スサノヲの冒険 第1回

鎌田東二



愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つのもの、

 やがて生まれ出ずべきただ一つの存在でなくて、

沸騰ちかえる無数のものであったのだ。それはたったひとりの子供ではなく、

崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底いにひそむ

父たちなのだ、過去の母たちの

河床の跡なのだ———。雲におおわれた宿命、

または晴れた宿命の空のもとに

音もなくひろがっている全風景なのだ。

(リルケ『ドゥイノの悲歌』「第三の悲歌」29頁,手塚富雄訳,岩波文庫,1957年)



はじめに


 世界全体が破壊と破滅の事態に向かっている。誰の目にもそのように見える。第一に気候変動がもたらす自然災害の多発と激甚化。凄まじい破壊力で人類の文明生活を脅かしている。

 その原因は人類そのものの生活形態の総体がもたらしたもので、人類にとっては自業自得的な循環する貸借対照表(バランス・シート)の結果である。これも誰の目にも明らかだ。だが、他の生命体や存在物は、その変化に巻き込まれている。絶滅種や絶滅危惧種と言われる生命種の「絶滅」をもたらす権限がわれわれ人類にあるのだろうか? 人類が人類だけの生き残りを探っているヒト・エゴイズムが生態系を破壊する根本的な元凶である。

 もう一つ、世界破壊をもたらしているのは、人類相互の戦争や紛争である。たしかに、生態系は食連鎖のなかにあり、食の闘争をつづけている。食うか食われるかという食べ合いのバランスによって維持されている。

 けれども、人類は、そのような食連鎖を無視し、横やりを入れ、食べ尽くすまでに食の独占をつづけ、食連鎖につながらぬ殺戮をつづけている。この事態が人類という生命種の異常性と特異性を示す指標となっている。結果的には人類は戦争による自分殺しを進めているというほかない。核戦争などはその最たるものだ。

 そんな絶体絶命的な破壊的事態を打開する万能的方策はない。極論を言えば、人類の絶滅が地球を救うという逆説的な事態はあり得るが、そこまで行きつくまでに破壊的事態は凄惨を極めるだろう。しかし、事態はそんな大破局(カタストロフィー)が起こるべくして起こる崖っぷちまで来ているのだ。

 そのような大危機のさなかにあって、人類が紡いできた神話から危機脱却の物語をひもときながら、人類生存計画を根っこのところから批判的に練り直していくことも無駄ではないだろう。たしかに悠長な時間は残されてはいないが、人類叡智の賜物のなかから聴こえてくるメッセージを読み解くことが試みられてもいいだろう。多くの世界神話は死と再生を物語るから。巨大な怪物による破壊や戦争とそこからの打開と脱却を示しているから。


 さて、『古事記』という神話的物語のなかで、最大の闘争と危機をもたらし、同時にその危機打開のトリガーとなっているのは、須佐之男命(本連載において最頻繁に登場してくる固有神名であるので以下敬愛を込めてスサノヲと表記する)である。その意味で、スサノヲは『古事記』を面白くしている神の筆頭をなしている。

 スサノヲがいなければ、『古事記』の面白さは半減する。ドラマチックな筋立ても生まれない。葛藤も、対立も、争いも生まれない。スサノヲは、『古事記』ドラマの主役である。

 私はこれまで『古事記ワンダーランド』(角川選書,2012年)などで、『古事記』はオペラ、『日本書紀』はデータベース(あるいはアーカイブ)などと、その特徴を表現してきた。その『古事記』オペラの主題歌を歌っているのがスサノヲだ。スサノヲは『古事記』オペラの花形歌手である。

 しかし、曲数は、たったの1曲。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

   八重垣作る その八重垣を


のみである。

 だが、そのたった1曲が日本文化史を串刺しにする歌謡のトップランナーとなった。そして、その歌の表面的な意味の明るさとしあわせ感に反比例して、この歌の底と奥にはスサノヲの悩ましい情念が解きほぐしがたく絡まっている。この歌は表面的にはハッピーソングであるが、その核心はあらけない哀歌(エレジー、ドイノ)である。

 そのスサノヲのパトスとエロスとミュトスが、日本列島に歌声をもたらした。響かせた。日本オペラはスサノヲに始まる。

 本連載でもそのことを問題にしていきたいが、これまで『神界のフィールドワーク――民俗学と霊学の生成』(創林社、1995年)以来、いたるところでスサノヲとその歌については論じてきた。もちろん、そのスサノヲ論を論じ尽くしたわけではまったくないが、これまでの論述を踏まえつつも、いくつかの異なる視点も盛り込んでみたい。その視点とは次のようなものである。


① 他界論から見たスサノヲ

② 統治論から見たスサノヲ

③ 国家論から見たスサノヲ

④ 芸能論から見たスサノヲ

⑤ 歌謡論から見たスサノヲ

⑥ 家族論から見たスサノヲ

⑦ 愛執論から見たスサノヲ

⑧ 英雄論から見たスサノヲ

⑨ 自然論から見たスサノヲ

⑩ 秘教論から見たスサノヲ


 さらには、『古事記』ではスサノヲの六世の子孫とされ、『日本書紀』本文ではスサノヲの御子神とされる大国主神(大己貴神)との比較や、『古事記』と『日本書紀』と『出雲国風土記』や『先代旧事本紀』に描かれるスサノヲ伝承の比較も行なってみたい。

 ともあれ、『古事記』中、最大のトリックスター神スサノヲの冒険を存分に描き出せれば本望である。


1, 他界論から見たスサノヲ


 それではまず第一に、他界論から見たスサノヲを考えてみる。

 他界論から見たスサノヲは複雑系である。なぜか。多様多層な他界や異郷を脈絡なしに往来しているかのように見えるからである。

 生まれてこの方、泣いてばかりいたスサノヲの涕泣の理由は、「妣の国・根の堅州国」に行きたいというものであった。スサノヲはそのことを父イザナギに告げると、父はスサノヲに「汝はこの国に住むべからず」と言って、追放を命じた。

 追放されたスサノヲはどこへ行ったか? スサノヲの号泣の理由からすれば、「妣の国」に直行するはずである。だが、スサノヲはそうしなかった。どこへ行ったか?

 高天原である。わざわざ高天原を治める姉の天照大御神のところに行って、ひと悶着もふた悶着も引き起こしたのである。スサノヲは何のためにそのようなことをしたのか?

 「高天原」とは天上世界を指しているから、「根の堅州国」とは正反対の方向にある。なぜよりにもよってスサノヲはそのような迂回路を辿ったのか?

 その理由を示す『古事記』の文章は、「『僕は妣の国に往かむと欲ひて哭くなり。』とまをしつ。ここに大御神詔りたまひしく、『汝はこの国に在るべからず。』とのりたまひて、神逐かむ遂らひたまへり。故、罷り往かむ状を請さむと以為ひて参上りつれ。異心無し。」とまをしき。」(倉野憲司校注『古典文学大系1』岩波書店、1956年)というものだ。

 スサノヲは、父イザナギと姉アマテラスに向かって、明確に、「僕は妣の国に行きたいんだ。だから、泣いているんだ」と訴えている。だが、父も姉もそのことを理解しない。

 そもそも、この「妣の国」というところがよくわからない。この「妣」が「母」で、父イザナギの妻のイザナミを指しているなら、事態はいささか複雑になる。

 というのも、スサノヲはイザナミの胎から産まれてきた神ではないから。イザナミが実際に産んだ最初の子はヒルコで、最後の子はカグツチであった。そして、この火の神カグツチを産んだために体が焼かれて、「黄泉国」に「神避」ったのである。

 とすれば、スサノヲの言う「妣の国」とイザナミの逝った「黄泉国」とは同じ「国」なのか? 『古事記』の文脈では「妣の国」は「常世の国」とも重なっているので、けっして「妣の国=黄泉の国」とは言えない。「妣の国」は海の世界と結びついているが、「黄泉の国」は海ではなく、その反対に、山と結びついている。

 じっさい、イザナミが葬られたのは、『古事記』には、「出雲国と伯伎国との堺の比婆の山」と記されている。はっきりと、「比婆の山」と書かれている。

 とすれば、ひとまず図式的に、次のように仮設しておくことができる。


① 黄泉の国は、山の中にある。

② 妣の国は、海の中にある。


 この②「妣の国」をめぐって、『古事記』上巻末尾に、次の一文がある。


  故、御毛沼命は、波の穂を踏みて常世国に渡りまし。稲氷命は、妣の国として海原に入りましき。(倉野憲司校注、同上)

 

 また、大国主神と国作りをしたスクナビコナは、「その少名毘古那神は、常世国に渡りましき」と記されているので、常世の国と妣の国はともに「渡っていく」海原の先にある世界と確定できる。

 このように見てくると、スサノヲの行き先の「妣の国」は、必ずしもイザナミのいる「黄泉の国」ではないことが見えてくる。父イザナギの鼻を洗って成り出でたスサノヲは、父より「汝命は、海原を知らせ」と命じられた。とすれば、「海原」とは、スサノヲが治めるべき世界であり、またそこは「妣の国」でも「常世の国」でもあった。

 だが、しかし、である。複雑系のスサノヲはこれでは終わらない。

 大国主神が二度も兄神たちに殺されて、三度殺されないためにスサノヲの元にやってくる。その時、大国主神の祖神や母神たちは、「須佐能男命の坐します根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神、議りたまひなむ」と言って、スサノヲのいる「根の堅洲国」に送り出したのであった。その「根の堅洲国」にはスサノヲが娘須勢理毘売とともに住むかなり大きな家屋らしきところがあり、またその周辺には野原もあり、そこから元の出雲に帰ろうとした境には「黄泉比良坂」があると書かれている。

 このスサノヲが追いかけていった境界をなす「黄泉比良坂」とは、イザナミが夫イザナギを追いかけていった「黄泉比良坂」と同じ場所なのであろうか? イザナミの場合、そこは「比婆の山」で、また「出雲国の伊賦夜坂」とも記されている。

 他界論という視点からスサノヲを見ると、姉アマテラスのように「高天原」とだけ結びついているというような明確さはない。また、『古事記』ではほとんど活躍しないが兄にあたる月読命は「夜の食国」を治めていることになっているので、活躍しないとはいえ、居場所は明確である。

 しかし、スサノヲは、「妣の国」を思慕し、求め、葦原中国を追放されて、高天原へと至り、そこもまた追放されて赴いた出雲に、八岐大蛇を退治した後に、愛の宮殿を建てて櫛名田比売と共に住み、やがては根の堅洲国に娘の須勢理毘売と住んでいることになっている。結局、スサノヲは「妣―母」と会えたとは記されてはいない。同居はおろか、会うこともできなかったような気配がある。

 しかし、スサノヲにとって、「妣の国」は存在の基点とも原点とも言える重要な場所となっている。このような複雑系のスサノヲが世界を縦横無尽に往来し結びつける接着剤のはたらきをしていると位置付けることもできる。

 とすれば、スサノヲは対立と分断と戦闘を生む神であり、かつ接続と交換による複雑多岐にわたる情報交換をする神で、じつにトリッキーな存在であることが見えてくる。そのようなトリックスターなしに『古事記』ドラマは進展しない。

 スサノヲこそは、この『古事記』ドラマ、『古事記』オペラの回転木馬であり、狂言回しであり、そこでの主役的英雄神なのである。してみると、スサノヲは多層多様な他界を織り込まれたプリズムであり、スペクトラムなのである。