予(おの)がこの説を云ひ破らまく欲する人は、正しき古の伝と、事実(ことのあと)とをよく考へ定め、動かぬ説もて、根ながらに論(あげつら)ひ直してよ。枝葉とある小瑕(こきず)をものしてなとがめそ。然らぬかぎりは、予(おのれ)、その押しなべて、黄泉に帰(ゆ)くてふ混説(まぎれごと)には、えしも服(したが)はずなむ。>(同上198頁)

 

 これまた、機先を封じるような大上段の物言いに、本居門下生はカチンときたであろう。

 

 しかし、もう一方で、宣長は、自分は死んだら、松阪の家の近くの山桜の花もうるわしい「山室山」に往くと明言しているのだ。篤胤はここをてこに踏ん張る。そしてここぞとばかりに、こう主張する。

 

 <然らば、老翁の御魂の座する処は、何処ぞと云ふに、山室山の鎮まり坐すなり。さるは、人の霊魂の、黄泉に帰ゆてふ混説をば、いそしみ坐せる事の多なりし故に、ふと正しあへたまはざりしかど、然すがに、上古より、墓処は、魂を鎮め留むる料(ため)に、かまふる物なることを、思はれしかば、その墓所を、かねて造りおかして、詠みませる歌に、〽山室に、ちとせの春の、宿しめて、風にしられぬ、花をこそ見め」。また、〽今よりは、はかなき身とは、なげかじよ、千世のすみかを、もとめ得つれば」と詠まれたる。此はすべて、神霊(たま)はこゝ住処(すみか)と、まだき定めたる処に、鎮まり居るものなることを、悟らしゝ趣なるを、ましてかの山は、老翁の世に座しゝほど、此処ぞ、吾が常盤に、鎮まり坐るべきうまし山と、定め置き給へれば、彼処に坐すこと、何か疑はむ。その御心の清々しきことは、〽師木島(しきしま)の、大倭心(やまとごころ)を、人とはゞ、朝日ににほふ、山さくら花」、その花なす、御心の翁なるを、いかでかも、かの穢き黄泉国には往でますべき。>(同上184頁)

 

 この一節は、篤胤にとっては会心の一撃であったろう。本居門下生よ、文句があったら言ってみろ。この師翁の言葉をもって論破してやろうじゃないか。そんな意気込み盛んな篤胤ではあった。

 しかも、翌文化9年(1812)8月27日に、愛する妻の織瀬を31歳で亡くしている。伊藤裕『織瀬夫人伝』(弥高神社刊、1986年)によれば、篤胤は享和元年(1801)8月13日に石橋織瀬と結婚した。この織瀬との間に子どもを3人もうけたが、2人の男子を若くして亡くしている。長男常太郎は、享和2年5月20日に生まれたが、翌年の6月20日に麻疹にかかって早世した。続いて、文化2年1月16日に長女千枝子が生まれ、のちに婿養子の鉄胤を迎えて、平田学の学統は受け継がることになった。その後、文化5年(1808)4月14日に二男半兵衛が生まれたが、半兵衛は文化13年(1816)、8歳で夭折した。2人の男子を亡くし、妻を亡くした篤胤の悲哀。そして、その母子たちの死後の安寧は果たして得られるのか? その問いは、篤胤にとって、きわめて切実な問いであった。

 

 『霊能真柱』は織瀬を亡くした文化9年12月にひとまず完成するが、篤胤はその下巻にこう記している。

 

 <さて、此身死(まか)りたらむ後に、わが魂の往方(ゆくえ)は、疾(と)く定めおけり。そは何処にといふに、〽なきがらは、何処の土に、なりぬとも、魂は翁の、もとに住かなむ」。今年先たてる妻をも供(いざな)ひ、かくいふを、あやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此女よ、予が道の学びを、助け成せる功の、こゝらありて、その労より病発(おこ)りて死りぬれば、如此は云ふなり。【中略】)直ちに翔(かけ)りものして、翁の御前に侍(さもら)ひ居り。世に居るほどはおこたらむ歌のをしへを承け賜はり、春は翁の植おかしゝ、花をともども見たのしみ、夏は青山、秋は黄葉も月も見む、冬は雪を見て除然(のどやか)に、いや常盤(とことわ)に侍(はべ)らなむ。>

 

 このように、篤胤は思いのたけを記した。わたしは死んだら、今年先立って逝ってしまった妻を伴い、山室山の師匠のお墓に駆け参じて、本居先生とともに、春になれば師匠が植えた桜を楽しみ、夏は緑成す山々を見、秋は紅葉(黄葉)と月を、冬は降る雪を楽しむという、四季折々の物見遊山の楽しみを共にさせていただきたい、愛する妻とともに。かく、せつせつと書き記したのである。

 

 だが、しかし、篤胤からすれば、こんなひどい矛盾はない。本居先生の本音は、死んだらお山に還って、そこで好きな桜を愛でたり、門人や家族の様子を見守っているということである。しかし、『古事記伝』には死んだら穢れた黄泉の国に逝く、それは仕方のない哀しいことであると書いてある。この矛盾を、先生みずからが解消してくれないのであれば、自分で解決するほかない。そうでなければ、わが「大倭心」が鎮まり安定しようはずがない。

 いったい、どっちが本当なの? 篤胤は決然とその矛盾を切り裂いて、貼り付ける。そして、死んだら山室山に逝くという方に軍配を上げる。

 これこそ、素直な大倭心のありようだ。それを、古典、すなわち「真の古伝」を基に敷衍すればどうなるだろうか。

死んだら大国主神のうしはく幽世(かくりよ、幽冥界)に逝って、大国主神のめぐみと差配の中で生きる、となる。

 そのような、顕幽分治の見方を満を持して主張したのであった。

 

 そこで、整理しておかなければならないのは、スサノヲと大国主神の関係と役割分担である。

 母イザナミのいる「妣の国・根の堅洲国」に行きたいと生まれてから髭が胸先に届くまで「啼きいさちっていた」というスサノヲは、どこに逝ったか? それは、大国主の差配する「幽世」と同じなのか、同じでないならば、どのような違いがあり、また関係性があるのか。このあたりが平田神学、平田神道論の問題の焦点となった。

 

 このもつれた、不明瞭な古代以来の日本人の他界観を「真の古伝」の確定を基に、明確に位置付けるという宿題に取り組んだのだ。そして、次の結論を得る。

 

  1. 黄泉の国は、イザナミの逝ったところで、その後、そこの主となったのは、スサノヲである。そのスサノヲはじつはツキヨミと同神である。このスサノヲ=ツキヨミ同神・同体論が一つ。

  2. この黄泉国と大国主が「ぬし」としてはたらく「幽世」は異なったあの世である。一方は垂直的な天地泉の下方の地下世界。もう一方の「幽世」は「死んだらお山に還る」というような現実世界とかなりな部分重なっているけれども、目に見えない不可視の世界=幽世という点で大きく異なっており、まったく別のあの世なのだという2種のあの世の切り分け。

  3. そして、第三に、その幽世は大国主が「主」としてのはたらきを持つのだが、この世の国造りの差異にスクナビコナの協力を得たように、あの世の幽世においても協力者として事代主の代務代行がある、という二重の大国主体制を提示したこと。

 

 このようなあの世論をふっかけることで、師匠の矛盾を突破したと平田篤胤は考えていたであろうが、しかし、世の評価は、一般的に、手堅く地道な本居宣長の考証の信頼性に対して、平田篤胤の「真の古伝=腹に一つの神代巻をつくる」幽世論は、「その性妄誕」「奇僻の見」(藤田東湖)、「大言壮語」(田原嗣郎)、「自己増殖的な観念の作業」(子安宣邦)などと評され、おおむね我田引水・牽強付会の妄想じみた見解という受け止めであった。もちろん、幕末維新期の平田門下生は、その反対に、平田神学や平田神道を「真の古伝」とも真の古道とも信じて疑わなかったであろうから、極端な二極分解の評価があったということである。

 

 ともあれ、平田篤胤のスサノヲ論については、もう少し彼の宇宙論の論議を吟味することで明確なところを描き出してみたいので、次号にそのところを深掘りしたい。

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