鎌田東二
2首の歌~出雲の歌と大和の歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を(スサノヲ)
やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを
倭は 国のまほろば たたなづく青柿 山籠れる 倭しうるはし(ヤマトタケル)
やまとは くにのまほろば たたなづくあおがき やまごもれる やまとしうるわし
スサノヲとヤマトタケルが強い親和性と重なりを持つことを以前に指摘した。それを簡潔にまとめると、次のようになる。
いずれも、母に対する強い愛着と父に対する強い反撥や憎しみを持っている。(スサノヲの場合は、母イザナミに対する思慕、ヤマトタケルにおいては大叔母ヤマトヒメに対する愛着。)
いずれも、2度追放される。(スサノヲの場合は、父イザナギと姉アマテラスから、ヤマトタケルにおいては父第12代景行天皇から熊襲討伐と東国平定を命じられ、大和の都から遠ざけられる。)
いずれも、流浪の過程で、トリッキーな戦いをする。(スサノヲの場合は、ヤマタノヲロチを酒を飲ませて退治して神剣草薙の剣を取り出し、ヤマトタケルの場合は女装してクマソタケルを討ち取り、またイズモタケルを騙し討ちにした。)
いずれも、苦難の末に歌を詠う。(スサノヲの場合は、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」というスセリビメとの結婚の喜びの歌を、ヤマトタケルにおいては、「倭は 国のまほろば たたなづく青柿 山籠れる 倭しうるはし」の国偲びの歌を。)
さて、そのような重ねのキャラクターと活動事蹟の中で、とりわけ重要なのが2首の歌の類似と差異である。
まず、類似点。
いずれも、冒頭部で地名を掲げる。(スサノヲの場合は「出雲」、ヤマトタケルにおいては「倭」。)
いずれも、「国」を代表する。(①と同様、スサノヲの場合は「出雲の国」、ヤマトタケルにおいては「倭の国(「大和の国」。)
いずれも、「垣」に囲まれた平和や平安を歌う。(スサノヲの場合は何重もの「八重垣」、ヤマトタケルにおいては何重ものたたなづく山々の「青垣」。)
いずれも、「籠る」の修辞を重要な箇所で用いる。(スサノヲの場合は「妻籠み」、ヤマトタケルにおいては「山籠れる」。)
いずれも、土地褒め、国誉めの歌となっている。(スサノヲの場合は「出雲(国)」、ヤマトタケルにおいては「倭(大和国)」。」
このように見てくると、まるで、ヤマトタケルがスサノヲの生まれ変わり=化身のようにも見えてくる。そして、日本の伝承文芸や物語構造の中で、貴種流離譚や判官贔屓の原型がスサノヲ神話とヤマトタケルの物語の中にあることがはっきりと見えてくる。スサノヲの場合はいくらか滑稽かつユーモラスに。ヤマトタケルにおいてはかなり悲劇的かつ悲愴に。
そして、スサノヲの歌の場合は、表面的には喜びに満ちた歌で、その裏に母イザナギに対する悲痛な鎮魂の想いが隠され、ヤマトタケルの歌においては、表面的には死を目前にした悲痛や望郷の思いの吐露であるが、その裏に父景行天皇の治世の平安と国誉めの祝意が込められていて、きわめて対照的に配置され、詠われてもいるのである。まさに陰陽和合しているかのように。あるいは、鏡像関係であるかのように。
対馬・壱岐・五島列島の巡礼の旅をつづけながら、この2首の歌の対称性=対照性に思いを凝らし感じ入ったのであった(https://moonsault.net/?p=6551 ムーンサルトレター230信参照)。
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