神話と性器 第3回
- 4月9日
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男性社会の中のホト
深沢佳那子
本連載では日本神話に何度も登場する「ホト」という言葉の神話的背景を探り、古事記中巻におけるホトの意義を再検討する。前回、始祖伝承としての丹塗矢伝承と、神武記の神の御子誕生を語る丹塗矢伝承を比較検討した。神武記はその他の丹塗矢伝承と異なり、主体が神自身となっており、それによって「神がヒメを選ぶ物語」としての性格が強いことが明らかとなった。そしてその中で登場する「ホト」は、ヒメが神の神聖性を享受するものとして描かれていると考えられる。ホトが神の神聖性を受け入れるものとして機能している例を更に確認するため、続いて応神記天之日矛説話について確認していく。
三:
中巻末に記される天之日矛説話にもまた、神の神聖性を享受するホトが描かれる。
『応神記』天之日矛説話
又昔、新羅の国主の子有り。名は、天之日矛と謂ふ。是の人参り渡来たり。参ゐ渡り来たる所以は、新羅国に一つの沼有り。名は、阿具奴摩と謂ふ。此の沼の辺に、一の賤しき女、昼寝せり。是に日の耀、虹の如く、其の陰上を指しき。また一の賤しき夫有り。其の状を異しと思ひて、恒に其の女人が行を伺ひき。故、是の女人、其の昼寝せし時より妊身みて、赤き玉を生みき。爾くして其の伺へる賤しき夫、其の玉を乞ひ取りて、恒に裹みて腰に着けたり。此の人、田を山の谷の間に営れり。故耕人等の飲食を一つの牛に負ほせて、山の谷の中に入り、其の国主の子天之日矛に遇逢ひき。しかして其の人を問ひて曰く、「何ぞ汝が飲食を牛に負せて山の谷に入る。汝、必ず是の牛を殺して食まむ」といふ。其の人を捕へ、獄囚に入れむとしき。其の人が答へて曰ひしく、「吾、牛を殺さむとするに非ず。唯に田人の食を送らくのみぞ」といひき。然れども、猶赦さず。爾くして其の腰の玉を解きて、其の国主の子に幣ひき。故、其の賤しき夫を赦して、其の玉を将ち来て、床の辺に置くに、即ち美麗しき孃子と化りき。仍ち婚ひて、嫡妻と為き。爾くして、其の嬢子、常に種々の珍味を設けて、恒に其の夫に食ましめき。故、其の国主の子、心奢りて妻を罵るに其の女人が言はく、「凡そ、吾は、汝が妻と為るべき女に非ず。吾が祖の国に行かむ」といひて、即ち窃かに小船に乗りて、逃遁げ度り来て、難波に留りき(此は、難波の比売碁曾社に坐して、阿加流比売神と謂ふぞ) 。
応神記における天之日矛説話は、既に三品彰英氏が指摘・分類したように蒙古・鮮卑・契丹・高句麗などの建国神話における日光感精型説話の性格を引くものであるとされる[i]。日光感精説話とは一般に「女性が日光に感じて妊娠し太陽神の子を産むという神話的な話形」であるが、天之日矛説話が新羅の王子の渡来を語るものであることからも、その関連性は疑う余地のないものであろう。
しかし一方で天之日矛説話は大陸の日光感精型とは相違する点も多く、その成立に関しては大陸より流入した日光感精型説話が日本的に変化していったとする説(松前健氏[ii])、もしくは成書化の時点で作為的に変更されたとする説(大村明広氏[iii])などがある。諸氏は言及していないが、その大陸の日光感精型と異なる点のひとつに、本稿の主題である「ホト」の描写が挙げられる。
天之日矛説話との類似が特に指摘される『魏書』の高句麗の始祖朱蒙の出生譚では、水神河伯の娘が室内に幽閉された際に日がその身を照らす。女は身を引いて避けたが日は追いかけてきて、結果女は妊娠し卵を産んだとする。
『魏書』巻一百列伝第八十八:朱蒙母河伯女,為夫餘王閉於室中,為日所照,引身避之,日影又逐。既而有孕,生一卵,大如五升
日光がホトを指して女が孕む天之日矛説話に対し、ここでは日光が照らすのは娘の身体全体である。三品氏が収集したその他の日光感精型も「日光と女の身体的関係性」に着目して確認したところ、その話形は以下の通りであった。
① 日光に感じる・照らされる・纏われるなど母の全身に日が当たるような表現のものが五例(『拾遺記』巻一、『魏書』第二太祖紀第二、『魏書』巻八帝紀第八、『魏書』巻一百列伝第八十八、『三国史記』第十三高句麗本紀第一)
② 日を「飲む」ものが一例(『晋書』巻一百一記載第一)
③ 懐・裾下といった「服の中に入る」ことを示唆しているものが三例(『漢書』第九十七上外戚傳上、『晋書』第一百二載記第二、『北斉書』巻八帝紀第八)
④ 臍、つまり腹の中に直接日が入ってくるものが一例(『晋書』第一百二十七載記第二十七)
大陸の日光感精型は以上の四種類に分類され、いずれも「ホト」と日の交わりを描いていない。つまり天之日矛説話とは異なり、直接的な性交表現をとらないのである。従って天之日矛説話における「ホト」表現は我が国において初めて生じたもの、すなわち日本的表現であるということができる。
この父神である日がホトを指すという記述は丹塗矢が矢を突く古事記丹塗矢伝承と相似しており、また「(天之日矛説話)将来其玉、置於床邊、即化美麗嬢子」と「(古事記丹塗矢伝承)乃将来其矢、置於床邊、忽成麗壮夫」という類似表現も窺える。青木周平氏はこれらふたつの伝承が類似していることについて「伝承過程における影響関係を考えにくい」として、「成書化の段階での交渉」、つまり古事記成書化時に完成した表現であるとした[iv]。青木氏はこの類似表現に関し、「神武記の構想の中での改編」であるとして、神の御子としてのイスケヨリヒメの地位を高めるためにこの応神記天之日矛説話の表現を取り入れたものとしている。
確かに相関関係のないこの両説話において類似表現が現れるのは注意すべき点であるが、果たして成書化時点の表現に過ぎないものであると断じて良いのであろうか。相関関係のない説話であるからこそ、類似する要素が見られる意図を探るべきであろう。
四:
天日矛説話は中巻最後の応神記に記される説話ではあるが、その内容は「又昔」より始まり、アメノヒボコの子孫である葛城之高額比売命が息長帯比売の母親であることを記す。つまりこれは応神天皇の母である息長帯比売、すなわち神功皇后が新羅の王子の子孫であることを示し、皇后の新羅征伐の正当性を補強する役割を持つ物語であるといえる。この説話は、応神天皇がアメノヒボコから連なる系譜を所持する天皇であることを証明するために中巻に配されているのである。
村上桃子氏はこれを「日の御子」である仁徳の血筋を保証し、豊穣を予祝する神話であるとした[v]。村上氏は天之日矛説話がアカルヒメとアメノヒボコという日に関わる者によって仁徳が即位する難波の地の豊穣を予祝し、更に新羅との関わりを語ることで下巻巻頭の仁徳が拓く新しい世界観を示していく性格を持つ物語だと指摘している。村上氏によればアカルヒメはオホゲツヒメ・ウケモチといった豊穣の女神との共通性が見られ、また豊穣をもたらす「天人女房」の性格を持つことから、その性格はまさに豊穣を予祝する女神そのものであるという。そしてその豊穣の女神であるアカルヒメが難波に留まることは、そのあとに難波で即位する「日の御子」である仁徳を予祝することであるとする。
日を父に持ちアカルヒメという名である女神が日と関わりを強く持つのは明らかなことであるが、姫が化生した赤玉というモチーフも注目すべきものであると言える。この「赤玉」はアカルヒメという名前に直接繋がり、いかにも「日」を連想させる。ここでこの「赤玉」という語についても検討しておきたい。
「赤玉」という語は、当該箇所を除いては古事記上巻の火遠理命と玉依毘売の婚姻における「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」の歌にのみ見え、ここでは天皇を言祝ぐ白玉という語を立てるものとして登場する。ここにおける赤玉は琥珀であるとも考えられるが、その実態は不明だ。その一方で白玉は万葉集に三十例近くも登場し、その多くが真珠の如くかけがえないありがたいものとして語られる。更に万葉集においては「1317海の底 沈く白玉 風吹きて 海は荒るとも 取らずは止まじ」「1320水底に 沈く白玉 誰が故に 心尽くして 我が思はなくに」「1323 海の底 沖つ白玉 よしをなみ 常かくのみや 恋ひ渡りなむ」など、美人を白玉に譬えたと考えられる歌が多く読まれている[vi]。このようにありがたいものや美人の譬えとして読まれてきた白玉とは異なり、赤玉は一般的に特別視されるものではなく、また美人との関連性もなかったと考えられるだろう。
また、天之日矛説話と相似している説話として日本書紀垂仁天皇二年是年条のツヌガアラシトの渡来譚がある。
一に云はく、初め都怒我阿羅斯等国に有りし時に、黄牛に田器を負せて田舎に将往く。黄牛忽に失す。則ち迹を尋め覓ぐに、跡一郡家の中に留れり。時に一老夫有りて曰く、「汝の求むる牛は、此の郡家の中に入れり。然るを郡公等曰く、『牛の負せたる物に由りて推るに、必ず殺し食はむと設けたるならむ。若し其主覓ぎ至らば、物を以ちて償はまくのみ』といひて、則ち殺して食らふ。若し『牛の直に何物を得むと欲ふ』と問はば、財物をな望みそ。便ち『郡内に祭る神を得むと欲ふ』と爾云へ」といふ。俄にありて郡公等到りて曰く、「牛の直に何物を得むと欲ふ」といふ。対ふること老父の教の如くす。其の祭れる神は、是白石なり。乃ち白石を以ちて牛の直に授つ。因りて将来て寝中に置く。其の神石、美麗童女に化りぬ。是に阿羅斯等、大きに歓びて合はむと欲ふ。然るに、阿羅斯等他処に去きし間に、童女忽に失せぬ。阿羅斯等大きに驚きて、己が婦に問ひて曰く、「童女、何処にか去にし」といふ。対へて曰く、「東方に向にき」といふ。則ち尋めて追求ぐ。遂に遠く海に浮びて、日本国に入りぬ。求げる童女は難波に詣り、比売語曾社の神と為り、且豊国の国前郡に至り、復比売語曾社の神と為る。並に二処に祭らるといふ。
この説話ではおとめは赤玉ではなく「白石」より化生する。白い石というモチーフは他に、垂仁天皇紀三十四年に乙女との婚姻の祥瑞として亀が白い石となる説話や、土左国風土記に神功皇后が拾った白い石が光を放ち、海の神から授かった真珠であるとする説話に登場している。また筑前国風土記でも児饗野にある白い石の由来を新羅征伐時の神功皇后に出産の兆しがあり、この石を腰に挟んで「若しこれ神にしまさば凱旋りし後に誕生ますそ可き」と祈って凱旋後に子を産んだとする鎮懐石伝説を伝えている。例として多くはないものの、赤玉と異なり、ツヌガアラシト渡来譚における白い石は吉祥のモチーフとして普遍的なものであったと理解できる。そしてこのツヌガアラシト渡来譚には天之日矛説話に見られる日光感精型による母と父たる日の婚姻が描かれておらず、「日」という要素は全く重視されていない。この類似した両説話を比較すると、やはり村上氏の唱えたように天之日矛説話は「日」を強調したものであり、赤玉もその一端を担っているといえるだろう。
そもそもこの母が赤玉を生みそれが乙女に化成するという物語は、朝鮮半島に見られる “女性が卵を産みその卵から人の子が誕生する「卵生型」”の説話であると指摘されてきた[vii]。しかし赤玉からの化成と卵からの誕生を同じとすることには疑問視する声も多く、筆者も同意見である。この赤玉は単に卵が転じたものというよりは、むしろ「日」の物語の中で積極的に機能している要素であると考えられる。普遍的な信仰があった白石や美女に譬えられる白玉ではなく赤玉であることによって、天之日矛説話はいかにも「日」の予祝の物語として語られているといえる。
そしてこのアカルヒメの誕生はまさに本稿が主題とする神と女性のホトによる交接によって語られる。ここで注目すべきは、その父が日でありまさに豊穣を象徴する神的な存在であるのに対し、母は賤女という身分の低い女である点だ。当該説話には賤夫も登場し、また神功皇后紀四十七年四月に「新羅の賤しき物」という言葉も見られることから、新羅に賤しいというイメージを重ねているきらいはある。しかしその賤しい女が母であるにも関わらず、父が日であることによって仁徳を予祝する豊穣の女神が誕生することとなる。これは神武記丹塗矢伝承と同じく、女がホトによって日である神の神聖性を享受した結果であるといえよう。アカルヒメが目指した「祖国」については諸説あるが、瀧川政次郎氏によればこれは太陽の出る東方を指すという[viii]。アカルヒメにとっての祖国は間違いなく父たる日の帰属する国であり、母の国、すなわち新羅ではなかった。母である賤女はあくまでそのホトによって日の神聖性を享受し、子を産むだけの存在として描かれているのである。
村上氏は新羅との関わりを説く天之日矛説話について、豊玉比売命・火遠理命によって海の世界との関わりが語られその血筋が中巻冒頭の神武に引かれていくことを示した上巻巻末の神話と対応しているとした。まさしく、この両説話群は天皇家があらゆる世界を包括した血筋を持つことを系譜の上から保証しているものだ。そして中巻冒頭の神の御子・イスケヨリヒメの立后は、その上巻より連なる系譜の中に天皇家がオホモノヌシの血をも組み込んだことを語る説話である。更に中巻末においては新羅との関わりも語ることによって、我が国だけに留まらず新羅をも見据えた世界を天皇が拓くことを示唆する。天之日矛説話は神功皇后と新羅の関係性を説くことで新羅親征を正当化する物語であり、またアカルヒメという存在によって神功皇后の先祖であるアメノヒボコが日本へ導かれることを示した物語でもある。つまり日光と賤女との性交まで遡って新羅という地を支配する根拠を語ることが、この物語の目的なのである。母の身分が賤女であっても問題なかった理由のひとつには、新羅という地との関わりを描くことこそがこの説話の目的であり、「新羅の女性」であることのみが重要だったという点も挙げられるだろう。そしてそれは下巻の仁徳へと繋がり、「日の御子」の新しい世界の物語を構築していく。
このように中巻の巻頭と巻末にそれぞれ天皇家の支配に大きく関わる説話が配され、更にそこに神と女のホトとの交接の説話が組み込まれていることは、「神の神聖性を享受するホト」が天皇家の物語の中で効果的に働いていることを想像させる。前述したようにイスケヨリヒメ立后説話と天之日矛説話における「ホト」は、類話には登場せず、本来不必要とも言える要素であった。それにも関わらず「ホト」という要素が挿入されたのは、「性交の可視化」を行うために他ならない。矢、日光という異類である神との交わりは、ホトを介することで現実的で人間的な性交として描くことが出来る。そしてこの本来不必要な「ホト」表現によって、ホトを持つ「人間の女」と実態を持たない「神の男」のコントラストは浮き彫りとなる。つまり丹塗矢や日光光線というメタファーで表された神の男根とは対照的に、「ホト」という要素はその女の人間らしさを強調し、性行為がホトによって行われることを再確認させるのである。ホトを介した異類婚姻譚が語られる丹塗矢・天之日矛両説話は、天皇の支配に関わる子の誕生を語る説話であり、ここで重要とされるのは母なる女ではなく父となる男神の存在のみであった。更に神武記イスケヨリヒメ立后説話が明らかに「神に選ばれる女」としてのセヤダタラヒメを描いているように、女は受動的な存在として神である異類と交わる。当然、日光に指されることで孕む賤女も受動的な存在だ。これは女の「ホト」が父たる男神のコントロール下にあることを表していると言えよう。男神が一方的に女を選び性交を行ったとする両説話は、男神の優位性を示し、「ホト」が女性の体の一部でありながらも男性によってコントロール可能なものであることを示している。ここでの女は意思を持たず、性交に用いるホトだけが強調された存在だ。彼女らの担う役割はホトによって男神の神聖性を受け入れ、その子を宿すことだけなのである。両説話は母たる女ではなく男神の血が流れることを強調することで、天皇家の支配を語るにふさわしい物語として中巻の巻頭と巻末に記されたのだ。
おわりに
最後に、上巻における「ホト」についても改めて触れておきたい。
古事記中巻における「ホト」は天皇家の物語の中で「性交を行う性器」として描かれ、男神の神聖性を享受し、その子を産む機能があることを確認した。その性交は男神の意志で行われ、ホトを持つ女性は常に受動的な存在として描かれていた。一方、古事記上巻に記される「ホト」には性交と関わるものはない。古事記上巻において特に「ホト」が描かれる説話に①イザナミのカグツチ出産によるホトの破壊、②スサノヲの蛮行によるハタオリメのホトの破壊、③アメノウズメのホトの露出、の三説話が挙げられる。これらの説話ではホトの機能は「性交を行う性器」ではなく、それぞれ①産道、死因、②死因、③神々を笑わせるもの、であるといえる。上巻におけるホトは一定の神聖性を持ち、また神聖性があるからこそ破壊されることで屈辱的な死を演出し、その後の物語の導入を担う存在でもあった。その一方で、男性社会にとって重要な天皇家に関わる子を宿す為の性交に関わる例はひとつもない。男性の優位性を語るための道具としてホトが使われることはなかったのである。
もちろん、これら上巻のホトの背景にも男性的な視点はある程度投影されている。アメノウズメのホトを笑うのは男性的視線によるものであるし、ハタオリメもスサノヲの蛮行によって結果的に殺されている。これらを一種の男性のコントロール下と見ることも可能であろう。だが上巻から中巻へ、神の世から人の世へと至る中で、ホトは男性との関係性において使用されるものへと統一されていく。その中でホトは一層、男神・男性のコントロール可能な「現実的な性器」として描かれ、父たる神の優位性を示し、女性が受動的な存在であることを示すモチーフとして機能していく。アメノウズメのホトが内包していた神聖性は消失し、性交を行う性器としての役割のみがホトに求められるようになっていくのである。
古事記中巻に登場する「ホト」は、仮にその記述がなかったとしても物語に影響を及ぼさない要素である。しかしあえてその言葉が挿入されているのは、物語を構築した男性社会にとって意味をなすものであったからだと考えられる。
[i] 三品彰英著『神話と文化史』平凡社, 1971. (三品彰英論文集 / 三品彰英著 ; 3)
『日鮮神話伝説の研究』平凡社, 1972. (三品彰英論文集 / 三品彰英著 ; 4)
[ii] 松前健「アメノヒボコとヒメコソの神」『古事記・日本書紀論集』続群書類従完成会、1989
[iii] 大村明広「『古事記』天之日矛渡来条に見られる日光感精譚について―出典論を中心に―」『上智大学国文学論集(46)』上智大学国文学会、2013
[iv] 青木氏前掲書
[v] 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房, 2013
[vi]『新編日本古典文学全集 万葉集』頭注に「深層の美女を海中の真珠にたとえる」とある。
[vii] 三品氏前掲書
[viii] 瀧川政次郎「比責許曾の神について―日鮮交通史の一考察―」『國學院大學日本文化研究所紀要』1961


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