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神話と性器 第1回

  • 深沢佳那子
  • 4 日前
  • 読了時間: 11分

更新日:3 日前

ホトを突く


深沢佳那子 


はじめに

 

 日本神話には「ホト(女性器)」という言葉が散見する。それは当然出産や妊娠に関する説話に現れるものであると共に、女神の死の物語においても登場する要素でもある。これら神話に登場するホトはしばしば豊穣を象徴するモチーフであると理解されてきた。確かに現代においても豊穣を願う信仰や祭儀に女陰が登場する例は見られるが、記紀神話の中で明確にホトが豊穣のモチーフとして登場する記述は確認できない。これに関しては既に拙稿「記紀神話における性器の描写」においてまとめており、そこでは豊穣性はむしろ女性の身体・母体そのものに宿り、ホトのみに豊穣性を見いだすことはできないとした[i]。


 古事記上巻におけるホトの記述として代表的なものに、アメノウズメのホトの露出による天岩屋戸開きがある。この説話におけるホトは呪力を持ち、女神の神聖性を象徴する存在であり、アメノウズメはその力によって岩屋戸を開かせて世界の危機を救った。その一方で、火の神であるカグツチを生んだことでホトを焼かれて死んだイザナミのように、ホトを破壊された女神が死ぬという物語も存在する。同様に、天岩屋戸神話の直前にはスサノヲの蛮行によってハタオリメが梭【ひ】でホトをついて死ぬ。これらの説話からは、女神の神聖性を象徴するホトを破壊することで女神に屈辱的な死を与えるという意図が伺える。ホトの呪力に対する信仰があったからこそ、それを破壊することで女神の尊厳を否定することが可能になるのだ。これらイザナミとハタオリメの死は当然普通の死ではなく、そのあとに連なる話の要として働いている。つまりイザナミの死後には黄泉の国の神話が、ハタオリメの死後にはアマテラスの岩屋戸隠れが展開していく。これらの破壊されるホトは女神にとっての屈辱的な死を演出し、且つそのあとの物語―特に、不吉な物語―への導入も担っていたといえよう。これらのホトは当然漠然とした豊穣性の象徴ではなく、物語の中で「破壊される装置」として機能的に描かれていたのである。


 このように古事記上巻におけるホトの記述は「危機を救うもの」と「破壊されて死因となるもの」という異なる二面を見せていた。物語の中では相反するように見えるその二種類の描写ではあるが、いずれにもホトが女神の神聖性を象徴するものだという一種の信仰が通底している。そして神話が男性社会によって作られたものである以上、この女神のホトへの信仰というのは男性的価値観が大いに反映されていたと考えて間違いないだろう。


 以上のような神代におけるホトへの意識を踏まえたうえで、本稿では古事記中巻における「神武記・丹塗矢伝承」および「応神記・天之日矛説話」の中に描かれるホトの在り方を確認していく。その上で、古代においてはホトを含む性表現にどのような思想が投影されていたのかについて見ていきたい。



一:『神武記』丹塗矢伝承における二重婚姻の矛盾


【神武記】故、日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比賣娶して生める子は、多藝志美美命、次に岐須美美命、二柱坐しき。然れども更に大后と爲む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく、「此間に媛女有り、是を神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三嶋湟咋の女、名は勢夜陀多良比賣、其の容姿麗美しかりき。故、美和之大物主神、見感でて、其の美人の大便爲れる時、丹塗矢に化りて、其の大便爲れる溝より流れ下りて、其の美人の富登を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎、乃ち其の矢を將ち來て、床の邊に置けば、忽ちに麗しき壯夫に成りて、卽ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比賣命と謂ひ、亦の名は比賣多多良伊須氣余理比賣是は其の富登と云ふ事を惡みて、後に名を改めつるぞ。と謂ふ。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり」とまをしき。


 これは母となる乙女が川で流れて来た神の化身である丹塗矢を持ち帰り懐妊する、いわゆる「丹塗矢伝承」である。この説話におけるセヤダタラヒメのホトは、丹塗矢に変じた大物主が突くという性交表現の中に登場する。丹塗矢伝承は一般にこの神武記の説話と山城国風土記逸文の賀茂社縁起のものが有名であるが、このふたつの説話には相違点がある。神武記は丹塗矢がホトを突くという表現があるのに対し、風土記では丹塗矢とホトとの直接の交接を描かないのだ。


【山城国風土記】賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、即て酒坏を擧げて、天に向きて祭らむと為ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神なり。


 山城国風土記では玉依日売が丹塗矢を持ち帰って床の辺に差し置いただけで孕んだとしており、その性交表現は神武記のものとは異なっている。この両説話の「ホトによる性交の有無」という差異について、以前前掲の拙稿において「風土記の丹塗矢伝承は古事記の丹塗矢伝承と同様にホトを突くという話型であったものから、ホトの要素が脱落したのであろう」と推測した。これは神武記の「富登と云ふ事を惡みて、後に名を改めつるぞ」の記述から、ホトという言葉を忌避し、削除したものだと考えたのである。しかしこのような名称起源譚は必ずしも説話の通りに読むべきではなく、この神武記の記述をそのまま受け取るのは早計であった。前稿における推測は撤回し、この両説話の関係性について再度検討したい。

 

 阿部真司氏は「神武天皇皇后出生伝承はカモ系氏族が氏族伝承として保持していた丹塗矢伝承をもとにしてできあがっており、その成立時期も鴨君(朝臣)が活躍した時代、つまり、天武・持統天皇の時代で『古事記』編纂前、それほど隔たらない時期であった」と明言された[ii]。また大久間喜一郎氏も「叙述の上では物足りない気もするが、山城国風土記逸文にあるように、丹塗矢は、それを持ち帰って床の辺に置いたところ、それが若者に変じて比売と契ったというのが、かえって原形であろう」と推測された[iii]。いずれも風土記に記された賀茂氏の伝承が先にあり、それが神武記丹塗矢伝承の元となったとしている。

 

 では何故原型であると考えられる風土記逸文に含まれない「ホトによる性交表現」が、神武記に突如現れたのであろうか。

 

 神武記丹塗矢伝承には以前より問題点が指摘されている。それは大物主が二度「美人」と性交・婚姻を行ったという矛盾である。すなわち、丹塗矢の姿での「富登を突」く一度目の性交、そして「麗しき壯夫」の姿で「美人を娶」す二度目の性交を行っているのである。これは「亦の名」として“富登多多良伊須須岐比賣命”と“比賣多多良伊須氣余理比賣”のふたつの名が記されることと共にこれまでも問題となってきた。

 

 青木周平氏は「成書化の段階での交渉」であり「異質の婚姻伝承の組み合わせと理解」され、「成書化を契機とした伝承の結合である」とした[iv]。菅野雅雄氏も「ホトタタライススキヒメノミコトを三輪の大物主神が生んだという物語と、ヒメタタライスケヨリヒメが神武天皇の皇后になるという物語とは全く無縁の伝承であった」として[v]、両説話は「伝承者の意図」によりイスケヨリヒメの出自を高める目的で結合されたものだとしている[vi]。菅野氏は元来丹塗矢伝承に含まれていたホトタタライススキヒメノミコトにヒメタタライスケヨリヒメを結合したのは、イスケヨリヒメを体系神話に定着させ、「神の御子」と位置づけるためであったとまとめた。倉住薫氏も「〈厠〉での婚姻(丹塗矢伝承)と「床の辺」での婚姻とは、本来異なる伝承が結合したものであり、丹塗矢でほとを突かれた時点で「富登多多良伊須須岐比賣命」が生まれた」とした[vii]。いずれも一度目の丹塗矢とホトによる性交が婚姻として成立した上で、二度目の床の辺での婚姻は異伝であると見なし、その異伝の結合はイスケヨリヒメの出自を高める目的で行われた処理であると説明している。また義江明子氏も「前段の即物的で素朴な語り口は、日本神話全体の基層の特色とも相通じ、古形とみられよう」としている[viii]。つまり丹塗矢がホトを突くという一度目の性交が古い形であると推測し、後段は「合理的で物語的説明」であるとした。

 

 これら先行研究では〈丹塗矢がホトを突く一度目の性交〉と〈丹塗矢が人型になってからの二度目の性交〉というように、前段・後段に分けた神話の結合が検討されてきた。つまり「其の美人の大便爲れる時、丹塗矢に化りて、其の大便爲れる溝より流れ下りて、其の美人の富登を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎」までが前段、それに続く「乃ち其の矢を將ち來て、床の邊に置けば、忽ちに麗しき壯夫に成りて、卽ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比賣命と謂ひ……」が後段の婚姻であり、ここに婚姻が二重となる矛盾があるとされてきたのである。そしてこのうち「丹塗矢伝承」とされるのは前段の丹塗矢がホトを突く婚姻であり、それはホトタタライススキヒメノミコトの誕生を語るものだとしているのである。

 

 しかし本文の構成を改めて確認してみると、これは「丹塗矢に化りて、其の大便爲れる溝より流れ下りて」「其の矢を將ち來て、床の邊に置けば……」というシンプルな風土記的丹塗矢伝承の隙間に「其の美人の富登を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎」という文章が挿入されているだけであると考えられる。つまり挿入部分である「其の美人の富登を突きき……」およびそれに伴う「名は富登多多良伊須須岐比賣命と謂ひ」という名前の部分を除いて見れば、これは風土記の丹塗矢伝承とほぼ同じような形となり、拾って床の辺に置かれた矢との婚姻という基礎的な話型が保持されていることを確認することができるのだ。

 

【風土記】

① 丹塗矢が川上より流れ下る

②  

③ 乙女が矢を取りて床の辺に差し置く

④  

⑤ 乙女が遂に孕む

【神武記】

① 丹塗矢が溝より流れ下る

② 丹塗矢がホトを突き、乙女が驚く

③ 乙女が矢を持ち来て床の辺に置く

④ 矢が麗しき男になる

⑤ 男が乙女を娶って子を生む

 

 図の通り、神武記丹塗矢伝承は前段・後段の結合した異伝ではなく、風土記的な丹塗矢伝承に「矢がホトを突く」「矢が麗しい男になる」という要素が付け加えられているだけであることが確認できる。つまり一度目の婚姻とされている「ホトを突きき」の記述は神武記時点で初めて現れたものであり、〈本来丹塗矢伝承には含まれていないもの〉と言い得る。すなわち諸氏が元来の丹塗矢伝承の一部だと唱えてきた「ホトを突きき」の記述こそが、新しく出現したものなのである。

 

 神武記丹塗矢伝承の婚姻部分を「二つの説話の結合」であるとする諸説に対し、「同じ話の反復である」とする佐々木隆氏の論がある[ix]。佐々木氏はこれを古い口承時代の説話であり、話が伝承される過程で婚姻の表現が反復された結果現れたものであるとした。この説話の構成は上記の如く前段・後段に分割できるような単純なものではなく、水辺での婚姻の説話と床の辺での婚姻の説話が結合したと見なすのは安易である。佐々木氏の説は首肯しうる。

 

 また、佐々木氏、大久間氏は、本来の名だと説明されているホトタタライススキヒメという名こそが新名であり、改名後の新しい名だと説明されているヒメタタライスケヨリヒメという名が本来の名であると前掲書において指摘した。佐々木氏は矢で陰部をつかれたという記述が「セヤダタラのタタラを「立てられる」の意と解釈したことから作られたものであろう」「本来のヒメタタライスケヨリヒメという名に類似したホトタタライススキヒメという名を持ち出すために付加されたものだと推定される」とする。従ってこの説話の「富登と云ふ事を惡みて、後に名を改めつるぞ」とする記述も、むしろホトタタライススキヒメという名前に伴って現れた新しいものであるといえる。

 

 では本来丹塗矢を「床の辺に差し置く」だけで成立するはずだった婚姻に、わざわざ「ホトを突く」という特殊な描写を加えたのはなぜであろうか。佐々木氏は単なる反復表現であるとするが、それ以上の意味が「ホトを突く」行為にあるのではないか、と推測される。更に他の丹塗矢伝承とも比較することで、ホトによる性交というものが示す神話的意図を探りたい。


[i] 深沢佳那子「記紀神話における性器の描写―描かれたホトと描かれなかったハゼ―」学習院大学人文科学論集 (24),2015

[ii] 阿部真司「大物主神と三輪山伝承」『高知医科大学一般教育紀要第七号』1991

[iii] 大久間喜一郎『古事記の比較説話学―古事記の解釈と原伝承―』山閣出版, 1995

[iv] 青木周平「神武天皇成婚伝承と〈一宿婚〉」『古事記の文学研究』おうふう, 2015 (青木周平著作集 / 青木周平著 上巻)

[v] 菅野雅雄『古事記説話の研究』桜楓社、1973

[vi] 菅野雅雄『古事記系譜の研究』桜楓社、 1970

[vii] 倉住薫「古事記「比売多々良伊須気余理比売」の出自と注記の意義」『大妻国文44』2013-03

[viii] 義江明子『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館、1996 

[ix] 佐佐木隆『伝承と言語 : 上代の説話から』ひつじ書房, 1995


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