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スサノヲの冒険 第11回

鎌田東二

スサノヲは旅する、永山則夫まで

 スサノヲは旅する。その旅は、追放の旅だ。追放の果てに、根の国底の国、妣(はは)の国に行き着いた。

 その旅の途中で、櫛稲田姫と出逢い、結婚もした。最強の怪物八岐大蛇(やまたのおろち)も退治した。オオゲツヒメを殺害して、その屍体からカミムスヒの神が五穀を取り出し、育てた。

 そのスサノヲの旅は、行き当たりばったり、である。ところかまわずである。犬も歩けば棒に当たる、である。


 その子孫、大国主神も旅する。だが、その旅は、まず、妻問ひ、妻恋ひの旅である。恋の旅路。それが大国主流の「国作り」である。恋をし、力と家宝をたくさん持つ良き妻を得、子宝に恵まれて、その子孫に後を託して治世をさせ、みずからは旅する大王として君臨する。それが大国主神の「平和外交国作り」である。

 専制ではない。委ね、任せ、託す政治。コ・ガバナンス。協働統治。ネットワーク・ポリティックス。

 そして、そこで、「うた」を歌う。歌う政治家。歌う大王。琴を抱えて、妻恋=妻褒めと国乞い=国誉めの歌をうたう。


 時代は飛んで、激動の「1968年」。パリ五月革命。反体制。ベトナム反戦運動。文化大革命。フラワーチルドレン。アンダーグラウンド。


 この「1968年」、旅する永山則夫は、東京で(1968年10月11日)、京都で(同10月14日)、函館で(同10月27日)、名古屋で(同11月4日)、四人を殺害し、逃亡した。「連続射殺魔」が起こした「第108号事件」である。


 永山則夫は、19歳の1968年10月11日から4人の連続殺人を行ない、翌1969年4月7日に逮捕され、3ヶ月後に20歳となった。少年法で裁かれる年齢から成人として通常の刑法上の対象となる年齢に跨るために、その裁判は異例の早さで、捜査も杜撰であった。

 加えて、拘置所で何度も自殺未遂をくりかえしたため、永山裁判は「不適切事例」の際たるものとなったと言える。したがって、その判決、東京地裁での死刑判決、東京高裁での無期懲役、最高裁での差戻判決による死刑確定、はじつに理不尽な過程を辿り、しかも、1997年6月27日に、いわゆる15歳の「少年A=酒鬼薔薇聖斗」がつかまるという衝撃的な少年事件が起こったために、あっけなく、見せしめなのか、見殺しなのか、いけにえ・スケープゴートなのか、1997年8月1日に絞首刑が執行された。


 そもそも、東京高裁で無期懲役となった判決を、最高裁が差し戻し判決を下して、永山則夫を死刑に追い込んだ「国家意思」とは何なのか?


 いまになって、「捕らぬ狸の皮算用=犬も歩けば棒に当たる=犬棒トラタヌ人生」を歩んできた「スサノヲの子分」である鎌田東二が永山則夫と出逢ったのだった。ぶつかったのだった。


 なぜか?


 それを誘導したのは、「桐島聡」である。桐島聡は、指名手配犯であった。1974年に指名手配となり、49年もの長きにわたり、逃げのびつづけた男である。最長の逃亡記録、かどうかは知らぬが、少なくとも戦後最長の逃亡生活者であったろう。


 だが、逮捕(確保)後、4日して死去した。末期がんで。神奈川県藤沢市の病院で。彼は路上で倒れ、救急車で病院に搬送され、そこで死んだ。そして、死ぬ前に、「本名で死にたい」と本名である「桐島聡」を名乗ったのだった。

 しかし、その遺体を引き取る遺族はいないという。たったひとりで、しかし、49年間なりすましていた「内田洋」(「内山田洋」の「山」抜きの名前)という、どこにでもありそうな偽名を捨てて。本名に立ち返って。


 なぜ「内田洋」は、死ぬ直前に、「桐島聡」という「本名」に戻りたかったのか?


 そこに、この数年、「からだはうそをつかない。が、こころはうそをつく。しかし、たましいはうそをつけない。」と言い続けてきた私の「うそをつけないたましい」がぶつかったのだった。


 桐島聡はなぜ、死ぬ直前に「本名」に立ち返りたかったのか? 指名手配人として、最後まで逃げ通す意志はなかったのか? 「本名」を名乗り出ることで、どれほどの影響が出るか、もちろん、考えたであろう。彼が所属していた東アジア反日武装戦線は、もうすでにとっくに組織解体しているし、社会的な実態も影響力もない。

 だが、その波紋は小さくない。いろいろなところに影響が及ぶだろう。

 にもかかわらず、いのちの最期で、「本名」を名乗り出た。そして、死んだ。その実存的な希求が胸を撃つ。


 その桐島聡の70年の人生をおもう。彼は逃亡者だ。

 だが、その逃亡は旅をしない、市井の生活者に溶け込んだ逃亡者であり、旅人であり、反体制者であり、指名手配犯であった。

 対して、永山則夫は、9歳、小学校2年生の時から「家出」をくりかえした流浪者である。小学校2年から4年までの2年間に、兄永山忠雄から暴力を受け、二十数回も家出をしている。最初の家出では、岩木山の東北麓の青森県北津軽郡板柳町から、青森に行って、青函連絡船に乗り、函館を越えて、日本海の東の海岸線の森駅まで行って、国鉄の駅員に保護されて、家まで戻ることになった。


 以来、家出30回ほど。最後の家出は、中学2年、14歳の時、板柳から福島まで自転車で行き、福島駅から東京行きの切符を買おうとして、不審者として保護された。


 15歳で、「金の卵」として集団就職し、半年で渋谷の西村フルーツパーラーを突然、「家出」のように辞めて、横浜港から香港まで「密航」した。また、その後も、神戸港から「密航」して捕まり、自殺未遂を企てている。


 桐島聡と永山則夫に直接的な関係はまったくない。にもかかわらず、「犬も歩けば棒に当たる」わが「うそをつけないたましい」に2人はつぶやきのメッセージを送ってよこすのだ。

「現代のスサノヲがここにいるぞ!」と。


 そのメッセージを重く見たい。永山則夫は、東京拘置所に面会に来た母に会おうとしなかったが、職員の強い勧めで会いはしたものの、母親にこう言い放った。

「おふくろは、おれを3度捨てたんだ!」


 3度捨てられた永山則夫。2度追放されたスサノヲノミコト。2度殺された大国主神。彼らの受難の「犬棒人生(神世)」が何を発信しているのか。よくよく聴き取らねばならぬ。それが「スサノヲの子分」としての鎌田東二の「務め」である。

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